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7/7

第7話 幼馴染と後輩が俺の弁当を作ってきた――どちらを選んでも修羅場らしい

 目を覚ますと、何かが焦げる匂いがした。


「……火事か?」


 慌ててベッドを下り、部屋を飛び出す。


 階段を駆け下りると、台所から母さんの声が聞こえてきた。


「結愛ちゃん、火が強すぎるわ」


「でも、弱火だとなかなか焼けなくて……」


「料理は恋愛と同じよ。焦って火を強くすると、表面だけ焦げるの」


「なるほど。深いです」


「朝から何の話をしてるんだ」


 台所を覗く。


 結愛は制服の上からエプロンを着け、卵焼き器と向き合っていた。


 調理台には、焦げた卵焼きが三本並んでいる。


「律くん、おはよう」


「おはよう。火事じゃないなら、もう一度寝てくる」


「待って」


「何だ」


「彼女が朝早くからお弁当を作ってるのに、その反応は冷たくない?」


「朝早くから炭を作ってるようにしか見えない」


「三本目は、ちょっと焼き色が強くなっただけです」


「黒いぞ」


「愛情を煮詰めすぎました」


「その愛情は苦そうだな」


 結愛が頬を膨らませる。


 卵焼き器の中には、四本目が焼かれていた。


 今回は母さんが火加減を調整したらしく、今のところ綺麗な黄色を保っている。


「急にどうしたんだ」


「昨日、紬ちゃんが宣戦布告したでしょ?」


「弁当を作るとは言ってたな」


「だから私も、本気を出すことにしました」


「張り合ってるだけじゃないか」


「違います」


 結愛は真剣な顔で卵を巻く。


「彼女として、律くんの健康を支えようと思っただけです」


「今まで料理をしたことは?」


「目玉焼きならあります」


「殻を三つ入れたやつか」


「あれはカルシウムを――」


「それは前にも聞いたからな」


「律くんのいじわる」


 結愛は卵焼きを皿へ移した。


 四本目にして、ようやく普通の形になっている。


「できた!」


「よかったわね」


「はい!」


 母さんと結愛が顔を見合わせて喜ぶ。


 初めて歩いた子供でも見るような反応だった。


「律くん、味見して」


 切り分けた卵焼きが箸で差し出される。


「朝食を食べる前なんだが」


「彼女の手料理は別腹です」


「甘い卵焼きを朝から何切れ食わせるつもりだ」


「成功するまで?」


「もう成功しただろ」


「律くんが美味しいって言うまでが成功です」


 結愛が期待に満ちた目で俺を見る。


 断っても引き下がらないだろう。


 俺は差し出された卵焼きを口に入れた。


「どう?」


「甘い」


「それは昨日も聞きました」


「昨日よりさらに甘い」


「律くんが甘い卵焼きは嫌いだって言ってなかったから」


「好きとも言ってない」


「じゃあ、嫌い?」


「嫌いじゃない」


「美味しい?」


「……うまい」


 結愛の表情が明るくなる。


「よかった」


「少し砂糖が多いけどな」


「愛情です」


「砂糖だ」


「認めたくないんだね」


 結愛は満足そうに、卵焼きを弁当箱へ詰め始める。


 横には、母さんが用意した唐揚げや野菜が並んでいた。


「ほとんど母さんが作ったんじゃないか?」


「詰めるのは私です」


「弁当を作ったと言えるのか、それ」


「卵焼きには百パーセント私の愛情が入ってるよ?」


「他のおかずには?」


「お母さんの愛情」


「俺の弁当に母さんの愛情が入ってるのは普通だな」


 母さんが笑いながら、もう一つ弁当箱を差し出す。


「はい、結愛ちゃんの分」


「私の?」


「自分の分を忘れていたでしょう?」


 結愛の手が止まる。


「……どうして分かったんですか?」


「律の弁当箱しか出してなかったからよ」


「違います。これから出すところでした」


「弁当箱がどこにあるか知ってるのか?」


「冷蔵庫?」


「入ってない」


「食器棚?」


「見てもいなかっただろ」


「……律くんのお弁当を作ることに集中してただけです」


「俺しか見えてないじゃないか」


「彼女なので」


「便利な言葉にするな」


 結愛は母さんから弁当箱を受け取る。


 それから、少し照れたように笑った。


「ありがとうございます、お母さん」


「どういたしまして」


 母さんは自然に答える。


 ほんの一瞬だけ、結愛の瞳が潤んだ。


 だが、それを隠すように、すぐ俺へ弁当箱を突き出してくる。


「はい、律くん」


「ありがとう」


「お昼になったら、私の目の前で食べてね」


「分かった」


「紬ちゃんのお弁当より先に」


「順番まで指定するな」


「大事なことです」


     ◇


 七時四十分。


 玄関を出ると、宣言どおり紬が待っていた。


「おはようございます、先輩」


「おはよう」


「おはよう、紬ちゃん」


「おはようございます、七瀬先輩」


 紬の手には、普段の鞄とは別に、小さな保冷バッグが下げられている。


 結愛の視線がそこへ向いた。


「それ、お弁当?」


「はい」


「律くんの?」


「私と先輩の分です」


「私の分は?」


「なぜ恋敵の昼食まで用意する必要が?」


「一人だけ仲間外れにするのはよくないと思う」


「七瀬先輩も、私の分は作っていないでしょう?」


「私は律くんの彼女だから」


「回答になっていません」


 二人の視線がぶつかる。


「朝から始めるな」


 俺が間へ入ると、結愛が自分の弁当袋を掲げた。


「ちなみに、私も律くんのお弁当を作りました」


「知っています」


「どうして?」


「先輩の家から、甘ったるい匂いがします」


「分かるの?」


「比喩です」


「紬ちゃん、真顔で冗談を言うから分かりづらいよ」


「紬です」


「私はちゃん付けして良いでしょ!」


 紬は結愛の弁当袋を見る。


「七瀬先輩が、すべてお一人で?」


「……卵焼きは」


「それ以外は?」


「お母さんとの共同作業です」


「では、実質的には卵焼き対決ですね」


「そういうことになります」


 いつの間にか、正式な勝負が成立していた。


「俺を審査員にするなよ」


「律くん以外の誰に食べさせるの?」


「私たちは、先輩の好みを競っています」


「競わなくていい」


「律くん」


 結愛が俺の右手を握る。


「どっちの味方?」


「味方も何もないだろ」


「私は彼女だよ?」


「私は後輩です」


「紬は立場が弱いだろ」


 思わず名前で呼ぶと、紬の足が止まった。


「……先輩」


「何だ」


「今、自然に名前で呼びましたね」


「昨日から呼んでるだろ」


「昨日は、私が強要しました」


「今日も強要してただろ」


「それでも構いません」


 紬は嬉しそうに、ほんの少しだけ目元を緩める。


「もう一度お願いします」


「紬」


「はい」


「登校中に立ち止まるな」


「分かりました、先輩」


 上機嫌になった紬の横で、結愛が俺の手を強く握る。


「痛い」


「私も名前で呼んで」


「結愛」


「もう一回」


「どうしてお前まで張り合うんだ」


「彼女の名前は、後輩より多く呼ぶべきです」


「その規則は初めて聞いた」


「今作りました」


「七瀬先輩」


 紬が小さなノートを取り出す。


「恋愛規則を毎朝追加するのは、非効率的だと思います」


「何で記録してるの?」


「七瀬先輩の行動パターンを分析しています」


「そのノート、絶対に見せて」


「敵に情報は開示しません」


 左右から声が飛んでくる。


 昨日まで静かだった朝の通学路が、今日も騒がしい。


 俺は少しだけ早足になった。


「律くん、待って」


「先輩、逃げないでください」


 逃げているつもりはない。


 ただ、昼休みが来る前から胃が重かった。


     ◇


 教室へ入ると、何人かの女子が結愛へ声をかけた。


「七瀬さん、おはよう」


「おはよう。昨日教えてもらった動画、見たよ」


「本当? どうだった?」


「あのリップ、色は可愛かったけど、私はもう少し薄い方が好きかも」


「分かる! 七瀬さんって、どこの使ってるの?」


 結愛は自然に女子たちの輪へ入っていく。


 まだ呼び方は「七瀬さん」のまま。


 それでも、昨日より距離が縮まっているのが分かった。


 結愛の机には、女子から借りた雑誌が置かれている。


 スマートフォンには、昨夜から続いているメッセージが残っている。


 昨日まで世界に存在しなかったはずの結愛が、少しずつ、この教室の日常へ入り込んでいる。


「律くん」


 女子たちと話していた結愛が、不意にこちらを振り返る。


「何だ」


「呼んでみただけ」


「話に戻れ」


「はーい」


 結愛は安心したように笑い、再び女子たちへ向き直った。


 新しい縁を作りながらも、俺がいることを確かめている。


 そんな結愛を見ていると、胸元の白い花が以前より静かになっているのを感じた。


「篠宮」


 前の席に座る山岸が、俺を振り返る。


「何だ」


「顔、緩んでるぞ」


「緩んでない」


「彼女に友達ができて嬉しいんだろ」


「別に」


「昨日からずっと、それで通すつもりか?」


「授業の準備をしろ」


「はいはい」


 山岸が笑いながら前を向く。


 俺も教科書を取り出した。


 そのとき、机の端に置かれていた結愛の消しゴムが床へ落ちた。


 近くにいた女子が、当たり前のように拾う。


「七瀬さん、落としたよ」


「ありがとう」


 たったそれだけのやり取りだった。


 それでも、結愛がこの世界にいることを誰かが自然に認識している。


 俺はその光景から、しばらく目を離せなかった。


     ◇


 昼休み。


「それでは、第一回、ラブラブ彼女と一途な後輩の手作り弁当対決を始めます!」


 なぜか山岸が司会を始めた。


「始めなくていい」


「何言ってんだ。もうクラス全員が楽しみにしてるぞ」


 周囲を見る。


 確かに、何人ものクラスメイトが俺たちの机を囲んでいた。


「どうしてこうなった」


「七瀬さんが一時間目の休み時間に宣伝したから」


「結愛」


「だって、たくさんの人に覚えてもらった方がいいでしょ?」


「お弁当対決として覚えられる必要はない」


「大丈夫。私が律くんの彼女だってことも、一緒に覚えてもらいます」


 結愛が机の上に弁当箱を置く。


 紬も、一年生の教室から当然のようにやってきて、隣へ弁当箱を並べた。


「先輩、先にどちらを召し上がりますか?」


「私からに決まってるよね?」


「順番に有利不利が生じる可能性があります」


「じゃあ、同時に食べる?」


「口が二つ必要になるだろ」


「律くんならできるよ」


「人間をやめさせるな」


 山岸が二つの弁当箱を交互に見る。


「見た目は小日向さんが圧勝だな」


 紬の弁当は、彩りまで計算されていた。


 焼き鮭。


 きんぴらごぼう。


 アスパラの肉巻き。


 形の整った、だし巻き卵。


 一方、結愛の弁当は母さんが作った唐揚げと野菜に、不格好な甘い卵焼きが詰められている。


「見た目だけで判断するのは浅いよ」


 結愛が胸を張る。


「私の卵焼きには、愛情が入ってます」


「私も先輩への気持ちを込めました」


「じゃあ、私の方が多い」


「測定方法は?」


「幼馴染年数」


「交際期間なら、まだ数日ですよね?」


「付き合う前から好きだったもん」


「私もです」


「何で紬ちゃんが張り合うの」


「対決だからです」


「二人とも、味で勝負しろ」


 俺はとりあえず、結愛の卵焼きを一つ口に入れた。


「どう?」


「朝より味が落ち着いてる」


「お弁当箱の中で愛情がなじんだんだね」


「砂糖が他のおかずへ移ったんじゃないか?」


「細かいことを気にしないで。美味しい?」


「ああ。うまい」


 結愛が満面の笑みを浮かべる。


「では、次はこちらを」


 紬が自分の卵焼きを箸でつまむ。


 差し出されたまま食べようとすると、結愛がその手首をつかんだ。


「待って」


「何でしょう」


「どうして、あーんしようとしてるの?」


「昨日、七瀬先輩がしていましたので」


「私は彼女だから」


「本日は弁当対決です。公平性が必要です」


「味とあーんは別項目です」


「先輩。口を開けてください」


「律くん、自分の箸で食べて」


 二人の箸が左右から迫ってくる。


「俺に選ばせる気がないだろ」


 仕方なく、紬の箸から卵焼きを自分の箸で受け取った。


 口に入れる。


 甘くない。


 だしの味が効いていて、俺の好みに合っている。


「どうでしょう」


「うまい」


 紬の青灰色の瞳が、期待するように俺を見る。


「どちらの方が?」


「方向が違うから比べられない」


「逃げたね」


「逃げましたね」


「同時に責めるな」


 周囲から笑いが起きる。


「小日向さんの方が、料理としては上手そうだよな」


 山岸の一言に、結愛が反応する。


「料理としては?」


「七瀬さんの方は、家庭的というか」


「それ、褒めてる?」


「一生懸命作った感じはする」


「やっぱり褒めてないよね?」


 結愛が俺を見る。


「律くんは、どっちがいい?」


「だから比べられない」


「それでも選ぶとしたら?」


「先輩。遠慮は必要ありません」


 二人が真っ直ぐ俺を見る。


 ここで適当なことを言えば、余計に面倒になる。


 俺は紬の弁当をもう一口食べた。


「紬の弁当は、店で売れるくらいうまい」


「ありがとうございます」


 紬が静かに笑う。


 けれど、結愛の頬が膨らみ始める。


「私のは?」


 俺は結愛の卵焼きを食べる。


 形は悪い。


 少し甘すぎる。


 それでも、朝から何度も作り直していた姿を知っている。


「結愛のは、毎日食べても飽きなさそうだ」


 教室が静かになった。


 結愛が目を瞬かせる。


「……律くん」


「何だ」


「それって、毎日私のご飯を食べたいってこと?」


「そこまでは言ってない」


「ほぼプロポーズですね」


 紬が淡々と補足する。


「紬まで乗るな」


「私もそう聞こえた!」


「篠宮、ついに結婚するのか?」


「付き合って三日目だぞ!」


 周囲が一斉に騒ぎ出す。


 結愛は耳まで赤くしながら、俺の制服の袖をつかんだ。


「律くん」


「何だ」


「卒業したら、毎日作ってあげようか?」


「まず料理を覚えろ」


「お母さんに、もっと教えてもらいます」


「話を進めるな」


 結愛は嬉しそうに笑っている。


 その向かいで、紬は自分の弁当箱へ目を落としていた。


「紬?」


 声をかけると、紬が顔を上げる。


「何でしょう、先輩」


 俺は紬の弁当箱から肉巻きを一つ取り、口へ運ぶ。


「肉巻きもうまい」


「……そうですか」


「ああ」


「では、明日も作ります」


「毎日は大変だろ」


「苦ではありません」


 紬は微笑む。


 いつも通りの、落ち着いた表情だった。


 けれど、膝の上に置かれた左手だけが、スカートの生地を強く握っていた。


     ◇


 午後の授業が終わると、結愛の席へ女子たちが集まった。


「七瀬さん、今日こそ駅前のお店に行かない?」


「昨日話してた限定プリン、まだあるみたい」


「今日?」


 結愛は嬉しそうにしたあと、すぐ俺を見る。


 次に、教室の入口に立っている紬を見る。


「どうしようかな……」


「行ってくればいいだろ」


「律くんは?」


「先に帰るか、図書室に寄る」


「紬ちゃんと?」


「紬です」


「今は律くんに聞いてるの」


 紬は一歩、教室へ入る。


「私は図書委員の仕事があります。先輩にも手伝っていただく予定です」


「初耳だぞ」


「今、決めました」


「勝手に決めるな」


 結愛が俺の腕へ抱きつく。


「やっぱり私も残る」


「七瀬さん、行かないの?」


 誘った女子が残念そうに尋ねる。


 結愛の表情が揺れた。


 俺と帰りたい。


 紬と二人にしたくない。


 けれど、友達とも出かけたい。


 迷っているのが分かりやすく顔に出ていた。


「行ってこい」


「でも」


「せっかく誘ってくれたんだろ」


「律くんは、私と帰りたくないの?」


「帰りたい」


 結愛が目を丸くする。


「でも、お前の友達も大事だ」


「……そういうこと、普通に言うようになったね」


「嫌なのか?」


「嬉しいから困ってるの」


 結愛は少し考え、俺の腕を離した。


「じゃあ、行ってくる」


「ああ」


「でも、寄り道が終わったら律くんの家に帰るからね」


「もうお前の家でもあるだろ」


 結愛が固まる。


 女子たちから、小さな歓声が上がった。


「篠宮くん、今のやばい!」


「七瀬さん、顔真っ赤!」


「……律くん」


「何だ」


「帰ったら、もう一回言ってね」


「何を」


「『もうお前の家でもある』って」


「覚えてたらな」


「絶対に覚えてて」


 結愛は照れを隠すように、俺の胸へ額を軽くぶつけた。


「それと紬ちゃん」


「何でしょう」


「私がいない間に、律くんを誘惑しないで」


「善処します」


「しないって言って」


「嘘はつきたくありません」


「やっぱり残ろうかな」


「七瀬さん、行こう!」


 女子たちが結愛の両腕をつかむ。


「待って。最後に律くんを補充させて」


「補充って何だ」


「一時間分」


 結愛は俺の腕へ一度だけ抱きつく。


 それから名残惜しそうに手を振りながら、女子たちに連れていかれた。


 向こうでは歓声が上がっている。


「律くん、浮気したら駄目だからね!」


「しない」


「絶対だからね!」


「分かった」


「小日向さんも、七瀬さんの彼氏を取ろうとしないでよ?」


 女子の一人が紬へ言う。


「それはお約束できません」


「本当に狙ってるんだ……」


 驚いた声と結愛の抗議が、廊下の向こうへ遠ざかっていく。


 教室が静かになった。


「先輩」


「何だ」


「七瀬先輩は、毎日あの調子なのですか?」


「だいたいな」


「……勝てる気がしませんね」


「諦めるのか?」


「いいえ」


 紬は鞄を持ち上げる。


「勝てる気がしないことと、諦めることは別の問題です」


     ◇


 紬の図書委員の仕事は、返却された本を棚へ戻すことだった。


 二人で作業を終えたあと、紬は鍵束を手に、図書室の奥へ向かう。


「どこへ行くんだ」


「旧図書準備室です。古い蔵書を戻します」


「あそこをまだ使ってるのか?」


「ほとんど使われていません。ですから、私が担当しています」


「一人で?」


「はい」


「俺も行く」


 紬が足を止める。


「手伝ってくださるのですか?」


「また閉じ込められたら困るだろ」


「扉は修理されています」


「念のためだ」


 旧図書準備室は、校舎の一番端にある。


 人通りの少ない廊下。


 古びた扉。


 四月に紬を見つけたときと、ほとんど変わっていない。


 紬が鍵を開ける。


 扉の向こうには、古い紙と埃の匂いが残っていた。


「懐かしいな」


「私は、あまり良い思い出ではありません」


「そうだよな」


 窓は小さく、外から差し込む光も弱い。


 あの日。


 この薄暗い部屋の中で、紬は一人、助けを呼んでいた。


 俺たちは持ってきた本を棚へ戻していく。


「先輩」


「何だ」


「あの日、どうして私を捜したんですか?」


「前にも話しただろ。靴が残ってたからだ」


「普通なら、先生へ報告して終わりです」


「担任が帰ったと言っても、靴があった」


「誰かの靴を借りて帰った可能性もあります」


「入学したばかりの一年生が?」


「可能性はゼロではありません」


「面倒くさいな」


「大切な質問です」


 紬は本を棚へ入れながら、俺の答えを待っている。


「気になったからだ」


「それだけですか?」


「それだけで十分だろ」


「……そうですね」


 紬は一冊の本を抱えたまま、窓の外へ視線を向ける。


「あの日、クラスメイトは誰も私がいないことに気づきませんでした」


「前も聞いた」


「担任の先生も、帰宅したと思っていた。家族も、私が帰らなくても連絡をしなかった」


「忙しかったんだろ」


「はい。両親は共働きで、帰宅はいつも遅いです」


 紬の声は穏やかだった。


 家族を責める響きはない。


「私は昔から、一人でも大丈夫だと思われています。勉強も家事も、それなりにできます。誰かへ迷惑をかけることもありません」


「優等生だな」


「便利な子供です」


 その言い方だけが、妙に冷たかった。


「誰にも嫌われてはいません」


 紬は静かに続ける。


「でも、誰にも心配されていませんでした」


「紬」


「ですから、先輩が扉を開けたとき、本当に驚いたんです」


 紬がこちらを見る。


「誰も私がいないことに気づかなかったのに、先輩だけが見つけてくれた」


「偶然だ」


「私にとっては、偶然ではありません」


 紬の青灰色の瞳が、俺を真っ直ぐ見つめる。


「七瀬先輩には、彼氏ができました。友達もできました。先輩だけでなく、たくさんの人が七瀬先輩を見ています」


「ああ」


「私は、ずっとここにいるのに」


 紬は笑った。


「七瀬先輩より、誰の記憶にも残っていないのかもしれませんね」


「そんなことはない」


「本当に?」


「少なくとも、俺は覚えてる」


 紬の笑顔が止まる。


「四月にここへ閉じ込められたことも、生徒手帳を昇降口へ落としたことも、十二回作り直したクッキーを持ってきたことも」


「……はい」


「甘くない卵焼きがうまかったことも覚えてる」


「先輩」


「お前がいなくなれば、俺は気づく」


 紬の瞳が大きく揺れた。


「本当に?」


「ああ」


「私が、突然、学校からいなくなっても?」


「捜す」


「誰も私を覚えていなくても?」


「俺が覚えてる」


「七瀬先輩が、嫌がっても?」


「結愛も、一緒に捜すと思うぞ」


「……どうして、そこで七瀬先輩も捜すことになるんですか」


「俺だけに捜してほしかったのか?」


 紬が顔を伏せる。


「それくらいは、夢を見させてください」


「悪い」


「先輩は悪くありません」


 紬は本を棚へ戻した。


 その横顔は、少し寂しそうで、それでも嬉しそうだった。


「でも、約束してください」


「何を」


「もし私がいなくなったら、必ず見つけてください」


 俺はすぐには答えられなかった。


 結愛が消えかけたときの光景が、脳裏をよぎる。


 世界から存在を切り離され、身体まで透けていく姿。


 そんなことを、もう誰にも経験させたくない。


「いなくなることを前提にするな」


「仮定の話です」


「仮定でもだ。いなくなってから見つければいいなんて、簡単に考えるな」


 紬が目を瞬かせる。


「……心配してくださっているんですか?」


「当たり前だろ」


「先輩にとって、私は大切な後輩ですか?」


「ああ」


「七瀬先輩よりも?」


「比べる話じゃない」


「そこは即答してほしかったです」


「無茶を言うな」


 紬はわずかに笑う。


 だが、その目は真剣なままだった。


「それでも、約束してください」


「紬」


「誰にも見つけてもらえないことが、私は怖いんです」


 その言葉を聞いて、これ以上は拒めなかった。


「分かった」


「本当に?」


「もしお前がいなくなったら、必ず見つける」


「絶対に?」


「ああ。絶対に見つける」


 紬は胸元へ手を添える。


「……その言葉だけで、しばらく頑張れそうです」


「しばらくじゃなく、ずっと頑張れ」


「それは、先輩次第です」


「俺のせいにするな」


 窓の外で、風が吹いた。


 閉じているはずの窓から、白い花弁が一枚だけ入り込む。


 紬の肩へ落ちかけたそれを、俺は手で払った。


「花びら?」


「どこから入ったんでしょう」


 床へ落ちたはずの花弁は、どこにも見当たらなかった。


     ◇


 図書室を出ると、廊下の向こうから結愛が走ってきた。


「律くん!」


「早かったな」


「一時間十三分も離れてたよ」


「数えてたのか?」


「恋人と離れていた時間は、一秒単位で把握しています」


「重いな」


「知ってるでしょ?」


 結愛は俺の腕へ抱きつき、それから紬を見る。


「何もされなかった?」


「聞く相手が逆では?」


「律くんは押しに弱いから」


「誰が」


「私が押したら付き合ってくれたでしょ?」


「消えかけたことを押したと言うな」


 遅れて、結愛の友人たちが歩いてくる。


「七瀬さん、速すぎるよ」


「彼氏を見つけた瞬間に走るんだもん」


「七瀬さんって、本当に篠宮くんが好きなんだね」


「うん。世界で一番」


「即答だ……」


 結愛は少しも恥ずかしがらず、俺の腕を抱いたまま笑う。


 その姿を見て、紬が小さく息を吐いた。


「そうだ」


 結愛が紙袋を開く。


「律くんにお土産」


「プリンか」


「最後の三個だったんだよ」


 結愛は一つを俺へ渡す。


 次に、自分の分を取り出す。


 紙袋には、もう一つ残っていた。


「はい、紬ちゃん」


 結愛が最後のプリンを差し出す。


 紬が目を瞬かせる。


「私に、ですか?」


「うん」


「なぜ?」


「一人だけないのは可哀想でしょ」


「恋敵へ優しくする余裕ですか?」


「違うよ」


 結愛は少し考える。


 それから、照れたように笑った。


「紬ちゃん自身とは、仲良くなれそうだから」


 紬は差し出されたプリンを見る。


「私は、七瀬先輩から先輩を奪おうとしています」


「知ってる」


「諦めるつもりもありません」


「それも知ってる」


「なら、どうして」


「恋敵だからって、嫌いになる必要はないでしょ?」


 結愛は首を傾げる。


「それに紬ちゃん、結構面白いし」


「褒めていますか?」


「半分くらいは」


「残り半分は?」


「警戒してます」


「正直ですね」


「可愛いだけじゃなくて、素直なのも私の長所なので」


 紬はしばらく黙っていた。


 やがて、プリンを受け取る。


「ありがとうございます、七瀬先輩」


「どういたしまして」


「ですが、先輩は譲りません」


「私も譲らないよ」


 二人は笑顔で見つめ合う。


 険悪ではない。


 けれど、和解したわけでもない。


「じゃあ、私たちは先に帰るね」


 結愛の友人たちが手を振る。


「また明日、七瀬さん」


「うん。また明日」


 結愛が手を振り返す。


 明日も会う。


 そんな当たり前の約束が、今の結愛には大切な縁になる。


 女子たちが廊下の向こうへ消える。


 その背中を見送ったあと、結愛が俺の手を取った。


「私たちも帰ろっか」


「ああ」


 反対側に立つ紬が、俺の左腕へ視線を向ける。


 そして、おそるおそる手を伸ばしてきた。


「何をしてる」


「空いています」


「空けてるんだ」


「私もつかまってよろしいですか?」


「駄目だ」


「なぜでしょう」


「お前は彼女じゃないから」


 紬の手が止まった。


「本日二度目です」


「何が」


「その言葉は、かなり効きます」


「だったら諦めろ」


「それとこれとは別です」


 紬は俺の腕を諦め、代わりに制服の袖の端をつまんだ。


「これなら問題ありませんね」


「問題しかないよ?」


 結愛が俺の反対側から覗き込む。


「手はつないでいません」


「袖も駄目」


「七瀬先輩に、先輩の所有権はありません」


「彼女には優先権があります」


「そんな法律はありません」


「昨日作りました」


「七瀬先輩は法律と校則を毎日増やしすぎです」


 また二人の言い合いが始まる。


 俺は右手を結愛に握られ、左の袖を紬につままれたまま、昇降口へ向かった。


 廊下ですれ違った生徒たちが、面白そうにこちらを見ている。


 どうやら俺たちは、別の意味でも学校中に覚えられ始めているらしい。


     ◇


 その夜。


 小日向紬は、一人で台所に立っていた。


 昼に使った弁当箱を洗う。


 父親も母親も、まだ帰っていない。


 静かな部屋に、水の音だけが響く。


 冷蔵庫を開く。


 中には、母親が自分用に買ったサラダと、父親の缶ビールが並んでいた。


 紬の夕食はない。


 忘れられたわけではない。


 両親は知っているのだ。


 紬なら、自分で何か作れる。


 紬なら、一人でも困らない。


 紬なら、大丈夫。


「……便利な子供」


 昼間、自分で口にした言葉が、静かな部屋へ落ちる。


 スマートフォンが震えた。


 紬は手を拭き、画面を見る。


 差出人不明。


『あなたが消えても、篠宮律だけは気づいてくれる』


 紬の指が止まる。


「またですか」


 メッセージを削除しようとする。


 その前に、もう一通届いた。


『消えてみれば、本当に大切にされているか分かるよ』


「くだらない」


 紬は二通とも削除し、スマートフォンを伏せた。


 冷蔵庫から卵を取り出す。


 明日の弁当にも、甘くない卵焼きを入れるつもりだった。


 先輩が好きだと言った味。


 先輩が覚えてくれた味。


 部屋へ戻り、机の上に置いていたノートを開く。


『篠宮先輩について』


 一番上には、律の名前。


 その下には、今日聞いた言葉が書かれている。


『甘くない卵焼きが好き』


『私がいなくなれば、先輩は気づく』


『絶対に見つける』


 ページの間から、白い花弁が落ちた。


「……何、これ」


 拾い上げる。


 挟んだ覚えはない。


 捨てようと、ゴミ箱へ手を伸ばす。


 その瞬間。


『お前がいなくなれば、俺は気づく』


 律の声が、耳元で蘇った。


『絶対に見つける』


 紬の手が止まる。


 誰にも不在を気づかれなかった自分を、律だけが捜してくれた。


 もし、もう一度いなくなったなら。


 今度も律は、本当に捜してくれるのだろうか。


 結愛のそばを離れて。


 学校中を駆け回って。


 自分の名前を呼んでくれるのだろうか。


「……何を考えているんでしょう、私は」


 花弁を捨てようとする。


 けれど、指が動かない。


 やがて紬は白い花弁を、ノートの同じページへ戻した。


 律の言葉の隣へ。


「本当に、見つけてくれるのでしょうか」


 誰もいない部屋で、紬の声だけが響く。


 ノートに挟まれた白い花弁が、脈を打つように淡く光った。

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