第2話 恋人になった幼馴染には、帰る家がなかった
七瀬結愛が世界へ戻ってきて、最初の土曜日。
俺たちは、駅前の水族館に来ていた。
「律くん」
「何だ」
「手」
入場券を買った直後、結愛が右手を差し出してきた。
指先を軽く曲げ、何かを待っている。
「荷物なら自分で持て」
「違います」
「じゃあ何だ」
「恋人同士で水族館に来ました」
「そうだな」
「今日は日曜日です」
「見れば分かる」
「周りには、手をつないでいるカップルがたくさんいます」
「それで?」
結愛の頬が膨らむ。
「律くんは、女の子に恥ずかしいことを全部言わせないと分からないの?」
「だいたい分かってる」
「だったら早くしてください」
差し出された手を取る。
指を絡めると、結愛の肩がわずかに跳ねた。
「……普通につなぐんだ」
「お前がつなげと言ったんだろ」
「言ったけど。最初はもっとこう、指先が触れて、お互いに少し意識して、それからおそるおそる……みたいなのを想像してた」
「面倒くさいな」
「初めてなんだから、雰囲気を大事にしてよ」
「やり直すか?」
「それは嫌」
結愛は絡めた指へ力を込め、俺の肩へ少しだけ近づいた。
「もうつかまえたから、離しません」
「俺が魚を見られないほどくっつくのはやめろよ」
「今日の律くんは、魚じゃなくて私を見に来たんでしょ?」
「水族館に来て魚を見ない奴はいない」
「いるよ。ここに」
結愛が自分を指さす。
「私は律くんとデートするために来ました。お魚はおまけです」
「魚に謝れ」
「今日の私は可愛い彼女なので、何をしても許されます」
「自分で言うな」
「じゃあ、律くんが言ってくれる?」
結愛が俺の前へ回り込む。
肩より少し長いミルクティーブラウンの髪。右側には、白い花のヘアピン。
いつもと同じ制服姿だった。
せっかくの初デートなのに、どうして制服なのか。
少し気にはなったが、結愛本人が楽しそうなので、わざわざ聞くほどでもないと思っていた。
「ねえ、律くん」
後ろで手を組み、上目遣いに俺を覗き込む。
「今日の私も可愛い?」
「ああ。今日も可愛いよ」
「…………」
結愛が固まった。
蜂蜜色の瞳を大きく見開き、頬から耳まで一気に赤くなる。
「どうした?」
「律くんが……普通に可愛いって言った」
「お前が聞いたんだろ」
「聞いたけど、今まで一度も答えてくれなかったじゃん」
「これからは毎日言うって約束した」
「そうだけど……」
結愛はつないでいない方の手で、熱くなった頬を押さえる。
「心の準備ができてないよ」
「毎朝聞いてた奴が言うことか?」
「あれはどうせ律くんが答えてくれないと思ってたから、気軽に聞けたの」
「なら、もう聞くのをやめるか?」
「それは絶対に嫌」
「面倒くさいな」
「女の子は面倒くさい生き物なの」
結愛は俺の右腕へ抱きついた。
「特に私は、かなり面倒くさいよ?」
「知ってる」
「重いかもしれないよ?」
「それも知ってる」
「律くん以外、何もいらないって言い出すかも」
「友達くらいは作れ」
「そこは『俺も結愛だけでいい』って言うところでしょ?」
「言わない」
「冷たい彼氏だなあ」
口では不満を言いながら、結愛は嬉しそうにくすくすと笑っていた。
◇
「すごぉい……」
巨大な水槽の前で、結愛が立ち止まる。
青い光に照らされた水の中を、色とりどりの魚が泳いでいる。
結愛は水槽へ近づき、硝子の向こうの青を見上げた。
「綺麗だね」
「ああ。綺麗だな」
「律くんも、そういう普通の感想を言えるんだ」
「俺を何だと思ってる」
「顔が怖くて口数が少なくて、可愛い幼馴染の扱いが雑な人」
「最後はいらないだろ」
「でも、ちゃんと私を見つけてくれる人」
結愛は水槽へ向けていた顔を、俺の方へ向けた。
「世界中の人が忘れても、律くんだけは私を覚えててくれた」
「……ああ」
「だから私、今すごく幸せ」
青い光の中で、結愛が微笑む。
計算して作る、いつものあざとい笑顔ではない。
ただ嬉しくて仕方がないという、素直な笑顔だった。
「写真、撮ろう」
結愛がスマートフォンを取り出す。
「ここで?」
「初デートの記念。ほら、もっと近づいて」
腕を引かれ、肩が触れ合う。
結愛は俺へ身体を寄せ、スマートフォンを構えた。
「律くん、笑って」
結愛は唇の端を持ち上げ、にぃとスマイルをつくる。
「笑ってる」
「全然笑ってない。指名手配犯みたいな顔してる」
「元からこういう顔だ」
「じゃあ、私が笑わせてあげる」
「どうやって」
結愛が頬へ唇を寄せてきた。
触れる直前、反射的に顔を逸らす。
その瞬間、シャッター音が鳴った。
「……何してる」
「彼氏の頬にキスしようとする可愛い彼女」
「するなら先に言え」
「先に言ったら逃げるでしょ?」
「今も逃げた」
「もう。律くんの意気地なし」
結愛が撮影した写真を確認する。
俺は驚いて顔を逸らし、結愛は悪戯っぽく笑っている。
「いい写真」
「消せ」
「嫌。待ち受けにする」
「やめろ」
「じゃあ、律くんの待ち受けにも設定してあげる」
「勝手に触るな」
スマートフォンを奪おうとすると、結愛は笑いながら逃げた。
追いかけて腕をつかむ。
「捕まえた」
「きゃー。怖い彼氏に捕まった」
「棒読みだぞ」
「このまま抱き締める?」
「人前でしない」
「人前じゃなかったらするんだ?」
「……揚げ足を取るな」
「あ。今、間があった」
結愛が楽しそうに笑う。
それから、画面の中の自分を見つめた。
笑顔が、ほんの少しだけ弱くなる。
「ちゃんと写ってる」
「当たり前だろ」
「うん。当たり前だよね」
結愛は写真を大切そうに保存した。
「でも、嬉しい」
俺の手を取り、再び指を絡める。
「今度は消えないように、たくさん写真を撮ろうね」
「ああ」
「それから、学校でもいっぱい話して、友達も作り直して、おばさんにも挨拶して……」
そこまで言ったところで、結愛の言葉が止まった。
「結愛?」
「ううん。何でもない」
すぐに、いつもの笑顔へ戻る。
「次、クラゲ見に行こ」
結愛に手を引かれ、俺たちは青い光の中を歩き出した。
◇
昼食は、水族館内のレストランで食べることになった。
俺が注文したのはハンバーガー。
結愛は、魚を模したデコレーションのオムライスを選んだ。
「見て、可愛い」
「食べるのか?」
「食べるよ」
「可愛いと言った直後に?」
「可愛いものは綺麗に写真に撮ってから食べるのが礼儀です」
結愛は何枚も写真を撮り、ようやくスプーンを手に取った。
一口分をすくい、そのまま俺の方へ差し出してくる。
「はい、律くん。あーん」
「いらない」
「彼女が初めて食べさせてあげようとしてるんだよ?」
「自分で食える」
「それは知ってる。これは食事じゃなくて、恋人らしいことをする儀式なの」
「何だ、その儀式」
「私たち、昨日まで幼馴染だったでしょ?」
「そうだな」
「だから今日は、恋人らしいことを全部したいの」
結愛は真剣な顔で、スプーンを差し出したまま続ける。
「手をつないで、写真を撮って、同じものを食べて、帰り道に次のデートの約束をする。それから――」
「それから?」
「別れ際に、キスする」
「最後は却下だ」
「まだ全部言ってないのに」
「それ以上あるのかよ」
「恋人なんだから、いっぱいあるよ」
結愛が身を乗り出す。
「名前で呼び合うとか」
「前から呼んでるだろ」
「私はずっと律くんだけど、律くんは学校だと七瀬って呼ぶじゃん」
「昨日から結愛って呼んでる」
「じゃあ、合格」
「何の審査だ」
「理想の彼氏審査」
「いつ応募したんだ」
「幼稚園の頃から強制参加です」
結愛は話しながらも、スプーンを下ろさない。
「ほら、早く。腕が疲れちゃう」
周囲を見る。
休日だけあって、親子連れやカップルが多い。
誰も俺たちのことなど見ていない。
それでも、恥ずかしいものは、恥ずかしい。
「一口だけだからな」
「うん」
差し出されたオムライスを食べる。
結愛が満面の笑みを浮かべた。
「美味しい?」
「普通」
「そこは『結愛に食べさせてもらったから、いつもより美味しい』でしょ?」
「要求が多い」
「彼女なので」
「なら、次はお前の番だな」
「え?」
結愛の手からスプーンを取り、オムライスを一口すくう。
差し出すと、結愛が目を見開いた。
「ほら」
「律くんが、私に?」
「お前が始めたんだろ」
「ちょ、ちょっと待って」
「腕が疲れる」
「今、心の準備を――」
「さっき俺にはさせなかっただろ」
「そうだけどっ!」
結愛は赤くなりながら、周囲へ視線を巡らせた。
自分から始めたくせに、注目されているような気がして恥ずかしくなったらしい。
「早くしろ」
「……あーん」
結愛が恐る恐る口を開く。
スプーンを近づけると、目を閉じてオムライスを食べた。
しばらく無言で咀嚼する。
「美味いか?」
「味、分かんない」
「自分で頼んだのに?」
「律くんに食べさせてもらったって考えたら、心臓がうるさくて何も分かんない」
「そんなに緊張するなら、やらなければいいだろ」
「やりたいの」
結愛は俯きながら、小さな声で続けた。
「ずっと、やりたかったから」
これまで結愛が冗談めかして口にしていた「好き」も「付き合う?」も、ほとんど本気だった。
俺が適当に受け流している間も、結愛はこんな日を待っていたのだろう。
「これから何度でもできる」
「……うん」
「だから、今日一日で全部やろうとするな」
「それって」
結愛が顔を上げる。
「次のデートもしてくれるってこと?」
「当然だろ」
「来週?」
「近いな」
「じゃあ、明日?」
「学校がある」
「放課後デート」
「毎日一緒に帰ってるだろ」
「これからは全部デートとして数えます」
「勝手にしろ」
「ふふっ」
結愛は幸せそうに笑い、オムライスをもう一口すくった。
「じゃあ、もう一回。あーん」
「さっき一口だけって言っただろ」
「これは彼女特典です」
「そんな特典はない」
「今、私が作りました」
結局、オムライスの半分ほどを食べさせられた。
◇
水族館を出る頃には、空が茜色に染まり始めていた。
「楽しかったね」
「ああ」
「律くん、最初は魚ばかり見てたけど、途中から私のことも結構見てたよね」
「気のせいだ」
「クラゲより私の方が綺麗だった?」
「比べるものじゃないだろ」
「じゃあ、ペンギンより可愛かった?」
「張り合う相手がおかしい」
「今日のペンギン、かなり強敵だったよ?」
結愛が隣をとてとてと歩きながら笑う。
行きと同じように手をつないでいたが、今度は結愛から言われる前に俺の方からつないだ。
それだけで、結愛は何度も絡めた指を見ていた。
「次、どこに行く?」
「もう次の話か」
「恋人になったら、行きたい場所がいっぱいあるの」
「例えば?」
「映画館、遊園地、動物園。夏になったら海にも行きたいし、花火大会も浴衣で行きたい」
「一気に言うな」
「高校を卒業したら、旅行にも行きたいな」
「気が早い」
「だって、律くんが一生そばにいてくれるんでしょ?」
「お前がそうしろと言ったんだ」
「責任重大だね、彼氏くん」
「他人事みたいに言うな」
駅へ向かう道の途中で、俺は時間を確認した。
「そろそろ送っていく」
「……うん」
「どうした?」
「何でもない」
「疲れたのか?」
「少しだけ」
「家まで送る」
その言葉に、結愛の足が止まった。
「結愛?」
つないでいた手が、微かに震えている。
「律くん」
「何だ」
「私の家って、どこにあるのかな」
一瞬、意味が分からなかった。
「昨日行っただろ。前に七瀬家があった場所に――」
「知らない人が住んでた」
結愛は俯いた。
「表札も違った。私のことを聞いても、知らないって言われた」
「ああ」
「お母さんも、お父さんもいない。学校には転校生として入れたけど、住所も連絡先も分からない」
世界に戻ってきたことで、すべてが元どおりになったわけではない。
結愛は昨日、突然この世界に現れた転校生として扱われている。
過去の写真も、家族の記憶も戻っていない。
「今日、制服で来たのも」
「これしか持ってないから」
結愛は笑おうとした。
けれど、うまく笑えていなかった。
「制服と鞄と、このヘアピン。それ以外、何もないの」
白い花のヘアピンへ触れる。
「財布も、着替えも、教科書もない。スマホはあるけど、律くん以外の連絡先は全部消えてる」
「どうして言わなかった」
「だって、初デートだったから」
結愛は顔を上げた。
瞳に涙を浮かべながら、それでも可愛く笑おうとする。
「律くんに心配をかけたくなかったの。せっかく恋人になれたんだから、今日は普通にデートしたかった」
「普通じゃなくても言え」
「でも――」
「彼氏なんだろ、俺は」
結愛が目を見開く。
「困ってるなら、最初に俺へ言え」
「言ったら、助けてくれる?」
「当たり前だ」
「重くても?」
「今さらだろ」
「ずっと頼ってもいい?」
「一人で何とかしようとするよりはいい」
「……律くん」
涙が一粒、結愛の頬を伝う。
俺は結愛の手を握り直した。
「帰るぞ」
「どこに?」
「俺の家だ」
「でも、おばさんが困るよ」
「事情を話す」
「世界から消えたけど、律くんに告白されて戻ってきましたって?」
「間違ってはいない」
「そのまま同居させてくださいってお願いするの?」
「他に方法がないだろ」
「恋人になった翌日に同棲なんて、私たち、進むのが早すぎない?」
「家族もいるから同棲じゃない」
「でも、夜になったら律くんの部屋に行けるよね?」
「来るな」
「一人で眠るの、怖いかもしれない」
「客間で寝ろ」
「怖くて泣くかも」
「母さんを呼べ」
「彼氏を呼びます」
結愛が目元を拭い、いつもの笑顔を取り戻す。
「ねえ、律くん」
「何だ」
「私、律くんの家に帰ってもいいの?」
「ああ」
「ただいまって言ってもいい?」
「好きにしろ」
「そこは『お帰り』って言ってよ」
「家に着いてからな」
結愛は俺の腕へ抱きついた。
「じゃあ、早く帰ろう」
◇
「お帰り、二人とも」
玄関を開けると、母親は何でもないことのように俺たちを迎えた。
そして結愛の荷物がないことに気づき、首を傾げる。
「結愛ちゃん、荷物は?」
「え?」
「今日からうちで暮らすんでしょう?」
俺と結愛は顔を見合わせた。
「母さん、それ、誰から聞いた?」
「何言ってるの。七瀬さんのご両親が海外へ行っている間、結愛ちゃんを預かるって、先週から話してたでしょう?」
「結愛の両親と話したのか?」
「そうよ。あなたもその場にいたじゃない」
そんな事実はない。
昨日まで母親は、七瀬結愛という名前すら知らなかった。
俺に幼馴染などいないと言っていた。
それなのに今は、結愛を昔から知っているような顔をしている。
「結愛ちゃんの荷物、午前中に届いてるわよ。二階の客間に運んでおいたから」
「私の……荷物?」
「ええ。着替えも教科書も、必要なものは一通り入ってるって」
母親は不思議そうに結愛を見る。
「どうしたの?」
「ううん」
結愛は首を横に振る。
それから、泣きそうな顔で笑った。
「ただいま、おばさん」
「お帰りなさい、結愛ちゃん」
その言葉を聞いた瞬間、結愛の瞳から涙がこぼれた。
「結愛ちゃん?」
「ご、ごめんなさい。ちょっと、安心したら……」
母親が結愛を抱き締める。
「ご両親と離れて不安よね。でも、ここを自分の家だと思っていいのよ」
「……はい」
「律とは小さい頃から一緒なんだから、遠慮することもないでしょう?」
世界が、新しい過去を作り始めている。
結愛という存在を受け入れるために、辻褄を合わせている。
それが良いことなのか、悪いことなのかは分からない。
ただ、今だけは。
結愛に「お帰り」と言ってくれる人がいることを、素直に喜びたかった。
◇
結愛の荷物は、本当に客間へ届いていた。
教科書、制服、私服、寝間着、化粧品。
生活に必要なものは、ほとんど揃っている。
だが、どれも新品だった。
着古した服もない。
家族と撮った写真もない。
思い出につながる品は、一つも入っていなかった。
「見て、律くん」
結愛が新品のパジャマを身体へ当てる。
「可愛い?」
「まだ着てないだろ」
「着たところを想像してください」
「知らん」
「じゃあ、お風呂の後に見せに行くね」
「来なくていい」
「同じ家に住んでる彼女のお風呂上がりだよ?」
「だから何だ」
「男子高校生の夢じゃない?」
「勝手に決めるな」
結愛は楽しそうに笑いながら、ベッドへ腰を下ろした。
「本当に一緒に暮らすんだね」
「しばらくだけだ」
「しばらくって、いつまで?」
「お前の家族が戻るまでだろ」
「戻らなかったら?」
「……そのとき考える」
「じゃあ、一生ここにいてもいい?」
「部屋が足りなくなる」
「律くんと同じ部屋でいいよ」
「よくない」
「ベッドも半分で大丈夫」
「狭い」
「私は小さいから平気」
「俺が平気じゃない」
「どうして?」
「分かってて聞いてるだろ」
結愛がにっと口元を緩める。
「律くん、私を女の子として意識してるんだ?」
「夕飯までに片づけろ」
「逃げた」
部屋を出ようとすると、制服の裾をつかまれた。
「律くん」
「何だ」
「ありがとう」
結愛は白い花のヘアピンへ触れ、柔らかく笑う。
「私に、帰る場所をくれて」
「母さんが決めてたことになってるけどな」
「それでも、連れてきてくれたのは律くんだよ」
結愛が裾から手を離す。
「今日のデート、すごく楽しかった」
「ああ」
「次は、制服じゃなくて私服で行けるね」
「そうだな」
「律くんが好きそうな服、選んでおく」
「俺の好みなんて知らないだろ」
「律くんが私を見たときの顔で分かります」
「怖いな」
「ずっと律くんだけを見てきたからね」
あざとく笑う結愛の目には、隠しようのない愛情が宿っていた。
◇
夕食と風呂を済ませた後、結愛が俺の部屋を訪ねてきた。
宣言どおり、新品のパジャマ姿だ。
淡い桃色の上下で、胸元には小さな白いリボンがついている。
風呂上がりの髪は下ろされ、頬も普段より赤い。
「律くん」
「何だ」
「感想は?」
「似合ってる」
「それだけ?」
「可愛い」
「……不意打ちは駄目だって言ったでしょ」
「なら聞くな」
「聞きたいけど、照れるの!」
結愛は両手で頬を押さえた。
「律くん、本当に毎回言うつもりなんだ……」
「約束だからな」
「私、毎日こんなにドキドキしないといけないの?」
「自業自得だ」
「責任取ってね」
「何の責任だ」
「そのうち考えます」
結愛は俺の隣へ座る。
机の上には、あの黒い封筒と古びた写真が置いてあった。
デート中は考えないようにしていたが、調べないわけにはいかない。
「この学校、分かった?」
「校章で検索した」
写真に写っている学校は、市立朝凪中学校。
十五年前に廃校となり、校舎も現在は使われていない。
「でも、おかしい」
「何が?」
写真の端。
黒く顔を塗り潰された少女のすぐ近くに、小さな子供が二人写っている。
青い服を着た男の子。
白いワンピースを着た女の子。
画像は荒いが、俺と結愛で間違いない。
「なるほど。十五年前なら、私たちはまだこんなに大きくないよね」
「ああ」
「それに、廃校になった後なら、この制服の生徒が並んでるのもおかしい」
写真そのものが、成立しない。
撮られた時期が違うはずの人間たちが、同じ場所に写っている。
「中央の女の子。この子が、学校の廊下にいた子だよね?」
「たぶんな」
結愛が写真へ顔を近づける。
「顔だけ、どうして黒く塗られてるんだろう」
「分からない」
黒く塗り潰された顔。
腰まで伸びた髪。
古びた制服。
「髪に何かつけてる」
結愛が写真を指さす。
少女の右側の髪に、小さな白いものが見えた。
花の形をしている。
俺たちは同時に、結愛のヘアピンを見た。
「同じもの?」
「似てるな」
結愛が白い花へ触れる。
その瞬間、部屋の照明が明滅した。
「え?」
一度。
二度。
三度目に消えた照明は、数秒経ってから再び点灯した。
写真を見る。
黒く塗り潰された少女の顔が、先ほどよりわずかにこちらを向いているように見えた。
「律くん」
結愛が俺の腕をつかむ。
「今日は一緒に寝てもいい?」
「駄目だ」
「即答?」
「母さんに何て説明する」
「怖いからって」
「俺の部屋に布団を敷くなら考える」
「ベッドは?」
「俺が使う」
「彼女を床で寝かせるの?」
「客間に戻れ」
「分かった。床で我慢します」
「話を聞け」
結愛はしばらく粘ったものの、最終的には客間へ戻った。
廊下へ出る前に振り返る。
「律くん」
「何だ」
「明日の朝も、ちゃんといるよね?」
「ああ」
「私のこと、忘れてない?」
「忘れてない」
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみ、結愛」
結愛が満足そうに笑い、扉を閉めた。
◇
水滴の落ちる音で目を覚ました。
時刻は、午前二時十三分。
ぴちゃん。
また聞こえる。
窓の外は晴れている。
音は部屋の外からだった。
「結愛?」
返事はない。
ベッドから下り、扉を開ける。
暗い廊下に、濡れた裸足の足跡が残っていた。
一つ。
また一つ。
階段から俺の部屋まで、ゆっくり歩いてきたように続いている。
廊下の突き当たりに、少女が立っていた。
腰まで届く、濡れた黒髪。
古びた黒いセーラー服。
裸足の足元には小さな水溜まりができ、その上に白い花弁が浮かんでいる。
「お前は……」
少女がゆっくり顔を上げる。
十五歳ほどに見えた。
青白い肌。
血の気のない唇。
長い前髪の隙間から覗く瞳は、鏡で見る俺自身のものによく似ていた。
「やっと」
掠れた声が、暗い廊下に響く。
「やっと、私が見えるようになったんだね」
「俺を知ってるのか?」
「うん」
少女は懐かしそうに目を細める。
その笑顔を、俺は知っている。
知っているはずなのに、誰なのか思い出せない。
「大きくなったね、律」
少女が俺の名前を呼ぶ。
頭の奥に、冷たい水の感触が蘇った。
川の流れ。
誰かの叫び声。
俺と結愛をつかむ、細い腕。
顔の見えない、黒髪の少女。
「誰なんだ」
一歩、少女が近づく。
濡れた裸足が床を踏み、白い花弁が落ちる。
「もう、時間がないの」
「何の話だ」
少女が俺の胸へ指を伸ばす。
触れられた瞬間、心臓を氷で貫かれたような痛みが走った。
「っ……!」
胸元から、白い光が漏れる。
パジャマの襟を引いて見る。
心臓の真上。
肌に、小さな白い蕾が浮かんでいた。
「何だよ、これ」
少女は答えない。
ただ、悲しそうに俺を見つめている。
「律」
冷たい指先が、白い蕾をなぞる。
「今度は、あなたが消される番だよ」




