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壱億総抜刀  作者: るふな


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6/12

第6話 「祭り囃子の三つの音」

八雲神社から連絡が来たのは、十二月も終わりに差し掛かった頃だった。

 榊原ではなく、氏子の若手から直接メッセージが届いた。叢雲の記録に靈の連絡先が登録されたらしく、文面は簡潔だった。

「太鼓の練習を始めます。一月の第二土曜日、午後一時から境内で。よければ来てください」

 靈はメッセージを三度読んだ。

 太鼓の練習を見に来い、ということか。それとも何か問題が起きる前に来ていてくれ、ということか。どちらとも取れる文面だった。

 返信は短くした。

「伺います」


 一月の第二土曜日、靈は午後一時より少し早く八雲神社に着いた。

 鳥居の前で礼をしてからくぐると、境内に太鼓が一台出ていた。直径一メートルほどの大きな桶胴太鼓で、木製の台に載せられている。その周りに氏子が五、六人集まっていた。三十代から六十代まで、年齢層がばらついている。

 榊原が靈を見つけて、手を上げた。

「来てくれましたか」

「お邪魔します」

「邪魔じゃないです。むしろ助かる」榊原は太鼓の方に目をやった。「今日初めて叩く若いのが二人いてね。なんで叩くのかを、誰も説明できないんですよ」

 靈は太鼓の周りに集まっている顔を見た。

 そのうちの一人が、きゃるんだった。


 目が合うと、きゃるんが小さく手を振った。フード付きのコートを着ているが、前回より厚手のものだ。隣に立っているのは、二十代前半と見える男性で、同じく初めて来た様子だった。

「叢雲に紹介してもらって」きゃるんが靈の隣に来て、小声で言った。「お手伝いしてもいいですかって聞いたら、ここを紹介されました」

「雨森さんから」

「はい。何かできることがあれば、って言ったら、ここで太鼓を手伝えって」

 靈は少し考えた。雨森椿が動いている。きゃるんを叢雲の仕事に組み込む前に、地域との接点を作らせている。段取りが細かい。

「太鼓は叩いたことがありますか」

「ないです。怖いですけど、やってみたくて」

 きゃるんが太鼓を見る目は、怖い、というより興味の方が勝っているように見えた。


 練習が始まる前に、榊原が靈に目で合図を送った。

 先に説明を頼む、という意味だとわかった。

 靈は太鼓の前に立った。特に準備はない。今日来る前に、あの冊子をもう一度読んできた。それだけだ。

「祭り囃子を始める前に、少し話をさせてください」

 氏子たちの視線が靈に集まった。

「祭り囃子は三つの音で成り立っています。太鼓、笛、鉦」靈は太鼓に手を置いた。「それぞれに役割がある。太鼓は地の音です」

「地の音」きゃるんの隣の若い男性が繰り返した。

「大地を叩く音で、土地に眠っている神の力を呼び覚ます」靈は太鼓の面を軽く叩いた。低く、重い音が境内に広がった。「音が地面を伝わって、土の中まで届く。そういうつもりで打つ音です」

 誰も喋らなかった。

「笛は天の音」靈は続けた。「高い音が上に向かって届き、天にいる神を招く。太鼓が地の神を起こし、笛が天の神を呼ぶ。二つ合わさって、神が降りてくる道ができる」

「じゃあ鉦は」きゃるんが聞いた。

「鉦は境界の音です」靈は鉦を見た。金属製の小さな打楽器で、台の上に置かれている。「あの金属音は、この世とあの世の境目を示す。祭りの場は、生きている人間と神とが同じ場所に集まる特別な時間です。鉦はその境界を明確にする」

 六十代の男性が、腕を組みながら太鼓を見た。「三十年やってきたが、そんなことは知らなかった」

「私も先日、本で読んで初めて整理しました」

 男性が靈を見た。「知ってて来たわけじゃないんですか」

「知っていたことと、知らなかったことが半分ずつです」

 男性がゆっくりうなずいた。それ以上は何も言わなかったが、腕を組んでいた手が解けた。


 練習が始まった。

 最初は六十代の男性が打ち手を務めた。リズムは単純だが、音の大きさと間隔が決まっている。靈は横で聞きながら、冊子に書いてあった基本リズムと照合した。

 合っていた。

 次に四十代の男性が交代した。少しリズムが乱れたが、大きくは外れていない。

 きゃるんの番が来た。

 撥を手渡されたきゃるんは、太鼓の前でしばらく立ったまま動かなかった。太鼓の面と自分の顔の高さがほぼ同じだ。小柄なきゃるんには、台がやや高い。

「撥の持ち方は」きゃるんが振り返った。

「軽く握る」靈は言った。「強く握ると音が死にます。太鼓は叩くのではなく、撥を落とすイメージです」

「落とす」

「振り上げて、落とす。力を入れない。撥の重さと腕の重さだけで打つ」

 きゃるんは前に向き直り、撥を持ち上げた。

 一打目が鳴った。

 音は小さかったが、きれいだった。面の中心を捉えていた。

 二打目、三打目と続けるうちに、リズムが乱れ始めた。手と足が連動していない。きゃるんは左足を少し踏み出しながら打とうとしていたが、体の動きと音がずれていた。

「足を動かさなくていいです」靈は言った。「最初は体を固定して、腕だけ使う」

「でも体が動きたがる」

「動きたがるのはわかります。ただ今は音を安定させることが先です。体は音が安定してから動かす」

 きゃるんがもう一度試みた。今度は足を固定した。音が整った。

 リズムが続いた。十打、二十打。

 榊原が隣で小さく何度もうなずいていた。


 練習が一区切りついたとき、境内の外から声がした。

 靈が振り返ると、鳥居の外に男が二人立っていた。アラブ系の顔立ちで、三十代と二十代。先月の調停で会った、あの二人だった。

 三十代の男が、叢雲のスタッフを通して話している。スタッフは今日も一人来ていて、境内の端に立っていた。

 靈は榊原に小声で言った。「話しに来ます」

 鳥居の外に出た。礼をしてから出る。

 三十代の男は靈を見て、少し表情を変えた。先月と同じ顔だ、と認識したらしい。

 スタッフが訳した。「また音が始まった。これが何ヶ月も続くのか、と」

「二ヶ月です」靈は答えた。「祭りまで」

 訳が届いて、男が何か言い返した。

「二ヶ月は長い。毎週末か、と」

「毎週末ではありません」靈は続けた。「ただ、始める前に一つ聞いてもいいですか」

 男がうなずいた。

「先月の話し合いの後、合意した三点は守られていますか」

 訳が届く。男は少し間を置いてから答えた。

「守っている」

「ありがとうございます」靈は一度頭を下げた。「こちらもそれを確認したかった。あなたたちが約束を守った。だからこちらも話を聞く義務がある」

 男の表情がわずかに変わった。

「今聞こえている音は、騒音ではありません」靈は続けた。「神を呼ぶ音です。太鼓は地の神を起こし、笛は天の神を招く。この神社で何百年と続けてきた、この場所の作法です」

 訳が届く間、男は靈の顔を見ていた。

「神を呼ぶ」男が訳を待たずに、たどたどしい日本語で言った。「神様、の、音」

「そうです」

 男がしばらく考えた。それから、何か言った。

 スタッフが訳す。「自分たちの国でも、礼拝の声を騒音と言われることがある。それと同じか、と」

 靈は少し止まった。

 思っていなかった方向からの言葉だった。

「同じかどうかは、私には判断できません」靈は正直に言った。「ただ、あなたがそう感じるなら、この音の意味は伝わったと思います」

 男がうなずいた。短い沈黙があった。

「練習の時間帯を、事前に知らせることはできますか」男が訳を通して言った。「いつ鳴るかわからないより、わかっている方が受け入れやすい」

 靈は榊原を振り返った。

 榊原は聞こえていたらしく、少し考えてからうなずいた。「それくらいはできます」


 鳥居の外の二人が帰ってから、靈は境内に戻った。

 礼をしてから鳥居をくぐる。

 きゃるんが撥を持ったまま靈を待っていた。

「あの人たち、なんて言ってたんですか」

「練習の予定を事前に知らせてほしいと」

「それだけですか」

「それだけです」

 きゃるんが少し考える顔をした。「怒ってたわけじゃないんですね」

「怒っていたかどうかはわかりません。ただ、理由を聞けば話せる人たちだった」きゃるんから撥を受け取りながら、靈は言った。「それは先月もそうでした」

「道場主さん、怖くなかったですか。また来たとき」

 靈は少し考えた。

「怖い、というより」靈は撥を台に置いた。「面倒だと思いました」

 きゃるんが笑った。声を出さない、小さな笑いだった。

「正直ですね」

「面倒だと思いながら、出ていきました。それだけです」


 練習の終わりに、靈に撥が回ってきた。

 断るつもりだったが、榊原が「一打だけでいい」と言った。押しつけではなく、確認を求めるような言い方だった。

 靈は撥を受け取った。

 最後に太鼓を打ったのは、子供の頃だ。境内の祭りで、親父に背中を押されて撥を握った。何も考えずに叩いたら、音が大きくて自分で驚いた。その記憶だけが残っている。

 靈は太鼓の前に立った。

 撥を軽く持つ。力を入れない。

 落とすイメージ、ときゃるんに言った。

 一打。

 音が境内に広がった。

 地の音、と言った。大地を伝わって土の中まで届く音。

 靈は音が消えるまで、太鼓の前に立っていた。

 二打目は打たなかった。

 撥を榊原に返した。

「一打でいいんですか」榊原が言った。

「一打で十分です」

 榊原が靈の顔を見て、それ以上は言わなかった。


 帰り際、鳥居の前できゃるんが並んだ。

「一緒に帰っていいですか。道場の方向と同じなので」

「どうぞ」

 二人で鳥居に向かい、礼をしてからくぐった。

 きゃるんが鳥居を出てから、振り返って鳥居を見た。

「礼するの、忘れてた」

「次からすればいい」

「道場主さんは毎回してますよね」

「するように、なりました」靈は前を向いて歩き始めた。「子供の頃は、していなかった」

 きゃるんが隣に並んだ。

「いつからですか」

「親父が死んでから」

 きゃるんが何も言わなかった。靈も続けなかった。

 二人で商店街を歩いた。看板はアラビア語と中国語と、ベトナム語が混ざっている。どこかの店から香辛料の匂いが漏れてきた。

「道場主さん」しばらくして、きゃるんが言った。

「なんですか」

「さっき太鼓、一打しか打たなかったじゃないですか」

「ええ」

「なんで一打だったんですか」

 靈は少し考えた。

「一打で、届いた気がしたので」

「どこに」

「さあ」靈は前を向いたまま言った。「どこかに」

 きゃるんが小さく「ふうん」と言った。それ以上は聞かなかった。

 道場の看板が見えてきた。

 塗り直したばかりの欅の板に、夕方の光が当たっている。「拝郷道場 制定居合道・宗家」の字が、以前より少しだけはっきり読めた。

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