正重
正重は、綾とそのお供をする新太郎、久四郎の後ろ姿を見送っていた。
奥向きは、長く続く渡り廊下のその先の中庭を挟んだ向こう側にあった。三人の姿が暗闇に消えてしまってもそのまま見ていた。
どのくらいそうしていただろうか。ぶるっと震えがきた。実に寒い夜だった。しかし、その震えは寒さだけではない何かがあった。
なんとなく、三人をそのまま行かせてはいけないと感じていた。今なら追いかければまだ間に合うとさえ思った。
「正重様」
村上だった。いつまでも寝所に戻らない正重を不審に思ったのだろう。
「なんでもない。すぐに戻る」
我に返っていた。先ほどの不安は消し去っていた。
正重は、将来この甲斐大泉藩の藩主になるのだ。武士たるもの、根拠のない不安に陥り、おなごの後を追いかけたら、腑抜けに見える。きっと綾はそんな正重を見てさぞかし笑うであろう。それか、呆れ顔で見るに違いなかった。
綾にはあの腕の立つ側近の二人がついているのだ。何の心配もない、そう言い聞かせて寝所へ戻った。
二組敷かれている片側の布団に入る。
もう綾は龍之介の眠っている顔を見ている頃だろう。そうしたらすぐに戻ると言っていた。今宵は冷える。この寒さに震えながら戻ってくる。ここへきたら、すぐにその冷えた体を抱きしめ、温めてやることにした。
そう考えることによって、こみ上げてくる得体のしれない不安な心を落ち着かせていた。
それは目に見えないもの、氣を感じ取る武士の勘だった。
《正重様》
ふと、綾の声が聞こえたような気がした。ハッとして飛び起きる。
そんなはずはない。あの距離で綾の声が聞こえるはずがなかった。
気を取り直して、布団に横たわろうとすると、バタバタと数人が走るような足音がした。すぐに何かが起ったとわかった。
村上が襖越しに言う。
「若様」
正重がその襖を開けた。
「奥向きに、曲者が入り込んだとのことでございます」
正重の肌が粟立つ。
そこに控えている村上の手には、正重の刀を携えていた。その刀を取り、正重は奥向きへと渡り廊下を走った。
もうすでに家臣たちが奥向きに駆けつけていた。近づくにつれて、甲高い叫び声や誰かの泣き声も聞こえる。
一体何が起っているのか。
奥向きの戸は開け放たれていた。当然ながらそこには新太郎と久四郎の姿もない。正重はそのまま奥向きへ入っていく。
すぐに薙刀を持った奥女中たちの姿が目に入った。白刃が交わる音がしている。侍たちが黒装束の二人をぐるりと囲んでいた。
血の匂いがした。正重から血の気が引いていた。
数人の侍女が泣き叫びながら、廊下に倒れている者を介抱していた。
その倒れているうちの一人が新太郎だとすぐにわかった。正重は自分の見ている者が現実なのか、信じられない。
何よりも先に正重は、この場をおさめなければならなかった。
曲者たちの身のこなしは普通の武士ではない。その構えと敏捷な動きから、忍びの訓練を受けた者たちだとわかる。なぜ、このような者たちがこの桐野の中屋敷へ忍び込み、わざわざ奥向きに来たのか、不可解だった。
刃を抜く。
「我は桐野正重、そこもとは何ゆえ、この屋敷に入り込んだのだ。その返答次第では容赦はせぬぞ」
黒装束の二人は、正重に白刃を向けた。これだけの侍たちが集まり、もう逃げられないと思っている。こうなったら、自分の命が尽きるまで道連れに何人を斬るかというやけになっているようだった。
正重はその二人に、ジリッと近づく。
その構えと隙の無さでわかる。この二人の剣は正重よりも数段上だ。もし、一対一で勝負するのなら負けると思う。
ふと破れた襖の向こうに目をやる。そこに血だらけになって寝かされているのは、久四郎だった。カァと頭に血が上った。新太郎と久四郎までが倒れている。では、綾は、綾はどうなった。
しかし、すぐに気を曲者たちに向け直した。この者たちを捕えなければ、まだまだ怪我人が出る。女子供のいる奥向きでの乱闘だった。
敵の一人が、正重に向かって跳躍しようとした。しかし、それを制する声を上げる者がいた。
「やめよっ」
その一言で、その動作が止まった。
「もうこれ以上、無益な血を流すな。やめてくれ」
悲痛な叫びだった。
敵がもう一人いた。その者は腕から血を流しているが、奥女中たちが後ろ手で縛りつけていた。
頭巾が外され、顔が露わにされる。
その顔には、見覚えがあった。龍之介を養子にと頼み込んできた加藤家の重臣だった。
怯んで動きが止まった曲者二人は、すぐさま家臣たちに取り押さえられた。
新太郎は即死していた。凄まじい太刀筋で、即座に命を落としたとわかった。
久四郎はまだ少し息があったが、その傷は深かった。
正重が抱き起こす。
「久四郎、しっかりしろっ。医者がもうすぐ来る」
久四郎は虚ろな顔で、正重の方を見た。
その目はもう何も見えていないようだった。
「正重様、申し訳ございません。我らがついていながら、このようなことになってしまいました。綾様が、斬られ、池に・・・・」
「綾が池に? 落ちたと申すか」
久四郎が一度目を閉じた。そして再び開ける。それが肯定する合図なのだろう。首を動かす力もないようだった。
周りの家臣たちがもうすでに池をさらっていた。それを震える思いで見ている。
孝子も泣きながら、綾様が池に落ちた、と訴えていた。
久四郎は、正重の腕の中で、誠に申し訳ございませんと声なき言葉をつぶやくと、こと切れた。
「久四郎、死ぬなっ」
久四郎も新太郎も、子供の頃から一緒に学び、遊んだ。その身分は違ったが、兄弟同様だった。その二人を目の前で失くす無念に体が震え、目頭が熱くなる。
「久四郎、最期まで戦ってくれたのだな。綾を守るために、ありがとう。新太郎もありがとう」
そう言うと、正重も裸足のままで池に入り込んだ。今は泣いているわけにはいかなかった。大事な綾が池に落ちたという。この寒空に身重の体だ。一刻を争う。しかし、池の底を探っても綾は見つからなかった。
それならばと、桶で水をくみ出していた。全身ずぶ濡れになる。しかし、冷たいなどと感じなかった。必死で探した。
魚が飛び跳ねても、池の水がなくなって、その泥をすべて掻き出してもそこには綾の姿はなかった。
皆が狐に包まれたかのように呆然とし、カラになった池を見つめていた。不可解だった。
すると、妙な考えが浮かぶ。
久四郎や孝子が見たという綾の姿は幻だったのではないかと。きっとどこかで腹の子を守るために身を潜めているのではないかと思った。しかし、綾の姿は奥向きのどこを探してもなかった。あの大きなお腹をしてどこへ行ったのか。
綾が失踪してしまったという不思議な出来事は、正重の侵入者に対する怒りを何とか抑えてくれていた。
加藤家の起こした不祥事は、あちらでさばいてもらう。こっちが勝手に手を出したら、それは再び大きな騒動となり、それがご公儀に知られたら、両家は取りつぶしになる危険もあった。
もし、今ここに綾の変わり果てた姿があったとしたら、正重はたぶん、その怒りを抑える自信がなかった。その怒りに任せて、この侵入者たちを切り殺していたかもしれない。綾がどうして姿を消したのかはわからないが、とりあえず理性を保つことができているのは姿のない綾のおかげだ。
皆が、神隠しだと言った。正重もそうかもしれないと思った。
綾は生きているかもしれなかった。そう願うしかなかった。
三人の侵入者を加藤家に護送する前に正重は高次にその理由を問う。
「そこもとが首謀者であろう。なぜ、ここの奥向きを狙ったのか」
高次はじっと正重の目を見ていた。
「拙者は綾の許婚でございました」
正重は、その表情を変え、息を飲む。
「いえ、そんなことはもうとっくの昔に終わっておりました。当方の目的は赤子でございます。こちらにお越しになられた龍之介様が加藤家の嫡男だったのです。それを・・・・体の弱い弟にあたる方を残してしまいました。これはきちんと改められるべきことでございます。それでそっと赤子をすり替えようと企みました」
高次は続ける。
「殿の側室にも男児が生まれました。もし、今の体の弱い弟の竹千代にもしものことがあったら、正室は、あの姉はこの先、再び男児を生まなければならないという重圧に耐えきれないでしょう」
高次は話し始めると、その時の感情や詳細までを語った。その目はそれを語ることによって満足しているような、その語りに酔っているかのような狂気の目だと感じた。高次に表情から、赤子を交換することは正しいことだと思い込んでいる。それを阻止しようとした桐野家も悪いのだと言わんばかりだった。
極秘で三人を加藤家に送った。たとえ、こちらにはまったく落ち度がなかったとしても幕府に知られると加藤家は当然ながらお取りつぶしになり、この桐野家もその原因を作ったなどとこじつけられ、それなりの処罰を受けることになる。それだけは避けたかった。この乱闘騒ぎはあまりにも理不尽過ぎた。
それから、加藤家ではその三人を国許に護送し、高次は山深い寺に蟄居させられた。他の二人は切腹を命じられたそうだ。そんなことをしても綾は帰ってはこない。新太郎、久四郎も戻ってはこなかった。空しさだけが残った。
龍之介を狙ったこともわかって、今後このようなことを避けるために、早急に甲斐大泉の国許へ送ることになった。
本来、藩主の妻とその子供は江戸屋敷に留まることと定められていたが、体が弱いという理由をつけて、家老の娘、孝子と一緒に帰すことが許された。孝子には三つになる弟がいるとのこと。その弟、小次郎と一緒に育ってくれればいいと思っていた。
それから、新太郎と久四郎の葬儀が行われた。二人とも急な病で亡くなったということになっていた。あの夜のことは禁句になり、皆が押し黙った。そして、龍之介が双子だったという事実も隠された。
正重は空虚な日々を送っていた。何をするわけでもなく、一日中空を見上げているときもあれば、部屋に閉じこもっているときもある。
大事な側近二人を亡くし、側室の綾も行方知れずなのだ。それぞれの存在は大きかった。
それから数日後のことだった。最近は正重は一日中道場にこもり、稽古をするようになった。体を動かしているときだけ、三人のことを忘れられる気がした。忘れたくはないが、ずっと考えていることもつらい。
「正重様」
村上が来ていた。
ずっと素振りをしていた。腕が抜け落ちそうなくらいだった。真冬の寒い時期だが、全身から汗が噴き出ている。昨日、加藤家から書状が届いた。蟄居されていた高次が、その罪の意識に耐えきれず、切腹したとのことだ。
また、血が流れた。いたたまれなかった。
「なに用」
わき目もふらずに素振りを続けていた。
「急いで奥向きへお越しください。綾様が見つかりました」
その動作が止まる。
「綾? 綾と申したか」
「はい、ご側室の綾様でございます。そのお体が、池に浮かび上がった次第でございます」
その村上の言葉で、綾はもう生きてはいないとわかった。正重が木刀を捨て、奥向きへ走る。
綾がいなくなった池は、再び水が入れられ、魚が戻されていた。そこに綾が浮かんでいたということらしい。どこから浮かび上がったのか。泥まですくい取った。それでもどこにも綾の姿はなかったのだ。
この目で見るまでは信じられなかった。
奥向きに行くと、大勢の奥女中たちが正重に行く手を譲った。
遺体は既に池から引き上げられていた。以前、龍之介の部屋だったところに布団が敷かれ、寝かされていた。
その顔、まさしく綾だった。あの愛おしい綾の顔だった。しかし、その目は開かれない。
「綾」
正重はその顔にそっと触れた。冷たかった。
そして、その長い髪が濡れていることに気づいた。
そう言えば、綾は池に浮かんでいたという。しかし、その顔は濡れていなかった。掛けてある布団をとる。綾は水に浸っていたと思われる背中がぐっしょり濡れてるが、胸などは乾いていた。
そんな不思議なことがあるのか。もしも、綾が池の底に沈んでいたとする。そして今頃やっと浮かび上がったとしてもこの濡れ方は不自然だった。まるで、遺体となった綾をそっと池に浮かべたかのようなのだ。
そして、綾の身に着けている着物も異様だった。真っ白く柔らかな手触りの布、その襟元、胸元、袖にもたくさんの美しい飾りがつけられている。それは以前、油絵で見た西洋の貴婦人のような装いだった。
綾が胸の上で組む手の中に、何かがあった。紙のようなものが見えた。正重がそれを取り出そうとする。しかし、綾の手は強張っていて簡単にそれを手放そうとしなかった。
そこへ桐野家の藩医が来た。
「綾が、何かを持っている」
そう告げると藩医は綾の手を少しづつほぐしながら、手を開かせた。
それを見た正重の目が倍以上に大きく見開かれた。
人の生き写しのような絵を持っていた。そこには、綾の微笑みがあった。生きていた時のそのままの笑みがこちらを向いていた。
正重が呻る。絵を手掛ける正重もここまで生き写しには描けない。
そして、綾が抱いている赤子、無事にどこかで産んだのだ。正重の子を産んでいるのだ。
赤子がどこかで生きていると思うと、心が安らいだ。
藩医がその絵の裏に書かれた字を読む。
「綾さんと雪江、そう書かれております」
雪江、そう、もし生まれた赤子が姫ならば、雪江と名付けると決めていた。
「綾、無事に赤子を生んでくれたのだな。どこに置いてきたのだ。すぐに迎えをよこす。いや、わしが自ら出向こう。どこで誰に育てられているのか教えてくれ」
綾は何も言わなかった。目も開けてくれない。しょぼくれた正重を叱り飛ばすこともできなくなっていた。しばらく、正重は綾の枕元に座り、涙していた。綾がもうこの世にいないことは悲しかったが、こうして戻ってきてくれたことは正重の心に踏ん切りがついた。
医者が綾の体を調べた。
肩の傷、あの夜、切られたものだろう。それほど深くなく、表面上は治りかけていた。
医者は、それよりも腹に傷があると興奮していた。何者かが綾の腹を切って、赤子を取り出したのだろうと言う。しかし、その傷も乱暴なものではなく、きれいに切られ、きちんと縫われていたのだ。その傷も治りかけていた。
綾は赤子を抱いて、こうして絵に写っていた。それが致命傷ということはあり得なかった。
正重は、綾の胸に顔を埋めた。
そして、やっと言った。
「ご苦労であった。そなたを守り切れなかったわしを許してくれ。そして、わしの子を産んでくれて感謝するぞ。今はここにはいないが、どこかで生きていることがわかっている。いつかは会える。そなたはもう大義を終えた。どうか・・・・・安らかに休んでくれ・・・・・」
綾がこのような形で戻ってきてくれた。雪江も元々はここで生まれるはずの娘なのだ。
いつの日か、娘の雪江に会える日が来ると信じている正重だった。
以前に書いた話に加筆してあります。
最後まで読んでいただいてありがとうございました。




