第2話!お風呂に入ろう
「そこで、何をしている!」
聞こえた怒鳴り声の先に立っていたのは、俺と同じ歳くらいの女の子だった。
凛とした、つり目がちの瞳は青紫色に輝き、そのすぐ上でぱっつんに切られた前髪が、揺れている。
その墨のように真っ黒な髪は、床についてしまうのではと思うほどに長く伸び、髪と同様の色をしたフリルのドレスが、何ともミスマッチな組み合わせだ。
日本人形にドレスを着せたら、きっとこんな感じだろうと、こんな状況にも関わらず思ってしまう。
女の子は、チラと俺から視線を外したかと思うと、みるみるとその目の色を変えていった。
驚いているような、悲しんでいるような。何とも不思議な表情だ。
「どけ!」
急に走るようにして近づいてきたと思ったら、次の瞬間には俺の身体を、ジェットコースターが頂上から落ちる瞬間のような、どうしようもない浮遊感が包み込んでいた。
だが、それも一瞬だ。
床に尻もちをつき、そのあまりの激痛に顔を歪める。
服を着ていない分、床の硬さがダイレクトに伝わってくるのだ。
「いってて……」
腰をさすりながら、何とか立ち上がる。
尋常じゃない痛みに、骨にヒビでも入っているのではないかと思った。
それと同時に、ムクムクと怒りの感情が湧き上がってくる。
確かに、勝手に家へ入ったのは俺が悪い。
だが、だからといっていきなり突き飛ばしたりなんて、するか?
泥棒ではないことだなんて、俺の姿を見れば分かるだろうに。
文句を言えない立場上、非難を込めた目で見つめることしか出来ない。
だが、そんな俺の目に飛び込んできたのは、思いもよらない光景だった。
「おじいさん! 目を開けてくれよ! お願いだ!」
女の子は、ベッドに伏せるようにして、しきりに毛布を揺すっていた。
それに合わせて、おじいさんの身体は抵抗もせずに力なく揺れている。
その顔は青白く、到底生きているとは思えなかった。
「そんな……。何で? だって、さっきまで……」
さっきまで、元気だったじゃないか。俺に、話しかけてきたじゃないか。
言おうとした言葉は声にならずに、空気中へと消えていく。
何を言ったところで、亡くなってしまったのは事実なのだ。それは、変えられない。
「お前……! ここで、何をしていた? おじいさんに、何をしたんだよ!」
黙ったまま立ち尽くす俺の胸元を、女の子は掴み揺さぶった。
俺は何も反論せずに、女の子の感情を一身に受け止める。
女の子からしてみれば、俺はただの侵入者だ。真っ先に疑うのは、当然のことだろう。
それに、家族を失う苦しみは、俺が一番よく知っている。
……え?
俺は、なぜ突然そんなことを思ったのか、分からなかった。
俺に、家族はいないはずだ。いや、いたのか? 思い出せない。
「黙ってないで、何か言ったらどうなんだ!」
女の子が拳を振り上げた、その時だ。
「やめなさい!」
部屋中に響く凛とした声に、女の子の動きがぴたりと止まる。
ドアの前には、高校生くらいだろうか? 若い女性が立っていた。
足元には、これまた幼女たちが三人、足元にに隠れるようにしてこちらを覗き込んでいる。
こうしてみると、高校生というよりは、保育士といった方が正しいのかもしれない。
「何をしているの」
その咎めるような声色に、女の子は首をすくめながらも、懸命に説明し出した。
「おじいさん……。おじいさんが!」
「何? おじいちゃんが、どうかしたの?」
ベッドへ近づき、既に亡くなっているおじいさんの顔を覗き込む。
俺はその時、女性の顔が僅かに変わったのを見てしまった。
普通、人が亡くなっているのを見たら、程度の差はあれどまず驚くだろう。
だが、その女性は違った。
悲しんでいることには違いないのだが、目は伏して、ため息をついている。
まるで、こうなってしまうことが分かっていたようだ。
「……おじいちゃん、天国へ行ってしまったみたい。弔ってあげないと」
淡々と、ひとり言のように呟くと、毛布を取り払い遺体の服を脱がし始めた。
と、ドアの近くで一連の流れを見ていた幼女たちが、テテテと走り寄ってくる。
「手伝ってくれるの? ……ありがとう。それじゃあタオルと、桶にお湯を入れて持ってきてくれる?」
幼女たちはコクンと頷き、バタバタと行ってしまった。
残ったのは俺と、女性と、掴みかかってきた女の子だけだ。
今までにないくらいの、居心地の悪さを感じる。
この場に俺がいることは、明らかにおかしいはずなのに、誰もそれを指摘しない。
俺の存在そのものが消えてしまったかのような扱いに、これ以上ないくらいの疎外感を覚えた。
だからといって、あちこち動き回るわけにもいかず、俺は部屋の隅で、廊下に立たされる学生の如く立ち尽くすしていた。
ポーッと、おじいさんの体がきれいに拭かれ、新しい衣服に身を包んでいく様子を、眺める。
最後に、氷を詰め込んだ袋を手や足のところに置き、冷やして処置は終わった。
遺体を、腐らせずに保存しておくためだ。
「さ、これでお終いよ。みんな、ありがとうね。もう戻ってもいいわよ」
その言葉を聞いて、四人の幼女たちはゾロゾロと、部屋を後にしていった。
ただ一人、黒髪の子だけは俺をキッと睨み、どこか腑に落ちない様子だったが。
俺はどうしていいか分からず、ソワソワとシャツの裾を弄る。
「……さて、次はあなたね。おいで?」
一仕事終えたといった感じで、大きく背伸びをすると、目の前の女性はそう俺に話しかけてきた。
「あ、あの──」
「みゅー!」
俺が答えるよりも早く、シリャクはイスやら小物やらを吹き飛ばしながら、女性の胸元目掛けて飛び込んだ。
「あらあら、もちろんあなたのことも忘れてないわよ、みゅーちゃん」
「みゅーちゃん?」
女性は、みゅーちゃんと呼ばれたシリャクを、まるで誕生日プレゼントでお人形を貰った少女のように、ぎゅーっと抱きしめている。
違いがあるとすれば、胸が大きいことぐらいか。
一体、何を食べればそんなになるんだと言わざるを得ないほどに、胸は大きくふくよかで、身体の方はキュッと引き締まっていた。
まさに、全世界の女性が目指しているであろう、パーフェクトなボディだ。
ブラウンに染まっている髪は、ポニーテールでまとめられ、チラリと見え隠れする首筋が実に艶美であった。
「この子ね、みゅーって鳴くでしょ? だから、みゅーちゃんなのよ」
女性は、さもそれが当然であることのように、言ってみせた。
「はあ、そうなんですか……。そいつ、一応は神の使いなんでしょう? いいんですか? ペットにしても」
まあ、そうは言ってもどこから見たってペットにしか見えないし、シリャクなんて格好のいい名前よりも、みゅーちゃんと呼ばれている方がずっと似合っていた。
「みゅーちゃんは、ペットじゃないよ。いつの間にか、うちに居着くようになっただけでね? たまに、どこかに行っているみたいだけど、ちゃんとお仕事しているみたい。だって、あなたをここに連れてきたんだものね」
「……! そうだ、ここって何なんですか? 俺が前にいた世界と、明らかに違う……。それに、みゅーは、どうして俺をここに連れてきたのか……」
女性は俺の目線に合わせるように屈むと、不意に人差し指を俺の唇に当て、途中で話すのを制してきた。
前屈みになったことで、着ている服……ヨーロッパの民族衣装のようなものだが、胸が窮屈そうに収まっていて、俺は目のやり場に困りジリジリと後退する。
「まずは、お風呂に入りましょう? 私はリズ。こっちよ、ついてきて」
自らをリズと名乗った女性は、みゅーを床に下ろすと、廊下を出て右へと曲がっていってしまった。おい、みゅーを置いていくな。
聞きたいこと、まだ一つも聞けていないのだが。
というか、あの毛玉生物の名前しか判明していないのだが。
呑気に風呂だなんて、入っている場合じゃないだろうに。
リズへの不満を抱きつつ、後を追おうとした時だ。
「何だ? おい、やめろ!」
みゅーが、また俺のシャツに噛み付いている。
何がこいつをそうさせるのか、引き離そうとすればするほど、噛む力は強くなっていく。
意地でも離さないつもりか? これ以上は破れてしまいそうだ。
服はこの一枚しかないのだから、こんなところで台無しにするわけにはいかない。
……とでも、諦めると思ったか?
俺はわざと聞こえるようにため息をつき、シャツを握る手を緩める。
そして、すっかり油断しきっているみゅーの眉間に、力、怒り、殺意その他諸々の感情を込めたデコピンを入れてやった。
スコーンと、小気味よい音がシンと静まり返った部屋に響く。
「みっ!」
驚いたのか、みゅーは短い悲鳴のような声を上げると、机の下に潜り込んでいってしまった。
体が大きすぎるせいで、若干机が浮いている。
「まったく……」
一体、いつまでこんなやつに、付きまとわられなければならないのか。
この先のことを思うと、気が遠くなってくる。
「ああもう、ヨダレでベタベタじゃねーか……」
ドロッと粘着質なそれは、糸を引きながら床へと落ちていった。
あまりにもグロテスクな光景に、思わず服を脱ぎたくなる。
「ああ、そうだ。風呂に行くんだったな」
よく見てみると、シャツにはヨダレだけでなく土がついていたり、どこかに引っ掛けて裂けてしまっていたりと、逆になぜ今まで気にならなかったのか不思議に思うほど、汚れていた。
「……あの人が風呂を勧めるのも、仕方ないか」
俺は一人苦笑をもらすと、先に行ったリズを追い早足で部屋を後にした。
「随分と遅かったわね?」
「はは……。色々と、ありまして……」
長い間待たせたことを、リズは怒っているだろうか。
声色だけを聞けば、決してそんなことはなさそうなのだが……。
その表情は、確認することが出来ない。俺が、首を九十度曲げて真横を向いているせいだ。
なぜ、そんなことをしているのかというと、目の前に立っているリズが、素っ裸だからである。
一本道の廊下を通って脱衣所にたどり着いた時には、既にこの状態だった。
風呂を借りるのは、俺だけのはずだ。リズまで脱ぐ必要性は、全くもってない。
リズに聞いてみた曰く、子どもだけじゃ危ないから……らしい。
中身は二十代の男だと言ったら、彼女はどんな顔をするのだろう。
横を向いていても視界の端に映る肌色に、否が応でも意識が集中してしまう。男の性というやつか。
「ほら、いつまでもそうしてないで、脱いだ脱いだ!」
「あ……!」
だからと言うべきか、俺はリズが伸ばした手に気づかず、いとも簡単にシャツを脱がされてしまった。
あっという間に、俺も裸族の仲間入りである。
流石に裸体を大人の女性に見られるのには抵抗があり、咄嗟に下半身を手で覆って隠す。
脱衣所のヒンヤリとした空気が腹を冷やし、俺はぶるっと身震いした。
「ええ、これしか着ていなかったの? 寒くなかった?」
「どちらかと言えば、今の方が寒いですかね……」
一瞬、リズはきょとんとした表情を浮かべていたが、すぐにそれは笑顔へと変わった。
「そっかー。それじゃあ、すぐに温まらないとね」
「え? あ、うわ!」
リズは、さっきみゅーを抱いたようにして俺を抱え込み、意気揚々と風呂場へと入っていく。
その腕から逃れようと動くが、その度にスイカ大もある胸に揉みくちゃにされ、俺は早々に抵抗するのを諦めた。
「あの、リズ……さん」
「リズでいいよ。ほかの子たちからも、そう呼ばれているし」
「じゃあ、リズ。あの、頭ぐらい自分で洗うから……」
決して広いとは言えない浴室で、お互いの息遣いが感じられるほどに密着している。
リズの、細くしなやかな指が、リズミカルに俺の頭を動き回り、俺は全身の力が抜けていくのを感じた。
「気持ちいいでしょう? ……ほら、目を閉じて?」
上からぬるま湯をかけられ、耳元で泡がシュワシュワと音を立てて流されていく。
「身体は、自分で……」
「背中の方、届かないでしょ? いいから、私に任せなさいな」
そう言ってタオルで背中を擦られるが、他人に身体を触られるのは、どうにもくすぐったい。
モゾモゾと身体を動かしていると、リズに動くなと押さえ込まれてしまった。
「あなたも、大変な時にここへ来ちゃったね。急に、おじいちゃん亡くなってしまって」
「……リズは、悲しくなったりとかしないの?」
リズの口調は、あまりにも淡々とし過ぎていた。
普通、身内が亡くなったのなら、少なからず泣いたり、取り乱したりしそうなものなのだが。
「ああ、それはね……実は、おじいちゃん病気にかかっていて。ある程度は、覚悟が出来ていたのよ。それにしても、今日亡くなってしまったのには驚いたけど」
今言ったことは、あの子たちに内緒ねと、リズはそう付け加えた。
「あの人たちは、リズの子どもなの? それとも、誰かから預かっているとか?」
この家へ来てから旦那は見ていないが、外出しているだけということもある。そうだとしても、四人は少々多すぎるような気もするが。
流石に、あのおじいさんとの子どもというわけでも、ないだろうし。
「どっちも外れ。あの子たちはみんな、あなたと同じようにしてここへ来たのよ」
「俺と? それって、つまり!」
つまり、あいつらは俺がいた世界からここへ迷い込んだやつら……と、いうことか?
「あなた、この世界がどうとかって、聞きたがっていたでしょう? 同じ境遇のあの子たちなら、知りたいことが聞けるかもしれないわね」
なるほど。確かに、同じ体験をしたやつらが四人もいるならば、大抵のことは話が聞けるだろう。
もしかすると、元の世界へ帰る方法だって、分かるかもしれない。
「……あいつら、性別はどっちなんだろ……」
「ん? 何か言った?」
「な、何でもない!」
ポツリと呟いたひとり言は、流れるお湯の音にかき消され、俺ですら聞き取ることが出来ないものへとなっていた。
そう、見た目こそは俺含めて全員が、五歳程度の幼女になっているが、必ずしも中身も同じとは限らないのだ。
「さ、身体も流したし、のぼせちゃわないうちに、上がろうか」
俺は二十代男だが、あの中にはもっと年上がいたり、はたまた年下がいたりするかもしれない。
話してみるまでは、分からないが……。
脱衣所いっぱいに広がっている冷気が、火照った身体に気持ちいい。
俺はふと、横に置いてある姿見に目がいった。
一糸もまとわずに、全てをさらけ出すその姿は、いつだっただろう。昔行った美術館で見た、絵画に描かれる天使によく似ていた。
他人の身体のはずなのだが、慣れだろうか。それとも、幼すぎるからか。
裸体を直視しても、何の感情も湧いてこない。いや、むしろ欲情する方がおかしいのか。
「何? 自分に見惚れちゃってた?」
リズが、茶化すようにして覗き込んでくる。
鏡に何か映り込むよりも先に、野生動物のような勘で危険を察知した俺は、すぐさまその場を離れて言った。
「それよりもリズ、俺の服はどうすればいいんだ? このままじゃ、湯冷めしちまうよ」
「ああ、それなんだけどね。あなたの服ボロボロで、とてもじゃないけど着られる状態じゃなかったの。代わりに家にあるのを着てって? 着られない方は、処分しておくから」
リズが持つ服は、ほとんどボロ雑巾のようになっていて、よくこれが着れたものだと感心してしまうほどだ。
これほどボロボロになるだなんて、俺は一体どれくらいの時間あそこに倒れていたのだろう。
しばしの間考えてから、俺はリズに言った。
「悪いんだけど、その服とっておいてくれないかな?」
「なぁに? この服、そんなに大事なものなの?」
大事……まあ、それで間違ってはいないか。
この訳の分からない世界で、唯一この服だけが、俺が異世界に飛ばされてしまったことを、確認出来るものだ。
汚れていてもいい。もう、着られなくたって構わない。
ただこの服がないと、俺は元いた世界を忘れてしまいそうだった。
向こうの世界が夢で、こちらが現実なのだと思い生きていくのかと考えると、抗いようのない恐怖が、喉元から湧き上がってくるようだ。
「……それなら、これはタンスにしまっておくね」
幸いにも、リズはゴミ同然の服を捨てようとはしなかったし、理由も聞いてこなかった。
いや、あえて聞こうとしなかったのか。何にせよ、ありがたいことだ。
「みきゅっきゅっきゅー!」
「あれ、みゅーちゃん。迎えに来たの?」
リズは若干嬉しそうに、みゅーの頭を撫でた。手がすっぽりと、毛に埋もれて見えなくなっている。
実は、ものすごく体が細かったりなんて、するんだろうか。無性に、あのフワモコな毛を刈ってやりたくなる。
「少し待っててね。……はい、これが新しい服よ」
そう言って、リズが真新しい、おそらくはまだ誰も袖を通していないであろう服を、差し出してきた。
みゅーを触った後で、毛がついていないかが気にはなるが、俺は快くそれを受け取る。
上下が繋がっている、ワンピースのようだ。
上部分がピンク色で、下部分が白になっている。胸元についている黒のリボンが、目を引く。
わざとらしささえ感じる可愛らしさに、今からこれを着るのだと思うと気恥ずかしくなる。
「下着は、ここに置いておくね。私とみゅーちゃんは、外に出てるから」
リズが、みゅーを抱え、脱衣所を出て行く。
大きさの割に、あまり力を入れていないところを見ると、やはり大部分が毛で覆われているのだろう。
リズの両腕にすぽっと収まっているみゅーが、結婚式に持つブーケのようだと思った。
さて、ようやく一人になったところで、服を着て……。
ジッと服を持ったまま、俺は固まった。
これ……下から、くぐるのか? それとも、ズボンのように足から入れる?
はたして、どう着るのが正解なのか。上か、下か? 何度も服を持ち替える。
無理もない。こういうのを着るのは、初めてなのだ。
正しい着方など、分かるわけがない。
「……ええい! ままよ!」
あまり遅いと、リズが怪しみそうだ。
どうでもいい。着られれば、それでいい。
俺は、一番着やすいと思っていたスカート部分に頭を突っ込み、そのまま首、そして腕を通していった。
拍子抜けするほどにあっさりと着れたことに、まずは安堵のため息をつく。
そして、せっかく服を着たというのに、スカートのヒラヒラのせいで落ちつかない股下に悩まされるのだった。




