45話
「行くよっ!」
アイトリアの手を引いて、イーリスは舞台から飛び降りた。
ソティルは雨にあてられたらしく、おいらたちの相手をする余裕はなさそうだ。頬を火照らせて身をよじりつつ、舞台にくずおれたところだった。
周りに儀式関係者が殺到するが、皆立ち所に泥に足下を掬われてひっくり返る。
そんな中、一人遠くから指をさして叫ぶ男がいた。
「貴様! 儀式を滅茶苦茶にして、どうなるかわかっているのか!」
オクシュである。どうなるもこうなるも、アイトリアを見殺しにする気ならこんな苦労はしていない。おいらたちにとってはこうなるのが必定ってもんだ。
「しらなーい! 雨降ってるんだから、べつにいいじゃん!」
「良いはずがなかろう! 供物奉納の儀はブライトン家最大の秘術。中断するなど前代未聞、言語道断!」
「じゃ、これがはじめてなんだね、すっごいじゃん!」
あっけらかんと言い放って、イーリスは元来た道を突っ走る。
どろんこ魔法全開なので、誰も彼女を捕まえることはできない。
「母さん!」
採掘所の北側斜面を登り切ったところで、メテオーラとセナと合流する。
が、メテオーラは一つ頷いただけで、きっぱりと告げる。
「アイトリア、今は行きなさい。ここは私が食い止めます」
「母さん、でも!」
「彼らにとって、雨乞いの儀以上に神聖なものはありません。しかもその中でも最高位の供物奉納の儀を台無しにされたとあっては、ただでは済みませんよ。ここは、儀式が成功したとみなされる一週間の片時雨を以て証明するしかありません」
久々に見るのであろうメテオーラの顔を凝視しながら、アイトリアは歯噛みする。
「でも、それじゃ、母さんは!」
「私なら大丈夫。心配無用です。イーリスさん、それにピュイさんも。一週間、息子を頼みましたよ」
「まかせて!」
おいらもケロッと鳴いて軽く答える。全て事前の段取り通りだ。
アイトリアは歪めた唇を開きかけたが、しかし、最後は母を信じることにしたようだ。
「母さん、一週間後に! それにセナも、またな!」
「うん、お兄ちゃん、待ってるからね!」
「セナちゃん、ゆっくり休んで待つんだよ!」
大きく頷くセナに笑顔を送って、イーリスは駆け出した。
メテオーラとセナの二人は、既に舞台の方を見下ろしている。
次の瞬間。
風が、吹いた。
おいらたちが逃走する時間を稼いでくれるのだろう。
イーリスが、アイトリアの手をぎゅっと握る。
すると、アイトリアが、その手を強く握り返してきた。
「へんな顔!」
白い化粧が中途半端に雨に流されて、アイトリアの顔は見られたもんじゃなかった。
夜空は相変わらずの晴れ模様。素晴らしい月夜なのに、優しい雨が降り注ぎ続けている。
人はそんな奇跡のような雨のことを、天泣と呼ぶ。
アイトリアの目元の化粧を落としていたのは、そんな天泣にも負けず劣らず尊い、彼自身の嬉し涙だった。
さて、おいらたちは今、ラディアに向かって旅をしている。
採掘所を離れてすぐに雨は止んでしまった。しかし、おいらはもう慌てない。
サルの方にはどんよりとした雨雲が浮かんでいる。
メテオーラに任せておけば、あっちは大丈夫だろう。
そのメテオーラの話によると、サルからラディアまでは、徒歩で三日ほどの距離らしい。
強行軍にはなるが、土曜に辿り着ければ二週遅れは免れる計算だ。
だが、そんなイーリスの旅路に、メテオーラは懸念を示していた。
相変わらず遠回しな物言いだったが、要約すれば、イーリスはオンブロス教会による何らかの罰を受けることになるはずだ、ということだった。
おいらとしても不安ではある。
しかし、イーリスから雨女としての生活を取って、何が残る?
指令書が示す行き先以外に、おいらたちは向かう先を知らない。
イーリスも同じ考えらしく、ラディアに向かうと力強く宣言した。
なら、あとは深く考えずに、ただ突き進むだけだ。
隣を歩くアイトリアがイーリスの任務の妨げになることは百も承知。
だが、アイトリアに照らされて輝くイーリスの表情は、何物にも替え難い。
イーリスはあの旅立ちの日から、初めて太陽を獲得したのだ。
おっと、言い忘れるところだった。
イーリスが勝ち取ったのはそれだけじゃなかった。
おいらが意気地なく先送りしていたことに、イーリスは自分で答えを導き出したのだ。
イーリスは藪から棒に、おいらに宣言した。
それは――
「わたし、いつか母さんを捜しに行く!」
そう口にするイーリスの瞳は、希望に満ちあふれていた。
おわり