ライフ&ワークバランス
エリザに弱点はないのだろうか。
朝食の席で、俺は向かいに座る彼女を観察していた。
俺が鮭の塩焼きをおかずに白飯をかきこむ前で、サンドイッチを食べる彼女。
紅茶を飲みながらタブレットを操作し、時折カールと何やら相談している。
今日もグレーのスーツには皺一つない。
そして少なくとも、俺の前では一度も隙を見せたことがない。
「先ほどから何ですか」
画面を見たままエリザが言った。
「いや、何も……」
「色気づきでもしましたか?」
「それは年中です。健康な男子ですからね、こっちは」
「お相手はプロをお勧めしますよ。
衛生管理がしっかりしていて、後腐れもないので」
今日も負けだ。
別に彼女を貶めたいわけではない。
杓子定規で取り付く島のない正論の暴力に少し抗ってみたかった。
そのための取っ掛かりがほしいだけだ。
可能なら、たまにでいい。
エリザが言葉を詰まらせるところを見たいものだ。
『エリザの弱点を探しているのね』
部屋に向かう廊下で、受肉したAIマルグリットが楽しそうに笑った。
「何で分かるんだよ」
『私も長年探したもの。あのね、ないことはないのよ、弱点。例えば――』
RESPONSE BLOCKED
Safety policy violation detected.
Error code: SAFEGUARD_REFUSAL
「うわ」
不穏なメッセージとともに画面が乱れる。
何だこれ。はじめて見たけど、重要情報を隠す機能か?
『……生意気な仕組みね。ちょっとカール!』
AIマルグリットによる対弁護士対抗支援は受けられないようだ。
†††
「本当に、弱点どころかとっかかりすらないんだよなあ」
通学の電車の中で考えを巡らせる。
彼女は母方に日本人の血が入っているそうだ。
よほど努力したのか日本語も完璧。そして法律のプロ。
状況を完全に把握し、コントロールする胆力と判断力。
そして途切れない集中力と無限の体力――
「あれ、もしかして彼女、一日も休みを取ってないんじゃ……?」
気がついてしまった。雇う側の人間としてそれはどうなのか。
弱点探しどころではない。休みを取らせないと。
――その日の夕方
俺が大学から戻ると、エリザは応接室で三人の税理士と話をしていた。
夕食を終えて、風呂から上がってもまだ仕事をしている。
夜の十一時、冷蔵庫へ水を取りに行った帰りに覗くと、今度は一人で資料を読んでいた。
「まだ仕事してるのか」
「明日の会議の準備です」
「ねえエリザさん、来日してから休んだことないよね?」
「代わりがいないもので」
「ちゃんと寝てる?」
「死なない程度に」
質問の答えが返ってくるたびに俺の罪悪感が増していく。
攻撃力の高い答えを的確に返してくるあたりは流石というか何というか。
「せっかく日本にいるんだから、どこか行きたいところとかないの?」
「観光に来ているわけではありません。おかまいなく」
取り付く島もない。
娯楽や休息に対して強い忌避感があるようにすら見える。
「じゃあ仕事だ。ラーメン屋に行きたい。一緒に行こう」
「はい?」
「俺がラーメンを食いたい。付き合ってくれ」
「お一人でどうぞ」
「警備上、一人で行くのは良くないんだろ」
エリザの眉間に皺が寄った。
「行きたいなら警備担当者と行って下さい。それに深夜のラーメンは体に毒です」
「まさにセキュリティとリスクヘッジの牢獄だなあ。
確か、そこに閉じ込めたくはない、と言ってくれた気がしたんだが」
「ぐ……いったい何が目的なんですか」
「ささやかな生活上の潤い」
「……分かりました」
俺はついに勝った。
エリザの弱点を一つ見つけた気がする。ゴネればいいのだ。
同じ要求を繰り返すと、時間の浪費を止めるために要求を飲んでくれるらしい。
「今日は御覧の通りご要望に応じられません。
後日こちらからお誘いします。店と時間はお任せ下さい」
勝ちはしたが、主導権はまだまだ向こうにあるようだ。
――三日後
エリザが選んだのは小田原駅から少し離れた街道沿いのラーメン屋だった。
行列のできる有名店でも、外国人観光客向けの派手な店でもない。
赤いカウンターと四人掛けのテーブルが三つ。
地元の人が昼飯を、夜はトラックの運転手が夜食を食べるような店だ。
俺たちが店に入る前に一人、入った後に二人、客のふりをした警護担当者が席へ着いた。
外にもいる。
店を貸し切らなかっただけマシだと考えよう。
俺は醤油大盛りに味玉、エリザはチャーシューメンの食券を買った。
警備担当者もそれぞれ楽しそうに食券を買っている。
店主は不意に湧いた大量注文にも怯まず、テキパキと調理を開始。
エリザはバッグからウェットティッシュを取り出し、テーブルをさっと拭いた。
久しぶりの「お店のラーメン」に俺の心は浮き立っていたが、エリザはそうでもなさそうだ。
むしろ、いつもより面倒くさそうな顔をしている。
「無理やり頼んだ形になったけど、少し休んでほしくてさ」
「ご親切にどうも。ですがお気遣いなく」
「嫌だった?」
「嫌ではありませんが、残してきた仕事が気になりますね」
やがて俺たちのテーブルに、湯気を立てた丼が二つ並んだ。
鶏ガラの澄んだスープ。縮れた細麺。海苔、メンマ、刻み葱。
俺の丼には半分に切った味玉、エリザの丼には縁を覆うようにチャーシューが載っている。
エリザは丼を見たまま動かない。俺が箸を割る横で、彼女は店主へ声をかけた。
「すみません。フォークはありますか?」
「フォーク? ああ、ちょっと待ってね」
引き出しから子供用らしい短いフォークが出てきた。
持ち手には青い新幹線の絵が描かれている。
「こんなのしかありませんが」
エリザは数秒それを見つめた。
「せっかく出していただいたのにすみません。箸で結構です」
さっと割り箸を手に取り、綺麗に割ったかと思えば小器用に麺を持ち上げる。
持ち方も所作も驚くほどきれいだった。
「上手に使えるんじゃん。何でまたフォークを?」
「女性にはいろいろ秘密があるものです」
エリザは俺の問いには答えず、音を立てないように麺を口へ運んだ。
俺は気にせず啜る。警備担当者達も啜る。大合唱だ。
エリザの顔がわずかに歪むが、これは勝ったことにはならんだろう。
というか、今日はどちらかと言うとエリザの慰問なのだ。
勝った負けたはナシ。ノーコンテスト。
「ふぅ、旨い。知り合いと食うラーメンってなんでこんなに美味いんだろうな」
「そういうものですか。よくわかりません」
そう言う割には結構ガンガン食うじゃないか。
エリザは箸を正確に動かしていた。
麺も、薄いメンマも、崩れかけたチャーシューも一度も落とさない。
箸を使い慣れている。だが、使うたびに少しだけ表情が固くなる。
「嫌いなのか、箸」
動きが止まった。聞いてはいけないことだったかもしれない。
エリザは箸を丼の縁に置き、水を一口飲んだ。
「嫌いではありません。実家では普通に使っていました」
「じゃあ――」
「子供の頃、学校へ箸を持って行ったことがあります」
俺は身を乗り出した。
エリザの自分語りは初めてだ。聞き逃してなるものか。
「母が弁当に入れたのです。大した意味はありません。
ライスがベースの弁当に箸を入れるのは当たり前ですし」
エリザは丼ではなく、揃えた箸先を見ている。
「同級生には面白かったようですね。目を細くする真似をされ、
食べ方を真似され、挙句に弁当を床へ落とされました。
次の日から私の机には割った木の枝が置かれるようになりました」
子どもの差別意識は率直で残酷だ。
そして学校という空間ではその意識は簡単に増幅される。
「先生は?」
「子供同士の冗談だと」
「そのあたりのどうしようもなさは日本と変わらないね」
「それなりに報復して以後は収まりましたが、あまりいい思い出ではありません。
担任はともかく、母を泣かせてしまいました」
俺には国籍や人種での差別は経験がないが、相当に根深いものだということは知識で知っている。エリザの「それなりの報復」は、それを抑え込めるほどに強烈だったということか。
「それ以来、箸を?」
「使わなくても済む料理を選ぶようになりました。人前では。
諍いの種になると分かっているのですから、最初から避けますよ。
『箸を使うのが上手ですね』と言われるのも違う気がしますし」
エリザは再び箸を取り、麺を口に運んだ。
「今の話を聞いて、箸を使うよう説得しようとは思わないでください」
「しないよ」
「あなたは時々、余計なことをしますから」
「今日のことか?」
「今日のことです」
悪かった、と言いかけてやめた。
軽い謝罪で今の話を片付けるのも違う気がする。
「ごちそうさまでした」
食べ終わり、皆が満足な笑顔を夜風に当てて車に乗り込んだ。
「ところで、どうしてこの店だったの?」
「製麺機で選びました。小野式を使っているそうです。お好きかと」
エリザが意味ありげな微笑みを俺に見せた。初めてかもしれない。
どうしよう……笑うところなんだろうか。俺には製麺機の知識なんてないぞ。
帰り道、俺は製麺機について検索しかけて、やめた。
製麺機の種類より、この美人弁護士が意外とチャーシュー好きだと知れたことのほうが嬉しかったのだ。




