第9話 「返事の条件」
翌朝、靈は雨森に電話した。
メッセージが届いたのは夜の十一時過ぎだった。その夜は返事をせず、板の間で零の型を二度通してから床についた。眠れないかと思ったが、意外と眠れた。朝起きて、もう一度メッセージを読んで、電話することにした。
「昨夜、非通知でメッセージが来ました」
雨森の返答は早かった。「内容を教えてもらえますか」
靈は文面をそのまま読み上げた。大和魂の本義を、あなたはご存知ですか、という最後の一行まで。
雨森はしばらく黙っていた。
「今日、伺います」
「今日は仏滅では」
「仏滅です」雨森は少し間を置いた。「ただ内容が内容です。昨日に続いて例外にさせてください」
午前中に雨森が来た。
いつもと違い、今日はバッグを持っていない。手ぶらで道場に入り、座布団に座ると、まず靈のスマートフォンを見せてもらいたいと言った。
靈はメッセージの画面を開いて渡した。
雨森はしばらく画面を見ていた。文面を読むというより、何かを確認しているような目だった。
スマートフォンを返しながら、雨森は口を開いた。
「送り主は倉敷恒雄だと思います」
靈は茶を淹れる手を止めた。
「根拠は」
「文体と、最後の一行です」雨森は膝の上で手を組んだ。「大和魂の本義という言葉は、倉敷が初期の講演で繰り返し使っていたフレーズです。現在も組織内で使われていますが、外部への文書でこの言葉を使うのは倉敷本人に限られているという情報があります」
「情報源は」
「叢雲の調査部門です」雨森は答えた。「大正義の動向は継続的に追っています」
靈は茶を淹れ直して、雨森の前に置いた。
「倉敷本人が、なぜ私に接触を」
「それが問題です」雨森は茶を受け取ったが、すぐには飲まなかった。「考えられる理由は二つあります。一つは、昨夜も話したように、拝郷さんの活動が大正義の目に留まったから。八雲神社の調停、灯籠流しへの関与——移民との共存を進める立場として、警告か、あるいは勧誘の意図があるかもしれない」
「もう一つは」
「倉敷が、拝郷さんに純粋に興味を持ったということです」雨森は靈を見た。「居合の道場主が、GHQの禁止令や神道の作法を地域に伝えている。倉敷の本来の関心——文化の復興——に近い活動をしている人間として」
靈はしばらく考えた。
「どちらにしても、会うことを想定した接触ですね」
「そうです」雨森はうなずいた。「返事をするかどうか、どうするつもりですか」
靈は少し立ち上がり、壁の木刀を見た。
返事をする、しないの話は、昨夜から頭の中にあった。眠れると思ったのに、実際には明け方近くまで考えていた。
「会ってみたいと思っています」
雨森がわずかに目を細めた。驚きとも警戒とも取れる動きだった。
「理由を聞いてもいいですか」
「昨日、一冊の本を読みました」靈は木刀から視線を外して雨森を見た。「大和魂の本来の意味について書いた本です。倉敷が使っている言葉と、本来の意味が、どこかでずれている。そのずれが、いつどこで起きたのか、私にはまだわかっていない」
「それを倉敷本人に聞くと」
「聞けるかどうかはわかりません」靈は座り直した。「ただ、会わずに判断することには限界があります。ニュースと映像と叢雲の資料だけで、倉敷という人間を判断することを、私は信用していない」
雨森はしばらく靈を見ていた。
それから、静かに言った。
「会うことには反対しません。ただ、条件があります」
「聞かせてください」
「三つです」雨森は指を立てた。「一つ、場所は叢雲が事前に確認できる場所であること。二つ、会う前に場所と時間を叢雲に知らせること。三つ、会話の内容を後で報告していただくこと。録音は任意です」
靈は少し考えた。
「報告の内容で、叢雲が何か動くことはありますか」
「状況によっては動きます」雨森は正直に答えた。「ただ、拝郷さんの判断を無視することはしません。会話の内容から得た情報をどう扱うかは、事前に相談します」
「わかりました」靈はうなずいた。「その条件で受けます」
その日の夜、靈は非通知のメッセージに返信した。
文面は短くした。
「お会いします。ただし、場所と時間はこちらの条件があります。具体的な内容を提示してください」
送信してから、靈はスマートフォンを置いた。
返信が来るかどうかはわからない。倉敷本人でなければ、この返し方で相手が動くかどうかも読めない。
靈は板の間で正座した。
零の型を始めようとして、止まった。
今日は型ではなく、別のことをする気になった。
奥の六畳間に入り、本棚の前に立った。
親父が残した本の中に、倉敷の初期の講演録があるかもしれない、と思った。根拠はない。ただ、親父の本棚には靈が知らない本が多い。
背表紙を一冊ずつ確認した。
神道関係、暦、民俗学、武道、漢字の本——その中に、背表紙に題名のない一冊があった。引き出してみると、表紙に手書きで「講演録集・私家版」と書いてある。昭和から平成にかけて、各地で行われた講演の記録を誰かが個人的にまとめたものらしい。印刷所の名前はなく、ページ数も少ない。
靈はそれを持って板の間に戻り、ページをめくった。
十ページほど読んで、手が止まった。
平成の終わり頃に行われた講演の記録だった。演者の名前は「倉敷恒雄」とある。
靈はその箇所を読み始めた。
倉敷の講演は、GHQの占領政策から始まっていた。神道指令、武道禁止、教科書の書き換え。靈が最近知ったことが、整理された言葉で書かれている。
ただ、読み進めるうちに、雨森の言った「先鋭化」の予兆が見えてくる。
講演の後半で、倉敷はこう言っていた。
「我々は奪われた。ただし、奪った者を憎むことに力を使っても、奪われたものは戻らない。戻すためには、まず何が奪われたかを知らなければならない。知ることが、取り戻すことの始まりだ」
靈はその文章を二度読んだ。
この時点では、まだ暴力の言葉はない。排除の論理もない。ただ、知れ、という言葉がある。
その次のページに、別の講演の記録があった。数年後のものだ。
そこには違う言葉があった。
「知るだけでは足りない。知った者が動かなければ、知ることに意味はない。動くとは、変えることだ。変えるためには、変えられないものを取り除かなければならない」
取り除く、という言葉。
靈は本を閉じた。
知ることから、動くことへ。動くことから、取り除くことへ。
その変化の間に、何があったのか。
翌日の昼前に、返信が来た。
非通知ではなく、今度は番号が表示されていた。知らない番号だが、非通知ではない。それだけで、相手が一歩踏み込んできたことがわかった。
「ご返信ありがとうございます。場所の条件について聞かせてください」
靈は雨森に転送した。
雨森からすぐに返信が来た。「先方と交渉します。しばらくお待ちください」
それから二時間後、雨森から電話が来た。
「場所が決まりました」
「どこですか」
「川口市内の蕎麦屋です。叢雲が以前から把握している店で、周辺の確認もできます」雨森は続けた。「日程は来週の水曜日。旧暦で確認したところ、友引です」
「叢雲が日程も交渉したんですか」
「先方が提示した日程が仏滅だったので、変更を申し入れました」
靈は少し間を置いた。
「倉敷側は、それを受け入れたんですか」
「受け入れました」雨森は平静に答えた。「六曜を理由にした日程変更に、先方は何も言わなかったそうです」
靈はその事実を頭の中で転がした。
六曜による変更に、倉敷側が何も言わなかった。それは、六曜という概念を理解している、あるいは尊重している人間が先方にいるということだ。
水曜日まで、四日あった。
靈はその間、毎日午前中に型の稽古をして、午後に本を読んだ。
読んだのは、倉敷の講演録だけではない。大和魂の本義の続き、祭礼に関する本、それから親父の棚にあった「武士道と日本人」という昭和期の本。
読みながら、靈は一つのことに気づいていた。
これらの本に書かれていることの多くは、靈がすでに断片として知っていたことだ。親父から口伝で聞いた話、榊原や三枝から聞いた話、神社で神職に教わった話。それが本の中では整理された形で書いてある。
断片が、少しずつ繋がってきている。
ただ、繋がるほどに、倉敷という人間の最初の問いかけが正確だったことも見えてくる。
GHQは確かに多くを奪った。その怒りは、正当だ。
ただ。
靈は本を閉じるたびに、同じところに戻ってきた。
奪われたものを取り戻すために、別の誰かを取り除くことは、取り戻したことになるのか。
水曜日の前日、きゃるんが来た。
「明日、倉敷って人に会いに行くんですよね」雨森から聞いたらしい。「大丈夫ですか」
「大丈夫かどうかは、行ってみないとわかりません」
「怖くないですか」きゃるんは座布団に座って、膝を抱えた。
「面倒です」
「また面倒」きゃるんが少し笑った。それから真顔に戻った。「でも本当は、少し怖いんじゃないですか」
靈は茶を淹れながら、少し考えた。
「怖い、というより」靈は慎重に言葉を選んだ。「間違えたくない、という感覚に近い」
「間違えるって、どういうこと」
「倉敷という人間を、会う前に決めつけたくない」靈はきゃるんの前に茶を置いた。「ただ、会った後に判断を間違えることも、したくない」
きゃるんはしばらく湯呑みを見ていた。
「難しいですね。判断を間違えないって、どうすればわかるんですか」
「わかりません」靈は向かいに座った。「ただ、判断をするときに、自分が何を見ているかは確認できる。自分の都合で見ているのか、相手をそのまま見ているのか」
「そのままって、難しくないですか。人って、見たいように見るじゃないですか」
「難しい」靈はうなずいた。「だから型の稽古をします」
きゃるんが首をかしげた。
「型の稽古と、人の見方は関係あるんですか」
「関係があると、私は思っています」靈は板の間を見た。「型は、自分の癖を知るためにやります。この動きをするとき、自分はここで力を入れすぎる。ここで視線がずれる。癖を知ることで、癖に引っ張られずに動けるようになる」
「それが人を見るときも」
「同じだと思います。自分がどこで判断を歪めやすいかを知っていれば、少しは補正できる」
きゃるんはしばらく考えていた。それから、小さくうなずいた。
「道場主さんは、自分のどういう癖を知っていますか」
靈は少し止まった。
それは、人にあまり聞かれたことのない問いだった。
「面倒だと思うと、早く終わらせようとする癖があります」靈は正直に言った。「早く終わらせようとすると、確認が甘くなる」
「明日も面倒だと思いそうですか」
「思うと思います」
「じゃあ気をつけないとですね」
「そうです」
きゃるんが少し笑った。今度は声が出た。
水曜日の朝、靈は普段より早く起きた。
板の間で正座して、窓の外が白んでいくのを見た。
元日の朝と同じようにしている自分に、靈は少し気づいた。大事なことの前に、こうして座る習慣がいつの間にかできている。親父がやっていたからだ。理由を聞いたことはない。
窓の外が完全に明るくなってから、靈は立ち上がった。
木刀を手に取り、零の型を一度通した。
最初の所作。重心を落とし、呼吸を整え、三呼吸待つ。
三呼吸の間に、靈は今日確認したいことを一つだけ決めた。
倉敷が「知ることから取り除くことへ」変わった理由。
それだけを聞く。他のことは、その答えを聞いてから考える。
型を終えて、木刀を壁に戻した。
道場の引き戸を開けると、冬の朝の空気が入ってきた。
看板を見上げた。塗り直した字が、朝の光の中にある。
「拝郷道場 制定居合道・宗家」
靈は引き戸を閉めて、歩き始めた。




