第6話 幼馴染との交際を学校中に広めたら、後輩が本気を出してきた
放課後。
教室からほとんどの生徒がいなくなったあとも、俺と結愛は席に残っていた。
向かい合わせに並べた机の上には、結愛の真新しい生徒手帳と、一冊のノートが置かれている。
ノートの一番上に書かれているのは――。
『七瀬結愛を、この世界から消さないために』
という、ずいぶん物騒な議題だった。
「つまり、律くんの消失は一旦落ち着いた。でも、私の問題は何も解決してないんだよね」
結愛は頬杖をつき、自分の生徒手帳をめくる。
顔写真も、氏名も、生年月日も書かれている。
けれど、住所の欄だけは空白だった。
「学校には転校生として登録されてる。でも、前の学校もない。戸籍がどうなってるのかも分からない。家族も、帰る家もない」
「……そうだな」
「今の私にある肩書きって、律くんの彼女くらい?」
「それを肩書きにするな」
「だって、もし別れたら私、無職だよ?」
「高校生は全員無職だ」
「じゃあ無所属?」
「部活動みたいに言うな」
結愛は笑った。
しかし、その指は空白の住所欄をゆっくりとなぞっている。
世界には戻ってきた。
学校にも通えている。
今朝までは俺の家で眠り、俺の母親が用意した朝食を食べた。
それでも、七瀬結愛が昔からこの世界で生きてきた証拠は、まだ一つも戻っていない。
「俺との縁だけじゃ、足りないのかもしれないな」
「愛が?」
「縁が」
「即答されると傷つくんだけど」
「愛まで足りないとは言ってないだろ」
結愛が固まる。
「……律くん」
「何だ」
「昨日から急に強くなりすぎじゃないですか ?」
「誰かが消えかけたせいだ」
「そういうこと平然と言うの、本当にずるい」
結愛は赤くなった頬を隠すように、ノートへ顔を伏せた。
こういうところは、付き合う前より分かりやすくなった気がする。
「それで、どうする?」
「縁が必要なら、増やせばいい」
「具体的には?」
「俺たちが付き合ってるってことを、学校中に覚えてもらう」
結愛が顔を上げる。
「……学校中に?」
「みんなが俺たちを恋人として認識すれば、俺とお前の関係が世界に定着する。少なくとも、簡単に引き離されることはなくなるはずだ」
「学校中に、私が律くんの彼女だって広める」
「ああ」
「堂々とくっついても、全部世界を救うためって言い訳できる?」
「目的を見失うなよ」
「見失ってないよ。私たちの愛を世界に見せつけて、ついでに世界も救う作戦でしょ?」
「順番が逆だ」
結愛は立ち上がると、俺の隣まで椅子を動かした。
わざわざ隣へ来る必要はないはずなのに、肩が触れるほど近くへ座る。
「作戦名は?」
「必要か?」
「大事だよ。名前があった方が士気も上がるもん」
結愛はペンを握り、ノートへ大きな文字を書いた。
『律くんと結愛ちゃんのラブラブ、校内公認カップル計画』
「却下」
「まだ何も言ってないのに」
「名前がはずかし過ぎる」
「えー、いいじゃん」
「せめて篠宮と七瀬にしろ」
「やだ。可愛くない」
結愛が不満そうに唇を尖らせる。
そのときだった。
窓を叩くような音がした。
雨は降っていない。
けれど窓ガラスには、いつの間にか無数の水滴が浮かんでいた。
結愛が俺の袖をつかむ。
「律くん」
「ああ」
窓に映る教室の中。
俺と結愛の背後に、一人の少女が立っていた。
濡れた長い黒髪。
古い型のセーラー服。
十五歳の姿のまま、世界から忘れられた俺の姉――篠宮栞。
「姉さん」
振り返っても、そこには誰もいない。
窓の中の姉さんだけが、静かに口を開いた。
『考え方は、間違ってない』
声は近くからではなく、水の底から響くように聞こえた。
『二人が恋人だと多くの人に覚えられれば、その縁は世界から切り離されにくくなる』
「じゃあ、この作戦で結愛は消えなくなるのか?」
姉さんはすぐには答えなかった。
代わりに、窓越しに結愛を見る。
『律との縁は強くなる。でも、それだけでは足りない』
「どういうこと?」
『みんながあなたを“篠宮律の彼女”としてしか覚えていなければ、あなたの存在は今よりもっと律に依存することになる』
結愛の指に力が入る。
『もし律に何かあれば、あなたも一緒に消える』
「……それは困るな」
結愛が呟いた。
「私だけならともかく、律くんまで消えたら、誰が毎日私を可愛いって褒めるの?」
「心配する順番がおかしい」
「あはは......」
結愛は笑ったものの、その声は少し硬かった。
「じゃあ、どうすればいいんですか?」
『七瀬結愛としての縁を作ること』
「私自身の?」
『律の彼女としてではなく、友達やクラスメイトに、あなた自身を覚えてもらう。あなたが誰かと笑って、話して、同じ時間を過ごす。それが、あなたをこの世界につなぎ止める』
事実を知ってもらうだけでは足りない。
名前を覚えられるだけでも足りない。
互いの感情が動いた記憶こそが、縁になる。
「じゃあ、やることは二つだな」
俺はノートに書き足す。
一つ。
俺と結愛が付き合っていると、学校中に認識させる。
二つ。
結愛自身の友人を作り、七瀬結愛としての縁を増やす。
「なるほど」
結愛が真剣な顔で頷く。
「学校中にイチャイチャして見せつけながら、友達も作る」
「言い方」
「だいたい合ってるでしょ?」
「前半に余計な熱意を感じる」
「彼女になったばかりだから仕方ないよ」
結愛は俺の肩へ頭を預ける。
「今まで我慢してた分、いっぱい彼女らしいことしたいもん」
そう言われると、強く拒否できない。
窓を見ると、姉さんがわずかに笑っていた。
「何だよ」
『別に』
「絶対、何か思ってるだろ」
『律も、少しは素直になったんだなって』
「姉さんまでからかうな」
『結愛ちゃん』
「はい」
『律のこと、よろしくね』
「任せてください。絶対幸せにします」
「立場が逆じゃないか?」
結愛は胸を張る。
「律くんは私のお嫁さんだから」
「逆どころか性別まで変わってる」
姉さんが声を立てずに笑う。
その輪郭はまだ薄い。
それでも、以前より表情がはっきりと見えた。
『またね』
窓の水滴が一斉に流れ落ちる。
次の瞬間、姉さんの姿は消えていた。
教室には、俺と結愛だけが残される。
「……お姉さんに認めてもらえた」
結愛が嬉しそうに呟く。
「何を?」
「お嫁さん」
「よろしくとは言ってたが、嫁としてとは言ってない」
「細かい男は嫌われるよ?」
「誰に」
「彼女に」
「嫌いになったのか?」
「なるわけないでしょ」
結愛は即答し、それから俺の腕へ自分の腕を絡ませた。
「むしろ、日に日に好きになって困ってます」
「そうか」
「……そこで照れないの?」
「俺も同じだからな」
「待って」
結愛が腕を離した。
そのまま両手で真っ赤になった顔を覆う。
「だから、急に強くなりすぎだってば……」
◇
昇降口を出ると、校門のそばに小柄な女子生徒が立っていた。
肩に触れる程度の黒髪。
整った制服。
胸元には一年生を示す色のリボン。
俺たちに気づいた少女――小日向紬が、小さく頭を下げる。
「お待ちしていました、先輩」
「俺を?」
「はい。本日から、先輩と一緒に帰ります」
当然のように告げられ、結愛の眉がぴくりと動く。
「どうして?」
「先輩を七瀬先輩から奪うと宣言した以上、下校時間も有効活用するべきだと考えました」
「私もいるんだけど?」
「承知しています」
紬は表情を変えずに頷く。
「七瀬先輩がいない隙を狙うような真似はしません。正面から競争します」
「随分と堂々としてるね」
「隠れて行動すると、先輩に嫌われる可能性がありますので」
「合理的だな」
「律くんは感心しないで」
結愛は俺の右手を取る。
指と指を絡ませた、いわゆる恋人つなぎだ。
「帰ろっか、律くん」
「そうだな」
紬が俺たちの手を見る。
わずかに目を細めたものの、表情は崩さなかった。
「見せつけてきますね」
「今日からそういう作戦だから」
「作戦?」
「学校中に、私と律くんが恋人だって覚えてもらうの」
「なるほど」
紬は少し考え、俺の左側へ並んだ。
「では、私はその作戦が失敗した場合に備えます」
「どう備えるつもり?」
「先輩の次の恋人候補として、私の存在も覚えてもらいます」
「次はないよ?」
「未来は不確定です」
「私と律くんがずっと一緒にいる未来だけは確定してるの」
「希望的観測です」
「運命です」
「客観的な根拠がありません」
「幼馴染の勘」
「最も信用できない種類の根拠ですね」
二人の間に、見えない火花が散る。
付き合い始めたばかりの彼女と、俺を奪うと宣言した後輩。
どう考えても、穏やかに帰れる組み合わせではない。
「そういえば、先輩」
紬が鞄から小さな包みを取り出した。
「今朝お渡ししたクッキーは、食べていただけましたか?」
「ああ。放課後になる前に食べた」
「感想を伺っても?」
「うまかった」
紬の耳が、ほんの少し赤くなる。
「……ありがとうございます」
「律くん」
「何だ」
「彼女の前で、他の女の子の手作りクッキーを素直に褒めるのはどうかと思う」
「まずいものをうまいとは言わないが、うまいものをまずいとも言えないだろ」
「その誠実さを今だけ捨てて」
「横暴だな」
紬は包みを開くと、残っていたクッキーを一枚取り出した。
「もう一枚いかがですか?」
「もら――」
「律くん」
結愛の声に圧が宿る。
「……いや、今日はもういい」
「そうですか」
紬は少し残念そうにクッキーを戻した。
その横で、結愛が満足げに俺の手を握り直す。
「帰ったら私も何か作る」
「お前、料理できるのか?」
「卵焼きなら」
「甘いやつだろ」
「愛情も甘めです」
「焦がすなよ」
「信頼がない」
「今朝、自分で目玉焼きを作ろうとして殻を三つ入れただろ」
「カルシウムだよ」
「食べ物として出すな」
紬が足を止めた。
「……今朝?」
俺と結愛も立ち止まる。
「七瀬先輩と先輩は、今朝も一緒だったのですか?」
結愛がにっこりと笑った。
「そうだよ」
「家が近いからでしょうか」
「ううん」
ちょうど俺たちは、自宅の前まで来ていた。
結愛は俺の手を離すと、慣れた様子で門を開ける。
「ただいま」
「おかえり」
玄関の方から、母さんの声が返ってきた。
紬は表札の篠宮という字を見て、門の前で固まっている。
「こちらは、七瀬先輩のお宅ですか?」
「違うよ。律くんの家」
「では、なぜ七瀬先輩が入るのですか」
「私、今ここに住んでるから」
沈黙。
紬は俺と結愛、そして再び、篠宮と書かれた表札を順番に見る。
「……交際を始めた翌日から、同居ですか?」
「正確には、付き合った日と同日に住みついたというか」
「律くん、その説明だと余計に誤解される」
「事実だろ」
「過程を省略しすぎなの」
結愛は紬へ向き直り、俺の腕へ抱きつく。
「そういうわけで、私たちはもう一つ屋根の下で暮らしてます」
「言い方に気をつけろ」
「何も間違ってないよ?」
「先輩」
紬が俺を見る。
「七瀬先輩と、どこまで進んでいるのですか」
「答える必要はない」
「では、まだ言えないところまで?」
「違う」
「律くんとは、昨日一緒に寝たよ」
「結愛!」
紬の顔から、初めて完全に表情が消えた。
「……昨日、一緒に?」
「俺が床で、こいつがベッドだ」
「同じ部屋だったことは否定しないんだね」
「事実を勝手に脚色するな」
紬は胸元へ手を当て、大きく息を吸う。
「想定より、三十二段階ほど先へ進んでいました」
「細かいな」
「ですが、まだ結婚しているわけではありません」
顔を上げた紬の瞳には、再び強い意志が宿っていた。
「逆転は可能です」
「その根拠のない前向きさ、少し尊敬するよ」
「七瀬先輩に褒められても譲りません」
「褒めてない」
紬は一歩下がる。
「では先輩、また明日の朝に伺います」
「来るのか?」
「登校時間も有効活用します」
「俺の家を集合場所にするな」
「七時四十分に伺います」
「話を聞け」
紬は丁寧に頭を下げると、来た道を引き返していった。
その背中が見えなくなってから、結愛が俺を見上げる。
「手強いね」
「今のところ、お前が煽ってるだけに見えるが」
「彼女として、正当な権利を主張してるだけです」
「一緒に寝たというのは明らかに誤解を狙ってただろ」
「だって、その方が諦めてくれるかなって」
「諦めてなかったな」
「むしろ燃えてたね」
「油を注いだんじゃないか?」
「次は水をかける?」
「普通に接してやれ」
結愛が頬を膨らませる。
「律くんは、紬ちゃんに好かれて嬉しいの?」
「小日向には恩もあるし、大切な後輩だとは思ってる」
「ふうん」
「でも、彼女はお前だ」
膨らんでいた結愛の頬が、一瞬で元に戻る。
「……もう一回」
「家に入るぞ」
「もう一回言ってくれたら入る」
「彼女は結愛だ」
「名前もついた」
「早くしろ」
「はーい、彼氏くん」
結愛は満足そうに、俺の腕を引いて玄関へ向かった。
◇
「おかえりなさい、律。結愛ちゃん」
玄関へ入ると、エプロン姿の母さんが台所から顔を出した。
包丁を使っていたらしく、右手には布巾を持っている。
「ただいま、お母さん」
結愛は自然にそう答えた。
それから、自分の口から出た言葉に気づいたように目を見開く。
「あ……すみません。勝手に」
「何が?」
「今、お母さんって」
「そのくらい気にしないわよ」
母さんには、“七瀬結愛を今日から預かることになっていた”という記憶が形成されている。
けれど、結愛と暮らしてきた記憶まではない。
世界が用意した、都合のいい辻褄合わせにすぎない。
「別に、結愛ちゃんなら、嫌じゃないしね」
母さんはそう言って、台所へ戻っていく。
「手を洗ってきなさい。今日はハンバーグだから」
「はい」
結愛は靴を脱ぎ、俺より先に洗面所へ向かった。
その足取りはいつも通りだった。
けれど夕食を終えたあと、結愛は一人で玄関に立っていた。
棚の上に置かれた鍵を、黙って見つめている。
「どうした」
声をかけると、結愛が肩を揺らした。
「何でもないよ」
「何でもない顔じゃない」
「どんな顔?」
「一人で泣くのを我慢してる顔」
「……律くんには、全部バレるなあ」
結愛は困ったように笑う。
玄関には、俺の靴と母さんの靴が並んでいる。
その端に、昨日買ったばかりの結愛の靴が置かれていた。
「今日、紬ちゃんに言ったでしょ。ここに住んでるって」
「ああ」
「自分の家みたいに『ただいま』って言って。お母さんにも、あんな呼び方して」
「嫌だったのか?」
「逆だよ」
結愛は首を振る。
「嬉しかった。すごく嬉しくて……だから、少し怖くなったの」
「何が」
「私は、本当にここにいていいのかなって」
結愛が自分の靴へ視線を落とす。
「昨日は行く場所がなかったから、泊めてもらっただけでしょ? 学校では平気なふりしてたけど、私、いつまでここにいていいのか分からない」
「結愛」
「私の家じゃない。私のお母さんでもない。本当の家族がいたのかどうかも、もう誰も覚えてない」
結愛は制服の裾を握り締めた。
「もし元の家が戻らなかったら、私、ずっと――」
「結愛ちゃん」
背後から母さんの声がした。
振り返ると、母さんが廊下に立っている。
食器を片づける音が止まっていたから、途中から聞こえていたのだろう。
「すみません。今のは、その……」
「帰る家がないなら、ここへ帰ってくればいいでしょう?」
母さんは、まるで当たり前のことのように言った。
「でも」
「私は、昨日からあなたを預かることになっていた。その理由は不思議なくらい思い出せないけど、あなたを追い出す理由もないわ」
「お母さん……」
「家が見つかるまででもいい。そのあとも、あなたが望むなら考えればいい」
母さんは結愛の前へ歩み寄る。
「少なくとも、明日帰ってきたときに『ただいま』と言う場所くらいは、ここにあるわよ」
結愛の瞳から、涙がこぼれた。
「……いいんですか」
「今さら何を言ってるの。あなたの歯ブラシも、着替えも、もう買ったでしょう?」
「それは、そうですけど」
「だったら決まり。泣いてる暇があったら、お風呂に入ってきなさい」
「はい」
結愛は涙を拭い、深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
「それと」
母さんが俺を見る。
「律と同じ部屋で寝るのは今日までよ」
「母さん」
「当然でしょう。付き合ってるなら、なおさら別の部屋にしなさい」
「昨日は何もしてないよ?」
結愛がわざわざ口を挟む。
「“昨日は”ってつけるな」
「あら。今日は何かする予定だったの?」
「母さんまで乗るな!」
二人が揃って笑う。
さっきまで泣いていた結愛も、目元を赤くしたまま笑っていた。
「じゃあ、お母さん」
「何?」
「私が律くんの将来のお嫁さんになったら、ずっと住んでもいいですか?」
「結愛!」
「それなら、私より律に聞きなさい」
「律くん、どう?」
「今聞くことじゃないだろ」
「嫌とは言わないんだ?」
「早く風呂に入ってこい」
「誤魔化した」
結愛は楽しそうに笑いながら、廊下の奥へ歩いていく。
その途中で振り返った。
「律くん」
「何だ」
「ただいま」
一度目とは違う。
今度は確かめるような声だった。
「……おかえり、結愛」
◇
翌朝。
玄関を出ると、本当に紬が立っていた。
「おはようございます、先輩」
「早いな」
「三分前に到着しました」
「律くんを迎えに来る行動は、校則で禁止されてるよ」
俺の後ろから出てきた結愛が、紬へ笑いかける。
「おはよう、紬ちゃん」
「おはようございます、七瀬先輩。そのような校則は存在しません」
「昨日の夜に私が作りました」
「生徒に校則を制定する権限はありません」
紬は結愛の姿を見て、わずかに視線を止める。
昨日と同じ制服。
けれど髪はいつもより柔らかく巻かれ、右側には白い花のヘアピンが留められている。
「本当に、こちらから登校されるんですね」
「うん」
結愛は門を閉め、俺の隣へ並ぶ。
「ここも、私の家になったから」
紬の瞳が、ほんの一瞬だけ揺れた。
「……そうですか」
「でも、諦めないんでしょ?」
「もちろんです」
紬はすぐに顔を上げる。
「同居は大きな先行ですが、まだ婚姻届は提出されていません」
「高校生だからな」
「では、卒業までに逆転します」
「させないよ」
「未来は不確定です」
「またそれ?」
三人で並んで歩き出す。
結愛は当然のように俺の手を取った。
紬は俺の反対側を歩きながら、鞄から小さなノートを取り出す。
「何を書いてるんだ」
「七瀬先輩に勝つための分析です」
「見せて」
「敵に情報は開示しません」
「私の弱点なんて、律くんのことが好きすぎるくらいしかないよ?」
「それは弱点というより、症状では?」
「紬ちゃん、意外と失礼だね」
「紬です」
「今、紬ちゃんって呼んだよ?」
「先輩には、まだ呼ばれていませんので」
紬が俺を見る。
「先輩。もう一度、私の名前を呼んでいただけますか」
「小日向」
「紬です」
「朝から面倒くさいな、お前たち」
「私まで一緒にしないで」
「七瀬先輩も相当です」
左右から同時に反論される。
静かだった俺の登校時間は、昨日までとは比べものにならないほど騒がしくなっていた。
◇
校門をくぐる前に、結愛が足を止めた。
「律くん」
「何だ」
「作戦開始だよ」
結愛は俺とつないでいた手を、わざと胸の高さまで持ち上げる。
登校中の生徒たちから視線が集まった。
「あれ、篠宮と転校生?」
「手つないでない?」
「七瀬さんって篠宮と付き合ってるの?」
他クラスの生徒の間でも、小さなざわめきが広がっていく。
結愛は満足そうに微笑む。
「注目されてるね」
「恥ずかしくないのか?」
「少しは」
「そう見えないが」
「律くんと付き合ってるって知られる方が、嬉しいから」
結愛が指を絡め直す。
「ねえ、今日の私も可愛い?」
いつもの問いかけ。
けれど今日は、周囲に何人もの生徒がいる。
以前の俺なら、間違いなく誤魔化していた。
「今日も可愛いよ、結愛」
周囲が一瞬、静まり返る。
「……え」
言わせた本人まで固まった。
やがて結愛の顔が、一気に赤く染まっていく。
「この前もだけど、人前で言う?」
「お前が聞いたんだろ」
「聞いたけど、もう少し照れるかと思ってた」
「学校中に認識させる作戦なんだろ」
「そうだけど……心の準備ってものが」
「始めると言ったのはお前だ」
「律くんが思ったより本気だった」
結愛は片手で顔を隠しながら、それでも俺の手だけは離さなかった。
後ろにいた紬が、小さく咳払いをする。
「先輩」
「何だ」
「本日の私も、普段と比べて何か変化はありますか?」
「前髪を切ったな」
紬が目を見開く。
「……二ミリ程度ですが」
「左右の長さが揃ってる」
「よくお気づきになりましたね」
嬉しそうに目を細める紬の横で、結愛の頬が再び膨らむ。
「律くん」
「何だ」
「私以外の女の子の変化に気づかないで」
「無茶を言うな」
「では、先輩」
紬が一歩近づく。
「可愛いですか?」
「質問まで真似しないで!」
「七瀬先輩だけの権利ではありません」
「律くん、答えなくていいからね」
「……小日向に似合ってると思うぞ」
「可愛いですか?」
「食い下がるな」
「紬です」
「今は名前の話をしてない」
俺たちのやり取りを見ていた生徒たちが笑う。
その日の一時間目が始まる頃には、俺と結愛が付き合っているという噂は、学年中に広まっていた。
◇
「篠宮、本当に七瀬さんと付き合ってるのか?」
「昨日からな」
「昨日!?」
「転校してきた日じゃん!」
「実は転校前からの幼馴染です」
結愛は俺の隣で、得意げに胸を張る。
「幼馴染で、恋人で、今は同居もしています」
「同居!?」
「余計なところまで広めるな」
「だって、覚えてもらわないと」
「説明が面倒になるだろ」
案の定、その後しばらく質問攻めに遭った。
付き合い始めたきっかけ。
どちらから告白したのか。
幼馴染なのに、どうして転校生として来たのか。
答えられることと、答えられないことがある。
結愛は適当に話をかわしながらも、いつもより楽しそうだった。
昨日まで結愛を知らなかった「ことになっている」クラスメイトたちが、今は結愛へ次々に話しかけている。
昼休みになると、結愛は弁当箱を俺の机へ持ってきた。
「律くん、あーん」
箸でつまんだ卵焼きが、俺の口元へ差し出される。
「自分で食える」
「学校中に恋人だと覚えてもらうためです」
「絶対に、お前がやりたいだけだろ」
「六割くらいは作戦だよ」
「残り四割は?」
「律くんに、あーんしたい」
「正直だな」
「ほら。口を開けて?」
クラスメイトたちがこちらを見ている。
ここで拒否すれば、作戦の意味がなくなる。
俺は諦めて卵焼きを口に入れた。
「どう?」
「甘い」
「愛情が?」
「砂糖が」
「そこは愛情って言ってよ」
「でも、うまい」
結愛が嬉しそうに笑う。
「じゃあ、もう一個」
「先輩」
背後から声がした。
振り返ると、教室の入口に紬が立っている。
その手には、布で包まれた弁当箱があった。
「私もお弁当を作ってきました」
「どうして一年生がここに?」
「先輩と昼食を取るためです」
紬は俺の前まで来ると、弁当箱を開けた。
彩りの整ったおかずが、隙間なく詰められている。
「すごいな」
「ありがとうございます。では先輩、あーんを」
「小日向は必要ない」
紬の箸が止まる。
「なぜでしょう」
「お前は彼女じゃないから」
紬は数秒、黙り込んだ。
周囲まで静かになる。
「……今の一言は、少し効きました」
「悪い」
「いいえ。事実ですので」
紬は静かに箸を戻す。
しかし、すぐに顔を上げた。
「ですが、諦めません。いつか私が彼女になれば問題ありませんから」
「ならないよ?」
「未来は不確定です」
「それ好きだね」
「それと、先輩」
「何だ、小日向」
「紬です」
「今その訂正いるか?」
「必要です」
結愛は紬の弁当箱を覗き込む。
「でも、本当に上手だね。これ、全部自分で作ったの?」
「はい」
「律くん、私の卵焼きとどっちがいい?」
「比べるな」
「比べてください」
「紬ちゃんは乗らないで」
「紬です」
「私はちゃん付けしてるでしょ!」
教室に笑いが起きる。
その中で、一人の女子生徒が俺たちの机へ近づいてきた。
「ねえ、七瀬さん」
「何?」
結愛が顔を上げる。
「次の休み時間、購買に行かない? 期間限定のプリンがあるんだって」
「私と?」
「うん。七瀬さん、甘いもの好きそうだし」
結愛は目を瞬かせる。
別の女子も、少し遠慮がちに口を挟んだ。
「私も、七瀬さんと話してみたかったんだ。篠宮くんの彼女だからっていうだけじゃなくて、七瀬さん自身と」
「私自身……」
「迷惑だった?」
「ううん!」
結愛は勢いよく首を振る。
「行く。私、プリン好き」
「よかった。じゃあ、次の休み時間ね」
「うん」
女子たちが自分の席へ戻っていく。
結愛はしばらく、その背中を見つめていた。
「どうした」
「初めてだったから」
「何が」
「この世界に戻ってから、律くんの彼女じゃなくて、私自身と話したいって言ってもらえたの」
結愛は自分の胸元へ手を添える。
「変なの。たったそれだけなのに、ここが温かい」
右側の髪に留められた白い花のヘアピンが、かすかな光を放った。
同時に、俺の胸の奥で何かがほどけるような感覚がする。
制服の下を確認すると、胸元に浮かんでいた白い花の痣が、ゆっくりと花弁を閉じていた。
消えてはいない。
けれど、今すぐ俺たちを飲み込もうとしていた力は、確実に弱まっている。
「作戦成功かな」
「まだ一人目だ」
「でも、最初の一人だよ」
結愛が笑う。
その笑顔は、俺だけへ向けるものとは少し違って見えた。
嬉しいような、わずかに寂しいような、不思議な気持ちになる。
「律くん」
「何だ」
「もしかして、私に友達ができて寂しい?」
「別に」
「嘘。顔に書いてある」
「それより、プリンを買いに行くんだろ」
「ご安心ください」
結愛は俺の耳元へ顔を寄せる。
「友達が増えても、一番大好きなのは律くんだから」
「……そうか」
「照れた?」
「早く行け」
「照れたね」
結愛は楽しそうに笑い、女子たちのもとへ駆けていった。
その背中を見送りながら、紬がぽつりと呟く。
「七瀬先輩は、すごいですね」
「そうか?」
「来たばかりなのに、もう居場所を作り始めています」
紬の横顔は、いつも通り静かだった。
けれど、その目は結愛ではなく、自分のスマートフォンへ向けられていた。
画面には、何の通知も表示されていない。
「小日向?」
「紬です」
「……紬」
名前を呼ぶと、紬が顔を上げる。
ほんの一瞬、その瞳が揺れた。
「今、名前で」
「呼べと言ったのはお前だろ」
「はい」
紬はスマートフォンを胸元へ抱える。
「ありがとうございます、先輩」
小さな笑顔だった。
結愛のように誰もが振り返る笑顔ではない。
それでも、俺はその表情を忘れないだろうと思った。
◇
放課後。
結愛はクラスの女子たちに囲まれながら、連絡先を交換していた。
「七瀬さん、今度駅前のお店行こうよ」
「行きたい。律くんも連れていっていい?」
「女子だけで行こうよ」
「えー」
「篠宮くんとは毎日一緒なんでしょ?」
「それはそうだけど」
不満そうにしながらも、結愛は嬉しさを隠しきれていない。
増えていく連絡先。
交わされる約束。
それら一つ一つが、結愛をこの世界へつなぎ止めていく。
俺は少し離れたところで、その様子を見守っていた。
「先輩」
紬が隣へ立つ。
「明日は、先輩のお弁当も作ってきます」
「必要ない。母さんが用意する」
「では、おかずを一品追加します」
「結愛と張り合うつもりか?」
「もちろんです」
紬は淡々と答えた。
「私にも、勝ち目がないわけではありません」
「そうか」
「否定しないのですか?」
「気持ちまで否定する権利は、俺にはないからな」
「……先輩は、そういうところがずるいです」
紬の声が、少しだけ震えた。
「でも、俺が選ぶのは結愛だ」
「分かっています」
紬は笑おうとした。
けれど、うまく形にならなかった。
「今は、ですけど」
「ああ」
「ですから、明日は卵焼きを入れます」
「俺は甘くない方が好きだぞ」
「覚えておきます」
紬がスマートフォンを取り出す。
今の好みを記録しようとしたのかもしれない。
その瞬間、画面に一件の通知が浮かんだ。
差出人不明。
『あなたが消えても、誰も困らないよ』
紬の指が止まる。
「どうした?」
「……何でもありません」
紬はすぐに通知を消し、スマートフォンの画面を伏せた。
「迷惑メッセージです」
「見せてみろ」
「大丈夫です」
いつもの落ち着いた声だった。
けれど、スマートフォンを握る指だけが白くなっている。
俺が追及する前に、結愛がこちらへ駆けてきた。
「お待たせ、律くん」
「連絡先は増えたか?」
「五人も増えたよ」
結愛は嬉しそうにスマートフォンを見せる。
画面には、さっそく届いたメッセージが並んでいた。
『今日は話せて楽しかった!』
『明日も一緒にお昼食べようね』
『七瀬さん、おすすめのコスメ教えて!』
「すごいでしょ?」
「ああ」
「これで私も、ちょっとはこの世界にいていいってことになるかな」
「少しどころじゃない。もう簡単には消えない」
「そっか」
結愛は安心したように、スマートフォンを胸へ抱いた。
その隣で、紬は伏せたままの自分の画面を見つめている。
「帰りましょう、先輩」
やがて紬は顔を上げ、普段通りの表情を作った。
「明日のお弁当、楽しみにしていてください」
「だから、作らなくていい」
「作ります」
「私も作るよ」
「では、勝負ですね」
「受けて立ちます」
「俺の昼食で争うな」
二人はまた言い合いながら、教室を出ていく。
その場に、一枚の白い花弁が落ちた。
窓は閉まっている。
教室に花も飾られていない。




