第2話 「旧暦の仕事」
「今日は旧暦で何日か、ご存知ですか」
電話口の声は落ち着いていた。低くも高くもない、聞き取りやすい声。靈は一瞬、返答に詰まった。
「……十一月の、十四日か十五日あたりでは」
「正確には十一月十四日です。旧暦では」
「それが何か」
「仏滅ではないので、お会いできます」
靈は受話器を持ったまま、しばらく天井を見た。
「叢雲セキュリティの渉外担当が、仏滅かどうかで仕事のスケジュールを決めるんですか」
「ええ」
即答だった。
「弊社では旧暦の六曜を業務判断の基準の一つにしています。新規接触・契約締結は大安か友引。仏滅と赤口は既存業務の処理だけ。先負の午後は動かない。——意外ですか」
「驚きました」
「慣れますよ」と雨森は案外気に入っている様子だった。「では今日の午後二時に伺います。道場の方がご都合よければ」
靈が「はあ」と答えると、電話は切れた。
スマートフォンを置いてから、靈はふと思った。
この番号、どこで知った。
動画投稿チャンネルの概要欄を開く。そこには道場名と住所、そして問い合わせ先として靈のスマートフォンの番号が書いてある。門下生募集のために五年前に載せたまま、更新するのを忘れていた。
映像を拾ったハッカーが動画を上げる際、元データに紐付いていた周辺情報——おそらくコンビニのカメラ管理システムのログに残っていた映像撮影位置から道場名が特定され、チャンネルにたどり着いたのだろう。そこから番号まで一直線だ。
ずいぶん手回しが早い、と靈は思った。それとも、それだけの人員と仕組みを持っている企業だということか。
午後二時ちょうど、チャイムが鳴った。
玄関を開けると、三十代半ばと思われる女性が立っていた。黒いトレンチコート、髪を後ろでまとめ、書類の入ったフラットバッグを脇に抱えている。目が細く、表情の動きが少ない。靈の顔を見て、一度だけ軽く頭を下げた。
「雨森椿です。お時間をいただきありがとうございます」
「拝郷です」
「はいごう……れい?さん」
雨森は名刺を差し出しながら、名前を読んだ。「背後霊、の様な響きですね」
靈は名刺を受け取りながら、表情を動かさなかった。三十八年の訓練の成果だ。
「よく言われます。ですが靈と書いてリョウと読みます」
「大変失礼致しました。」
少し間を置いた後、雨森は再び名刺に目を落とす。
「素晴らしい名前だと思います」と雨森は真顔で続けた。「気配を消して後ろに回り込む、あの型。昨夜の映像を見て、納得しました」
道場の端に座布団を二枚置いて、向かい合った。
靈は茶を淹れながら、雨森の所作を横目で見ていた。座り方が妙に正確だ。膝の角度、背筋の伸び、手の置き場所——型があるように見える。武道の経験者か、あるいは礼法を意識的に学んだ人間か。
「単刀直入に、拝郷さんには叢雲の仕事を手伝っていただきたいのです」
「警備の仕事ですか」
「近いですが、少し違います」雨森はバッグから薄いタブレットを取り出した。「弊社の川口支局は現在、この区画の民間治安補完を担っています。パトロール、調停、記録——それ自体は既存のスタッフがいます。ただ」
タブレットの画面を靈の方に向けた。昨夜の防犯カメラ映像だった。靈が男たちの背後に移動した場面が、スローモーションで流れている。
「これができる人間が、いない」
靈は画面を見た。自分の動きを客観的に見るのは初めてだった。なるほど、確かに奇妙に見える。消えて、現れる。カメラの解像度では足の動きがほとんど映っていない。
「居合の型の一つです」靈はバツの悪い表情を浮かべた。「攻撃の型ではない」
「知っています」雨森は画面を引き戻した。「昨夜、あなたは一度も木刀を構えなかった。気配を操作し、相手の判断を変えた。それが必要なのです」
「どういう意味ですか」
「暴力で解決しない、という意味です」
靈は少し考えた。
「叢雲は民間治安企業でしょう。実力行使が基本では」
「誤解されています」雨森は静かに断言した。「弊社の基本方針は『事前に終わらせる』です。事が起きてから動くのは最終手段。昨夜のあなたの対応は、弊社の理念に近い」
靈は茶をすすった。
話を聞きながら、靈は内心で指を折っていた。
動画収入が月十一万。それだけなら、とうに詰んでいた。これまで食いつないでこられたのは、親父から相続した山と土地のおかげだ。郊外の雑木林が一画、それから県北に田んぼが少し。まとまった現金が必要になるたびに、少しずつ切り売りしてきた。不動産業者に二束三文で買い叩かれながらも、それで道場の維持費と生活費を賄ってきた。
どんなに生活が困窮しようと、言い値で買うと提案してきた中国系の不動産業者を悉く断ってきた事は後悔していない。
だがその手札も、もうほとんど尽きている。残っているのは道場の建物と、この土地だけだ。ここを売ったら、道場は終わりだ。
転職、という言葉が頭をよぎるようになったのは、半年ほど前からだった。三十八歳。居合の動画を作る以外に、これといった職歴がない。履歴書の書き方も、面接の受け方も、もはや自信がない。
「報酬は」
靈は茶碗を置いた。声が、思ったより平静に出た。
「月額三十二万。稼働は不定期、呼ばれたときだけ。正式な契約ではなく、当面は顧問という形です」
三十二万。今の収入の三倍近い。
「六曜の制約はありますか。仕事の日程で」
雨森は少し表情を緩めた——かすかに、だが確かに。
「もちろんです。大安か友引に打ち合わせを設定します」
靈がすぐには答えなかったので、雨森はタブレットを片付けながら、道場を見回した。
「立派な道場ですね。柱の木が古い」
「曾祖父が建てました」
「ではこの地に、ずっと住んでいたんですか?」
「海外にいた時期もありますが、やはり日本がいいです。川口は昔から外国人の多い街でしたから、慣れていたせいか海外でも疎外感はあまり感じませんでした」
靈は年季の入った梁を見た。「曾祖父の時代でも、鋳物工場に出稼ぎの人間がいた。それが今は、日本人の方が少ない」
「住みにくいですか」
靈は少し考えた。
「住みにくい、というより……」
うまく言葉にならなかった。街が変わったのではなく、街の中に自分が「いる理由」を見失った感覚。道場があるから、ここにいる。それだけのことだ。
「道場の看板が読みにくくなっているのを、直さないのですか」と雨森が言った。
靈は少し驚いた。来る前に、外から見ていたらしい。
「……必要性を感じなかっただけです」
「昨夜の後では、感じますか」
靈は答えなかった。
雨森は腰を上げながら、最後にこう言った。
「旧暦の十一月を、弊社では『神無月の翌月』と呼んでいます。十月に全国の神々が出雲に行ってしまった後、十一月にようやく帰ってくる。仕事が本格的に動き出す月です」
「……出雲では十月を神在月と呼ぶ」靈は思わず言った。「他の地域で神がいなくなる間、出雲だけは神が集まっているから」
雨森が振り返った。
「ご存知でしたか」
「親父から聞きました」靈は少し遠くを見るような目になった。「口うるさい男でしてね。飯を食うたびに、季節の話や神様の話を聞かされた。当時はうんざりしていましたが」
「今は」
「今は、もう少し聞いておけばよかったと思っています」
「ならば話が早い」雨森は靈を真っ直ぐ見た。「拝郷さん。あなたが道場の看板を塗り直す理由を、弊社が作れるかもしれません」
それだけ言って、雨森椿は玄関から出ていった。
靈はしばらく、道場の板の間に立っていた。
雨森が帰ったあと、道場にはいつもの静けさが戻っていた。師走の風が、隙間から薄く入ってくる。
靈は壁の木刀を一本、手に取った。
垂直に立て、右手で握る。昨夜と同じ持ち方だ。
「零の型」——親父はそう呼んでいた。正確には、曾祖父が基礎を作り、親父がその意図を口伝で教えてくれたものだ。流派の型録のどこにも載っていない。
ただし今の靈が使う零の型は、その原型からだいぶ変わっている。重心の移し方、視線の外し方、踏み出しのタイミング——十五年かけて少しずつ手を入れ、靈自身の体格と反射速度に合わせて削り直してきた。曾祖父の発想、親父の言葉、靈の肉体。三代分が重なって、今の型がある。
木刀を持ったまま、靈は摺り足で板の間を移動した。気配を落とし、重心を下げ、足音を消す。視線は前ではなく、空間全体に向ける。相手の死角に入る感覚——それは「隠れる」のではなく、「相手の世界の外側に出る」感覚に近い。
親父はよく言っていた。「零というのはな、何もないという意味じゃない。数える前の状態だ。始まる前の、全部の可能性がある場所だ」
当時は、その言葉の意味がわからなかった。
今も、完全にはわからない。
だが、木刀を持って板の間を歩くとき、なぜか親父の声が近くに感じられる。
翌日、靈は道場の玄関先に立った。
欅の看板を、手で触れてみた。塗料が浮いている部分がある。雨染みで木が傷みかけている。このまま放っておけば、あと数年で看板ごと落ちるかもしれない。
靈はスマートフォンを取り出して、塗料店の場所を検索した。川口市内の店は三軒がヒットした。いずれも店名は外国語だった。
靈はスマートフォンをポケットに戻した。
まず、動画チャンネルの概要欄を開いた。問い合わせ先の電話番号の横に、一行書き加えた。
「道場主 拝郷靈」
五年間、名前を載せていなかった。なんとなく、気恥ずかしかっただけだ。理由はそれだけだ。
概要欄を閉じて、道場に入った。
まず木刀に触れた。今日は久しぶりに、全ての型を通してやろうと思った。AIに動画を作らせる前に。
零の型を最後に。




