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ケツのシワまで

俺はまだスイートルームのソファに沈み込んだまま頭を抱えていた。

昨夜の遺言ビデオといきなりのAIマルグリット登場で脳みそが完全にオーバーヒート状態。

なのにエリザは朝イチで容赦なく宣告してきた。


「今日中にスイスへ飛びます。

 大学の授業もあるでしょうから必要な手続きは手早く済ませましょう」


「……は?」


「ヴァレリー夫人の資産を管理する銀行の本店と、財団本部で本人確認と

 初期手続きを完了させなければなりません。

 あなたが本当に受遺者本人であることを金融機関が納得するまで」


エリザの声は相変わらず感情の欠片もない。俺は呆然と彼女を見上げた。

そこへ部屋の大型テレビが勝手に灯る。


『小野さん、ご面倒でもお願いね』


若い頃のマルグリットが画面の中でにこやかに微笑んでいる。AI版だ。


「でええ!」


思わず声が漏れた。エリザが小さくため息をつく。


「小野さん、あなた外国語は?」


「……スマホで勘弁して下さい」


「翻訳アプリで金融機関の誰何(すいか)を乗り切ろうとするのは

 死刑囚がSNSのチャット欄で減刑を願うようなものですよ」


エリザが淡々と続ける。


「結構追い込まれますがお覚悟を。

 日本では『ケツのシワまで数えられる』って言うんでしたっけ」


「たとえがエグいんだよ!」


俺が叫ぶとAIマルグリットがくすくすと笑った。


『あらエリザ、あなた日本語の下品な言い回しも上手なのね?』


「黙りなさい。水槽に沈めますよ」


『おお怖い』


阿吽の呼吸の罵り合い。

俺はもう何がなんだかわからなかった。


朝から物々しい車列を組んで関越道から信州まつもと空港へ。

待っていたのは財団手配のプライベートジェットだ。

スイートルームばりの豪華な空間が飛行機の中に広がっている。

機内に入った瞬間エリザが説明を始めた。


「チューリヒまで13時間弱といったところです。

 現地で一泊、帰りもチャーター機を使います」


革張りのシートに深く沈み込みながら、窓の外の滑走路をぼんやり眺める。


「なんで松本なんだ……?」


「羽田で何かあったら責任問題になりますし、

 チャーター機なら松本のほうが都合が良いんです」


知らないよ。金持ちの世界の豆知識なんか。


『中身はどうあれ世間的にはあなたもこれからセレブリティよ。

 こういうのにも慣れて頂戴』


AIマルグリットが機内のスクリーンに現れて悪戯っぽくウィンクした。

もう驚かないが、どこにでも現れるんだな。AIマルグリット。


12時間のフライト中、俺はエリザに散々「金融機関はあなたが本人なのか、どういう人間なのかを徹底的に追求します」と釘を刺された。

言われるがままに学生証のコピーからバイトの給与明細、メールの送受信記録、

携帯電話の請求書までありとあらゆるデータをスマホから取り出しエリザに渡す。


ヨーロッパって個人情報保護とかにうるさくなかったっけ?

なんか丸裸にされた気分なんだけど……?


スイス・チューリヒ到着は現地時間の午後。

空港から連れて行かれたのは街外れの巨大なプライベートバンクだった。

外観は古い石造りの建物なのに、中は金属探知機と武装警備員だらけ。


会議室に通されるとテーブルにはすでに山のような書類と三人の銀行員、弁護士、税理士が待ち構えていた。


「小野士郎様。本人確認を開始いたします」


最初の二時間はただの身分証明。

学生証、パスポート、戸籍、住民票……全部突きつけられた。

自分の本体はあっちの書類の方で、自分はそれに付属するアバターみたいな感覚に陥ってしまう。


三時間目からは本格的な質問攻め。


「バイト先の給与は月額いくらですか?」

「お父様の職業と年収は?」

「お母様のご実家のお店の築年数は……?」

「現在の家賃と、契約期間、加入している保険に関して……」

「奨学金の有無と現在の学業成績について」

「生活実態として、最近の食費、交通費、娯楽費の内訳を可能な限り教えて下さい」


汗だくになりながら答えているうちに、俺は自分が相続人なのか、取り調べを受けている容疑者なのかわからなくなってきた。


「金融機関はあなたの自己認識を信用しません。

 過去に何十件となりすまし相続詐欺がありましたので」


エリザが隣で小さく頷く。

さすがに彼女の表情には若干の同情が見え隠れしていた。


五時間目。

もう俺の「ケツのシワ」もいい加減限界だ。勘弁してくれ。


「詐欺メールを『趣味』として楽しんでいたと仰ってましたが……」


「いけませんか?」


「動機の確認です」


数少ない俺の趣味、心の防波堤だ。ここは負けない。


夜の九時を回った頃、ようやく銀行員が立ち上がり深く一礼した。


「全ての確認が完了いたしました。小野士郎様をマルグリット・ヴァレリー夫人の正式な受遺者として暫定承認いたします」


苛烈な移動と尋問の1日(……1日なのか?)はこれで閉幕。

俺が英語もドイツ語も話せないせいでかなり時間を食ったようだ。


その晩、俺は豪華なホテルを楽しむこともないまま泥のように眠った。


――翌朝


「当面の費用として日本円で200億円を用意しました。

 これを超えて必要な場合はご相談下さい」


え、ちょっと待って。……200億円?

エリザが数字の桁を数え間違えたんじゃないかと、俺は一瞬固まった。


「スマートフォンでご利用になれます。詳細はご自分でご確認ください」


財団から渡された俺のスマホに通知が来ている。

新しい口座情報と、ブラックカードのようなものが登録されていた。


『些少ですが小銭を渡しておきますね。

 折角受け取ってくださるのに、ずっとお預けを食らうのは流石に可哀想ですし』


AIマルグリットが満足げに微笑んだ。

銀行では電波を遮断されていたので出てこれなかったがここでは大丈夫なようだ。


「小銭の単位が200億円なの、もう怖いんだよ……」


俺は震える声で呟いた。


この日は財団本部で幹部と面談。

緊張したが、とりあえず後継者として受け入れてもらえたようだ。

序列にこだわらない穏やかな人たちばかりで助かった。めでたい。


とはいえ、日本に戻る飛行中も俺は現実を受け止めきれていなかった。

200億円。日本のサラリーマンの生涯年収の数十倍だ。

必要なこと、やりたいことは大抵実現できる金額。

少なくとも世間から見れば一生働かなくても良いくらいの金持ちにはなったのだ。


深夜に羽田に到着。

帰国はしたが、寝るのは港区のホテルだ。

警備上の問題で俺はアパートには帰れないらしい。


「いろいろお疲れ様でした。今日はもうお休みいただいて結構です」


「ええと……ちょっと……試してみていい?」


少し肩の荷が降りたという様子の彼女だったが、俺の一言でまたいつもの氷の表情に。


「何を?」


「いや、ほんの少しだけ……金持ちっぽいこと。

 イケてるスポーツカーとかに乗りたいなって」


「……分かりました。DMCに連絡しておきます」


DMCって……車で過去に飛ぶ映画のやつじゃないよな?

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