第1話 「錆びた刃」
道場の看板は、もう三年も塗り直していない。
拝郷靈が気づいたのは、配達ドローンが降ろしていった段ボールを玄関で受け取りながら、ふと見上げたときのことだ。「拝郷道場 制定居合道・宗家」と掘られた欅の板は、かつて先祖が自ら彫ったという代物だが、今となっては雨染みで半分読めなくなっていた。
「まあ、どうせ誰も来ないしな」
独り言が、師走の空気に白く溶けた。
西暦二〇五六年、十二月。埼玉県川口市。
商店街の看板はアラビア文字と中国語とベトナム語が入り乱れ、日本語の案内板を探す方が難しい。朝、ゴミ捨て場に向かえばすれ違う顔ぶれはほとんど外国人で、コンビニ店員もみな中東系。靈が日本語で「支払いお願いします」と税金の請求書を出すと、相手が一瞬きょとんとする。ほぼ全ての店がキャッシュレス、自動会計になった今、お堅いお役所は税金の支払いだけは対面確認が必要としているせいで、日中の殆どをろくに業務もせず裏で煙をふかしながら待機している外国人労働者を引っ張り出さなければいけない。その都度心持穏やかではなくなる——そういう街になって、もう十年以上になる。
靈は三十八歳。
居合道の道場を継いで十五年になるが、門下生は今ひとりもいない。道場の奥の六畳間には、曽祖父から代々受け継いだ居合専用の木刀が三十本と、真剣が五振り。そのどれにも今年はまだ手を触れていない。かわりに毎朝やることといえば、AIに指示を出して「居合道入門・第一回・正座の作法から学ぶ」といった教習動画を生成させ、自分の声だけ吹き込んで投稿するだけだ。登録者数は七万二千人。月収にして十一万円ほど。贅沢しなければ生きていける。
それで十分だと、靈は自分に言い聞かせていた。
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段ボールの中身は規格外で廃棄予定になるはずだった野菜と、今となっては高級食材となってしまった国産玄米だ。
インスタント食品など安価なもので済めばいいものを、厳格な精進料理ばかり食べさせられてきたせいで、どうにも添加物を體が受け付けない。
リビングのソファに体を沈めながら、靈は壁面モニターをつけた。国営配信局のニュースは、今日も「大正義」の話題で持ちきりだった。
「——本日未明、大阪府堺市において、また一件の処刑映像がネット上に公開されました。被害者は元大阪市議会議員の——」
靈はチャンネルを切り替えた。
「大正義」。正式名称は「大日本正義連合」。
二〇三二年に突如として現れた、日本人純血至上主義を掲げる組織だ。腐敗した政治家や裁判官を標的に「処刑」を繰り返し、首班の倉敷恒雄は指名手配されている。それでも組織は潰れない。国民の半数以上が支持しているからだ——オールドメディアはひた隠しにしているが、少なくとも、SNSの世論調査の数字はそう言っている。
靈は支持者ではなかった。だが、否定する気にもなれなかった。
移民政策が「暴走」と呼ばれるようになって久しい。二〇四〇年代の一連の法改正で人口維持を優先した政府は、十年で三百万人規模の移民を受け入れた。そして政治と司法が腐敗し、自警団が生まれ、防犯企業が合法化され、今に至る。
川口がその最前線だった。
移民の急増に伴い、一時期は永住権をめぐる偽装婚や事実婚が社会問題化した。外国人と「関係を作る」ことで在留資格を売買する業者が横行し、それに巻き込まれた日本人——特に若い女性——が後を絶たなかった。あの頃から日本人の間で、外国的な響きの名前への拒否感が急速に広まっていった。「その名前、大丈夫か」という空気が、社会全体に滲んでいった時代だ。
名前といえば——と、靈は毎度同じことを考えた。
「拝郷靈」。これで「はいごうりょう」と読む。
子供の頃から散々だった。「背後霊みたいな名前だな」と笑われるのはまだいい方で、中学のとき同じクラスだった山下には毎日「おい、背後霊」と呼ばれた。高校でも大学でも、初めて自己紹介するたびに一拍の間があって、それから笑いが来た。
親父は「霊とは魂の総称だ。恥ずかしいことは何もない」と言っていたが、三十八年生きて、その言葉をすんなり受け入れられたことは一度もなかった。
せめて今の時代に生まれていればよかった、とも思う。キラキラネームが毛嫌いされる今なら、「靈」という漢字の重さは逆に評価されたかもしれない。
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その夜、異変が起きたのは午後十一時をまわった頃だった。
眠れずにいた靈が台所で白湯を飲んでいると、隣の家から声がした。
隣は二年前から空き家のはずだ。だが声は確かにした。若い女の声と、それを圧し折るような怒鳴り声が、複数。日本語ではなかった。
靈は台所の窓から外を覗いた。
男が三人いた。二十代から三十代。顎鬚を伸ばし、いずれも黒いダウンジャケットを着ている。そのうちの一人が、隣家の玄関前で少女の腕をつかんでいた。小柄な体が、男の手の中で縮こまっていた。少女は必死に何かを訴えているが、男たちは意に介さない。
靈は台所を出た。
廊下を歩いて、玄関の引き戸を開けた。道場の板の間に入り、物干し竿にしてあった木刀を一本、右手に取った。特に意識したわけではない。體がそう動いた。それだけだ。
玄関の外に出ると、三人の男が振り返った。
靈は木刀を右手に、垂直に立てて持った。刃を想定した構えではない。ただ、手に持っている。そして、男たちの背後に目をやった。視線を「奥」に向ける癖は居合で染みついたものだ。相手の後ろを見ることで、相手が自分の背後を意識する——曾祖父が「気配の操作」と呼んでいた技法らしい。
「その子に、何か用ですか」
三人の目が、木刀と靈の顔を交互に見た。
「……関係ナイ。引っ込んでロ」
「なるほど」
靈はうなずいた。そして一歩、横に踏み出した。
男たちの視線が、その動きを追った。
その瞬間だった。靈の気配が、消えた。
正確には、消えたように感じさせた。重心を落とし、呼吸を止め、足の運びを摺り足に変える。曾祖父が「零の型」と名付けた動作だ——「お前の為にあるような技だな」と、あのとき親父が初めて笑ったのを覚えている。
気づけば靈は、三人組の斜め後方に立っていた。
移動したのは三歩。だが男たちは誰も見ていなかった。
先頭の男が振り返り、靈の位置を確認して、一瞬だけ表情が崩れた。
「……帯刀は黙認されています。木刀も同様です。あなた方がその人や私に危害を加えれば、正当防衛としてこれを振るうこともできます」
男たちが短く言葉を交わした。アラビア語に近い響きだったが、靈には意味が取れなかった。ただ、声のトーンが変わったことはわかった。
少女の腕が、放された。
三人は路地の角を曲がり、足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
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少女は「きゃるん」と名乗った。
吉田きゃるん。漢字はない、平仮名でそう書く——と、本人が少し緊張した様子で言った。
靈は一瞬だけ間を置いた。この時代に、その名前は目立つ。外国的な響きのキラキラネームが毛嫌いされるようになって久しい今、「きゃるん」という名を持つことは、相当な勇気か、あるいは相当な無頓着か、どちらかだ。
「……吉田さんね」
靈はあえて苗字で呼んだ。
「きゃるんでいいです」と少女は言った。「親がつけた名前なので」
「そうですか」
空き家に住み着いていること、親が蒸発して半年になること、それ以上の事情は語らなかった。靈も深くは聞かなかった。
「なんで助けてくれたんですか」ときゃるんが聞いた。「見て見ぬふりをする人の方が多いのに」
靈は少し考えた。
「さあ」と言いかけて、止まった。
自分でもよくわからなかった。體が動いた。無意識に木刀を握った。それだけだ。でも、その「それだけ」の奥に何かがあるような気がして、うまく言葉にできなかった。
代わりに、考えもしなかった言葉が漏れた。
「道場主なので」
きゃるんは首をかしげた。
靈は道場の引き戸を閉めながら、なぜかその言葉が自分の口から出てきたことを、不思議に思っていた。
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翌朝、靈のチャンネルに見知らぬ投稿者からのコメントが大量についていた。
面白映像のネタ探しbotで、コンビニに設置された防犯カメラからデータを自動抽出していた酔狂なハッカーが、昨夜の映像を勝手にクラウドに上げていたらしい。
木刀を手に立つ男。三人組の背後にいつの間にか移動している場面。そして少女の腕が放される瞬間。
ご丁寧にも、AI生成動画に辟易した視聴者のための、加工なし動画のみがアップロード可能なサイトに投稿され、靈のチャンネルにリンクされている。
「ジャパニーズサムライ!」
コメント欄の言葉を読みながら、靈は白湯をすすった。
「侍ね」
苦い笑いが出た。背後霊、と呼ばれていた頃の方が、まだ実感があった。
スマートフォンが鳴ったのは、そのときだった。
画面には見慣れない番号。発信元情報には一行。
「叢雲セキュリティ株式会社 渉外部 雨森椿」
靈は三秒ほど画面を見つめた。それから、受話器のアイコンをタップした。




