第8話 「倉敷恒雄の影」
翌朝、雨森から電話が来た。
靈がまだ板の間で朝の型を終えたばかりの時間だった。木刀を壁に戻してから、スマートフォンを取った。
「昨夜、商店街で男に見られましたか」
靈は少し止まった。
「見られました。あなたが知っているということは、叢雲が把握しているということですか」
「河川敷に配置していたスタッフが記録していました」雨森の声に変化はない。「今日、時間はありますか」
「あります」
「大安は来週なのですが」一瞬の間があった。「今日は赤口です。本来なら動かない日ですが、内容が内容なので」
叢雲が六曜の例外を作るとき、それなりの理由がある。靈はそう判断した。
「いつでも構いません」
午前十時、雨森が道場に来た。
今日は封筒ではなく、薄いタブレットを一台持っていた。板の間に座布団を置いて向かい合うと、雨森はタブレットを靈の前に置いた。
「昨夜の男です」
画面には、商店街の防犯カメラ映像が映っていた。靈が見た男が、路地の角に立っている。画質は粗いが、顔の輪郭は確認できる。
「身元は」
「三日前から川口に入っています」雨森はタブレットを操作した。「名前は石丸といいます。大正義の構成員です。幹部ではない。現場で動く人間です」
靈は画面を見た。
「なぜ私を」
「それを話す前に、少し背景を説明させてください」雨森はタブレットを引いて、膝の上に置いた。「大正義という組織について、拝郷さんはどの程度知っていますか」
「ニュースで聞く程度です。倉敷恒雄という名前と、政治家や裁判官を処刑しているということ」
「それだけですか」
「それだけです」
雨森は一度だけうなずいた。
「大正義は、二〇三二年に表に出てきました」雨森は静かに話し始めた。「ただし、組織としての動きはその数年前からあります。最初は思想団体に近い形でした。倉敷恒雄が各地で講演をして回り、賛同者を集めていた」
「どういう講演ですか」
「日本文化の断絶について、です」
靈は少し眉を動かした。
「GHQが占領期に行った文化統制、神道指令、武道禁止、教科書の書き換え——それらによって日本人が失ったものを取り戻すべきだ、という主張です」雨森は続けた。「最初は過激な内容ではなかった。歴史の再評価、伝統文化の復興、そういう方向性でした」
「それが変わった」
「変わりました」雨森はタブレットを操作して、別の画面を出した。「移民政策が本格化した二〇四〇年代から、主張が先鋭化していきます。文化の復興から、純血の保全へ。論じることから、排除することへ」
靈は画面を見た。倉敷恒雄の古い講演映像が映っている。六十代と思われる男だ。髪が白く、体格がいい。壇上に立って話している姿は、どこか神職に似た雰囲気がある。
「この人が、処刑を命じている」
「直接命じているかどうかは確認できていません」雨森は画面を消した。「ただ組織の方針として、腐敗した政治家と裁判官を対象にした実力行使が行われている。倉敷はその組織の首班です」
「本題に入ります」雨森は靈を見た。「なぜ石丸が昨夜、あなたを監視していたか」
「聞かせてください」
「大正義は今、川口で何かを準備しています」雨森は声のトーンを変えずに言った。「具体的な内容はまだわかっていません。ただ、この一ヶ月で構成員が複数、川口に入っています。石丸はその一人です」
「川口を標的にする理由は」
「移民が集中しているから、という理由が一つ」雨森は続けた。「もう一つは、八雲神社です」
靈は少し止まった。
「神社が関係していますか」
「先月の調停が、大正義の目に留まりました」雨森は静かに言った。「氏子と移民の間で揉め事が起きている。そこに居合の道場主が介入して、丸く収めた。その経緯が、組織内で話題になったようです」
「話題になった」
「丸く収めたことが、問題視されています」
靈はしばらく雨森の顔を見た。
「どういう意味ですか」
「大正義の論理では、移民と共存することは日本文化の希釈です」雨森は言葉を選びながら話した。「氏子が移民に神社の作法を説明して合意を取った。その行為は、彼らにとって妥協であり、敗北です。拝郷さんはその妥協を主導した人間として見られている」
靈は少し考えた。
「監視、ということは、今のところ実害はない」
「今のところは」雨森はうなずいた。「ただ、川口で何かが起きたとき、拝郷さんが標的になる可能性があります。事前にお伝えしておく必要があると判断しました」
雨森が帰った後、靈は板の間に一人で座った。
白湯を淹れて、両手で湯呑みを持った。
倉敷恒雄。
映像で見た顔を、もう一度頭の中で思い出した。壇上で話す姿。神職に似た雰囲気、と思ったのはなぜだろう。声の出し方か、立ち方か。
言っていることの一部は、靈にも理解できる。GHQが日本の文化を断絶させたのは事実だ。灯籠流しが禁じられた夜のことを、三枝の祖父は生涯忘れなかった。注連縄の意味を、榊原は父から受け継ぎながら理由を知らなかった。靈自身も、親父から断片を聞かされるだけで、多くを知らないまま生きてきた。
断絶はある。
ただ。
靈は湯呑みを置いた。
断絶を怒りで埋めようとすることと、少しずつ取り戻そうとすることは、別のことだ。
倉敷が最初に講演で語っていたこと——文化の復興、歴史の再評価——それ自体は間違っていないかもしれない。ただそれが、純血の保全と排除の論理にすり替わった。
なぜそうなったのか。
靈にはまだわからなかった。
夕方、きゃるんが来た。
約束はなかったが、最近きゃるんは時々こうして道場に立ち寄るようになっていた。靈は特に何も言っていない。来れば茶を出す。それだけだ。
「叢雲から聞きました」きゃるんは座布団に座りながら言った。「監視されてたって」
「聞いたんですか」
「雨森さんが教えてくれました。気をつけてって」雨森から連絡がいっていたらしい。きゃるんへの情報共有も、雨森の段取りの中に入っている。「怖くないですか」
「怖いかどうかは、まだわかりません」靈は茶を淹れた。「具体的な脅しがあったわけではないので」
「でも監視されてるって、気持ち悪くないですか」
「気持ち悪い、というより」靈はきゃるんの前に茶を置いた。「面倒です」
きゃるんがまた声を出さずに笑った。前にも同じような笑い方をしていた。
「道場主さんって、怖いこととか嫌なことを、全部面倒で片付けますよね」
「そうですか」
「そうです」きゃるんは茶を両手で持った。「でも逃げないじゃないですか。面倒って言いながら、ちゃんとやる」
靈は返事をしなかった。
きゃるんが茶を一口飲んで、続けた。
「大正義って、怖い人たちなんですか」
「組織としては、そうでしょう」
「でもやってることの一部は、正しいこともあるって聞いて」きゃるんは湯呑みを両手で持ったまま言った。「GHQが奪ったものを取り戻そうとしてるって。それって悪いことじゃないんじゃないかって、少し思って」
靈はしばらく考えた。
「取り戻そうとすること自体は、悪くない」
「じゃあ」
「ただ」靈は続けた。「取り戻す方法が、奪うことである場合、それは取り戻したことにならない」
きゃるんが靈を見た。
「GHQが日本から奪った。それを取り戻すために、今度は別の誰かから奪う。奪うことで何かが満たされるなら、最初にGHQに奪われたことも、誰かにとっての正義だったことになってしまう気がします」
きゃるんはしばらく黙っていた。
「むずかしい話ですね」
「むずかしい」靈はうなずいた。「私もまだ整理できていません」
きゃるんが帰った後、靈は奥の六畳間に入った。
親父の本棚から、一冊を引き出した。「大和魂の本義」という題の本で、昭和初期の出版だ。以前から気になっていたが、読む機会がなかった。
表紙を開いた。
序文の冒頭に、こう書かれていた。
「大和魂とは、もとより好戦の精神にあらず。物事の道理を知り、その場に応じた判断をする、日本人固有の感性のことなり」
靈は少し止まった。
大和魂。倉敷が掲げている言葉だ。純血と排除の旗として使っている言葉。
しかしこの本は、それを「感性」と言っている。判断する力。場を読む力。
靈は続きを読んだ。
書いたのは明治期の国学者だった。紫式部の源氏物語に出てくる「大和魂」の用例を引き、本来の意味を解説していた。紫式部が使った「大和魂」は、漢籍の知識に対する、日本固有の実務的判断力を指す言葉だという。
戦う力ではない。感じ取る力だ。
靈は本を閉じた。
倉敷は同じ言葉を使いながら、別のものを語っている。言葉の意味が、途中でずれた。あるいは、意図的にずらされた。
誰が、いつ、なぜずらしたのか。
夜になって、靈は再び板の間に出た。
木刀を手に取り、零の型を始めた。
最初の所作。重心を落とし、呼吸を整える。三枝の祖父が灯籠を流しながら手を合わせ続けた夜を思った。榊原が鳥居の縄を毎年張り替えながら、意味を知らなかった話を思った。親父が「零というのは、数える前の状態だ」と言った声を思った。
零の型は、攻撃の型ではない。
相手の世界の外側に出る。相手が見ている場所から消える。
それは逃げることではなく、別の場所から見ることだ。
靈は摺り足で板の間を移動した。
倉敷恒雄が見ている場所と、靈が見ている場所は、どう違うのか。
同じ断絶を見ながら、なぜ違う答えを出しているのか。
型を続けながら、靈は考えた。
答えはまだ出なかった。
ただ、問い自体は、少しずつ形になってきている気がした。
その夜遅く、靈のスマートフォンにメッセージが届いた。
番号は非通知だった。文面は短い。
「拝郷靈殿。一度、お話ししたいことがあります。場所と日時はこちらで用意します。返事をいただければ連絡します」
差出人の名前はなかった。
ただ、文面の最後に一行だけ、こう添えられていた。
「大和魂の本義を、あなたはご存知ですか」
靈はメッセージを三度読んだ。
今日、あの本を読んだことを、誰かが知っている。
あるいは、偶然の一致か。
靈はスマートフォンを置き、板の間を見た。
木刀が壁に立てかけてある。
返事をするかどうか、靈はまだ決めていなかった。




