第5話 忘れないために、幼馴染と同じ部屋で眠ることになった
河川敷から戻ったのは、日付が変わる少し前だった。
「ちょっとコンビニへ行ってくる」
そう言って出かけた高校生二人が、三時間以上も帰ってこなかったのだ。
当然、母さんは玄関で待っていた。
「二人とも」
扉を開けた瞬間、低い声が飛んでくる。
「コンビニに行くにしては、ずいぶん遅かったじゃない。どこの山奥まで行ってきたの?」
「……ただいま」
「ただいま戻りました」
結愛が俺の背後へ隠れる。
「どうして俺を盾にする」
「彼女を守るのが彼氏の役目でしょ?」
「こういうときだけ彼氏扱いするな」
「普段からしてるよ?」
「二人とも」
母さんの声が、さらに低くなった。
「説明してもらえる?」
結愛が俺の背中から顔だけを出す。
「コンビニへ行く途中で、少しだけ寄り道を……」
「どこへ?」
「河川敷です」
「どうして?」
「世界から忘れられた人たちが、川底に何百人も沈んでいるのを見に」
「結愛」
「はい」
「正直に話せばいいというものではないぞ」
「だって、嘘を重ねると後で大変になるから……」
母さんが額へ手を当てる。
「まったく……とりあえず、中へ入りなさい。二人とも身体が冷えてるじゃない」
無論、叱られると思っていた。
だが、母さんは俺たちの顔を交互に確かめると、安堵したように息を吐いた。
「無事に帰ってきてくれたなら、それでいいから」
その言葉に、胸の奥が詰まる。
母さんは俺を覚えている。
今はまだ、俺を息子として心配してくれている。
「母さん」
「なに?」
「俺のこと、分かるか?」
母さんは一瞬だけ目を見開いた。
それから、俺の頬を両手で挟む。
「篠宮律。私の息子。十月十三日生まれで、昔から無茶ばかりする、手のかかる子」
「そうか」
「急にどうしたの?」
「確認しただけだ」
「もう忘れたりしないわよ」
母さんの声には、自分自身へ言い聞かせるような響きがあった。
「何度分からなくなっても、必ず思い出すから」
「……ああ」
その横から、結愛も俺の袖を引く。
「私も忘れないよ」
「お前には聞いてない」
「私にも確認して」
「さっき河川敷で散々確認しただろ」
「家に帰るまでに記憶が薄れてるかもしれないでしょ?」
「三十分も経ってないぞ」
「恋人の記憶は、何度確かめてもいいものです」
「初めて聞いた」
結愛は俺の正面へ回り込むと、真っ直ぐ目を見つめてきた。
「篠宮律。私の幼馴染で、彼氏で、世界で一番好きな人」
「ああ」
「顔が怖くて、愛想がなくて、すぐに可愛い彼女を放置しようとする人」
「余計な情報を足すな」
「でも、本当は優しくて、私を絶対に一人にしない人」
結愛が俺の手を握る。
「ちゃんと覚えてるよ」
「分かったから、離せ」
「嫌です」
「母さんが見てる」
「もう付き合ってるって知ってるもん」
「知っていても限度はある」
母さんが、握られた俺たちの手を見る。
「二人とも、付き合い始めたばかりなのよね?」
「はい」
「一応」
「なるほどね」
何かを納得したように頷いた。
「それなら、結愛ちゃん。今夜は律の部屋で寝なさい」
「母さん?」
「おばさん!?」
結愛の方が大きな声を上げた。
「結愛。どうして言い出した本人が驚くんだ」
「だ、だって、私でももう少し段階を踏もうと思ってたから」
「毎日一緒に寝ると言ってなかったか?」
「あれは提案であって、心の準備ができていたわけではありません」
「意味が分からない」
母さんは階段の方へ歩きながら続ける。
「客用の布団を持っていくわ。律は床、結愛ちゃんはベッド。扉は開けておくこと」
「開けるんですか?」
「当然でしょう」
「……ですよね」
「待て。どうして俺が床なんだ」
「女の子を床に寝かせるわけにはいかないでしょう」
「なら、律くん。一緒のベッドで寝る?」
「男は床で寝るものだよな」
「むう」
結愛が唇を尖らせる。
母さんはそんな俺たちを見て、少しだけ笑った。
「結愛ちゃん、まだ帰る家がないんでしょう」
母さんの言葉に、結愛の笑顔が一瞬だけ止まった。
「今夜くらい、こんなのでも、そばにいた方が安心できるでしょう?」
母さんは俺を指さして、にっこりと結愛に微笑んだ。
漠然とだとしても、どうやら俺たちが不安を抱えていることは伝わっていたらしい。
「その代わり、何かあったらすぐに呼びなさい」
「分かりました」
「それと律」
「何だ?」
「結愛ちゃんを泣かせたら、今度は忘れてあげるから」
「変なことを言うな」
◇
結愛はベッドへ、俺は床に敷かれた布団へ座った。
「同じ部屋だね」
「そうだな」
「付き合って二日目で、彼氏の部屋にお泊まり」
「お前は昨日からこの家に泊まってるだろ」
「客間と彼氏の部屋は全然違います」
結愛は桃色のパジャマ姿でベッドの上へ座ると、落ち着かない様子で部屋を見回した。
「何を探してる」
「昔の彼女の痕跡」
「いるわけないだろ」
「本当に?」
「ああ」
「じゃあ、好きな女の子からもらった物は?」
「ない」
「女の子と一緒に撮った写真は?」
「お前以外にはない」
「ベッドの下は?」
「調べたら追い出すぞ」
「怪しい」
「何もない」
「男の子はみんなそう言うって聞きました」
「誰からだ」
「インターネット」
「信用する相手を選べ」
結愛がベッドの下を覗こうとする。
俺はその首根っこをつかみ、元の場所へ戻した。
「大人しく寝ろ」
「まだ眠くない」
「もう十二時だぞ」
「忘れないために、律くんのことをもっと覚えなきゃ」
結愛は昼間に作ったノートを取り出した。
表紙には『篠宮律について』と書かれている。
「律くん記憶定着クイズを始めます」
「勝手に始めるな」
「第一問。律くんの誕生日は?」
「俺に聞くのか?」
「十月十三日です」
「自分で答えるなら、俺はいらないだろ」
「正解したので、ご褒美をください」
「理不尽すぎる」
「頭を撫でて」
「自分で正解を言っただけだ」
「正解したことに変わりはありません」
仕方なく頭へ手を置く。
柔らかな髪を撫でると、結愛が嬉しそうに目を細めた。
「もう一回」
「一問につき一回だ」
「じゃあ、第二問。律くんが苦手な食べ物は?」
「椎茸」
「私が答える問題なのに」
「お前が先に答えろと言わなかっただろ」
「不正解です」
「答えは合ってる」
「私への理解が足りません」
「何のクイズなんだ」
結愛はノートへ何かを書き込む。
『篠宮律は、彼女へのサービス精神が足りない』
「悪評を残すな」
「私が忘れたときに読む大切な記録だよ」
「そんな記録を読んだら、思い出す前に嫌われそうだな」
「大丈夫」
結愛は笑う。
「何度忘れても、また律くんを好きになるって決めてるから」
あっさりと言われ、言葉に詰まる。
「次の問題」
「まだやるのか?」
「律くんが初めて私を可愛いと思ったのは、いつでしょう?」
「知らない」
「本人なのに?」
「俺の問題だろ」
「正解は?」
「覚えてない」
「じゃあ、今は?」
「何が」
「私のこと、可愛いと思ってる?」
結愛が期待を隠さず、俺を見上げる。
「今日も可愛いよ」
「……っ」
結愛が固まった。
数秒遅れて、頬から耳まで真っ赤になる。
「何だ」
「律くんが、普通に言うから……」
「毎日答えると約束しただろ」
「それはそうだけど、心の準備が必要なの」
「聞く前にしておけ」
「もう一回言って」
「今ので終わりだ」
「二回目なら耐えられる気がする」
「耐える必要があるのか?」
「可愛い彼女を照れさせて嬉しくない?」
「少し面白い」
「そこは嬉しいって言ってよ」
結愛が枕を持ち上げ、俺の腕へ軽くぶつける。
そのとき。
窓硝子を、水滴が流れた。
「律くん」
結愛の声から笑いが消える。
雨は降っていない。
それなのに、水滴は一本、また一本と窓を伝っていく。
やがて曇った硝子へ、白い指が文字を刻んだ。
『おかえり』
「姉さん」
俺が名前を呼ぶと、窓硝子が水面のように揺れた。
濡れた黒髪の少女が、硝子の向こうに立っている。
十五歳の姿のまま。
古いセーラー服から水を滴らせながら、栞は俺たちを見つめていた。
「栞お姉ちゃん」
結愛が白い花のヘアピンへ触れる。
「見えるのか?」
「うん。ぼんやりだけど」
栞は、俺たちの姿を見て微笑んだ。
「本当に、恋人になったんだね」
「はい」
結愛が即答する。
「しかも、今夜は同じ部屋で寝ます」
「余計な報告をするな」
「栞お姉ちゃんには、ちゃんと報告しなきゃ」
「でも、布団は別なんだ」
「残念ながら」
「残念なのか?」
栞が小さく笑う。
川底で見た苦しそうな顔とは違う。
記憶の中で、幼い俺たちを見守っていた姉の顔だった。
「姉さん」
「なに?」
「思い出したぞ」
「うん」
「川で何があったのかも、姉さんが俺たちを助けてくれたことも」
「うん」
「だったら、どうして戻れない?」
栞の笑顔が少しだけ曇る。
「律が思い出してくれたから、切れていた縁は一本戻った」
栞の姿が、以前よりもはっきり見える。
濡れた黒髪。
優しい目。
結愛へ渡したものと同じ、白い花飾り。
「でも、思い出すことと、世界の中へ戻ることは違うの」
「何が足りない」
「私がいた場所」
「場所?」
「家族の中にあった、私の居場所」
脳裏に、母さんの顔が浮かぶ。
栞の名前を聞いただけで、胸を押さえていた。
「母さんか」
「お母さんの中には、まだ私との縁が残ってる」
「だったら、母さんに全部思い出してもらえばいい」
「簡単には言わないで」
初めて、栞が強い口調で遮った。
「お母さんが私を思い出したら、私と過ごした時間だけじゃない。私を失った日のことも、全部思い出すことになる」
「それでも、姉さんを取り戻すには必要なんだろ」
「私を忘れたままなら、お母さんは苦しまなくて済む」
「姉さんは、それでいいのか?」
栞は答えなかった。
ただ、寂しそうに笑う。
「俺はよくない」
「律」
「母さんがどうするかは、母さんが決めることだ。姉さんが一人で決めるな」
「昔から、変なところだけ頑固だね」
「姉さんに似たんだろ」
「……そっか」
栞の目から、一筋の涙がこぼれる。
その涙も、水滴となって窓を流れた。
「少し、考えさせて」
「待て、姉さん」
「今夜は結愛ちゃんのそばにいてあげて。忘れ花は完全に閉じたわけじゃないから」
栞の輪郭が薄くなる。
「もう一つだけ」
「何だ?」
「川底で見た人たちには、気をつけて」
「消えることを望んだ人たちのことか?」
「忘れ花は、誰かに忘れられた人だけを連れていくんじゃない」
栞の声が遠ざかる。
「自分なんて誰の記憶にも残りたくないと願った人の前にも、現れるから」
窓硝子を覆っていた水滴が、一斉に流れ落ちる。
栞の姿は消えていた。
◇
「自分から消えたいと願った人……」
結愛が不安そうに呟く。
「考えても、今は分からない」
「そうだね」
「今日は寝ろ」
「うん」
結愛がベッドへ横になる。
俺も照明を消し、布団へ入った。
扉は母さんとの約束どおり、少し開けたままだ。
暗闇の中。
しばらく経ってから、結愛の声がした。
「律くん」
「何だ」
「手、つないでいい?」
「どうやって」
「手、貸して」
ベッドの端から結愛が手を垂らす。
俺も布団から腕を伸ばすと、結愛の指が俺の手を探り当てた。
指と指が絡む。
「これ、寝づらくないか?」
「忘れるよりいい」
「朝までこのままか?」
「駄目?」
「腕が痺れそうだ」
「じゃあ、私が布団へ行く?」
「どうしてそうなる」
「同じ布団なら、もっと自然につなげるよ」
「却下だ」
「相変わらず防御力が高いね」
「お前の攻撃が露骨すぎるんだ」
「彼女なので」
「便利に使うな」
暗闇の中で、結愛が小さく笑った。
「律くん」
「今度は何だ」
「好きって言って」
「寝ろ」
「河川敷で、帰ったらもう一回言ってくれるって約束した」
覚えていたらしい。
「律くんは、約束を破らないよね?」
「……好きだ」
握られた手に、強く力が込められる。
「私も」
「ああ」
「律くんが好き」
「分かった」
「世界で一番好き」
「聞こえてる」
「将来、お嫁さんになりたいくらい好き」
「話を飛躍させるな」
「子供の頃からの夢です」
「夢は変わるものだぞ」
「変わってないから困ってるの」
結愛の声が、少しだけ近くなる。
ベッドから下りるのかと思ったが、それ以上は動かなかった。
「おやすみ、律くん」
「ああ。おやすみ、結愛」
手をつないだまま、目を閉じる。
胸に咲いた忘れ花は、静かだった。
◇
朝。
目を覚ますと、目の前に結愛の顔があった。
「……何でいる」
結愛は俺の布団の中で、胸元へ頬を寄せて眠っている。
腕は俺の腰へ回され、脚まで絡んでいた。
「結愛」
「ん……」
「起きろ」
「あと五分……」
「どうして布団にいる」
「律くんが……寂しそうだったから……」
「寝言でも人のせいにするな」
肩を揺らす。
結愛は薄く目を開け、俺の顔を見た。
「律くん」
「ああ」
「覚えてる」
「そうか」
「よかった」
安心したように笑い、もう一度目を閉じる。
「よくない。起きろ」
「もう少しだけ」
「母さんが来るぞ」
「そのときは、律くんに襲われましたって言う」
「今すぐ追い出すぞ」
「冗談だよ」
結愛はようやく上半身を起こした。
乱れたパジャマの襟元を直しながら、首を傾げる。
「でも、どうして私、布団にいるんだろう?」
「知らん」
「律くんが引きずり下ろしたとか?」
「してない」
「寝ている私を抱き締めたくなって?」
「ない」
「間がなかった。傷つきました」
「朝から面倒くさいな」
言いながらも、結愛は嬉しそうだった。
◇
朝食を終え、制服へ着替える。
玄関で靴を履いていると、結愛が俺のネクタイへ手を伸ばした。
「曲がってる」
「そうか?」
「彼女が直してあげます」
「自分でできる」
「彼女らしいことをしたいの」
結愛が結び目を整える。
顔が近い。
真剣な表情で手を動かしたあと、満足そうに頷いた。
「できました」
「ありがとう」
「いってらっしゃいのキスは?」
「一緒に学校へ行くのに、どこへ送り出すんだ」
「細かいことを気にする男はモテません」
「別にモテなくていい」
「私にも?」
幼い頃と同じ問いだった。
「お前には、もうモテてるだろ」
「……朝から、そういうこと言う?」
「事実だ」
「昨日から律くんが強すぎる」
結愛が赤くなった頬を両手で押さえる。
その様子を見ていた母さんが、呆れたように息を吐いた。
「遅刻するわよ」
「行ってきます!」
「行ってくる」
「二人とも、いってらっしゃい」
母さんは、俺の名前を呼ばなかった。
だが、視線はきちんと俺を捉えている。
今は、それでよかった。
◇
学校へ着くと、教室の空気が少しだけ変わっていた。
「あ、篠宮」
山岸が俺を見る。
「おはよう」
「覚えてるのか?」
「何だよ、その聞き方」
「昨日、俺の名前を忘れてただろ」
「あれは寝ぼけてただけだって。篠宮律だろ?」
「ああ」
俺の机もある。
担任の出席簿にも、名前が戻っていた。
昨夜、栞との縁を取り戻したことで、忘れ花の力が少し弱まったのかもしれない。
胸の花も、今のところ痛まない。
「律くん」
結愛が俺の袖を引く。
「今日も学校にいるね」
「ああ」
「私の隣にいる」
「ああ」
「今日も可愛い?」
「それは俺がいるかどうかと関係ないだろ」
「毎日聞くって約束したもん」
「今日も可愛いよ」
途端に、教室が静かになった。
クラスメイトたちの視線が、俺たちへ集中している。
「篠宮が七瀬を褒めた?」
「今、普通に可愛いって言ったよな?」
「え、何? 二人ってついに付き合ったの?」
結愛が固まる。
「どうした」
「みんなの前で言うとは思わなかった」
「聞いたのはお前だろ」
「そうだけど……」
結愛は恥ずかしそうに頬を染めながら、それでも俺の腕へ抱きついた。
「はい。昨日から、律くんと付き合ってます」
教室が騒然となった。
何人かの男子が机へ突っ伏し、女子たちが一斉に結愛の周囲へ集まる。
「やっぱりそうだったんだ!」
「どっちから告白したの?」
「いつから好きだったの?」
「キスした?」
「最後の質問をした奴は誰だ」
「まだです」
「答えるな」
「でも、予定はあります」
「勝手に予定を組むな」
さらに騒ぎが大きくなる。
結愛は耳まで赤くなりながらも、どこか誇らしそうに笑っていた。
俺たちが恋人になったことを、みんなが知る。
その記憶もまた、俺と世界をつなぐ縁になるのかもしれない。
そう思った、そのときだった。
「失礼します」
教室の入口から、澄んだ声がした。
一年生のリボン。
肩より少し長い艶のある黒髪。大きな青灰色の瞳。小柄だが姿勢がよく、制服には皺一つない。
整った顔立ちには、簡単には近寄らせない静かな雰囲気があった。
その少女は入口で丁寧に頭を下げる。
「二年生の教室へ失礼します。篠宮律先輩はいらっしゃいますか?」
騒いでいたクラスメイトたちが、一斉に俺を見た。
「俺だが」
「知っています」
少女は迷いなく教室へ入ってくる。
俺を見つけた瞬間だけ、その表情が柔らかくなった。
両手には、小さな紙袋を大切そうに抱えている。
「昨日の放課後にも捜したのですが、もう帰られたあとでしたので」
「何か用か?」
「以前のお礼をお渡ししたくて」
「礼?」
少女の眉が、ほんの少し下がる。
「覚えていないんですか?」
「悪い」
「いえ。先輩にとっては、その程度のことだったというだけです」
口調は丁寧だった。
だが、少しだけ拗ねているように聞こえる。
「入学してすぐの頃、旧図書準備室へ閉じ込められていた私を見つけてくださったでしょう?」
その言葉で、記憶が蘇った。
四月。
入学したばかりの一年生が、ほとんど使われていない図書準備室へ閉じ込められたことがあった。
古くなった扉が内側から開かなくなり、スマートフォンも充電が切れていた。
「あのときの一年生か」
「はい」
「確か、小日向だったな」
少女が目を見開いた。
「覚えていたんですか?」
「生徒手帳を拾ったからな」
あの日、昇降口近くに生徒手帳が落ちていた。
一年三組、小日向紬。
職員室へ届けようとしたものの、靴箱には小日向の靴が残ったままだった。
担任へ聞いても、すでに帰宅したはずだと言われた。
靴を履き替えずに帰るはずがない。
念のため校内を捜し回り、旧図書準備室の前まで来たとき、扉の向こうから助けを呼ぶか細い声が聞こえた。
「俺は名前を確認しただけだ」
「それでも、覚えていてくださったんですね」
「ああ」
「……よかった」
少女――小日向紬は、胸元で紙袋を抱き締めた。
整った表情はほとんど変わらない。
だが、耳だけが薄く赤くなっていた。
「律くん」
結愛が俺の腕を強く抱き締める。
「何だ」
「この可愛い後輩は誰?」
「今、本人が名乗っただろ」
「そういう意味じゃありません」
紬の視線が、俺の腕に抱きついている結愛へ向く。
「七瀬先輩ですよね?」
「そうです」
結愛が完璧な笑顔を浮かべる。
「律くんの幼馴染で、昨日から彼女になった七瀬結愛です」
「彼女……?」
紬の表情が止まった。
紙袋を持つ指へ、微かに力が入る。
「はい。彼女です」
結愛が念を押す。
「そう、なんですね」
紬は俺を見る。
「篠宮先輩。本当に七瀬先輩と付き合っているんですか?」
「ああ」
一瞬。
紬の青灰色の瞳から、光が消えたように見えた。
だが、すぐに穏やかな表情へ戻る。
「そうですか」
差し出しかけていた紙袋を、胸元へ引き寄せる。
「それなら、これは――」
持ち帰ろうとした紬の手を、結愛がつかんだ。
「律くんへのお礼なんだよね?」
「そうですが」
「だったら、渡してあげて」
「でも」
「お礼を受け取るくらいで、嫉妬しません」
結愛は笑っている。
「私は律くんの彼女なので、そのくらい余裕があります」
「さっきから腕にしがみついてる奴の台詞か?」
「律くんは黙ってて」
紬はしばらく結愛を見つめた。
やがて、再び紙袋を俺へ差し出す。
「手作りのクッキーです」
「ありがとう」
「十二回作り直しました」
「すごいな」
「味に妥協したくなかっただけです」
紬は淡々と答える。
「先輩のためだけに作ったので、一枚も七瀬先輩へ渡さないでください」
「聞こえてるよ?」
「聞こえるように申し上げました」
結愛の腕に力が入った。
「えっと、腕、痛い」
「余裕があります」
「言葉と行動が一致してないぞ」
「余裕しかありません」
結愛は笑顔を崩さない。
紬も表情を変えない。
教室の温度だけが、急激に下がっていた。
「改めて名乗ります」
紬は胸へ手を添え、小さく頭を下げる。
「一年三組の、小日向紬です」
「小日向」
「紬と呼んでください」
「どうして下の名前?!」
結愛が即座に口を挟む。
「先輩には、名前で呼んでいただきたいので」
「私でも付き合うまで『七瀬』だったんだけど」
「七瀬先輩が何年もかけて進めなかった距離を、私まで守る必要がありますか?」
「この子、清楚な顔で結構言うね?」
「よく言われます」
「言われるんだ……」
紬は再び俺を見る。
「呼んでいただけますか?」
「小日向」
「紬です」
「小日向」
「紬です」
「頑固だな」
「一度決めたことは諦めない性格です」
紬は結愛へ顔を向けた。
二人の笑顔がぶつかる。
「小日向さん」
「七瀬先輩」
「律くんには彼女がいるからね?」
「昨日から、ですよね?」
「そうだけど」
「でも、私は昨日より前から先輩が好きでした」
結愛の笑顔が固まった。
教室中が静まり返る。
「……今、何て?」
「私も篠宮先輩が好きです」
紬は、今度ははっきりと告げた。
頬は赤い。
紙袋を握る指も震えている。
それでも、青灰色の瞳だけは逸らさなかった。
「先輩に彼女ができたからといって、昨日までの気持ちが消えるわけではありません」
「それは……そうかもしれないけど」
「ですから、諦めません」
「待て、小日向」
「紬です」
「今は名前の話をしてない」
紬は俺の言葉を遮るように一歩近づく。
「篠宮先輩」
「何だ」
「今からでも、私を好きになってもらえるように頑張ります」
「俺は結愛と――」
「承知しています」
「だったら」
「七瀬先輩と付き合っていることと、私が先輩を好きなことは、別の問題です」
紬は結愛へ視線を移す。
「七瀬先輩」
「何かな?」
「私、篠宮先輩を奪いますから」
教室の空気が凍りつく。
俺の腕に抱きついたまま、結愛がにっこりと笑った。
「できるものなら、どうぞ?」
「はい。遠慮なく」
「普通は少しくらい遠慮するところだよ?」
「恋愛で遠慮した結果、手遅れになることを今学びました」
紬の声は静かだった。
だが、その一言だけが僅かに震えていた。
「同じ失敗は繰り返しません」
「律くん」
結愛が俺を見上げる。
「何だ」
「浮気したら、忘れ花より先に私が消します」
「怖いことを言うな」
「大丈夫。律くんを消したあと、私も一緒に消えるから」
「もっと怖い」
「篠宮先輩」
今度は紬が俺を見上げる。
「七瀬先輩が先輩を消した場合は、私が必ず見つけます」
「何の宣言だ」
「先輩を見つけるのは、もう七瀬先輩だけの特権ではないという宣言です」
結愛の笑顔が消えた。
紬は一礼し、教室を出ていこうとする。
「小日向」
呼び止めると、その足が止まった。
「クッキー、ありがとう」
「……はい」
「あと、あのとき助けたのは、靴が残ってたからだ。大した意味はない」
「先輩にとっては、そうでしょうね」
紬は振り返らなかった。
「でも、あの日――誰も私がいないことに気づかなかったんです」
静かな声だけが、教室に残る。
「クラスメイトも、担任の先生も、私がもう帰ったと思っていました。家族も、私の帰りが遅いことにまだ気づいていませんでした」
紬の手が、制服のスカートを握る。
「篠宮先輩だけが、私がまだ学校にいることに気づいてくれた」
「小日向……」
「先輩が助けてくれたから、好きになったんじゃありません」
紬はゆっくりと振り返る。
落ち着いた顔。
それなのに、青灰色の瞳には涙が浮かんでいた。
「誰も私がいないことに気づかなかったのに、先輩だけが私を捜してくれたからです」
胸に咲いた忘れ花が、微かに脈打った。
紬はそれ以上何も言わず、教室を出ていく。
その背中を、結愛も黙って見つめていた。
「律くん」
「何だ」
「強敵かもしれない」
「勝負にするな」
「でも、負けないから」
結愛が俺の腕へ、もう一度強く抱きつく。
その背中を見送りながら、俺は胸元へ手を当てた。
忘れ花は、もう静かになっている。
けれど、その根の奥から、誰かの笑い声が聞こえた気がした。
まるで――新しく見つけた孤独を、喜んでいるように。




