反対派閥
薄暗い王宮の廊下を進んでいく。
本来であれば、このまま階段を下り、陽の光も届かない湿った地下牢へと連行されるはずだった。しかし、歩みを進めるにつれ、私は妙な違和感を覚えた。
近衛兵たちが私を連れて向かっているのは、地下へと続く石階段ではなく、王宮の裏手に広がる広大な庭園へと続く西の回廊だった。
「……どこへ連れて行くおつもりですか? 地下牢は反対側のはずですが」
私が尋ねると、私のすぐ後ろを歩いていた近衛兵の隊長格の男が、兜の隙間から低く囁いた。
「黙ってついて来てください、アウレリア様。殿下の指示通り『牢獄』へお連れするわけにはまいりません」
「え……?」
庭園の奥、密林に覆われた一角に、ひっそりと佇む古い建物が見えてきた。「月光の離宮」と呼ばれる場所だ。かつて王族の静養地として使われていたが、今は使われていないはずの離宮の窓から、温かな橙色の光が漏れていた。
近衛兵は静かに重厚な木造の扉を開けた。
そこに待っていたのは、冷たい鉄格子でも、カビ臭い暗闇でもなかった。
「やあ、アウレリア公爵令嬢」
ふわりと漂ってきたのは、極上のヴィンテージワインの香りと、暖炉の薪がはぜる音。
広々としたサロンには、絨毯が敷き詰められ、豪華なソファに腰掛けた男たちが、優雅にワイングラスを傾けていた。
そこにいたのは、今夜の建国記念パーティーを「体調不良」や「領地の政務」を理由に欠席していた、この国の真の重鎮たちだった。
「……マルクス侯爵……? それに、他の皆様まで……」
私を連行してきた近衛兵の隊長が、素早く私の手枷を鍵で外した。兵士たちは私に向かって深々と頭を下げると、そのまま給仕のように退室し、扉を固く閉ざした。
近衛兵たちが従っていたのはルキウス殿下ではなく、目の前に座る人物――マルクス・セルウィリウス侯爵だったのだ。
「茶番に付き合わされて災難だったな。怪我はないかい?」
マルクス侯爵は白髪交じりのヒゲを蓄えた渋い壮年で、我が国でも有数の軍事力を誇る南部領地の主だ。そして彼の周囲を囲んでいるのは、東部を治める伯爵、財政に強い子爵、さらには法服貴族の重鎮たち……。
噂には聞いていた。ルキウス殿下の横暴な政策や、無謀な増税、濡れ衣による財産差し押さえによって、王家に深い怨念を抱く貴族たちが存在すると。しかし、まさかここまで主要な有力貴族のほぼ全員が顔を揃えているとは、私の予想を遥かに超えていた。
「侯爵……これは一体、どういうことですか? 近衛兵まで貴方様の手先だなんて」
私が尋ねると、マルクス侯爵は苦笑しながら新しいグラスに赤ワインを注ぎ、私に手渡してきた。
「手先などという聞こえの悪い言い方はよしてくれ。彼ら近衛兵の若い者たちもまた、先の戦争で無謀な指揮によって帰還し、また兄弟や友を失った者たちなのだよ。誰もがルキウス殿下の狂行に耐えかねていた。我々が結成したこの『同胞の集い』に、彼らが協力してくれるのは当然の帰結だ」
マルクス侯爵はグラスを弄びながら、瞳の奥に鋭い光を宿した。
「アウレリア嬢。君の父上と兄上の件は、本当にお悔やみ申し上げる。……そして同時に、君が今日まで一人でルキウスの強圧に耐え、クラウディア公爵家の誇りと兵力を守り抜いてくれたことに、心から感謝したい」
「私に感謝ですか?」
「ああ。君が踏みとどまってくれたおかげで、ルキウスはクラウディア家の軍事力を手に入れられずに済んだ。もしあの男が公爵家の私兵まで意のままに動かせるようになっていたら、我々も手出しが難しかっただろう。……アウレリア嬢、単刀直入に言おう。我々の側に加わってくれないか?」
集まった貴族たちの視線が、一斉に私へと注がれる。その瞳に宿っているのは、逃避でも諦めでもなく、静かに燃える革命の炎だった。
「陛下の容態は、もはや数日ともちそうにない」と、マルクス侯爵は重々しく口を開いた。「陛下が崩御されれば、ルキウスが即位する。あの愚か者が完全に王位に就けば、この国は崩壊だ。我々は最悪の事態に備え、すでに動き出している」
私はワインを口に含み、喉を潤してから言った。
「……お言葉ですが、侯爵。お気持ちは分かります。ですが、これは明白な『王家への反逆』となります。いかにルキウス殿下が愚鈍であろうと、彼は正統な第一王子。王都の防衛騎士団や第一近衛師団は、彼の手中にあります。大義名分なしに立ち上がれば、我々はただの逆賊として潰されるだけです」
「さすがはティベリウス公の娘だ。あの余興の後で、冷静で素晴らしい」
マルクス侯爵は心底愉快そうに笑い、ソファから立ち上がった。
「心配いらんよ、アウレリア嬢。我々は反逆などしない。ただ『正当な王位継承者』に、本来あるべき場所へお戻りいただくかたちを取るのだから」
「正当な王位継承者とは……?」
私が首を傾げると、侯爵は一本の羊皮紙の書状をテーブルの上に広げた。そこには、忘れもしない、力強い紋章が押されていた。
「ルキウス殿下の異母弟――ガイウス殿下だ」
その名を聞いた瞬間、私の胸が大きく跳ねた。
ガイウス殿下。
現国王と、亡き第二妃との間に生まれたお方。幼少期から聡明で武勇に優れ、領民からも兵士からも絶大な人望を集めていた方だ。しかし、その優秀さを恐れたルキウス殿下と第一妃派閥によって、数年前、追いやられるようにして国の最果て――辺境の聖都エブスへと左遷されたのだった。
聖都エブスは、異教徒の勢力と接する最前線だ。ガイウス殿下は過酷な環境の中、限られた軍勢で怒涛のように押し寄せる異教徒の侵攻を防ぎ止め、今や聖都の守護神として称えられている。
「……ですが、ガイウス殿下は今もエブスで異教徒の防衛に当たっておられるはず。殿下が王都へ動けば、聖都が落ち、周辺各国が根底から揺らぎます」
「普通ならな」と、マルクス侯爵は不敵な笑みを深めた。「だが、すでに裏で交渉は成立している。間もなく、我らが信仰する『オルフェ教会』の本山より派兵された、二個師団もの聖騎士団がエブスに到着する」
「オルフェ教会の二個師団が……!?」
私は思わず息をのんだ。
オルフェ教会は国境を越えた強い権威を持つ大陸屈指の宗教組織であり、その聖騎士団は一騎当千の精鋭だ。教会にとっても聖都エブスが奪われることは絶対に避けたい。ゆえに、侯爵たちの働きかけとガイウス殿下の密書により、教会の正規軍がエブスの防衛を引き継ぐことが決定したというのだ。
「教会の騎士団が着任し次第、彼らと入れ替わる形で、ガイウス殿下は自国軍の精鋭を率いて王都へ帰還される。オルフェ教会の『正統なる王位継承者への支持』という後ろ楯を携えてな」
マルクス侯爵は私の前まで歩み寄ると、その大きな手を差し出してきた。
「ルキウスは自分が完璧な勝利を収めたと思い込み、今頃は建国記念パーティーの残飯を貪りながら、君の財産をどう山分けするか腹黒い取り巻きどもと相談していることだろう。……だが、彼が王冠を手に取るその瞬間に、我々は王都の門を開き、ガイウス殿下をお迎えする」
「……」
「アウレリア嬢。君の持つクラウディア公爵家の威信、そして父上から受け継いだ北部の兵力。それが加われば、勝率は確実となる。亡き父上と兄上の無念を晴らし、あの愚か者に本当の『現実』を突きつけてやりたくはないか?」
差し出された侯爵の手を見つめる。
脳裏に浮かぶのは、自分を誇り高く育ててくれた父の笑顔。私の剣の稽古につきあってくれた優しい兄の姿。
そして、彼らの死を嘲笑い、敗戦の罪を押し付け、私を罪人として踏みにじろうとしたルキウスの不愉快な高笑い。
静かに、だが胸の奥底からマグマのように湧き上がる熱い感情があった。
悲しみはもう十分に味わった。次に私を満たすのは、徹底的な、そして容赦のない『反撃』だ。
私はグラスをテーブルに置くと、迷いなくマルクス侯爵の手を握り返した。
「喜んで、ご協力いたしますわ、侯爵」
私は唇の端に、冷ややかな、けれど確かな決意を秘めた笑みを浮かべた。
「あの哀れな王子殿下に、公爵家を敵に回すということがどういうことか……身をもって教えて差し上げましょう」
ガラス窓の外、暗闇に包まれた王宮の頭上には、間もなく訪れる嵐を予告するように、不穏な満月が冷たく輝いていた。




