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番外 難攻不落

「56億7000万円?」


オリビア・デ・フリースは眼鏡のフレームを持ち上げた。

ヴァレリー財団の会計責任者。

財団全体の帳簿を束ねる彼女の前に、PMC(民間軍事サービス)からの請求書が表示されている。


胸元と背中を大きく開けた黒いドレス。腰を越す銀色の髪。

その姿で曖昧な請求書を許すまいとする様子は、毎日カジノで

夕食を共にする男性を探している女性とはとても思えない。


「もう一度聞くわ。56億7000万円?」


画面の向こうでカールが頷き、エリザは請求書の写しを開いた。


「契約に基づく請求です。

 海外オペレーション手当、危険手当、現地への緊急展開と施設制圧、

 保護対象者の移送、機器とデータの確保、これに武器と車両が……」


「もういいわ。仕事の中身は理解してる。

 私が聞いているのは、どうしてこの数字になったかよ。

 確かに以前、ナイジェリアの救出作戦では10億払ったって聞いてる。

 それと比べても高すぎよ。弥勒菩薩でも雇ったの?」


「あなたが仏教に詳しいとは知りませんでした」


オリビアは請求書の最終ページを閉じ、内訳の先頭へ戻した。

数字を右から左へ追い、別の資料と照合する。


ページは多い。

だがページ数と請求額が正しいかは別問題だ。

相手が武装していれば作戦の値段は上がる。命の値段を安く見積もる気もない。

それでもオリビアの指は止まらなかった。


「これは日本円で報告しているからです。

 前回ナイジェリア作戦では1200万ドル、今回が3600万ドル、

 3倍にしかなっていません。今回は大規模作戦なのに加えて、

 士郎さんも十倍でも出すと言いました」


「円安のせいだって言いたいのね……ちょっと、カール!」


オリビアの指が画面の数字を叩いた。


総帥(バカ)が十倍でも出すと言ったからってあなた達まで真に受けないで!

 予算計画ってものがあるのよこっちには!」


怒りの暴風。カールはそれを正面から受け止めた。

エリザも肩がすくんでいる。


「内訳を全て出させなさい。弾1発、1セント単位で削りに行くわよ。

 連中が命を懸けたことと、請求額をそのまま通すことは別の話!

 オーケー?」


「支払いそのものに反対なのではありませんね?」


エリザが確認する。


「報酬は契約通りに払うわ。だから契約通り働いたかをきちんと確かめるの。

 私の仕事は財団の金を守ることで、請求書を鵜呑みにすることではないわ」


オリビアはその請求書の承認ボタンをクリックしなかった。

PMCは犯罪拠点は制圧できたが、財団の会計責任者の承認は難攻不落のようだ。


「……まず見積もりを取った後、あたしに相談しろよクソが……。

 詐欺グループを壊滅したか知らないけど、

 傭兵どもから食い物にされてんじゃないのよ」


†††


そんな騒ぎが海の向こうで起きているとは知らず、

俺はOCIRのオフィスでラッシュの投資成績を見ていた。


モニターのグラフはまた右肩上がり。収支の数字も大きくなっている。


「現在も記録更新中か」


「くっそぅ……なんでまた増えてるんだよ……」


鈴木はラッシュではなくモニターを睨んでいる。

犬と目を合わせるのが嫌らしい。

目が合うと「撫でろ」とばかりに寄ってくるからな。ラッシュ。


「お前も利益出してるだろ」


「俺は相場を見て考えて売買してんの。こいつは◯と✕だぞ」


ラッシュが黒い鼻先でふんふんと鈴木の手を押した。

慰められたのか馬鹿にされたのか、判断できないのが犬の狡いところだ。


「小野っち。ラッシュがまたニュースになってる」


麗奈が端末をこちらに向けた。


「ボーダーコリーの里親希望が激増。募集を出したらすぐに決まるって」


「良いことじゃないか」


「理由は『ラッシュみたいに投資のできる犬が欲しい』」


前言撤回。


「投資させる前に散歩できるのかそいつら。

 ボーダーコリーに必要な運動量わかってないだろ」


「ミルカリに◯✕ボタンセットが大量に出てますね。

 USBでPCに接続可能って書いてます……」


「学祭の時にちょっと配ったあーしの名刺のアドレスに、

 毎日システム接続の問い合わせが来てさ、結構仕事の邪魔なんだけど」


「仕事の邪魔になるのはちょっとなあ。みんな夢見すぎだろ」


麗奈が問い合わせでびっしり埋まったメール画面を俺に見せた。

知らん。見なかったことにする。


そもそも、ボーダーコリーなら何でも良いと考えちゃいかんと思うんだが。


「ボーダーコリーは元は牧羊犬だって聞きましたが、

 犬でも頭がいいと第三次産業に進出できるんですねえ」


「ウォン」


小林の言葉を聞きながらラッシュは床へ腹をつけた。

奴はおそらく投資よりおやつの方を重要視している。


†††


大学の部室へ行くと、コタツの上に入部届が積まれていた。


「これで全部か?」


「今週分だけでこの量です」


小林がトントンと紙の端を揃える。

大学祭での発表に加え、偽ファンド騒動で研究会を知った学生まで来ているらしい。

地上波のテレビ番組に出たのが大きかったか。

悪名も有名の一種とは言うが、あまり素直に喜べない。


扉の近くで、見覚えのない学生が何人か部室を見回している。


「ラッシュはどこですか?」


「ラッシュはここにはいないよ」


あれは財団のセラピー犬だからな。一応。


「OCIRでインターンするにはここで登録しろって先生が」


別の学生が入部届を差し出してきた。


「ここは職業案内所じゃない」


「詐欺メールの見分け方も教えてくれるって聞きました」


「わざわざ危ない世界に近寄るのはお勧めしないよ?」


「でも会長が詳しいんですよね?」


「俺は会長じゃないし、断言するが

 あんなものに詳しくなっても幸せにはなれないぞ」


話している間にまた入部届が一枚増えた。

何を研究したいのか若干不安だが、人数不足で部室を失う心配はなさそうだ。


「やあ、盛況ですね」


サークル評議会の盛田だ。薄い封筒を手にしている。


「正式に決まりましたよ。投資研究会は来年度もこの部室です」


「おお」


盛田が封筒から通知書を出した。

小林、麗奈が小さなガッツポーズ。鈴木はコタツに突っ伏した。


「学園祭の実績もあるし入部希望者も増えたようですね。

 他が出ていくことになるでしょうけど、それはそれ。これはこれ」


「ありがとう。何よりの知らせだ」


たかが部室。

だが、この部室を守るためにみんな相当な労力と金額を投じたのだ。

端から見れば馬鹿みたいかも知れないが、湧き上がる達成感に体が震える。


「鈴木。良かったな」


返事がない。

毎日、ラッシュとの競争で睡眠不足だとか言ってたな。

今日くらいは寝かしておいてやろう。


†††


その日の夜。

小田原の屋敷でカールが俺を会議室へ呼んだ。


普段なら聞こえてくるAIマルグリットの声がしない。

モニターにもいない。二輪の端末も姿を消している。


「マルグリットさんは?」


「まもなくこちらへ」


カールの言い方も表情も変だ。いつもと違う。


それからさほど間をおかず、会議室の外から足音が聞こえてきた。


コツ、コツ、コツ


硬い音だ。エリザのハイヒールだろうか。

音は扉の前で止まった。


「まさか」


扉が開く。


『ごきげんよう』


会議室のモニターでも、二輪の端末でもない。

AIマルグリットが、ついに二本の足で立っていた。


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