華と牢獄
「久しぶり。話、いっぱいあるよね?」
「そうだったか?」
三井麗奈は満面の笑みで俺の進路を塞いでいた。
右へ動くと右へ、左へ動くと左へ。
「ストリートバスケのコートなら3号館の隣だぞ」
「小野っちと一緒なら行く」
「俺は帰宅部なんで」
「投資研究会でしょうが」
逃がしてくれる様子はない。
「あれから連絡しても既読つかないし、大学にもいないし、請求書も来ない。
心配したんだけど」
「こっちで全部やっとくと言っただろう」
「それは本当にありがとうね……ところであの時の女、彼女?」
「言っただろ、顧問弁護士だよ。ヴァレリー財団ってところの」
麗奈の笑顔が一瞬止まった。
再起動を待つような間があり、さっきより一段明るい笑顔になる。
「詳しく聞こっか」
「言いたくねえ」
「じゃあ簡単な質問。車のレンタル代どうやってひねり出した?」
「黙秘する」
「部室でみんなには話したんでしょ?」
「そっちから聞け」
情報が漏れている。
きっちり釘を差したはずなのにノータイムで拡散してやがる。
「グルチャで鈴木が言ってた。『世界は不公平だ』って」
あいつには今度いろいろ教えてやる必要があるな。肉体言語で。
打撃系など花拳繍腿、それこそ、ケツの穴から手ぇ突っ込んで……
「本当なんだ?」
麗奈の顔からさっきまでの笑顔が消えていた。
驚き、疑い、計算、期待。いろいろなものが目の奥で高速に入れ替わる。
「先に言っとくが、お前と結婚なんかしないぞ」
「まだ何も言ってない!」
「前に言ってた資産形成の最終手段、覚えてるよ」
「あれは一般論!」
「何度も離婚して財産分与で肥え太るのを複利と呼ぶ一般論があってたまるか」
麗奈は髪を耳にかけた。露骨に話題を変えるときの仕草だ。
「でもさ、そんなにお金があるならもうちょっとそれらしくしても良くない?」
「何が?」
「服とか時計とか。今日だって上から下まで普通の大学生じゃん」
「俺が良いと思うものを身につけているだけだ」
麗奈は俺の肩から靴まで、舐めるような視線を這わせた。
きっと合計金額が頭の中で出てるんだろうな。
「このままだとさ、小野っちが大富豪だって言っても誰も信じないよ」
「それは俺には好都合だな。警備の人たちも喜ぶ」
「せっかく大金を掴んだのに、それじゃつまらないじゃん」
「軽薄な行動には相応の災いが返ってくるんだ。もういいだろ」
そう言って麗奈とはなんとか別れたが、彼女の一言は妙に頭に残った。
――その晩
俺はベッドの中で、モナコのカジノ前を撮影した動画を見ていた。
赤いベルリネッタ、緑のサンタガータ、車種も分からない銀色の何か。
車寄せには派手な車が次々と現れ、駐車係に鍵を渡していく。
車に乗ってた男も女もまるで映画俳優だ。
こういうのではないのか。大金を持つ人間に世間が期待するのは。
確かに、俺の生活は変わった。
家事はメイド、移動はグリーン車と専用車両、食事は一流シェフが作ってくれる。
それはいい。だが、華がない。
一度はサンタガータの助手席で感じた、あのときめきがないのだ。
もちろん今の生活に不満はない。
風呂は広いし、飯はうまい。家族も前より機嫌がいい。
ただ、三井麗奈が言った「それじゃ、つまんないじゃん」が心にひっかかる。
翌朝、食堂でカールに聞いてみた。
「カール。俺、自動車の免許を取ってもいいか?」
コーヒーポットを置いてこちらを向くカール。
「もちろんでございます」
「いいのか?」
「士郎様がご希望である以上、否やはございません」
「いや、警備上、教習所へ通うとかまずいんじゃないかと思って」
「教習所に通うのはいかがなものかと」
やっぱり駄目じゃないか。
「私に妙案が」
カールは手元のタブレットを操作した。
「近隣で最近閉校した自動車教習所がございます。
施設と備品の取得について債権者と交渉いたします」
「待て」
「指定自動車教習所としての再開は難しゅうございますので、
あくまで練習施設として使用すればよろしいでしょう。
学科はオンライン、技能はDMCの専門トレーナーを手配します。
本試験は運転免許センターで。まあ士郎様ならお若いし大丈夫でしょう」
「免許を取るのに教習所を買う話になるのか?」
「元教習所です。放っておけば荒れ地になるだけの施設ですよ」
「だから安く買えると」
「はい」
金持ちの発想は何かがおかしい。
セキュリティが絡むと財布の紐がユルユルになってる気がする。
「一体いくらかかるんだ?」
「土地建物を含め、おそらく五億円には届かないかと」
高い。
高いはずなのだが、最近の俺の金銭感覚では危うく安いと言いかける数字だった。
「免許を取った後も、お好きな車を買って練習するコースとしてお使いになれば」
「それならまあ……無駄にはならないか」
「先方へは本日中に打診いたします」
「手間を掛けるね」
そんな話をしていると、エリザが食堂に入ってきて俺の向かいに座った。
「何の話ですか」
「俺が運転免許を取る話だよ。潰れた教習所を買い取って練習場にするって話」
「いいじゃないですか。リスクとのバランスを取るならそれが正解です」
無駄遣いだと嫌味を言われると思っていたのに。
意外な反応だ。
エリザはカールから説明を聞くと、タブレットに表示された候補地の資料を数分かけて確認した。
「土地の一部が土砂災害警戒区域にかかっています。
取得するなら価格交渉の材料にしてください。それ以外は構いません」
「構わないんだ」
「あれも駄目、これも駄目と言うのはサポートとは言えませんからね。
セキュリティとリスクヘッジの牢獄に押し込めるつもりはありませんよ。
先日のサンタガータ、あれが欲しくなったのですか?」
俺は昨晩見ていた動画を二人に見せた。
エリザとカールが神妙な面持ちで画面を覗き込む。
「おお、奥様の家も映ってますな」
「観光客が撮影したカジノ前の動画ですね。
写っている車両の半数近くはレンタカーでしょう」
「そうなんだ?」
「こういった人々の見栄のための商品でもありますからね」
エリザは動画を止め俺をじっと見た。
「士郎さん。あなたは高性能な車が欲しいのですか。
それとも、他人の羨望が欲しいのですか?」
「大金を相続した代わりに結構な不自由を感じてるんだ。
代償として、生活の中にこういう華も欲しいと思っている」
昨日寝る前にちゃんと想定問答しておいた成果だ。どうだ?
「大学に行って、何か言われたのですね?」
「んむ……もっと金持ちらしくしろって言われたんだよ。服とか時計とか」
「資産家でもないご友人のアドバイスを真に受けないように」
「うぐっ……」
「そもそも富裕層が高級時計を常用しているという認識が間違っています。
安価な実用品を使う方もいれば、記念品や贈答品を使う方もいます」
「一億円の時計とか持ってるんじゃないの?」
「持っている方は大勢いますね」
「ほら見ろ」
「士郎さんもお持ちですよ」
俺が?
程なくしてカールが細長い革張りの箱を何個か載せたワゴンを押して戻ってきた。
そういえば動画を止めてから急にいなくなってたな。
「財団総帥へのご就任に際し、関係各所より頂戴した品々です」
「初めて見るぞ」
「税務上の評価と処理が完了するまで保管しておりました」
箱を一つ手に取る。中には素人目にも高そうな銀色の腕時計が入っていた。
宝石を散りばめたものまである。
「それは銀行からです。こちらは保険会社。
こちらは付き合いの長い宝飾品メーカーから」
「いくらくらいすんの、これ?」
「贈答品の値段を知ろうとするのはおやめ下さい」
「これを着ければ少しは金持ちらしく見えるか?」
「時計の値段に詳しい方にはそう見えるでしょうね」
俺は時計を腕に巻いてみた。
驚くほど精巧な作りなのに薄くて、見た目よりずっと軽い。
きっと、良いものなのだろう。
だが、この時計が父の年収十年分に近い値段だと思うと違和感を覚える。
職人の高い技術には感心するが、この小さな時計に十年分の人生と同じだけの価値を見出すことは俺にはできない。
「急に、自分が何か恥ずかしいことを言ってたのではないかと思えてきた」
「士郎様、奥様は贅沢を愛しておられました。
贅沢をなさること自体は、決して悪いことではございません」
「うん……」
「ただし、他人の羨望を買うための贅沢は、
終わりなきマウントの取り合いを招くだけ、とも」
死んでからも刺してくる婆さんだな。
俺は腕の時計を外して箱へ戻した。
「いつものスマートウォッチでいい。とりあえず、免許だけ取る」
「賢明です。参考までにこんなものも見ておかれては」
カールが見せてくれたのは安全対策用の教材動画。
パリの地下鉄で高額な腕時計を手首ごと持っていかれているスプラッタムービーだった。
――二週間後
教習所の買収交渉はまだ終わっていないが、一時使用の許可が出たらしい。
コースは整備され、白い教習車が一台停まっていた。
将来俺がサンタガータを買うと言い出すことを想定してか、左ハンドルだ。
この日俺は初めて運転席でハンドルを持った。
「ミラーよし、座席よし、後方確認よし」
「はい、では発進合図をしましょう。一速に入れて。そう。
アクセルを踏みながらクラッチペダルから足をゆっくり離しましょう」
プスン
俺の初めての運転はエンスト。
ナビの画面ではAIマルグリットが高らかに笑っていた。




