44話
儀式の準備は滞りなく進んでいた。
サル北西に位置する採掘所。十日前に雨乞いの儀が行われた場所で、三度目の儀式が行われようとしている。ただし舞台上の様子は前回とは様相が異なる。以前は巫女が舞うために何も置かれていなかったが、今回は祭壇が設えられ、食べ物や法具が供えられていた。
供物奉納の儀は、日没と共に執り行われる。
日は着々と傾き、人々の影は徐々に長くなる。
採掘所の斜面には、既に人々が人だかりとなっている。儀式は北を向いて行われるため、早く来た者から順に北側を埋めていった。
その中にはアイトリアの祖母、トーラの姿もあった。ここまでやって来るのに疲れ果てたのか、座り込んで、ただただ舞台の方を見つめている。
やって来る人々の数は止まることを知らず、トーラの前にも人だかりができる。人壁に塞がれて、トーラの視界から舞台が隠れてしまう。だが、トーラはじっと、舞台の方向を見つめ続ける。
やがて舞台の設営が終わり、関係者たちが持ち場につく。
喧噪は次第に静まり、人々の視線が舞台に集中する。
太陽が地平線に沈み行く中、ソティルの父、オクシュ・ブライトンが舞台に上がった。
「皆の衆、よくぞお集まりいただいた!」
よく通る低い声が、採掘所全体に響き渡る。
「この地に雨の恵みが途絶えて久しい。皆の衆には苦労をかけたと、心からお詫び申し上げる!」
オクシュの言葉に、誰もが息を飲んで耳を傾けている。観衆は皆、痩せ細ろえ、肌は精気が抜けたかのように乾燥している。だが、目だけは期待に爛々と輝いていた。
「しかし、その苦労も今夜限りだ! 私は決意した! 神に至高の供物を捧げ、その怒りを静めることを!」
その言葉と共に、採掘所北側から舞台に続く一本の黒いカーペットロードが、無数の松明に照らし出される。
その北端に、二人の人間が並び立って現れた。
左方は身を清められて全身に真っ白の化粧を施されたアイトリアだ。純白のローブを羽織っており、立派な出で立ちではあるが、その手首には無骨な手錠がかけられていた。
そして右方は、紐のような巫女装束でむき出しの肩に、半透明のショールを掛けたソティルだ。アイトリアの手錠から伸びる鎖を握っているのが遠目からでもはっきりとわかる。
鎖を持つソティルの手に加わったわずかな力を合図に、二人は足並み揃えて前進を始める。
同じ歩幅、同じ歩調、同じ息づかいのまま舞台に上ると、舞台中央の祭壇の前で、ソティルはオクシュと向かい合う。
ソティルが小さく頷いたのを合図に、オクシュは二人を舞台に残して降りていった。
残された二人は並んで祭壇に向き直って跪き、黙礼する。
アイトリアはそのままの姿勢で身じろぎ一つせず、ソティル一人が立ち上がる。
祭壇脇に手錠の鎖を結わえ付けてから、祭壇前に安置されていた台座を手に取った。
観衆によく見えるように両手で恭しく持ち上げられたそれは、肘掛けのような木製の台座だった。一言に木製の台座と言ってもただの木工品ではない。樹齢千年を超えるご神木から切り出して作られた神具である。
その台座を数歩分だけ舞台北側へと運ぶ。
身につけていたショールを敷くと、その上にそっと台座を安置した。
台座に一礼して、今一度祭壇に向き直る。
続いて、ソティルは祭壇の中央部に祭られた宝剣に手をかけた。
目の高さまで両手で持ち上げて黙礼した後、流れるような動作で鞘ごと腰に差す。
ソティルが祭壇に向かって姿勢を正すのと同時に、アイトリアが立ち上がった。
二人並んで祭壇に一礼し、それぞれが逆回りに北に向き直った。
トーラからは、アイトリアの様子は何一つ見えない。だが、孫が生贄に捧げられる瞬間が近いことは、張り詰めた空気から敏感に感じ取っていた。
「ああ……」
祖母の口から漏れた声は、沈黙の中にあってよく通った。
だが、振り向く者は誰もいない。
皆、アイトリアが跪き、台座に首を下ろす瞬間に釘付けだった。
その時だった。
虚ろだったアイトリアの目が大きく見開かれた。
その口も、ぽかんとまん丸く開いている。
アイトリアの目は、北の夜空を見据えていた。
正確には、そこにある、今の今まで待ち焦がれていたものを。
皆、アイトリアの表情に注視していた。
だからこそ、すべての観衆がアイトリアの眺める先を振り返った。
北の空。
そこから、真っ黒な雨雲が押し寄せてきていた。
トーラも観衆の異変に気づき、遅れて振り返る。
「おお!」
再び口から漏れた声は、嘆きではなく感嘆だった。
雨雲は、徐々に徐々に近づいてきていた。
だが、それも長くは続かなかった。
雨雲の接近が、あるところを境にぴたりと止まってしまったのだ。
「静まりたまえ!」
指導者にふさわしいよく通る声を発したのは、先ほどまで静観していたオクシュだった。
オクシュは舞台の傍らで採掘所中を見渡す。
「諸君、神は儀式を歓迎しておられる! さぁ、今こそ供物を献上して、恵みの雨を乞おうではないか!」
それを合図に、ソティルはアイトリアの傍らに移動し、宝剣を鞘から抜き放った。
「あなたに恨みはありませんが、これが私の仕事ですの。恨まないでくださいませ」
他の誰にも聞かれないようにと、口の隙間から漏らしたソティルの囁きに、アイトリアはわずかに頷く。
「わかってる。セナの代わりに手を上げたときから、覚悟は決めてる。あんたのせいじゃないことだって、わかってるさ」
それだけ伝えると、アイトリアは目を閉じた。
もはや、雨雲が近づいてくることもない。
「……雨は必ず降らせますわ。ここだけではありません、この世界から、干魃被害を撲滅いたします。だから、あなたは安心してお眠りください」
観念したのはソティルの方か。
自分自身に対する呪いの言葉になど、返事をする者は誰もいない。
「あの日申し上げた言葉は取り消します。身分の差など関係なく、あなたの命は尊かった」
アイトリアは苦笑する。不器用なお嬢様だと。
全ては水に流そう。これから降る雨と共に。
ソティルは遂に宝剣を天に掲げて、アイトリアの首筋に狙いを定めた。
その時だった。ソティルの頬に、冷たいものが流れたのは。
思わず宝剣を片手持ちにして頬を撫でる。
水だ。だが、涙などではない。目元は濡れていない。
ソティルは観衆の視線も忘れて天を仰いだ。
そこには、満点の星空が広がっていた。
その中に、うっすらと細い筋雲がたなびいてはいたが、その空は晴れそのものだった。
それなのにどうだ、水が次から次へとソティルの顔を打つ。
観衆にも同じように水がかかり、皆空を仰いで何事かと訝しんでいる。
儀式のクライマックスを前に、いっそ不気味でさえあった。
瞑目していたアイトリアも、首筋に当たった冷たい水滴に、思わず目を見開いた。
その視線が、採掘所北側に伸びる街道を捉えた。
そこにあったのは、見覚えのある二つの顔と、懐かしい一つの顔だった。
「イーリス! セナ! それに……母さん!」
まさか聞こえたわけではなかろう。
つい声に出して叫んでしまうアイトリアに、イーリスが手をぶんぶん振った。
アイトリアは無意識のうちに膝立ちになりかけた。
しかし、その首筋に触れた冷たい感触に、アイトリアは硬直する。
見るまでもなく、鋭利な刃のそれだった。
「動かないで下さいまし。まだ儀式は終わっておりませんわ!」
ソティルの押し殺した声に、アイトリアは何も言い返せない。だが、雨が降っているのに儀式を続ける必要があるのかと思わずにはいられない。
先ほどまで固まっていた命を捧げる決心は、既に粉々に砕け散っていた。
観衆も舞台の様子に騒然としている。それを沈めたのは、またもやオクシュだった。
「見よ! 儀式の前祝いだ! 神が我々の行いを歓迎してくださっているのだ! さぁ巫女よ、今こそ神に、供物を捧げ賜え!」
ソティルは頬を上気させながら、宝剣を再び天高く掲げた。
そしてその切っ先を、ひと思いに振り下ろす。
しかし、宝剣はアイトリアの首を切り落とす直前に、ソティルの手元から消えた。
「えっ?」
ソティルは空になった自分の手を呆然と見つめてから、慌てて宝剣の行方を探す。
しかし観衆には、その行方は明らかだった。
宝剣は、突然ソティルの手元から弾かれるようにして、彼女の頭上高くに舞い上がったのだ。
観衆は、誰もがソティル自身が宝剣を投げ捨てたものだと錯覚した。
儀式関係者も例外ではない。オクシュの恫喝が聞こえてくる。
そんな中真実を知り得たのは、舞台ではなく北を見つめていたアイトリアだけだった。
アイトリアの視線の先には、彼の母、メテオーラの姿があった。
メテオーラがウインクする前から、アイトリアは理解していた。
彼女が風を操って、宝剣を吹き飛ばしたのだと。
そしてメテオーラより更に先行して、怒濤の勢いで雨を引き連れて坂を滑り降りてくるイーリスの姿があった。
観衆や儀式関係者が少女のただならぬ突進に気づいたのは、彼女が舞台の目前にまで辿り着いた時だった。
「アイトリアーっ!」
叫びながら、イーリスは跳んだ。どろんこ魔法の力を借りた跳躍は、儀式関係者を軽々と飛び越えるほどの距離を稼ぎ、楽々舞台上に着地する。
そして、背中の戦闘用折り畳み傘改を剣の如く引き抜いて、ソティル目指して突撃する。
「や、やめっ」
イーリスの傘から逃れるように、ソティルは身をよじる。
しかし、イーリスの狙いはソティルの上空にあった。
イーリスが傘を一閃する。
甲高い音を上げて、イーリスの戦闘用折り畳み傘改が宝剣を弾き飛ばした。
宝剣は祭壇脇に結わえられた鎖を断ち切って、ようやく地面に突き刺さって止まった。
観衆も、儀式関係者も、ソティルさえも。
呼吸することすら忘れてしまったかのような沈黙の中。
最早本降りになり始めた雨だけが、二人に祝福を送る。
イーリスはアイトリアに歩み寄って、片手を差し伸べた。
「助けに来たよ!」
イーリスの手を、アイトリアは泣き笑いのような表情を浮かべつつ、がっちりと掴んだ。




