第5話 「注連縄の左と右」
八雲神社の秋祭りまで、あと二ヶ月あった。
榊原から連絡が来たのは、前回の調停から十日後だ。「祭りの準備を始める前に、一度神社に来てほしい」という内容だった。雨森を通さず、直接靈のチャンネルに記載された番号に電話してきた。
靈は少し迷ったが、断る理由もなかった。
約束の日の朝、靈は道場を出る前に親父の本棚から二冊を取り出した。「神社の作法と由来」と、もう一冊、「祭礼の音と構造」と題された薄い冊子だ。どちらも昭和期の出版で、背表紙が日焼けして茶色くなっている。
祭り囃子の説明を求められるかもしれない。行く前に、少し読んでおく必要があった。
八雲神社に着いたのは、午前十時過ぎだった。
鳥居の前で靈は立ち止まり、一度礼をしてからくぐった。前回来たときと同じように、注連縄を確認する。左が太く、右が細い。変わっていない。
榊原は社殿の前の石畳を箒で掃いていた。靈の足音を聞いて顔を上げ、箒を脇に抱えた。
「来てくれましたか。寒い中、すみませんな」
「いえ」
「まあ、上がってください。茶くらい出せます」
社務所に通された。前回と同じ六畳間だが、今日は二人だけだ。榊原が湯を沸かす間、靈は部屋を見回した。
壁に古い額が掛かっている。毛筆で何か書いてあるが、字が崩れていて靈には読めなかった。その隣に、神社の由緒書きが貼ってある。明治三十二年創建、祭神はスサノオノミコト——靈は少し目を細めた。八雲神社という社名はスサノオと縁が深い。スサノオが詠んだとされる歌「八雲立つ出雲八重垣……」から来ているはずだ。
茶を受け取りながら、靈は由緒書きを指した。
「スサノオを祀っているんですね」
「ええ」榊原は向かいに座った。「厄除けの神様ですな。この辺の古い住民はみんな知っているが、最近来た人間は誰も知らん」
「スサノオは荒ぶる神でもある」靈は茶を一口飲んだ。「追放されて、嵐を起こして、最後に大蛇を退治した。力の強い神です」
「そういう神様を祀っているのに、わしらが逃げ腰ではいかんですな」
靈は返事をしなかった。
「今日来てもらったのは」榊原は両手を膝に置いた。「祭り囃子の説明もあるが、それより前に一つ相談がある」
「なんでしょう」
「注連縄を、境内の四隅にも張りたいと思っています」榊原は少し声を潜めた。「先日、拝郷さんに縄の意味を教わってから考えていた。鳥居の縄だけでなく、境内全体を結界として張り直したい」
「結界」靈は少し間を置いた。「神社の境内を、注連縄で囲うということですか」
「そうです。移民の人たちへの意趣返しではない」榊原は靈の目を見た。「そうではなく、この場所が神の領域だということを、目に見える形で示したい。縄があれば、知らなかったでは済まない」
靈はしばらく考えた。
意図はわかる。ただ、やり方を間違えると逆効果になる。縄を張るだけでは、ただの柵と変わらない。縄の意味が伝わらなければ、意味がない。
「張り方を、正しくやる必要があります」
「それを教えてほしいんです」榊原は身を乗り出した。「前回、鳥居の縄の話を聞いて、初めて意味を知った。恥ずかしい話だが、自分でやっておきながら何も知らなかった」
「知らなかったわけではないと思います」靈は首を振った。「お父さんから教わったことを、正しく守っていた。それは十分なことです」
「しかし」
「ただ」靈は続けた。「今度は知った上でやる。それが加わるのは悪くない」
社務所を出て、靈と榊原は境内を歩いた。
境内はさほど広くない。鳥居から社殿まで、石畳が二十メートルほど続いている。左右に手水舎と小さな末社が一つずつ。境内の端は生垣で区切られているが、一部が古くなって隙間が空いている。前回の調停で問題になった空き地との境界は、その隙間からよく見えた。
「四隅に榊を立てて、縄を張る形になります」靈は境内の角を順に見ながら言った。「ただ、縄の高さと張り方に決まりがある」
「どんな」
「地面から腰の高さを目安に張ります。縄は相手を拒絶するためではなく、内側を清める意味で張る。だから高さを人の目線より下に置く」靈は自分の腰の位置に手を当てた。「人の目線より上に張ると、威圧になります。腰より低く張ると、意識されにくい。腰の高さが、礼を促すちょうどいい位置です」
榊原がその高さを確認するように、自分の腰に手を当てた。
「それから」靈は続けた。「縄に垂らす紙垂の向きがある」
「紙垂」
「注連縄から下に垂らす、白い折り紙のことです。あれも、折り方と向きに意味がある」靈は地面に小石を一つ拾い、石畳に簡単な図を描いた。「紙垂は稲妻の形に折ります。稲妻は天の力が地上に降りてくる姿——神の力が縄を通じて地上に及んでいることを表す」
榊原が靈の描いた図を覗き込んだ。
「折り方が決まっているんですか」
「四垂と二垂があります。四垂は四枚の紙垂を等間隔に垂らす。二垂は二枚。神社の格式によって使い分けますが、小さな社であれば二垂で十分です」
「知らなかった」榊原は図を見たまま言った。「毎年縄を張り替えているのに、紙垂の折り方なんて気にしたことがなかった」
「形は残っていましたか」
「それは……残っていたと思います。父がやっているのを手伝っていたので」
「ならば」靈は石を置いた。「正しく残っていた可能性が高い。確認してみましょう」
二人で鳥居に戻り、注連縄の紙垂を改めて確認した。
四枚、等間隔に垂れている。形は稲妻の折り方だ。靈は一枚を手に取って、折り目を確認した。
正しい。
「四垂ですね」靈は紙垂を戻した。「こちらは正しく残っている」
榊原が、今度は声を出さずに鳥居を見上げた。その横顔に、何か思い詰めたような色が出た。
「拝郷さん」しばらくして、榊原が口を開いた。「わしには息子が一人いまして」
話の流れが変わった。靈は黙って続きを待った。
「今は大阪にいるんですが、川口を出ていくときに言ったんです。こんな街に未練はない、と」榊原は鳥居を見たまま続けた。「わしはそれを聞いて、情けないと思った。が、言い返せなかった」
「なぜ」
「息子の言うことは、間違っていないから」榊原は靈の方を向いた。「街が変わった。わしらが守ってきたものが、年々薄くなっていく。それでも神社を守り続ける理由を、わしは息子にうまく説明できなかった」
靈はしばらく鳥居を見た。
「説明できなくてよかったのかもしれません」
「どういう意味ですか」
「言葉で説明できるものは、言葉で否定もできる」靈は鳥居の柱に手を触れた。「お父さんから縄の張り方を教わったとき、理由を聞きましたか」
「いや……言われた通りにやれ、と」
「それでいい」靈は手を離した。「理由より先に、体が知っている。それが伝わるものの強さです。説明できなかったのは、説明を必要としないくらい深く体に入っていたからかもしれない」
榊原がしばらく黙っていた。
「そう思っていいものですかな」
「どう思うかは榊原さん次第です」靈は少し境内の奥を見た。「ただ、縄の張り方は正しく残っていた。紙垂の折り方も正しく残っていた。理由を知らなくても、形は途切れなかった。それは事実です」
午後から、靈は祭り囃子の話を切り出した。
社殿の前の石畳に二人で腰を下ろし、靈は持ってきた冊子を開いた。
「祭り囃子は、三つの音で成り立っています」靈は冊子の図を榊原に見せた。「太鼓、笛、鉦。この三つがそれぞれ役割を持っている」
「へえ。てっきり賑やかしだと思っていた」
「逆です」靈は冊子を膝に置いた。「太鼓は地の音です。大地を叩く音で、土地の神を呼び覚ます。笛は天の音。高い音が天に向かって届き、神を招く。鉦は境界の音。あの金属音は、この世とあの世の境目を示す」
榊原が目を細めた。「それを知っている氏子が、今どれだけいるか」
「私も今朝この本を読んで初めて整理しました」
榊原が意外そうな顔をした。「知っていたわけではないんですか」
「親父から断片は聞いていましたが、体系的には知らなかった」靈は冊子を閉じた。「知ったから伝えられる。それだけのことです」
「……移民の方々に、これを説明するんですか」
「騒音苦情が来る前に、できれば」靈は石畳の先を見た。「ただし、説明すれば全員が理解するとは思っていない。それでも、知らないよりは知っている方がいい」
榊原がしばらく考えてから、口を開いた。
「息子に聞かせたい話ですな」
靈は返事をしなかった。
境内の風が、石畳を渡った。どこかの枝から葉が一枚落ちて、社殿の前をゆっくり横切っていった。
帰り際、鳥居の前で靈は再び立ち止まった。
今日で二度目のくぐり抜けだ。来るときと帰るときで、礼の意味が変わる。来るときは入る許可を求める礼、帰るときは場を離れる報告の礼。
靈は鳥居に向かい、一度礼をした。
振り返ると、榊原が社殿の前でそれを見ていた。
「拝郷さん」榊原が呼んだ。
「はい」
「また来てもらえますか。祭りの準備が始まったら」
「声をかけてください」
靈は路地に出た。
今日は雨森がいない。一人で歩く帰り道は、思ったより静かだった。
商店街に差し掛かると、アラビア語の看板の下から子供が飛び出してきた。四、五歳くらいの男の子で、靈を見て一瞬固まり、そのまま母親の後ろに隠れた。母親は黒いヒジャブを被った女性で、靈を見て目だけで会釈をした。
靈も軽く頭を下げた。
それだけだった。
歩きながら、靈は考えた。今日の榊原の話——息子に言い返せなかった、という言葉。説明できないものを守り続けることの、どこに力があるのか。
縄の張り方は残っていた。紙垂の折り方も残っていた。
説明できなくても残っていたものが、あった。
では靈自身はどうか。
道場を継いで十五年。何を残したか。何を繋いだか。
答えは出ないまま、道場の看板が見えてきた。
まだ塗り直していない。塗料は買ってある。ただ、踏み出せていない。
靈は立ち止まり、看板を見上げた。
「拝郷道場 制定居合道・宗家」
半分読めなくなった字が、夕暮れの光の中にあった。
道場に入り、木刀を一本手に取った。
今日は型の稽古より先に、一つ確かめたいことがあった。
靈は板の間の端に立ち、目を閉じた。
零の型の最初の動作。重心を落とし、呼吸を整え、気配を消す準備をする。
この型には、始まりの所作がある。足を肩幅に開き、木刀を体の正中線に沿って垂直に立てる。その姿勢で三呼吸、待つ。
親父はこれを「間を作る」と呼んでいた。「動く前に、まず静止する。静止の中に次の動きが全部入っている」
靈は三呼吸、待った。
それから、静かに動き始めた。
摺り足で板の間を移動しながら、靈は榊原の横顔を思い出していた。鳥居を見上げた、あの目。説明できなかった、という言葉の重さ。
縄の意味を知らなくても、縄は正しく残っていた。
零の型の意味を、靈は完全には知らない。今も知らない。ただ、体が知っている。
それで、いいのかもしれない。
型を終えて、木刀を壁に戻した。
靈は道具箱から刷毛と塗料の缶を取り出した。
看板の塗り直しを、今日やることにした。




