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第4話 あの日、姉は川底に花を咲かせた

「あなたの名前が、出てこなかった」


 結愛の手から、力が抜けていく。


 指先が離れかけた瞬間、俺はその手を強く握り直した。


「結愛」


「……なに?」


「俺を見ろ」


 涙に濡れた蜂蜜色の瞳が、俺へ向けられる。


 俺の顔は分かっている。


 声も覚えている。


 俺が幼馴染で、恋人で、大切な人間だということも。


 それなのに、名前だけが見つからない。


「分かるか?」


「私の幼馴染で、彼氏で……世界で一番大切な人」


「名前は?」


「待って。すぐ思い出すから」


 結愛が記憶を探る。


「しの……篠宮……」


 名字までは出てくる。


 だが、その先で見えない何かに阻まれたように、言葉が止まった。


「無理に思い出そうとするな」


「よくない!」


 結愛が俺の手を両手で握る。


「絶対に忘れないって言ったばかりなのに。世界中の人が忘れても、私だけは覚えてるって……それなのに私まで……」


「落ち着け」


「落ち着けるわけないよ!」


 結愛が俺の制服をつかむ。


「あなたを忘れたくない。名前も、声も、顔も、私を見つけてくれたことも、好きだって言ってくれたことも……一つだって忘れたくない!」


 胸に咲いた白い花が脈打つ。


 結愛の記憶まで、食べ始めている。


 けれど、俺が焦れば結愛はもっと怖がる。


 だから、いつもと同じ声で呼びかけた。


「結愛」


「……なに?」


「今日も可愛いよ」


「え……?」


 結愛が目を見開く。


「泣いてるから、いつもより少し不細工だけどな」


「どっちなの?」


「面倒くさいところも、泣き虫なところも含めて可愛いと言ってる」


「褒め方が下手すぎるよ」


「注文が多いな」


「だって、毎日言ってくれるって約束したのに」


「ああ。約束した」


 絡めた指へ力を込める。


「お前が毎朝、『今日の私も可愛い?』って聞く」


 俺たちだけが知っている言葉。


 世界から消えかけた結愛を、俺につなぎ止めていた問いかけ。


「俺が『今日も可愛い』と答える」


 結愛の瞳が揺れる。


「お前が消えそうになったあの日も、最後に聞いただろ」


『今日の私も……可愛かった?』


「俺は、今度こそ毎日答えると決めた」


「……律くん」


 結愛の唇から、俺の名前がこぼれた。


 胸の花が、焼けるように熱くなる。


 開いたばかりの白い花弁が、わずかに震えた。


「今、何て言った?」


「律くん」


 結愛自身も気づき、俺の手を握る指へ力を込める。


「篠宮律。私の幼馴染で、彼氏で、世界で一番大切な人」


「ああ」


「思い出した……」


 結愛の目から、大粒の涙がこぼれた。


「よかった。律くんだ。ちゃんと、律くんだよ……」


 その場へ崩れそうになった身体を、俺は咄嗟に抱き止めた。


「律……?」


 母親の声がした。


 玄関に立ったまま、俺たちを見ている。


 ほんの少し前まで俺を他人のように見ていた瞳に、ようやく見慣れた色が戻り始めていた。


「母さん」


「律なのね」


「ああ」


 母親が恐る恐る近づき、確かめるように俺の頬へ触れる。


「ごめんなさい。ほんの一瞬だけ、本当に分からなくなって……」


「母さんのせいじゃない」


「でも、私はあなたの母親なのに」


「忘れさせられたんだ。母さんが悪いわけじゃない」


 母親の指先は冷たかった。


 まだ混乱しているのだろう。


 その横で、結愛が慌てて俺から離れた。


「ご、ごめんなさい、おばさん。これは、その……律くんを思い出すために必要な抱擁で」


「説明するほど怪しくなるぞ」


「律くんは黙ってて!」


 母親は戸惑いながらも、少しだけ笑った。


「とりあえず、二人とも上がりなさい。玄関で話すことじゃないでしょう」


     ◇


 リビングのソファへ座る。


 母親は俺の顔を何度も確認しながら、温かい紅茶を用意してくれた。


「篠宮律。十月十三日生まれ」


 カップを置きながら、母親が一つずつ口にする。


「好き嫌いは少ないけど、椎茸だけは昔から苦手」


「今は食える」


「小さい頃は雷が鳴るたび、私の布団へ潜り込んできた」


「その話はもういい」


「もう?」


「いや、何でもない」


 同じ記憶を、栞も話していた。


 もともと姉さんの部屋へ逃げ込んでいた記憶が、栞の消失後に母さんとの思い出へ置き換えられたのかもしれない。


「母さん」


「なに?」


「俺には、本当は姉がいたって言ったら、どう思う?」


母さんは困惑の表情を浮かべる。


「お姉さん?」


「篠宮栞。十五歳のとき、川で俺と結愛を助けて消えた」


 母親の瞳が揺れる。


「栞……」


 その名前を口にした直後、母親の顔が苦痛に歪んだ。


「母さん?」


「分からない。知らない名前のはずなのに……胸が苦しい」


 母親が胸元を押さえる。


「長い黒髪の女の子が、笑っているような……」


「思い出せるのか?」


「ごめんなさい。これ以上は、何も……」


 記憶は戻らなかった。


 けれど、完全に失われたわけでもない。


 栞の名前に、母さんの心が反応した。


 切れた縁は、まだどこかに残っている。


     ◇


「今日は二人とも、もう休みなさい」


 母さんが疲れたように息を吐く。


「夕食は温め直しておくから」


「俺たち、少し調べたいことがある」


「それなら律の部屋でしなさい。何か思い出したら、私にも教えて」


「ああ」


 立ち上がった俺を、母親が呼び止める。


「律」


「何だ?」


「ちゃんと、帰ってきたね」


 母親は自分の言葉に戸惑ったようだった。


 それでも俺は頷く。


「ああ。ただいま、母さん」


「……お帰り、律」


     ◇


 俺の部屋へ入った途端、結愛が扉を閉めた。


 振り返ると、真剣な表情で俺を見ている。


「律くん」


「何だ」


「もう一回、名前を呼んで」


「結愛」


「可愛いって言って」


「今日も可愛い」


「好きって言って」


「調子に乗るな」


「可愛い彼女に、その態度はどうなの?」


「名前を思い出した途端、元気になったな」


「元気にしてないと怖いの」


 結愛の笑顔が、少しだけ揺れる。


「また、律くんの名前が見つからなくなるかもしれない。次は顔も分からなくなるかもしれない」


「結愛」


「だから……今のうちに、ちゃんと覚え直したい」


 結愛が俺の胸へ飛び込んでくる。


 今度は母親の目もない。


 俺はその身体を受け止め、背中へ腕を回した。


「これで思い出せるのか?」


「律くんの体温とか、匂いとか、腕の感触とか。身体で覚えておけば、次に忘れかけても思い出せるかもしれない」


「言い方を考えろ」


「あ。今、もしかして、変なこと考えた?」


「考えてない」


「間があったよ〜?」


 結愛が俺の胸へ耳を当てる。


「心臓、速いね」


「お前がくっついてるからだ」


「私のせい?」


「分かってて聞いてるだろ」


「律くんをドキドキさせられるなら、もし律くんから忘れられても、何度でも好きになってもらえそう」


「俺が忘れる前提で話すな」


「私は、律くんのこと、絶対に忘れない」


 結愛が俺の背中へ回した腕に力を込める。


「世界中の人が律くんを忘れても、私だけは何度でも思い出す」


「......それでいい」


「もう少し強く抱き締めて」


「これ以上か?」


「記憶に残るくらい」


「痛くても知らないぞ」


「律くんになら、少しくらい痛くされても――」


「言い方を考えろと言っただろ」


「ふふっ」


 ようやく、結愛が自然に笑った。


 しばらくそのままでいると、胸に咲いた花の痛みが少しずつ弱まっていく。


「結愛」


「なに?」


「ちょっと離れて」


「嫌です」


「花を確認する」


「服を脱がせてあげようか?」


「自分でやるから」


「冷たい彼氏だなあ」


 結愛が渋々腕を解く。


 制服の襟元を開いて胸を見ると、一度開いた花弁が、ほんのわずかに閉じていた。


「やっぱり」


 結愛も覗き込む。


「顔が近い」


「恋人なので許してください」


「便利に使うな」


「何をしたら閉じたんだろう」


「名前を思い出したときだ」


 昼休みに作ったノートを、結愛が鞄から取り出す。


 そこには俺の名前や誕生日、身長、性格が書かれている。


「でも、これを読んだときは何も起きなかった」


「事実を知るだけじゃ足りないんだろう」


「二人だけの思い出?」


「ああ。俺がお前に『今日も可愛い』と言って、お前が俺の名前を思い出した」


 情報ではなく、相手と過ごした時間。


 言葉に結びついた感情。


 それが、食べられかけた縁を結び直した。


「つまり」


 結愛が真剣な顔で俺を見る。


「たくさんイチャイチャすればするほど、律くんを忘れにくくなる?」


「どうしてそうなる」


「恋人同士の大切な思い出を増やすんでしょ?」


「間違ってはいないが、何か違う」


「じゃあ、今夜から同じ部屋で寝よう」


「却下だ」


「一緒にお風呂は?」


「もっと却下だ」


「キスは?」


「実験に使うものじゃない」


「実験じゃなくて、彼女からの要望です」


「どちらにしても却下だ」


「手をつなぐのは?」


「それくらいならいい」


「抱き締めるのは?」


「必要なら」


「可愛いって言うのは?」


「それは毎日言う」


 結愛が指を折りながら確認する。


「毎朝一緒に登校して、お昼も一緒に食べて、放課後は必ず一緒に帰る」


「今までと変わらないな」


「これまでは幼馴染として。これからは恋人としてです」


「違いは何だ」


「手をつないでも怒られない」


「前から勝手につかんでただろ」


「腕に抱きつける」


「それもやってた」


「……私たち、付き合う前から結構イチャイチャしてた?」


「今さら気づいたのか」


 結愛は頬を赤くした。


「律くんも、ずっと私のことが好きだった?」


「川へ行く準備をするぞ」


「あ、逃げた」


「姉さんが、答えは川にあると言ってただろ」


「帰ってきたら、ちゃんと答えてね」


 結愛が俺の手を取る。


「忘れないから」


     ◇


 俺たちは、その日のうちに河川敷へ向かうことにした。


 明日まで待つ間に、もう一枚花弁が開かないとも限らない。


 玄関へ降りると、母親が俺たちを待っていた。


「今から出るの?」


「ああ。ちょっとコンビニに行ってくる」


「もう暗いわよ」


「分かってる。すぐに戻ってくるから」


 母親は心配そうに俺を見つめた。


 今度は、俺のことが分かっている。


 故に、漠然とした不安感を抱えているようだった。


「無茶はしないでね。結愛ちゃんも、律をお願い」


「はい。絶対に連れて帰ります」


「俺、徘徊する人みたいになってないか?」


「今の律くんは、放っておくと消えちゃう要介護彼氏なので」


「勝手に介護するな」


「帰ってきたら、ちゃんと連絡して」


「ああ」


 玄関を出る直前、母親がもう一度俺の名前を呼んだ。


「律」


 振り返る。


「いってらっしゃい」


「いってきます」


 それだけのやり取りが、今は何よりも大切だった。


     ◇


 夜の住宅街を、結愛と並んで歩く。


 最初は普通に手をつないでいたが、しばらくすると結愛が指を絡めてきた。


「何してる」


「恋人つなぎ」


「見れば分かる」


「普通のつなぎ方より、思い出に残りそうだから」


「本当にそれが理由か?」


「半分くらい」


「残りは?」


「律くんとくっつきたいから」


「正直だな」


「今さら隠しても仕方ないでしょ?」


 結愛が俺の腕へ身体を寄せる。


「こうしてれば、律くんがちゃんと隣にいるって分かるから」


「結愛」


「なに?」


「俺のこと、覚えてるか?」


「篠宮律。十月十三日生まれ。身長百七十八センチ」


「ノートに書いた内容だな」


「顔が怖くて、口数が少なくて、愛想も悪い」


「悪口を覚えるな」


「でも、本当は優しい。困っている人を放っておけなくて、世界中の人が忘れても私を見つけてくれた」


 結愛がつないだ手を、自分の頬へ添える。


「私が、世界で一番好きな人」


「外で言うな」


「恥ずかしい?」


「ああ」


「でも、否定はしないんだ?」


「否定したら、お前が面倒くさい」


「否定されない方が、もっと面倒くさくなるよ」


 結愛が楽しそうに笑う。


「覚悟してください、彼氏くん」


     ◇


 河川敷へ着いた頃には、辺りは完全に暗くなっていた。


 街灯の光も届かない川面を、月明かりだけが照らしている。


 昼間までの暑さが嘘のように、川から冷たい風が吹いていた。


「あの日も、ここだったのかな」


「たぶんな」


 幼い頃、結愛が流された川。


 俺たちの記憶では、増水した流れの中で木の枝へつかまり、救助を待ったことになっている。


 だが、本当は違う。


 栞が、俺たちを助けた。


「律くん」


「何だ」


「名前を呼んで」


「結愛」


「もう一回」


「結愛」


「可愛い?」


「今日も可愛い」


「好き?」


「……好きだ」


 結愛が固まった。


「自分から聞いたんだろ」


「そうだけど、普通に言われると心臓が止まりそうになるの」


「止まるなよ」


「もう一回言って」


「調子に乗るな」


「一回でいいから」


「さっき言った」


「二回目の方が、もっと強い思い出になるかもしれない」


「帰ったらな」


「約束?」


「ああ」


「じゃあ、絶対に帰らなきゃ駄目だね」


 結愛が笑う。


 怖がっている。


 それでも、俺の前ではいつもの自分でいようとしていた。


「二人で帰るぞ」


「うん」


 川沿いを歩く。


 しばらく進むと、結愛の髪につけた白い花のヘアピンが淡く光り始めた。


「あ……」


 結愛が髪へ触れる。


 月明かりを反射しているのではない。


 花そのものが、内側から白い光を放っている。


 同時に、河原の至るところから小さな光が浮かび上がった。


 白い花。


 一輪。


 また一輪。


 見渡す限りの河原を埋め尽くすように、無数の花が咲いていく。


「昼間は、こんな花なかったよね」


「ああ」


 風が吹く。


 白い花々が一斉に揺れ、囁くような音を立てた。


『忘れて』


『見つけないで』


『もう、名前を呼ばないで』


 無数の声が重なる。


 男。


 女。


 老人。


 子供。


 世界から忘れられた人間たちの声。


 結愛が俺の腕へしがみつく。


「聞こえる?」


「ああ」


「この中に、栞お姉さんもいるのかな」


「探す」


 花畑の中へ足を踏み入れる。


 一歩進むたび、胸の花が強く痛んだ。


 白い根が心臓の奥へ食い込み、引き戻そうとしている。


「律くん!」


「大丈夫だ」


「全然大丈夫そうに見えないよ」


「止まったら、姉さんを見つけられない」


「だったら、私につかまって」


 結愛が俺の腕を自分の肩へ回す。


「小さいから支えられないぞ」


「百五十四センチあります」


「小さいだろ」


「平均身長から三センチしか差はありません!」


「今する話か?」


「......いつもの話をしてないと、怖いから」


 結愛は震えていた。


 それでも、俺を支える腕には必死に力を込めている。


 髪のヘアピンが強く輝く。


 花畑の奥。


 川辺に咲く一輪の白い花が、他の花よりも大きく揺れた。


「あれ……」


 結愛が指さす。


 近づくほど、頭の奥に冷たい水の感触が蘇った。


 幼い俺の叫び声。


 結愛の泣き声。


 そして、名前を呼ぶ少女の声。


『律!』


 結愛が白い花へ手を伸ばす。


「待て」


「この花から、栞お姉さんの声が聞こえる」


 指先が、花弁へ触れた。


 世界が反転した。


     ◇


 激しい雨が降っていた。


 灰色の空。


 増水した川。


 今よりも古い遊歩道を、小さな子供が二人走っている。


 幼い頃の俺と結愛だった。


『待ってよ、律くん!』


『遅いぞ、結愛』


『女の子を置いていく男の子は、モテないんだから!』


『別にモテなくていい』


『私にも?』


『何で結愛にモテるんだよ』


『もう、律くんの馬鹿!』


 幼い結愛が頬を膨らませる。


 今とほとんど変わらない。


「私、昔から同じこと言ってる」


「成長してないな」


「律くんだって、昔から鈍感」


「今は違うだろ」


「それは、まあ……かなり成長しました」


 結愛が照れたように俺の手を握る。


 過去の二人は、川沿いの道を進んでいく。


 少し離れた場所から、黒髪の少女が追いかけてきた。


 古い中学校の制服。


 十五歳の栞だった。


『二人とも、川に近づいたら駄目!』


『姉さん、遅い』


『律が勝手に走っていくからでしょう』


 栞は俺の頭を軽く叩き、結愛へ手を差し出す。


『結愛ちゃん、大丈夫?』


『平気です』


『無理しなくていいの。律は昔から加減を知らないから』


『姉さんはどっちの味方なんだよ』


『可愛い女の子の味方』


『じゃあ、今の私は可愛いですか?』


『もちろん。世界で一番可愛いよ』


 幼い結愛が嬉しそうに笑った。


 今の結愛が、隣で息を呑む。


「この言葉……」


「覚えてるのか?」


「分からない。でも、聞いたことがある気がする」


 栞が結愛の乱れた髪を整える。


『律はね、結愛ちゃんが一緒にいるときだけ、よく笑うの』


『俺はいつも笑ってる』


『その顔で言っても説得力ないよ』


 栞に笑われ、幼い俺が不満そうに顔を背ける。


『だから結愛ちゃん。これからも律のそばにいてあげてね』


『はい!』


『勝手に決めるなよ』


『律くんは、私がそばにいるの嫌?』


『別に……嫌じゃない』


 幼い結愛が、分かりやすく嬉しそうな顔をする。


『栞お姉ちゃんも、ずっと一緒ですよね?』


『もちろん』


 栞が二人の頭へ手を置く。


『二人が大きくなるまで、お姉ちゃんがちゃんと見てるよ』


 その言葉に、今の俺の胸が痛んだ。


 栞は約束を果たせなかった。


 いや。


 俺たちを守るために、自分から未来を手放した。


 栞は髪に留めていた白い花飾りを外し、幼い結愛の右側へ留めた。


『これ、結愛ちゃんにあげる』


『いいんですか?』


『うん。大切な人を見失わないためのお守り』


『大切な人……』


 結愛が幼い俺を見る。


『じゃあ、ずっとつけます』


『ふふ。律は幸せ者だね』


『何の話だよ』


『いつか分かるよ』


 これが、結愛のヘアピンだった。


 栞から受け取った記憶さえ、俺たちは失っていた。


 雨が強くなる。


 栞が帰ろうと二人を促した、そのときだった。


『あ……』


 幼い結愛が、川辺に咲く白い花を見つける。


『あの花、ヘアピンと同じ』


『結愛、危ないぞ』


『一個だけ取ってくる』


 結愛が濡れた斜面へ足を踏み出す。


 泥に靴を取られ、小さな身体が傾いた。


『結愛!』


 俺が手を伸ばす。


 結愛の腕をつかんだ直後、俺まで川へ引きずり込まれた。


 濁流が二人を呑み込む。


『律! 結愛ちゃん!』


 栞が迷わず川へ飛び込んだ。


 結愛の身体を抱き上げ、もう片方の手で俺の腕をつかむ。


 必死に岸へ向かって泳ぐ。


 だが、十五歳の少女が二人の子供を抱えて、増水した流れに逆らえるはずがない。


 栞は何度も水を飲んだ。


 岸へ近づいても、次の流れに押し戻される。


『姉さん……!』


『喋らないで! 絶対に離さないから!』


 栞が川底へ足を伸ばす。


 届かない。


 流されながら、片手で岸から垂れた枝をつかんだ。


 身体が激しく揺れる。


 腕一本に、三人分の重さがかかっていた。


『誰か!』


 栞が叫ぶ。


『誰か、助けて!』


 雨音と濁流に、声が呑まれる。


 周囲には誰もいない。


 枝が軋み、少しずつ裂けていく。


 栞の腕からも力が失われていた。


 右手で俺をつかみ、左腕で結愛を抱えている。


 どちらかを離せば、一人だけなら岸へ上げられるかもしれない。


 その考えが、栞の顔を歪ませた。


『姉さん』


 幼い俺にも、状況が分かったのだろう。


『俺はいいから、結愛を助けて』


『駄目!』


 今度は結愛が泣きながら首を横へ振る。


『律くんを助けて! 私はいいから!』


『二人とも黙って!』


 栞が叫ぶ。


『どっちも離さない! 絶対に、二人とも連れて帰るから!』


 枝に亀裂が走った。


 幼い結愛は、水を飲んで咳き込む。


 俺の瞼も、少しずつ閉じかけていた。


 栞が何度呼びかけても、二人の返事が弱くなっていく。


『嫌……』


 初めて、栞の声に恐怖が滲んだ。


『律。結愛ちゃん。目を開けて』


 腕の力はもう残っていない。


 枝も、あと少しで折れる。


『お願い。誰か……二人を助けて』


 その足元。


 水面下で、白い花が開いた。


 川底に根を張った花から、何本もの白い蔓が伸び、栞の脚へ絡みつく。


『二人を助けたい?』


 男とも女とも分からない声が、栞の頭へ直接響いた。


『助けて』


『代わりに、あなたの縁をもらう』


『縁……?』


『家族も、友達も、この二人も。あなたを知るすべての人が、あなたを忘れる』


 栞の顔から血の気が引いた。


『私が消えれば、二人は助かるの?』


『二人は岸へ戻る』


『私は、どうなるの?』


『世界の外へ落ちる』


『死ぬってこと?』


『誰にも見つけてもらえなくなる』


 栞は息を呑んだ。


 すぐには答えなかった。


 答えられなかった。


『嫌……』


 掠れた声がこぼれる。


『嫌だよ』


 栞は幼い俺の顔を見た。


『律に忘れられたくない』


 涙が雨へ混じる。


『お母さんにも、お父さんにも、友達にも。私がいたことを、なかったことにされたくない』


 白い蔓が、栞の脚を締め上げる。


『なら、どちらか一人を選ぶ?』


『選べない』


『何も差し出さなければ、三人とも流される』


 枝が大きく軋んだ。


 幼い結愛の瞼が閉じる。


『結愛ちゃん!』


 返事がない。


 幼い俺も、栞の手を握る力を失っていく。


『律、目を開けて!』


『姉……さん……』


 俺は最後の力で、栞の指を握った。


『三人で……帰ろう』


 その言葉を聞いた瞬間、栞の表情が崩れた。


『ごめんね』


 栞が泣きながら笑う。


『お姉ちゃん、約束を守れない』


 腕の中にいる二人を、交互に見る。


 まだ小さい弟。


 その弟が、何より大切にしている女の子。


 自分が守ると決めた二人。


『……二人とも助けて』


『対価を受け入れる?』


 栞は震えていた。


 怖くないはずがない。


 死ぬよりも恐ろしい形で、世界から消される。


 家族にさえ忘れられる。


 それでも、栞は二人の身体を抱き寄せた。


『受け入れる』


『弟は、あなたを忘れる』


『それでもいい』


『母親も、あなたを産んだことを忘れる』


『……それでもいい』


『あなたがいた証拠は、何一つ残らない』


 栞の唇が震える。


『それでも――二人を生きて帰して』


 白い蔓が、栞の全身へ巻きつく。


 身体が、少しずつ光の粒へ変わっていく。


『姉さん……』


『律』


 栞が幼い俺の頬を撫でる。


『結愛ちゃんを大切にするんだよ』


『嫌だ……姉さんも、一緒に……』


『結愛ちゃん』


 栞は、意識を失いかけた結愛の頬にも触れた。


『律は強がりだけど、本当は寂しがり屋だから。ずっとそばにいてあげて』


『しおり、おねえちゃん……』


『うん』


 結愛の白い花のヘアピンへ、そっと触れる。


『大きくなったら、二人はどんな関係になるのかな』


『わたし……律くんの、およめさんに……』


『そっか』


 栞は安心したように目を細めた。


『それなら、よかった』


 白い光が、三人を包む。


『二人とも、私を忘れて』


 栞が最後の力で、俺たちを岸へ押し出した。


『忘れて、幸せになって』


『嫌だ! 忘れない!』


『大丈夫』


 栞の手が離れる。


『いつか、律なら見つけてくれるから』


 白い花弁が舞い上がった。


 増水した川を覆い尽くし、視界が真っ白に染まる。


 光が消えたとき、岸辺には幼い俺と結愛だけが倒れていた。


 栞の姿は、どこにもなかった。


     ◇


 夜の河川敷へ戻っていた。


 結愛が、その場へ膝をつく。


「栞お姉ちゃん……」


 涙が次々と頬を伝う。


「思い出したのか?」


「うん。全部じゃないけど……栞お姉ちゃんが、私の髪を結んでくれたこと。律くんと喧嘩したとき、仲直りさせてくれたこと」


 白い花のヘアピンへ触れる。


「これをくれたのも、栞お姉ちゃんだった」


 結愛は川面へ向かい、声を張り上げる。


「栞お姉ちゃん!」


 無数の白い花が揺れる。


「忘れてて、ごめんなさい!」


 結愛が胸元を押さえる。


「私、律くんのお嫁さんになりたいって、あの日言ったんだね」


「そこまで思い出したのか」


「うん」


「それは忘れていいぞ」


「絶対に忘れません」


「何歳の話だ」


「昔から一途だった証拠です」


 涙を流しながら、それでも結愛は少し笑った。


「約束どおり、律くんのそばにいる。栞お姉ちゃんが守ってくれた律くんを、今度は私が守る」


 胸の花が強く光る。


 開いていた一枚の花弁が、ゆっくりと動いた。


 完全ではない。


 けれど、確かに先ほどより閉じていく。


「律くん!」


「ああ。姉さんとの縁が戻ったんだ」


 結愛が栞を思い出したことで、失われた縁が一本結び直された。


 栞は死んだのではない。


 俺たちを助ける代わりに、世界との縁を奪われた。


 今も、世界の外側にいる。


「助けられる」


「うん」


「姉さんを見つけて、連れ戻せる」


「二人で助けよう」


 結愛が立ち上がり、俺の隣へ並ぶ。


「栞お姉ちゃんに、ちゃんと報告しなきゃ」


「何を」


「律くんの彼女になりましたって」


「見れば分かるだろ」


「それから、将来はお嫁さんになる予定ですって」


「予定に入れるな」


「違うの?」


「今する話じゃない」


「また逃げた」


 結愛が俺の手を握る。


「でも、逃がさないから」


「分かったから、今は――」


 言葉が止まる。


 川面に映る月が、歪んでいた。


 波ではない。


 透明だった水が、底から墨を流したように黒く染まっていく。


 無数の白い花が、一斉に川へ向かって頭を垂れた。


 水の底に、人影が見える。


 一人ではない。


 制服を着た少年。


 白いワンピースの少女。


 スーツ姿の男。


 赤ん坊を抱いた女。


 数え切れないほどの人間が、川底に立っていた。


 全員が目を閉じている。


 誰からも忘れられ、世界の外側へ落ちた人々。


 その中央に、長い黒髪の少女がいた。


「姉さん!」


 栞が水の底から俺たちを見上げる。


 青白い手を、こちらへ伸ばす。


 その目が開いた。


『律』


 水の中にいるはずの栞の声が、耳元で聞こえた。


『私を思い出してくれたんだね』


「ああ! 待ってろ、必ず助ける!」


 俺が川へ近づこうとすると、結愛が腕をつかんだ。


「駄目!」


 次の瞬間。


 川底にいた人々が、一斉に目を開いた。


 何十。


 何百。


 見えないはずの暗闇から、無数の瞳が俺だけを見つめている。


 助けを求めるように、すべての手が伸ばされた。


『見つけて』


『私を思い出して』


『ここから出して』


 声が重なる。


 胸の忘れ花が激しく脈打った。


 白い根が皮膚の下を這い、川へ向かって伸びようとする。


「律くん!」


 結愛が俺の身体を抱き締める。


 意識が引き込まれる寸前、栞の声が聞こえた。


『律、全員を助けようとしないで』


「どうしてだ!」


 川底の栞が、悲しそうに首を横へ振る。


『この中にいるのは、奪われた人だけじゃない』


 栞の背後。


 暗闇の中で、誰かが笑った。


『自分から世界との縁を切って、消えることを望んだ人もいるから』


 白い花々が、一斉に開いた。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます!


律と結愛の物語を「面白かった」「結愛が可愛かった」と感じていただけましたら、★やフォローで応援していただけると嬉しいです!


ちょっとホラー感ある展開が続きましたが、次話からはラブコメに戻りますので、ラブコメ成分不足中の方、お待たせいたしました!


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