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壱億総抜刀  作者: るふな


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第4話 「大安の依頼」

叢雲セキュリティからの連絡は、三日後の朝に来た。

 靈がAIの管理画面を開いて今週の動画テーマを考えていたところに、雨森からメッセージが届いた。短い文面だった。

「明日、大安です。午前十時に道場へ伺います」

 靈は画面を見つめた。六曜で約束を取り付けてくる企業が現実にあるとは、会うまでは半信半疑だった。だが雨森椿という人間は、どうやら本気でそれをやっている。

 返信は一言にした。

「わかりました」


 翌朝十時ちょうど、雨森が道場の前に立っていた。

 今日はトレンチコートではなく、濃紺のスーツだ。脇に抱えるバッグも同じだが、今日は薄い封筒が一つ加わっている。靈が引き戸を開けると、雨森は一度だけ頭を下げた。

「大安です」

「おはようございます」

 板の間に通した。前回と同じように座布団を二枚置いた。茶を淹れながら、靈は封筒を横目で見た。中身の厚みからして、書類が数枚入っている程度だ。

 雨森は茶を受け取り、両手で持ってから一口飲んだ。それから封筒を靈の前に置いた。

「最初の依頼です」

「内容は」

「調停です」封筒には触れずに、雨森は靈を見た。「川口市内の八雲神社という小さな社があります。氏子の自治会と、周辺に住む移民住民との間で、揉め事が続いています」

「揉め事の内容は」

「お読みください」

 靈は封筒を開けた。A4の紙が三枚。表紙には「八雲神社周辺住民トラブル概要・叢雲川口支局」とある。

 読み進めながら、靈は眉を寄せた。

 内容はこうだ。八雲神社の境内に隣接する空き地を、周辺の移民住民が日常的に溜まり場として使っている。深夜まで騒ぐ、ゴミを放置する、神社の鳥居に洗濯物を干す——氏子側からの苦情は半年で十件を超えた。叢雲が間に入って話し合いの場を設けたが、移民側の代表者が「そこが神聖な場所だと知らなかった」と主張して平行線になっている。

「鳥居に洗濯物を」

 靈は三枚目まで読み終えて、紙を伏せた。

「話し合いは何度やりましたか」

「二度」雨森は茶碗を膝の横に置いた。「いずれも叢雲のスタッフが仲介しましたが、まとまりませんでした。氏子側はなるべく穏便に対処したいそうですが、移民側は問題意識が薄いどころか武器をちらつかせて脅す様子も報告されています。氏子側も我慢の限界のようで、噛み合わないどころか一触即発です」

「なぜ私に」

「氏子の自治会長が、拝郷さんの映像を見ていました」雨森は静かに続けた。「道場主なら話が通じると、自治会側から指名がありました」

 靈は少し考えた。

「私は調停の専門家ではない。盗撮された時も、彼らとまともに話し合ったわけではないのに」

「存じています」雨森は微動だにしない。「ただ、司法がまともに機能していない今、これは簡単に法律で片づけられる問題ではありません。そもそもそれ以前に文化理解の問題です。なぜ鳥居に洗濯物を干してはいけないのか。なぜ神社の境内で深夜に騒いではいけないのか。それを、争いに発展させずに説明できる人間が必要です」

 靈はしばらく紙を見ていた。

「……わかりました」

 靈は争いごとが苦手で、これまでの人生でも極力人とのいざこざを避けてきた。しかしながら日銭を稼ぐために背に腹変えられずしぶしぶ雨森の依頼を引き受けることにした。


 八雲神社は、道場から歩いて十五分ほどの場所にあった。

 靈が神社の前に立ったのは、その日の午後だ。雨森が事前に打ち合わせの場を設定してくれていた。自治会側三名、移民側の代表二名、叢雲のスタッフ一名、そして靈。社務所の六畳間に全員が集まる手はずだという。

 ここに来るまでに多くの外国人とすれ違った。心なしか神社に近づくにつれ人数が増えている気がする。よもや交渉が決裂した際には集団で暴動でも起こすまいなと、一抹の不安が靈の心臓を逆なでする。

 鳥居をくぐりながら、靈は足を止めた。

 石造りの鳥居だ。かなり古い。注連縄が張られているが、縄の太さが左右で違う。向かって右側が太く、左側が細い。靈は少し目を細めた。これが正しい張り方だ。神道では左が陽、右が陰——縄は陽の側から始まり、陰の側に向かって綯う。だから左を向いて立ったとき、縄が右上から左下に流れて見えるのが正しい形だ。

 よく残っている、と靈は思った。

 今の川口で、こういう細かい作法を知っている氏子がどれだけいるか。

 社殿の横の社務所に入ると、すでに全員が座っていた。

 氏子側は六十代の男性が二人と、四十代の女性が一人。自治会長は白髪の男性で、名を榊原という。移民側はアラブ系と見られる男性二人で、一人は三十代、もう一人は二十代だ。通訳として叢雲のスタッフが一人ついている。

 靈が座ると、榊原が真っ先に口を開いた。

「来てくださって助かります、拝郷さん。もう限界なんですよ、こっちは」

 隣の女性が続いた。「先週も深夜の二時まで騒いでいて。注意しに行ったら、逆に怒鳴られて」

 靈はうなずきながら、移民側の二人を見た。

 若い方が、通訳を挟んで何かを言った。スタッフが訳す。「自分たちはここが特別な場所だとは知らなかった。柵もなく、誰でも入れる空き地だと思っていた」

 榊原が「それが問題なんです」と声を荒げかけた。

 靈は静かに片手を上げた。

 それだけで、榊原が口をつぐんだ。映像を見ていたからか、あるいは靈の所作に何か感じるものがあったか。

「少し聞かせてください」靈は移民側の二人を見た。「この神社の鳥居を見てきました。ああいう形の門を、あなたたちの国では何と呼びますか」

 通訳が訳すと、二人が短く話し合った。三十代の男が答えた。「ゲートだ、と言っています」

「ゲート」靈はうなずいた。「通るための門、ということですね」

「はい」

「日本では」靈は少し間を置いた。「鳥居は通るための門ではありません。境界です」

 全員が靈を見た。

「鳥居の内側は、神の領域です。外側は人間の領域。鳥居はその境界線を形にしたものです。だから鳥居をくぐるとき、日本人は礼をします。人間の世界から、神の世界に入る許可を求める行為です」

 通訳がゆっくりと訳した。

 三十代の男が、何か短く言った。

「柵もなく誰でも入れるのに、なぜ許可が必要なのか、と」

「いい質問です」靈は少し前に出た。「答えを言う前に、一つ聞いてもいいですか。あなたの家の玄関に、鍵がありますか」

「ある」

「鍵を開ければ誰でも入れます。でも、見知らぬ人間が勝手に入ってきたら、どう感じますか」

 通訳が訳す前に、三十代の男は表情で答えを出していた。眉がわずかに動いた。

「神社の境内は、氏子にとって、そういう場所です」靈は続けた。「鍵はない。柵もない。誰でも来ていい。ただ、入るときには礼を尽くす。それが、この場所と人間の間の約束です」


 話し合いは一時間かかった。

 移民側が完全に納得したかどうかは、わからない。途中、通訳でも訳しきれないほどまくしたてることがあった。通訳の口から出た言葉で唯一印象に残っているのは唯一神という言葉。古の多神教文化が日々の習慣にまで浸透している日本文化とはなかなか相いれない言葉だ。ただ、深夜の使用はしない、ゴミは持ち帰る、鳥居には何もかけない——その三点については、最終的に合意が取れた。榊原が「文書にしてほしい」と言い、叢雲のスタッフが記録を取った。

 社務所を出ると、境内に夕方の光が差していた。

 榊原が靈の隣に並んで歩いた。

「ありがとうございました。さすがですな」

 靈は返事をしなかった。さすが、という言葉が少し引っかかった。今日うまくいったのは、靈が何か特別なことをしたからではない。ただ、鳥居の意味を知っていたから説明できた。それだけのことだ。

「一つ聞いていいですか」靈は鳥居を振り返った。「あの注連縄、誰が張りましたか」

「私です」榊原が少し胸を張った。「毎年年始に張り替えています」

「縄の綯い方を、どこで覚えましたか」

「父から教わりました。父もその父から。理由は知らないですが、右を太く、左を細くするんだと」

「左綯いといいます」靈は鳥居を見上げた。「神道では左が陽、右が陰とされています。縄は陽の側から始まり、陰に向かって綯う。だから左が太く始まり、右に向かって細くなる。その縄の張り方は、正しい作法です」

 榊原がしばらく鳥居を見ていた。

「知らなかった」ぼそりと出た言葉は、独り言に近かった。「ただ父に教わった通りにやってきただけで、意味なんて考えたこともなかった」

「意味を知らなくても、正しく伝わっていた」靈は少し鳥居に近づいた。「そういう形で残っているものが、この国にはまだある」

 榊原が靈を見た。その目に、何か問いかけるような色があった。

 靈は鳥居に向かい、一度礼をした。それから踵を返した。


 帰り道、靈は神社の近くの細い路地を歩いた。

 並んで歩く雨森が、ほとんど音を立てない。革靴のはずだが、靈の摺り足ほどではないにしても、足音が妙に小さい。意識してやっているのか、習慣なのか。

「どう見ましたか、今日の話し合いを」

 先に口を開いたのは雨森だった。

「まとまりましたね」

「そうではなく」雨森は前を向いたまま続けた。「あの移民の方々が、納得したと思いますか」

 靈は少し考えた。

「わかりません。鍵の話は通じたと思います。ただ、腑に落ちたかどうかは別の話です」

「では不十分だと」

「不十分かどうかも、わかりません」靈は路地の先を見た。「今日の合意が守られれば、それでいい。腑に落ちるかどうかは、時間がかかる話です。一度の説明で何十年分の文化的な差異が埋まるとは思っていない」

 雨森がわずかに首を動かした。同意とも疑問とも取れる動きだった。

「榊原さんが、また依頼したいと言っています」雨森は続けた。「今度は神社の秋祭りで、同じ問題が起きる前に説明の場を作りたいと」

「祭りの話ですか」

「祭り囃子の練習が始まると、騒音苦情が移民側から来るそうです。毎年」

 靈はしばらく黙って歩いた。

 祭り囃子。太鼓と笛と鉦。あの音は、確かに慣れない人間には騒音に聞こえるかもしれない。ただ、あれは単なる音楽ではない。神を招く音だ。音の構造そのものに意味がある。

「続けます」靈は前を向いたまま言った。「ただ、私は調停の専門家ではない。うまくいかないこともある」

「存じています」雨森は短く答えた。「それでいいです」

 路地を抜けると、夕暮れの川口が広がった。アラビア語の看板が並ぶ商店街に、赤い光が当たっている。どこかの店から、靈の知らない言語の音楽が流れてきた。

 靈はその音を聞きながら、歩き続けた。


 道場に戻ったのは日が暮れてからだった。

 板の間に入り、靈はまず木刀を一本手に取った。今日の疲れを確認するように、軽く体を動かす。膝の動き、肩の抜け方、呼吸のリズム。

 問題なかった。

 靈は木刀を壁に戻し、奥の六畳間に入った。壁の棚に並んだ書物の背表紙を指でなぞる。親父が集めた本だ。神道関係の本、暦の本、民俗学の本。ほとんど読んでいなかった。

 一冊を引き出した。「神社の作法と由来」と題された、昭和期の出版物だ。

 表紙を開くと、見返しに親父の字で一行書いてあった。

「知っているつもりで、知らないことが一番怖い」

 靈は少し止まった。

 今日の榊原の言葉が重なった。「ただ父に教わった通りにやってきただけで、意味なんて考えたこともなかった」

 知らなくても正しく伝わっていたことと、知らないまま使い続けることの間には、何か違いがあるのだろうか。

 答えは出なかった。

 靈はその本を持って板の間に戻り、座布団の上に胡坐をかいた。

 師走の夜が、道場の外で静かに深まっていった。

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