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壱億総抜刀  作者: るふな


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7/12

第7話 「灯籠流しを禁じた理由」

年が明けた。

 元日の朝、靈は道場の板の間で正座した。

 特に何かをするわけではない。ただ、毎年この日だけは、朝の一番早い時間に板の間に座ることにしていた。親父がそうしていたから、靈もそうしている。理由は聞かなかった。聞く前に、親父は死んだ。

 窓の外が白んでいく。

 川口の正月は静かではなかった。昨夜からどこかで音楽が鳴っていた。靈の知らない言語の歌で、リズムが速い。今もかすかに聞こえている。

 靈はしばらく座ったまま、その音を聞いていた。

 怒りはなかった。ただ、遠い、と思った。自分の知っている正月の音と、今聞こえている音の間に、埋まらない距離がある。それがどういう感覚なのか、靈にはまだうまく言葉にできなかった。


 雨森から連絡が来たのは、一月も半ばを過ぎた頃だった。

 メッセージではなく、電話だった。

「来週、友引の午後に時間はありますか」

「あります」

「灯籠流しの準備を手伝っていただきたい」

 靈は少し間を置いた。「灯籠流し、ですか」

「川口市内の荒川沿いで、旧盆の時期に密かに続けてきた地域の行事があります。今年から公開で行うことになりました。叢雲が安全管理で関わることになったのですが、行事の意味を説明できる人間が必要で」

「なぜ今年から公開に」

「自警団の後押しがあります。もう隠れてやる必要はないだろう、と」雨森の声は平静だった。「ただ公開にするにあたって、行事の由来をきちんと説明する場を作りたい。特に、なぜ長い間非公開だったのかを含めて」

 靈は窓の外を見た。曇り空だった。

「灯籠流しが非公開だった理由は」

「GHQの禁止令です」


 友引の午後、靈は荒川の河川敷に向かった。

 待ち合わせ場所には雨森と、見慣れない男性が一人いた。六十代後半、白髪を短く刈り込み、厚手のコートを着ている。背筋が伸びていて、立ち方に癖がない。

「こちら、三枝さいぐささんです」雨森が紹介した。「この地域で灯籠流しを続けてきた方です」

 三枝は靈を見て、一度頭を下げた。「拝郷さんの映像は見ました。若い人が居合をやっているのは珍しい」

「三十八歳は若くないと思いますが」

「わしから見れば若い」三枝は河川敷の先を見た。「さっさと話しましょう。風が冷たい」


 三人で河川に沿って歩きながら、三枝が話し始めた。

「灯籠流しをこの場所で始めたのは、わしの祖父の代です」三枝は河川を見ながら言った。「戦後すぐの話だ。戦争で死んだ者を弔うために、旧盆の夜に灯籠を流した。それが始まりです」

「戦後すぐ、ということは」靈は言った。「GHQの占領期と重なります」

「重なる」三枝はうなずいた。「だから禁じられた」

 靈は少し前を向いて歩いた。

「GHQは昭和二十年の暮れから翌年にかけて、神道指令を出しました。国家と神道を切り離すための命令です。その流れで、戦死者を弔う行事が次々と制限された」

「制限、ではなく禁止でしょう」三枝の声が少し硬くなった。「わしの祖父から聞いた話では、当時の進駐軍の将校が直接来て、集会を解散させた。灯籠を川に流そうとしていた人間を、強制的に連れ去ったこともあると」

 靈は返事をしなかった。

 三枝が続けた。「GHQの言い分は、軍国主義的な精神性を涵養する集会だ、というものだった。戦死者を弔うことが、なぜ軍国主義なのか」

「弔うことが、また戦う意志につながると見たのでしょう」靈は静かに言った。「死者を英雄として扱うことが、次の世代の戦意を高める。そういう解釈だったと思います」

「そんな解釈のために、家族を亡くした人間が弔いもできなかった」

 風が河川沿いに吹き抜けた。三枝のコートの裾が揺れた。

「それでも続けた」靈は言った。

「続けた」三枝はうなずいた。「隠れて、小さく。毎年旧盆の夜、人数を絞って、灯籠を流した。わしが子供の頃から、それが当たり前だった。当たり前すぎて、なぜ隠れてやるのかを考えたことがなかった」

「いつ理由を知りましたか」

「祖父が死ぬ前年です」三枝は足を止めた。「八十を超えた祖父が初めて、GHQの話をした。お前たちに伝えておかなければ、と言って。それまで一度も話さなかった」


 三人は河川敷の石段に腰を下ろした。

 雨森は手帳を開いていたが、今は閉じて膝に置いている。三枝は河川を見ている。靈は二人の間で、少し考えた。

「灯籠流しは、もともとどういう意味の行事だったか知っていますか」

 靈の問いに、三枝が振り返った。

「死者の魂を、川で送り出す。そう聞いています」

「半分正しいです」靈は河川を見た。「正確には、お盆に戻ってきた死者の魂を、灯籠の光で道案内しながら送り返す行事です。死者は迷わないように光が必要だと考えられていた」

「迷わないように」

「日本の死生観では、死者は完全にいなくなるわけではない」靈は続けた。「お盆の期間は死者がこの世に戻ってくる。家族のいる場所に戻ってくる。そして盆が終わると、また元の場所に帰る。灯籠はその帰り道の明かりです」

 三枝がしばらく黙っていた。

「戦死した者も、盆には戻ってくるわけですね」

「そういう考え方です」

「だからGHQは禁じた」三枝の声が低くなった。「戦死者がこの世に戻ってくるという発想そのものが、軍国主義と結びつくと見た」

「英霊という言葉も、この頃から制限されました」靈は言った。「死者の魂を英雄として扱う言語そのものを、封じようとした」

 雨森が初めて口を開いた。「GHQの検閲記録によれば、英霊、靖国、大和魂、これらの言葉は新聞や放送で使用を禁じられていました。言葉を封じることで、概念ごと消そうとした」

 三枝が雨森を見た。「よく知っていますね」

「資料を読みました」雨森は静かに答えた。「叢雲は、こういうことを調べる習慣があります」


「一つ聞いていいですか」靈は三枝に向いた。「今年、公開でやることにした理由は」

 三枝は少し考えてから答えた。

「隠れてやる必要がなくなったからです。GHQはもういない。法律的に禁じられているわけでもない。それなのに隠れ続けることに、意味があるのかと思い始めた」

「自警団の後押しがあったとも聞きました」

「それもある」三枝はうなずいた。「ただ、それより大きな理由は、わしが年を取ったことです」

「年を取ったこと」

「祖父がわしに話してくれたように、わしも誰かに伝えなければいけない」三枝は河川を見た。「隠れてやっていることは、隠れてしか伝わらない。公開でやれば、知らなかった人間が知ることができる。それだけです」

 靈はその言葉を、しばらく頭の中で転がした。

 榊原が言っていた言葉と、どこか重なった。息子に伝えられなかった、という言葉と。

 伝えるためには、見せなければいけない。隠れていたものは、出てこなければ伝わらない。


 公開灯籠流しの当日は、旧暦の盆、七月十五日にあたる日の夜に設定された。

 それまでに、靈は三度、荒川の河川敷を訪れた。

 準備の手伝いというより、三枝の話を聞くことが主になっていた。三枝は靈が来るたびに、祖父から聞いた話を少しずつ語った。戦時中の川口の様子、占領期の息苦しさ、隠れて灯籠を流した最初の夜のこと。

 三度目の訪問のとき、三枝が一冊のノートを持ってきた。

「祖父の記録です」表紙が変色した、大学ノートだ。「昭和二十年から三十年にかけて書いたものです。灯籠流しのことも書いてある」

 靈はノートを受け取り、最初のページを開いた。

 鉛筆で書かれた細かい字が並んでいた。靈には癖字が強くてすぐには読めない部分もあったが、所々に日付と、見慣れた地名が出てきた。

 荒川、川口、昭和二十一年八月——。

「読みますか」三枝が聞いた。

「後で、写真に撮らせてもらえますか」

「構いません」

 靈は写真を撮りながら、ページをめくった。

 ある箇所で、手が止まった。

 昭和二十一年八月十五日の記述だった。

 終戦から一年目の夜に、三枝の祖父は仲間数人と荒川に出た。灯籠に蝋燭を立てて火をつけ、川に流した。その場を進駐軍の巡回に見つかり、解散を命じられた。

 そのとき三枝の祖父は、灯籠を川に流す前に一度だけ手を合わせた。巡回に見つかっても、その手を離さなかった——とノートには書いてあった。

 靈はノートを閉じた。

「写真、撮らせてもらいました」

「読めましたか、字が汚くて」

「所々は。でも十分です」

 三枝が河川を見た。「祖父はそのノートを、わしに渡すとき一言だけ言ったんです」

「何と」

「弔いは、誰かに禁じられるものじゃない、と」


 公開灯籠流しの当日は、風のない夜だった。

 河川敷には、靈が予想したより多くの人間が集まっていた。五十人はいる。地域の住民だけでなく、叢雲のスタッフが告知を出したらしく、川口以外から来た人間も混じっているようだった。

 きゃるんも来ていた。フード付きのコートを着て、雨森の隣に立っている。

 靈が近づくと、きゃるんが小声で言った。

「灯籠流し、初めて見ます」

「私もです」

「え、道場主さんも」

「知識はあっても、見たことはなかった」

 きゃるんが少し意外そうな顔をした。それから前を向いた。

 三枝が河川の前に立った。マイクはない。地声だった。

「今夜ここに集まってくださった方々に、一つだけ話をします」

 声が意外に通った。河川敷が静かになった。

「この行事は、戦後すぐに始まりました。戦争で亡くなった方々を弔うために、家族が灯籠を流した。それがGHQに禁じられて、長い間こっそり続けてきた。今夜は初めて、隠れずにやります」

 誰も喋らなかった。

「灯籠の光は、帰り道の明かりです。お盆に戻ってきた魂が、また元の場所に戻るための道を、光で照らす。家族を亡くした人間が、もう一度だけ明かりを灯して、見送る——それだけの行事です」

 三枝は一度だけ頭を下げた。それから、河川に向かった。


 靈は河川の端に立って、灯籠が流れていくのを見ていた。

 蝋燭の光が水面に映って、揺れながら下流に向かっていく。風がないので、光が消えずに遠ざかっていく。十個、二十個と増えていくにつれて、川の上に光の帯ができた。

 隣できゃるんが静かに立っていた。

 しばらくして、きゃるんが小声で言った。

「きれいですね」

「ええ」

「道場主さんは、誰かを亡くしていますか」

 靈は少し間を置いた。

「親父を。五年前に」

「灯籠、流しますか」

 靈は手元の灯籠を見た。三枝が用意してくれたもので、和紙でできた小さな箱型だ。中に蝋燭が立ててある。

「流します」

 靈は河川の縁に膝をついた。灯籠を水面に置いた。蝋燭の火が揺れて、それから安定した。

 手を離した。

 灯籠がゆっくりと流れ始めた。

 靈はしばらく、その光を見ていた。

 親父に言いたいことが、いくつかあった。道場を継いで十五年、ろくなことをしていない、という話。それでも最近、少しだけ動き始めたかもしれない、という話。看板を塗り直した、という話。

 言葉にはしなかった。

 光が遠ざかっていくのを、ただ見ていた。


 帰り道、靈は一人で歩いた。

 河川敷を出て、商店街に入ったところで、靈は足を止めた。

 視線を感じた。

 顔を上げると、商店街の角に男が一人立っていた。四十代か五十代。スーツを着ているが、ネクタイはない。靈を見ている。

 靈が目を合わせると、男は視線を外さなかった。

 十秒ほど、そのままだった。

 それから男は踵を返して、路地の奥に消えた。

 靈はその場に立ったまま、路地の先を見た。

 誰もいない。

 風が商店街を抜けた。アラビア語の看板が揺れた。

 靈は歩き始めた。

 あの男が何者かはわからない。ただ、見られていた、という感覚だけが残った。道場の門下生でもなく、叢雲の関係者でもなく、今夜の灯籠流しの参加者でもない、あの目。

 何かが、動いている。

 道場に戻り、靈は板の間に木刀を一本持って立った。

 零の型を、最初から通した。

 動きながら、靈は考えた。

 三枝の祖父は、進駐軍に見つかっても手を合わせ続けた。弔いは、誰かに禁じられるものじゃない。

 では今、自分は何をしているのか。

 何かを守ろうとしているのか。それとも、ただ流れに乗っているだけなのか。

 型を終えた。

 答えは出なかった。

 ただ、あの男の視線が、靈の背中にまだ残っていた。

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