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壱億総抜刀  作者: るふな


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3/5

第3話 「吉田きゃるんの漢字」

きゃるんが道場の前に現れたのは、翌々日の夕方だった。

 靈が看板の塗料を近所のホームセンターで買って戻ってきたところに、隣の空き家の玄関先にしゃがんでいる小柄な影を見つけた。膝を抱えて、スマートフォンを見ている。フードつきの薄いパーカーを着ているが、師走の気温にはどう見ても足りない。

「吉田さん」

 きゃるんが顔を上げた。靈を認識して、少し安堵したような表情になった。

「あ、道場主さん」

「寒くないですか」

「ちょっとだけ」

 ちょっとではなさそうだった。唇の色が悪い。靈は買ってきた荷物を持ち直した。

「茶でも飲みますか」


 道場の板の間に座布団を置いて、湯を沸かした。

 きゃるんは道場の中を物珍しそうに見回していた。壁に立てかけられた木刀、奥の六畳間から見える真剣の鞘、天井まで届く柱の木目。

「ここ、古いですね」

「曾祖父が建てました」

「何年前ですか」

「百年近く」

 きゃるんが目を丸くした。「それ、すごいことじゃないですか」

「どうでしょう」靈は急須に茶葉を入れた。「古いだけで、手入れをしているわけでもない」

「でも残ってる」

 靈は少し考えてから、「そうですね」と道場の方を見てつぶやいた。

 茶を二つ淹れて、きゃるんの前に置いた。きゃるんは両手で湯呑みを包んで、少し目を細めた。温度が体に届いているのがわかった。

「それで」靈は向かいに座った。「何か用がありましたか」

 きゃるんはしばらく湯呑みを見ていた。それから、少し言いにくそうに口を開いた。

「名前のことで、聞きたいことがあって」

「名前」

「きゃるん、って名前に……漢字を当てたいんです」


 靈は少し間を置いた。

「当て字ですか」

「当て字じゃなくて」きゃるんは首を振った。「ちゃんとした字を。きゃるんという音に、意味のある漢字を当てたい」

 靈は茶をすすりながら、その言葉を咀嚼した。

「なぜ今」

「叢雲の人に、住民登録を勧められて」きゃるんは膝の上で指を組んだ。「ちゃんと住所を作れって。そのために身分証を整えないといけないって言われて。でも身分証の名前がひらがなのままなのが、なんか嫌で」

「叢雲が」靈は少し眉を上げた。

「はい。昨日、おばさんが来ました」

 おばさん、というのが雨森のことだとすぐわかった。雨森椿が動いている。きゃるんの存在を把握して、すでに接触している。仕事が早い。

「漢字にしたいのはわかりました」靈は思い出すように遠くを見つめる。「ただ、きゃるん、という音に漢字を当てるのは、簡単ではない」

「知ってます」きゃるんは少し俯いた。「でも、道場主さんなら何か知ってるかなって。名前の字とか、意味とか」

 靈は返事をしなかった。

 しばらく、道場に沈黙が落ちた。師走の風が柱の隙間を通る音がした。


 靈が立ち上がって、奥の六畳間に入った。

 本棚から一冊、引っ張り出す。父が残していった、表紙の擦り切れた古い字典だ。国語辞典ではない。漢字一字一字の成り立ちと意味を解説した、専門的な本だ。親父は「字を調べるなら辞書より字典を引け。漢字は絵だ、意味を知らずに使うな」とよく言っていた。

 板の間に戻り、きゃるんの前に座った。

「漢字というのはもともと、全部絵から来ています」靈は字典を開きながら言った。「文字は音を写したものではなく、意味を写したものだった。だから字を選ぶということは、意味を選ぶことになる」

「意味を選ぶ」

「たとえば」靈は一字を指で示した。「『靈』という字。私の名前の字です」

 きゃるんが覗き込んだ。

「むずかしい字ですね」

「雨が降る下に、口が三つ並んで、その下に巫という字が来る」靈は字典の解説を示した。「巫は祈る人間のことです。雨乞いをするために、複数の人間が声を合わせて祈る——その姿を一字で表したのが靈という字です」

 きゃるんはしばらく字を見ていた。

「じゃあ、霊って幽霊の意味じゃないんですか」

「幽霊の霊でもあります」靈は言った。「ただ本来の意味は、神聖な力、霊験、魂の働き——そういうものです。死んだ人間が出てくるイメージは後から来た。子供の頃は背後霊とからかわれて嫌でしたが、親父に字の意味を教わってから、少し受け入れられるようになった」

「へえ」きゃるんは靈の顔を見た。「道場主さんって、名前を大事にしてるんですね」

 靈は少し考えた。

「大事にしているというより……名前には、つけた人間の意図が宿ると思っているんです」


「きゃるん、という音の漢字、ですが」靈は字典を膝に置いた。「正直に言います。きゃ、という音に対応する漢字は日本語にほとんどない。音だけで当てようとすると、意味のない当て字になります」

 きゃるんが少し肩を落とした。

「やっぱり難しいですか」

「難しい」靈はうなずいた。「ただ、考え方を変える手があります」

「どういう」

「音にこだわらず、意味にこだわるんです」靈は再び字典に目を落とす。「親御さんがきゃるんという名前に込めた意味が何かわかれば、その意味を持つ漢字を選べる。音は変わっても、意味は継げる」

 きゃるんはしばらく黙っていた。

「親が込めた意味、か」

「ご両親から聞いたことはありませんか」

「父親がいないので」きゃるんは重めな話題にしてはあっさりしている様子だ。「母親は、かわいい子に育ってほしかったって言ってました。それだけです」

「かわいい、ですか」

「はい。きゃるんってかわいい音でしょって。それだけ」

 靈は少し沈黙した。

 かわいい。その意図を否定したくはない。親が子に名をつけるとき、そこに理屈は要らない。かわいく育ってほしいという願いは、十分に正当な動機だ。

「かわいい、という言葉の字を調べてみましょうか」靈は字典をめくった。「可愛い——可は、許容する、認める。愛は、いつくしむ。可愛いとは、いつくしみを受け入れるということです。愛されることを受け入れられる子に育ってほしい、という意味にもなる」

 きゃるんが少し顔を上げた。

「愛されることを、受け入れる」

「愛という字一字でも、意味は十分に深い」靈は字典に目を落とした。「愛は旧字では真ん中に心が入っています。ここに」靈は紙に書いてみせた。「心を包むように手があって、足がある。心を抱えて、歩んでいく姿です」

 きゃるんは靈が書いた字をじっと見ていた。

 しばらくして、怪訝な様子で口を開いた。

「きゃるんって、漢字で書いたら愛になるんですか」

「なりません」靈がきっぱり否定した時、きゃるんは困惑を隠しきれないといった面持ちだった。「音は全然違う。ただ、音を一旦置いて、意味だけを見るならば——お母さんがきゃるんという名に込めたかったものは、この字に近いかもしれない、という話です」

「……考えてみます」


 きゃるんが帰りかけたとき、靈は思い出したように聞いた。

「叢雲の方から、住民登録以外に何か言われましたか」

「えっと」きゃるんは玄関先で立ち止まった。「しばらくこの家に住んでいいって。それと、何かあったらすぐ連絡しろって番号を渡されました」

「それだけですか」

「あと」きゃるんは少し首をかしげた。「今の仕事は決まってますかって聞かれました」

「何と答えましたか」

「ないって言ったら、叢雲で働く気があるかって。まだ返事してないですけど」

 靈はそれを聞いて、少し考えた。

 雨森椿は昨日道場に来て、靈に声をかけた。今日はきゃるんに接触して住民登録と仕事の話をしている。

 動きが、速い。

「吉田さん」

「きゃるんでいいです」

「……きゃるんさん」靈は少し間を置いた。「叢雲の話を受けるかどうかは、急いで決めなくていい。ただ、何か困ったことがあればここに来てください」

 きゃるんは少し目を丸くした。それから、小さくうなずいた。

「はい。ありがとうございます」

 フードを被って、夕暮れの路地に出ていった。


 靈は道場に戻り、親父の字典を本棚に戻した。

 表紙を少し撫でてから、手を離した。

 名前には意図が宿る——さっききゃるんに言った言葉が、自分の耳に戻ってくる。

 拝郷靈。

 親父は一度だけ、この名前の由来を話してくれたことがある。靈が大学を卒業して道場を継ぐと告げた夜、珍しく酒を飲みながら。

「お前の名前はな、俺の祖父、つまりお前にとっての曾祖父が決めたんだ。俺じゃない」

「なんで曾祖父が」

「まだ俺が大人になる前、爺ちゃんは俺に子供が生まれたときに、靈とつけてほしいと頼んできたんだ。長い事忘れていたんだが、お前が生まれたのが爺ちゃんの葬式のすぐ後だったんでな」

「どういう意味の名前なの」

 親父はしばらく黙って、酒を飲んでいた。それから、ぽつりと言った。

「雨の下で、人が声を合わせて祈る字だ。霊験の靈だ。——何かを繋ぐ人間になれ、という意味だと俺は聞いている」

 何かを繋ぐ。

 当時の靈には、その言葉の重さがわからなかった。道場を継ぐと言いながら、内心ではすでに気持ちが半分折れていた。それから十五年、折れたまま今日まで来た。

 靈は板の間に立ち、木刀を一本手に取った。

 夕暮れの光が、道場の格子窓から斜めに差し込んでいる。

 零の型を一度、最初から通してみた。

 摺り足で移動しながら、靈は思った。

 繋ぐ、とはどういうことだろう。

 まだ、わからない。

 ただ今日、きゃるんに字典を開いた。それが何かを繋いだかどうかは、わからない。

 型を終えて、木刀を壁に戻した。

 玄関の概要欄に名前を書き加えた昨日の自分が、少しだけ遠い気がした。

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