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第3話 忘れ花は、姉の声で咲く


「今度は、あなたが消される番だよ」


 濡れた黒髪の少女が、俺の胸に咲いた白い蕾をなぞる。


「どういう意味だ」


「そのままの意味」


「俺も結愛みたいに、みんなから忘れられるのか?」


「うん」


「どうして」


「結愛ちゃんを連れ戻したから」


 少女は、あまりにも静かに告げた。


「結愛ちゃんを世界へ連れ戻したとき、律は世界の外側に触れた」


「世界の外側?」


「一度消された人間が行く場所。この世界の誰からも見つけてもらえなくなった人が、最後に落ちる場所」


 少女の指先が、胸の蕾をなぞる。


 心臓へ冷たいものが染み込んでいく。


「本来、生きている人間が触れてはいけない場所だよ。そこへ手を伸ばしたから、忘れ花に見つかったの」


「忘れ花……?」


「あの花は――」


「律くん?」


 背後から結愛の声が聞こえた。


 客間の扉が開き、桃色のパジャマを着た結愛が顔を出す。


「どうしたの? 誰かと話してた?」


「結愛、来るな」


「え?」


 結愛は俺の隣まで来ると、不思議そうに廊下を見渡した。


「誰もいないよ?」


「そこにいるだろ」


 俺の目の前。


 手を伸ばせば触れられる距離に、少女は立っている。


 長い黒髪から絶えず水滴を落とし、濡れたセーラー服を肌へ張りつかせている。


 しかし結愛の視線は、少女を素通りした。


「どこ?」


「俺の前だ」


「……本当に?」


「ああ」


 結愛の顔から眠気が消える。


 少女のいるはずの場所へ視線を向けたまま、俺の腕へしがみついた。


「律くんにしか、見えないの?」


「みたいだな」


「怖がらせようとしてる?」


「こんな時間に、そんな冗談を言うか」


「じゃあ……」


 結愛が息を呑む。


 少女は、そんな結愛を懐かしそうに見つめていた。


「結愛ちゃんは、まだ私を思い出せないんだね」


「お前、結愛を知ってるのか?」


「知ってるよ」


 少女が微笑む。


「小さい頃の結愛ちゃんは、泣き虫で、いつも律の後ろに隠れてた」


「どうしてそれを……」


「二人のことを、ずっと見てたから」


 少女が結愛へ手を伸ばす。


 俺は咄嗟に、その手首をつかもうとした。


 しかし指先が冷たい水の中へ沈むように、少女の身体をすり抜ける。


 同時に、胸が強く脈打った。


「っ……!」


「律くん!」


 胸を押さえて膝をつく。


 結愛が俺の身体を支えた。


「どうしたの? 胸が痛いの?」


「花が……」


「花?」


 結愛がパジャマの襟元へ手をかける。


「見せて」


「おい」


「今は恥ずかしがってる場合じゃないでしょ!」


 襟を引かれ、胸元が露わになる。


 心臓の真上に、小さな白い蕾が浮かんでいた。


 皮膚の上に載っているのではない。


 細い根のようなものが皮膚の下へ伸び、血管と絡み合っている。


「何……これ」


 結愛の指が、蕾へ触れる。


 その瞬間。


「――っ!」


 結愛が弾かれたように顔を上げた。


 少女の姿とともに、それまで交わされていた言葉が、記憶のように結愛の中へ流れ込んでいく。


 蜂蜜色の瞳が、少女のいる場所を捉えた。


「見えるのか?」


「……女の子」


 結愛の顔が青ざめる。


「髪も、制服も濡れてる。写真に写ってた子……?」


「そうだ」


 結愛は俺の前へ出た。


 震えているくせに、両腕を広げて俺を庇う。


「律くんに何をしたの?」


 少女は答えなかった。


 ただ、結愛を見つめている。


「答えて」


「強くなったね、結愛ちゃん」


「私を知ってるの?」


「うん」


 少女の表情が、わずかに歪んだ。


「あなたを助けたことは、後悔してないよ」


「助けた……?」


「だから、今度こそ律を助けてあげて」


 廊下の照明が明滅する。


 一度。


 二度。


 三度目に光が戻ったとき、少女の姿は消えていた。


 残っているのは、濡れた足跡と白い花弁だけ。


「待て!」


 廊下の奥へ走る。


 しかし、どこにも少女の姿はない。


 水に濡れていた床も、白い花弁も、俺たちが見ている前で少しずつ薄くなっていく。


 やがて、最初から何もなかったように消えた。


「律くん」


 結愛が、俺の胸に咲いた蕾へ目を落とす。


「今の子、律くんが消えるって言ってたよね」


「ああ」


「私を連れ戻したとき、律くんが世界の外側に触れたって」


「聞こえてたのか」


「花に触った瞬間、あの子が話してたことが頭の中に流れ込んできたの。でも、今はもう姿も見えないし、声も聞こえない」


 結愛が唇を噛む。


「私のせいだ」


「違う」


「でも、私を助けたから律くんが忘れ花に見つかったんでしょ?」


「助けると決めたのは俺だ」


「だからって――」


「お前のせいにはならない」


「じゃあ、誰のせいなの?」


「それを調べる」


 胸の蕾をつかむ。


 引き抜こうと力を込めた瞬間、心臓を直接握り潰されたような痛みが走った。


「ぐっ……!」


「何してるの!」


 結愛が慌てて俺の手をつかむ。


「無理に取ろうとしちゃ駄目!」


「このままにしておけるか」


「律くんが死んじゃったら、もっと駄目でしょ!」


 結愛が俺の手を胸元から引き離す。


 それから、白い蕾へ恐る恐る耳を近づけた。


「何してる」


「音を聞いてるの」


「花だぞ」


「律くんの心臓とつながってるなら、何か聞こえるかもしれない」


 柔らかな髪が胸へ触れる。


 状況が状況でなければ、落ち着いてはいられなかっただろう。


「何か聞こえるか?」


「心臓の音」


「それはそうだろ」


「ちょっと速いね」


「お前が耳を当ててるからだ」


「私のせい?」


 結愛が少しだけ顔を上げる。


「ドキドキしてる?」


「今はそれどころじゃない」


「少しはしてるんだ」


「話を戻せ」


「はーい」


 結愛がもう一度耳を当てる。


 しばらく目を閉じていたが、やがて表情が強張った。


「聞こえる」


「何が」


「女の子の声」


 結愛の指が、俺の服を強くつかむ。


「何て言ってる?」


「忘れて、って」


「忘れて?」


「私のことは、全部忘れてって……何度も繰り返してる」


 先ほどの少女の声だろう。


 知っているはずなのに、思い出せない少女。


 俺と結愛を助けたと言った少女。


「律くん」


 結愛が胸元から顔を離す。


「絶対に、助けるから」


「結愛」


「今度は私の番、でしょ?」


 無理に笑おうとする。


 だが、その目には涙が浮かんでいた。


「律くんは、みんなが私を忘れても、最後まで覚えていてくれた。だから私も、律くんを忘れない」


「まだ、誰にも忘れられてない」


「これからもだよ」


 結愛が俺の手を両手で包む。


「世界中の人が律くんを忘れても、私だけは絶対に忘れない」


     ◇


 朝。


 ほとんど眠れないまま、月曜日を迎えた。


 洗面所の鏡で確認しても、胸の白い蕾は消えていない。


 昨夜より少しだけ膨らんでいるようにも見えた。


「律、結愛ちゃん。朝ご飯できてるわよ」


 階下から母親の声が聞こえる。


 まだ俺のことを覚えている。


 その事実に安堵した自分が怖かった。


「律くん」


 部屋を出ると、結愛が待っていた。


 制服を着て、右側の髪には白い花のヘアピンを留めている。


「どう?」


「何が」


「今日の私」


「可愛いよ」


「……やっぱり、慣れない」


 結愛が耳まで赤くなる。


「自分で聞いたんだろ」


「うん。でも、律くんが普通に答えてくれるたび、胸が苦しくなる」


「病院へ行くか?」


「恋の病はお医者さんにも治せません」


「朝から元気だな」


「元気にしてないと、怖くなるから」


 結愛の笑顔が、一瞬だけ揺らぐ。


 俺はその頭を軽く撫でた。


「学校へ行くぞ」


「子供扱いしないでよ」


「嫌だったか?」


「……もう一回くらいなら許す」


「行くぞ」


「冷たい彼氏だなあ」


 言いながらも、結愛は俺の隣にぴったり並んだ。


     ◇


 学校へ着くまでは、何も起きなかった。


 母親は俺の弁当も用意していた。


 近所の人間も、俺を見て普段どおり挨拶した。


 蕾のことも、深夜の少女も、悪い夢だったのではないか。


 そんな考えが頭をよぎる。


 教室へ入った瞬間、山岸がこちらを見た。


「おはよう、七瀬」


「おはよ、山岸くん」


 結愛が返事をする。


 山岸の視線が、俺へ向けられる。


 眉を寄せ、何かを思い出そうとするように首を傾げた。


「えっと……」


「何だ」


「お前……」


 数秒の沈黙。


 山岸の顔が青ざめる。


「悪い。名前、何だっけ?」


 胸の白い蕾が、微かに脈打った。


「篠宮だ」


「篠宮……」


 山岸が何度か繰り返す。


 やがて、霧が晴れたように目を見開いた。


「篠宮! そうだよ、篠宮だ。何で忘れてたんだ、俺」


「寝ぼけてるんじゃない?」


 結愛は明るく言ったが、机の下で俺の手を握っていた。


 指先が冷たい。


「朝から気味の悪い冗談はやめろ」


「本当に悪い。顔は分かってたんだけど、名前だけ急に出てこなくて」


 山岸は頭を掻き、自分の席へ戻った。


「始まってる」


 結愛が小声で呟く。


「ああ」


 ホームルームの時間。


 担任が出席簿を開く。


「相沢」


「はい」


「井上」


「はい」


 名前が順番に呼ばれていく。


「篠宮」


「はい」


 返事をする。


 担任は一度、俺の顔を見た。


 そのまま次の名前を呼ぼうとして、手を止める。


「……おかしいな」


「どうしたんですか?」


 生徒の一人が尋ねる。


「篠宮。出席簿にお前の名前がない」


 教室が騒めいた。


「そんなわけないでしょう」


「俺もそう思うんだが……」


 担任が出席簿をこちらへ向ける。


 六番の次は、八番。


 俺の名前があったはずの場所だけ、不自然に空いていた。


 以前、結愛の名前が消えていたときと同じだ。


「先生、昨日まではありましたよね?」


 結愛が席を立つ。


「ああ。もちろんだ。篠宮は入学したときから、このクラスの――」


 担任の言葉が途中で止まった。


「先生?」


「いや」


 担任は俺の顔を見つめる。


「本当に、そうだったか?」


 胸の奥が冷える。


「何言ってるんですか。律くんはずっとこのクラスにいました」


「律くん?」


「篠宮律です!」


 結愛が叫ぶ。


 教室中の視線が集まった。


 担任はしばらく戸惑っていたが、やがて額へ手を当てる。


「そうだな。悪い、どうかしていた」


 俺の名前を出席簿の余白へ書き足す。


 しかし、書かれた文字は見る間に薄くなった。


 数秒後には、完全に消えていた。


     ◇


 昼休み。


 結愛は購買でノートと油性ペンを買ってきた。


「何するんだ」


「律くんのことを書く」


 俺の机へノートを広げ、表紙へ大きく記す。


『篠宮律について』


「本人の目の前で書く必要あるか?」


「忘れてからじゃ遅いでしょ」


「縁起でもない」


「縁起の問題じゃないよ」


 結愛は真剣な表情で、最初のページを開いた。


『篠宮律。高校二年生。誕生日は十月十三日』


「誕生日、合ってる?」


「ああ」


『身長は百七十八センチ。顔が怖い。口数が少ない。愛想も悪い』


「悪口を書くな」


「事実です」


『でも、本当は優しい。困っている人を放っておけない。幼馴染が世界から消えても、最後まで覚えていてくれた』


 結愛のペンが、一度止まる。


 その下へ、ゆっくり書き加えた。


『私の彼氏』


「そこは必要か?」


「一番大事なところです」


『世界で一番、大切な人』


「恥ずかしくないのか」


「恥ずかしいよ」


 結愛は顔を上げる。


「でも、書かなかったせいで忘れる方が、ずっと怖い」


 胸元の蕾を服の上から押さえる。


「書いた文字も消えるかもしれないぞ」


「そしたら、何度でも書き直す」


「ノートを読んでも、信じられなくなるかもしれない」


「そのときは、もう一度好きになる」


 迷いのない声だった。


「私は律くんが好き。名前を忘れても、思い出を失っても、この気持ちまでは誰にも消させない」


「結愛」


「それに」


 結愛が少しだけ笑う。


「律くんのことを全部忘れたら、また最初から口説いてくれるんでしょ?」


「どうして俺からなんだ」


「一回目は私から告白したから、次は律くんの番」


「告白を罰ゲームだったことにした奴が言うな」


「それは反省してます」


「何割?」


「今は六割」


「まだ足りないな」


 結愛が笑う。


 その笑顔を見ながら、俺は思った。


 絶対に忘れさせない。


 世界が何をしようと、結愛の中から俺を消させるつもりはなかった。


     ◇


 放課後。


 俺たちは、写真に写っていた市立朝凪中学校へ向かった。


 電車とバスを乗り継ぎ、最後は川沿いの道を歩く。


 すでに陽は傾き始めていた。


「ここ、来たことがある気がする」


 結愛が周囲を見回す。


 古びたガードレール。


 雑草に覆われた河川敷。


 遠くに見える、錆びついたフェンス。


 結愛が俺の袖をつかむ。


「律くん」


「どうした」


「手、つないでもいい?」


「怖いのか?」


「彼女だからです」


「付き合ってから便利に使いすぎだろ」


「駄目?」


 差し出された手を握る。


 結愛が俺の指へ自分の指を絡めた。


「絶対に離さないでね」


「ああ」


 朝凪中学校の旧校舎は、川を見下ろす高台に建っていた。


 周囲を覆う金網には『立入禁止』の札が掛けられている。


 だが、門の鎖は外れていた。


 誰かが俺たちを招いているように、校門がわずかに開いている。


「不法侵入になるよね?」


「管理者へ連絡するか?」


「何て言うの? 世界から消えた女の子を探しに来ましたって?」


「間違ってはいない」


「律くん、昨日も同じこと言ってた」


「事実だからな」


 門をくぐる。


 校庭には雑草が生い茂り、校舎の窓硝子も多くが割れている。


 玄関の扉へ手をかけると、抵抗なく開いた。


 湿った空気が流れ出す。


 廊下には、川の底のような匂いが満ちていた。


 ぴちゃん。


 どこかで、水滴が落ちる。


「律くん」


「分かってる」


 濡れた裸足の足跡が、廊下の奥へ続いていた。


 昨夜と同じだ。


 一歩進むたび、誰もいない教室から物音が聞こえる。


 椅子を引く音。


 机の上を爪で引っ掻く音。


 誰かが笑う声。


 振り返っても、そこには何もいない。


「帰りたくなってきた」


「お前が行くと言ったんだろ」


「一人だったら怖くて絶対に来てないもん」


「俺も一人なら来てない」


「本当?」


「ああ」


「怖い?」


「お前を一人にできないからだ」


「……急に格好いいこと、言わないでよ」


「行くぞ」


「待って。今、ちょっと好きが増えたから」


「元から上限だろ」


「愛に上限はありません」


 強がって笑いながら、結愛は俺の腕へ身体を寄せた。


 足跡は二階へ続いている。


 階段を上った先に、視聴覚室があった。


 扉には、新しい水滴がついている。


 中へ入る。


 古い映写機。


 朽ちかけた椅子。


 壁際の棚には、卒業アルバムが並んでいた。


 一冊だけ、床へ落ちている。


 十五年前のものだった。


「これ……」


 結愛と顔を見合わせる。


 アルバムを開く。


 最初の数ページは、普通の写真だった。


 入学式。


 体育祭。


 文化祭。


 ページをめくるたび、写っている生徒たちの顔が少しずつ滲んでいく。


 やがて、一枚の集合写真へたどり着いた。


 黒髪の少女が、中央に立っている。


 顔だけが黒く塗り潰されていた。


「写真と同じ子」


 名簿を確認する。


 出席番号二十七番。


『篠宮――』


 名字の後だけが、黒い染みで読めなくなっている。


「篠宮」


 結愛が俺を見る。


「律くんと同じ名字だね」


「ああ」


 後ろで、水滴の落ちる音がした。


 振り返る。


 黒髪の少女が、教室の入口に立っていた。


 昨日と同じ、濡れたセーラー服。


 青白い肌。


 裸足の足元には、白い花弁が落ちている。


「来たんだね」


「お前を探しに来た」


「うん。律なら、きっと来ると思ってた」


「名前を教えろ」


 少女が、悲しそうに笑う。


「もう、名簿で見つけたでしょう?」


「下の名前は消えてる」


「消えたんじゃないよ」


 少女は教室へ入る。


「世界が、最初からなかったことにしたの」


「お前は誰なんだ」


 少女が長い黒髪を耳へかける。


 右側には、結愛と同じ白い花の髪飾りがついていた。


「篠宮栞」


 その名前を聞いた瞬間、頭の奥が激しく痛んだ。


 記憶の底で、誰かが笑う。


『律、危ないから走らないの』


『ほら、泣かない。お姉ちゃんがいるから大丈夫』


『結愛ちゃんをいじめたら駄目でしょう?』


 顔だけが見えない。


「私は、あなたのお姉ちゃんだよ」


「姉……?」


「うん」


「俺に姉なんていない」


「今はね」


「母さんから聞いたこともない」


「お母さんも、私を忘れたから」


「嘘だ」


 否定した瞬間、栞の顔が寂しそうに歪んだ。


「律は雷が苦手だった」


「それくらい――」


「雷が鳴ると、枕を持って私の部屋へ来た。怖くないって言い張りながら、朝まで私の手を握ってた」


 忘れていたはずの感触が蘇る。


 暗い部屋。


 雷の音。


 誰かの隣へ潜り込んだ記憶。


「初めて自転車に乗れた日、転んで膝を擦りむいた。泣きながら、結愛ちゃんには内緒にしてって言った」


「やめろ」


「結愛ちゃんと喧嘩したとき、仲直りする方法を私に聞いた」


「やめろ!」


 頭痛が強くなる。


 消された記憶が、無理やりこじ開けられていく。


 長い黒髪。


 優しい声。


 いつも俺より少し先を歩いていた背中。


「本当に……姉さんなのか」


 栞の瞳から、涙がこぼれた。


「その呼び方、久しぶりに聞いた」


「でも、どうして」


「川へ落ちた日、私は二人を助けた」


 冷たい水の記憶が蘇る。


 激しい流れ。


 泣き叫ぶ結愛。


 結愛の手をつかむ俺。


 さらに、俺の腕をつかんでいた誰か。


「俺の記憶では、助けが来るまで二人で耐えたことになってる」


「世界が、そういう記憶に変えたの」


「どうして姉さんだけが消えた」


「まだ、思い出さない方がいい」


「答えろ」


「全部思い出したら、忘れ花がもっと早く開く」


 栞の視線が、俺の胸へ向けられる。


「忘れ花?」


「律に咲いた、花の名前」


 胸の蕾が、呼びかけへ応じるように脈打つ。


「人と人との縁が切れかけたときに咲く花。世界の外側にいる者と、その人を覚えている者との縁を見つけ、根を張る」


「俺は世界の外側にいない」


「一度、触れてしまった」


 栞が胸の蕾へ目を向ける。


「律は結愛ちゃんを助けるために、世界の外側まで手を伸ばした。そのとき、忘れ花は律を見つけたの」


「この花は、何をしてるんだ」


「律と、この世界にいる人たちとの縁を食べてる」


「縁を……」


「花弁が開くたびに、遠い縁から順番にあなたを忘れていく」


「最後まで開いたら?」


「誰の記憶からも消える。写真も、記録も、名前もなくなる」


 栞が俺を見つめる。


「最後に、律自身も篠宮律という人間を忘れる」


「そんな……」


 結愛が俺の腕を強く抱き締めた。


「止める方法は?」


「切れかけた縁を、花に食べられるよりも強く結び直すこと」


「だったら、私が律くんとの縁を――」


「一人だけでは足りないの」


 栞が首を横に振る。


「忘れ花は、律と世界とのつながりを根こそぎ食べようとしてる。一つの縁だけを守っても、それ以外のすべてを失えば、最後には律自身が自分を保てなくなる」


「そんなのおかしいよ」


「世界の外側に触れた人間を、この世界へ戻さないためのものだから」


「律くんは、私を助けてくれただけ!」


 結愛の叫びが、廃校の中へ響く。


「どうして、それで律くんが消えなきゃいけないの!」


「結愛」


「私を戻したから、忘れ花に見つかったんだよね?」


 結愛の声が震える。


「だったら……私がもう一度消えれば、律くんは助かるの?」


「ふざけるな」


 俺は結愛の肩をつかみ、自分の方へ向かせた。


「二度とそんなことを言うな」


「でも」


「お前を消して助かるくらいなら、俺も消えた方がましだ」


「それ、私と同じこと言ってるよ」


「俺はいい」


「よくない!」


 結愛が俺の胸を叩く。


「律くんがいない世界で、私だけ残っても意味ないもん!」


「二人とも消えたら、もっと意味がないだろ」


「だったら、二人とも残る方法を探すの!」


「それに」


 栞が静かに口を挟む。


「今、結愛ちゃんが消えても、忘れ花は止まらないよ」


 結愛の顔が上がる。


「もう花は律の中に根を張った。今の律は、花にとって世界の外側へつながる道そのものなの」


「じゃあ、私が消えても……」


「律まで消えるだけ」


「そんな……」


「だから、自分が消えればいいなんて、もう言わないで」


 栞の言葉には、痛みを知っている者の響きがあった。


 結愛は涙を拭い、栞を真っ直ぐ見た。


「教えて。どうすれば律くんを助けられるの?」


 栞は答えず、窓の外へ目を向けた。


 河川敷を、夕陽が赤く染めている。


「思い出して」


「何を?」


「あの日、本当は何があったのか」


 栞の身体が薄く透け始める。


「待て、姉さん!」


「答えは、全部あの川にある」


「どうして姉さんは消えた!」


「今度は、ちゃんと見つけてね」


 栞は白い花弁となって崩れた。


 床へ落ちる前に、光の粒となって消えていく。


 残された卒業アルバムを見る。


 篠宮の名字も、すでに黒く滲み始めていた。


     ◇


 自宅へ戻った頃には、すっかり暗くなっていた。


 玄関を開ける。


「ただいま」


「ただいま、おばさん」


 母親がリビングから顔を出す。


「お帰り、結愛ちゃん」


 結愛へ、いつものように笑いかける。


 その視線が俺へ移った瞬間、表情が強張った。


「あの……」


 母親が一歩後ずさる。


「どちらさまですか?」


 身体から、すべての熱が消えた。


「母さん」


「え?」


「俺だよ」


「母さんって……」


 母親が怯えた顔をする。


「どうして、うちに入ってきたんですか?」


「おばさん!」


 結愛が俺の前へ立つ。


「律くんだよ! おばさんの息子の、篠宮律!」


「私の……息子?」


「そうだよ! ずっと一緒に暮らしてたでしょ!」


 母親が頭を押さえる。


「律……?」


「母さん」


「律。そう、律よね」


 少しずつ、母親の目に理性が戻る。


「ごめんなさい。私、どうして……」


 胸の蕾が、熱を帯びた。


 制服越しでも分かるほど、白い光が漏れ出す。


 結愛が俺の胸元を見る。


「律くん、花が……!」


 蕾の表面に亀裂が入る。


 白い花弁が一枚、ゆっくりと開いた。


 同時に、頭の中へ栞の声が響く。


『始まったよ』


『次は、もっと近い人があなたを忘れる』


「嫌……」


 結愛が俺の腕へしがみつく。


「絶対に嫌」


「結愛」


「私は忘れないから」


 涙を流しながら、俺を見上げる。


「世界中の人が忘れても、私だけは絶対に忘れない」


「ああ」


「名前も、声も、顔も、全部覚えてる」


 結愛が自分へ言い聞かせるように続ける。


「篠宮律。私の幼馴染で、私の彼氏。無愛想だけど優しくて、私を絶対に一人にしない人」


 絡めた指へ、力を込める。


「だから、大丈夫」


「ああ」


「大丈夫、だよ……」


 結愛が、俺の顔を見つめた。


 一瞬だけ、瞳から感情が消えた。


 握っていた手の力が緩む。


「どうした」


「ごめん」


 結愛が困ったように眉を寄せる。


「今、名前が……」


 唇が震える。


「あなたの名前が、出てこなかった」


 胸に咲いた白い花が、もう一度脈打った。

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