愚かな婚約破棄
絢爛豪華な金箔の装飾も、天井いっぱいに描かれた神話の壁画も、今夜ばかりは空しい光を放っているだけに見えた。
グラン・ヴェルム王国の王宮が誇る大広間「天の階」には、例年であれば溢れんばかりの貴族たちが押し寄せ、着飾った婦人たちの扇が踊り、上質なワインの香りが充満しているはずだった。しかし、建国記念の祝宴という大名分が掲げられているにもかかわらず、今夜の会場は恐ろしいほどにスカスカだった。主要な有力貴族の姿が目立って見当たらない。まばらな出席者たちは、互いに目を合わせるのを恐れるように、杯を手に固い表情で小さく囁き合っている。
「……陛下のお姿だ」
誰かが呟いた声を皮切りに、広間に冷ややかな緊張が走った。
玉座の置かれた一派高い壇上に、我が国の主であるアウグストゥス陛下がお姿を現した。だが、そのお姿に往年の威厳は微塵もなかった。病魔に蝕まれたお顔は土気色に沈み、重厚な王冠の重みにすら耐えかねているかのように首を萎れさせていらっしゃる。
「……建国を祝う……余の民に……平和あれ……」
かすれ切った声で短くそれだけを仰ると、アウグストゥス陛下は開宴の乾杯すら待たず、左右を固める側近たちに抱え上げられるようにして、逃げるように自室へと戻っていかれた。王の衰弱は、もはや隠しようのない事実として白日のもとに晒されたのだ。
私は、手にしていたクリスタルグラスをそっと指先で転がしながら、その光景を静かに見届けていた。
私の名はアウレリア・クラウディア。グラン・ヴェルム王国において最も古い歴史を持ち、かつては王家に次ぐ権勢を誇ったクラウディア公爵家の現在の当主代理であり、一人娘だ。
私が纏っているのは、華やかな宴には到底不釣り合いな、黒に近い深い紺色のドレスだった。喪に服す期間はとっくに過ぎていたけれど、華美な装飾で飾る気にはどうしてもなれなかった。
幼い頃に優しかった母を病で亡くした私にとって、家族と呼べる者は父であるティベリウス公爵と、2つ年上の兄クィントゥスだけだった。しかし、その二人も今はもうこの世にはいない。ほんの数ヶ月前、隣国との間で勃発した戦争において、二人は還らぬ人となったのだ。
戦場で命を落とすことは、武門の誉れでもあるクラウディア家にとっては、確かに誉れかもしれない。だが、その死の実態はあまりにも無惨で、理不尽なものだった。戦術の何たるかをの知らぬ愚か者が最高指揮権を握り、功名心に駆られて前線を崩壊させ、その尻ぬぐいとして父と兄の軍勢を死地へと投げ込んだのだから。
その「愚か者」の顔が、広間の中央へと歩み出てくるのが見えた。
金髪を油で塗り固め、身の丈に合わない豪奢な宝石を散りばめた衣装を纏った男。第一王子であり、グラン・ヴェルム王国の王太子――ルキウス殿下だ。
アウグストゥス陛下が退室されたことで、自分がこの場の支配者になったとでも言いたげに、ルキウス殿下は不快なほど歪んだ笑みを浮かべながら、高壇の上から見下ろすように私へと視線を注いだ。
パーティーが中盤に差し掛かり、宴の雰囲気が重苦しさのピークに達したその時、ルキウス殿下は大げさに手を叩いて楽隊の演奏を止めさせた。
「静粛に! 皆のもの、注目せよ!」
響き渡る声に、広間にいたわずかな貴族たちが一斉に足を止める。殿下は冷ややかな目を私に向け、右手をビシッと突きつけた。
「アウレリア・クラウディア! 前へ出よ!」
私は静かに吐息を漏らし、ドレスの裾をわずかに持ち上げると、迷いのない足取りで殿下の前へと歩み出た。
「お呼びでございますか、ルキウス殿下」
「くく……相変わらずすました顔をしおって。貴様のような冷酷で可愛げのない女と、長年婚約者として付き合わされてきた私の苦痛が分かるか? だが、それも今夜で終わりだ!」
殿下は胸を張り、朗々と叫んだ。
「アウレリア! 貴様との婚約を、本日この場をもって破棄する!」
静まり返る大広間。だが、驚きの声を上げる者すらほとんどいなかった。この場に残っている貴族たちの多くは、ルキウス殿下の威光に怯える平民上がりの新興貴族か、取り巻きのイエスマンばかりだったからだ。
「……理由をお伺いしてもよろしいでしょうか」
私が淡々と尋ねると、ルキウス殿下は待ってましたとばかりに顔を歪ませ、声を張り上げた。
「決まっているだろう! 罪人め! 先の隣国との戦争において、我が国が多大な損害を被り、敗北を余儀なくされたのは、すべて貴様とクラウディア公爵家の不忠によるものだからだ!」
開いた口が塞がらないとはこのことだった。
敗戦の責任? 無謀な突撃を命じ、陣形を崩壊させて真っ先に逃げ出したのは誰だと思っているのか。父ティベリウスは最後まで殿下の殿を務め、兄クィントゥスと共に押し寄せる敵軍を食い止めて戦死したのだ。
「父と兄は、最後まで殿下をお守りして命を散らしました。それを敗戦の責任とされるのですか?」
「黙れ! ティベリウス公が拙速な進軍を主張したからこそ、我が軍は罠にはまったのだ! さらに言えば、当主と跡継ぎを失ったクラウディア公爵家を速やかに王室へ奉還せず、女の身でありながらいつまでも居座り、我が王室の財政支援を拒み続けた貴様の傲慢さ! これこそが国を揺るがす大罪でなくて何なのか!」
要するに、こういうことだ。
父と兄を失い、後ろ盾をなくした世間知らずの公爵令嬢だと高を括っていた私を、殿下は意のままに操ろうとした。公爵家が所有する豊かな領地、精鋭揃いの私兵、そして膨大な財産を「王室への寄付」という名目で差し出させようとしたのだ。
しかし、私はそれをすべて書類と法理を突きつけて撥ね退けた。公爵家の権力を使いたいだけの殿下にとって、まともに領地を治め、理詰めで反論してくる私は「王子の邪魔をする生意気な女」でしかなかったのだ。
軟弱な女に公爵家は務まらん――それが殿下の口癖だった。
自分が思い通りにできない財産なら、冤罪をでっち上げて奪い取ってしまえばいい。敗戦の責任を死人に擦り付け、残された一人娘を罪人に仕立て上げれば、クラウディア公爵家のすべては王太子のものになる。あまりにも浅はかで、あまりにも露骨な略奪だった。
「身の程を知らぬ愚か者め! 貴様のような軟弱で腹黒い女に、公爵家の当主など務まるはずもない! 敗戦の補償としてクラウディア家の全財産と領地を没収し、貴様自身は地下牢へ投獄する! 近衛兵、この女を引っ立てよ!」
殿下の合図とともに、甲冑を響かせて四人の近衛兵が歩み寄ってきた。
私は周囲を見渡した。嘲笑を浮かべる殿下の側近たち、関わり合いを恐れて目を背ける貴族たち。この重苦しい王宮の中で、私は完全に孤立していた。
「……私の言い分を聞くおつもりはないのですね」
「犯罪者の弁明など聞く価値もない! 連れて行け!」
私は暴れることもなく、差し出された手枷を受け入れた。冷たい鉄の感触が両手首を締め付ける。近衛兵たちに前後を挟まれ、私は大広間を後にした。背しろで、ルキウス殿下が満足気に見せつける高笑いが響いていた。




