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壱億総抜刀  作者: るふな


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10/13

第10話 「蕎麦屋の男」

蕎麦屋は、商店街から一本入った路地にあった。

 看板は古い木製で、「手打ち蕎麦 しずか」と墨で書いてある。周囲がアラビア語と中国語の看板で埋まる中で、その一軒だけが妙に静かな佇まいをしていた。引き戸の前に暖簾が下がっている。紺地に白で家紋が入っている。靈には読めない家紋だったが、形は覚えた。

 約束の時間の五分前に着いた。

 引き戸を開ける前に、靈は一度だけ深呼吸した。面倒だと思うと早く終わらせようとする、ときゃるんに言った言葉を思い出した。今日は面倒だと思っても、早くしない。それだけを意識した。

 引き戸を開けた。


 店内は小さかった。

 テーブルが四つ、カウンターに席が三つ。昼時を少し過ぎた時間で、客は靈の他に二組だけだ。老夫婦が奥のテーブルで蕎麦を食べている。

 カウンターの奥に店主らしき人間がいた。六十代の女性で、こちらには目を向けなかった。

 窓際のテーブルに、男が一人座っていた。

 六十代後半。白髪を短く刈り込み、紺色の作務衣を着ている。手元に湯呑みがある。靈が入ってきたのを見て、立ち上がりも手を上げもせず、ただ靈を見た。

 靈は男のテーブルに向かった。

「拝郷靈です」

「倉敷です」

 それだけだった。靈が向かいに座ると、倉敷は店主の方を見た。

「同じものを」

 店主が静かにうなずいた。


 しばらく、二人とも黙っていた。

 靈は倉敷の顔を見た。映像で見た顔と、目の前の顔が同じ人間のものだということは確認できる。ただ、映像で感じた神職に似た雰囲気は、実物ではもう少し薄い。どちらかというと、教師に近い印象だ。

 倉敷が先に口を開いた。

「映像で見たより、若く見えますね」

「三十八です」

「わしが思っていたより若い」倉敷は湯呑みを持った。「居合を続けているからですかな」

「続けているかどうか、怪しいところです」

 倉敷がわずかに表情を動かした。笑い、とも取れるし、何かを確認した顔とも取れる。

「正直な方だ」

「今日は正直に話す方が早いと思っています」靈は倉敷を見た。「遠回しにやり取りをする時間と技術が、私にはない」

「結構です」倉敷は湯呑みを置いた。「では私も正直に言います。あなたに会いたかった理由は、怒りを持っているかどうか確認したかったからです」

「怒り」

「GHQが奪ったものへの、怒りです」


 蕎麦が来た。

 盛り蕎麦が二つ、静かに置かれた。店主は何も言わずに戻った。

 靈は蕎麦を見てから、倉敷を見た。

「食べながら話しましょう」倉敷が言った。「蕎麦は伸びる」

 二人で箸を取った。

 靈は蕎麦を一口食べた。細打ちで、喉越しがいい。出汁の香りが穏やかだ。この店を選んだのは叢雲だが、蕎麦は悪くなかった。

「怒りを持っているかどうか、という質問への答えは」靈は箸を置かずに言った。「持っているかどうか、まだわかっていません」

「まだ、ですか」

「GHQが奪ったものがあることは、最近になってようやく少し見えてきました。ただ、それに対して怒りを感じているかどうかは、自分でもはっきりしていない」

 倉敷は蕎麦を一口食べてから、靈を見た。

「知ったのは最近、ということですか」

「ここ数ヶ月のことです」靈は正直に言った。「親父から断片を聞いていましたが、体系的に知ろうとしたのは最近です」

「なぜ最近になって」

「道場の仕事が入ったからです」

 倉敷が少し首をかしげた。靈は神社の調停と灯籠流しのことを、簡単に説明した。説明しながら、これを倉敷に話すべきかどうか一瞬考えたが、正直に話す方が早いと決めていたので話した。

 倉敷は黙って聞いていた。


「あなたが神社の調停に入ったことは、把握していました」倉敷は蕎麦を食べ終えて、湯呑みを持った。「移民と氏子の間に入って、合意を取り付けた。それを聞いたとき、うちの人間は妥協だと言った」

「聞いています」

「あなたはどう思いますか」

「妥協かどうかは、何を基準にするかによります」靈は倉敷を見た。「鳥居に洗濯物をかけなくなった。深夜に騒がなくなった。ゴミを持ち帰るようになった。それを妥協と呼ぶなら、妥協です。ただ私は、それ以上のことを求める立場にない」

「なぜ」

「私は神社の氏子でも、住民の代表でもない。叢雲から頼まれて話し合いの場に来た人間です。自分の権限の外のことを決めることは、私にはできない」

 倉敷はしばらく靈を見ていた。

「権限の話ではなく、あなた自身の考えとして。移民と共存することを、あなたは正しいと思っていますか」

 靈は少し間を置いた。

「正しいかどうかは、私には判断できません」靈は答えた。「ただ、目の前にいる人間と話すことを、私は間違いだと思っていない」

「話すこととは」

「話し合いの席に着いた移民の二人は、約束を守りました。それが全てです。守った人間を、守る前から排除するべきだとは思っていない」


 倉敷はしばらく湯呑みを持ったまま、窓の外を見た。

 路地に人が通った。アラブ系の若者が二人、早足で歩いていく。倉敷はその背中を目で追った。

 靈は倉敷の横顔を見た。怒りを探したが、見えなかった。代わりにあったのは、疲れに近い何かだった。

「一つ聞いていいですか」靈は言った。

 倉敷が靈に視線を戻した。

「聞いてください」

「講演録を読みました」靈は続けた。「古いものです。最初の頃の講演では、知ることが取り戻すことの始まりだと言っていた。それが後の講演では、取り除かなければならないという言葉に変わっていた」

 倉敷の表情が、わずかに動いた。

「その変化の間に、何があったんですか」

 静かな問いだった。責める声ではなく、確認する声で靈は言った。

 倉敷はしばらく黙っていた。

 窓の外をもう一度見て、それから靈に向き直った。

「一人の教師の話をしてもいいですか」

「聞きます」


「わしが二十代の頃に、師と呼んでいた人間がいました」倉敷は静かに話し始めた。「国語の教師です。公立の中学校で教えていた。授業では教科書を使わず、古事記の現代語訳を読ませていた」

 靈は黙って聞いた。

「その教師が、ある年に処分を受けました」倉敷は続けた。「授業内容が学習指導要領から逸脱しているという理由で、教壇を降ろされた。わしはその頃すでに教師の元を離れていましたが、話を聞いて会いに行った」

「その人は何と言っていましたか」

「笑っていました」倉敷の声が少し変わった。「悔しがると思っていたのに、笑っていた。子供たちに古事記を読ませることができた。それだけで十分だったと言っていた」

 靈は蕎麦の残りに箸をつけた。

「その教師は、今」

「三年後に死にました」倉敷は淡々と言った。「病気です。七十二でした。葬儀には、かつての教え子が百人以上来た。教師が読ませた古事記を、覚えている人間が何人もいた」

「いい死に方だったと思います」靈は言った。

「そう思います」倉敷はうなずいた。「ただ、葬儀の帰り道に、わしは考えていた。この人が教えようとしたことを、なぜ教えることが許されなかったのか。誰が、何のために、この人の授業を止めたのか」

 靈は倉敷を見た。

「そこから変わったんですか」

「変わり始めた」倉敷は正直に言った。「ただ、変わったのはわしだけではなく、周りにいた人間も同じだった。怒りを持った人間が集まると、怒りが増幅する。わしは止めることができなかった」


「あなたは今、その変化を後悔していますか」

 靈の問いに、倉敷はすぐに答えなかった。

 店内に蕎麦を啜る音がした。奥の老夫婦がまだいた。静かな午後だった。

「後悔、という言葉が正確かどうかわかりません」倉敷はゆっくりと言った。「ただ、あの教師が笑っていたことを、今でも考えます。教壇を降ろされて、笑っていた。わしは怒っていたのに、その人は笑っていた。どちらが正しかったのか」

「正しさの話ではないかもしれません」靈は言った。

「どういう意味ですか」

「怒ることと、笑うことは、どちらが正しいかという問いではないと思います」靈は箸を置いた。「その教師は、できることをした。授業で古事記を読ませた。それで十分だと思った。あなたは、できることをしようとした。ただ、できることの範囲が、違う方向に広がっていった」

 倉敷はしばらく靈を見ていた。

「あなたは、わしを批判しに来たわけではないんですね」

「批判する立場にありません」靈は答えた。「私は三ヶ月前まで、AIに動画を作らせて日銭を稼いでいた人間です。あなたが怒っていた間、私は何もしていなかった」

 倉敷が、今日初めてはっきりと表情を動かした。

 笑いではなく、何か意表を突かれたような顔だった。


「一つ、あなたに聞きたいことがあります」倉敷は姿勢を少し変えた。「大和魂の本義を知っているかと、メッセージに書きました。あなたはどう読みましたか」

「試されていると思いました」靈は正直に言った。「ただ、本を読んでみたら、試す以上の意味がある言葉だとわかった」

「どういう意味だと思いましたか」

「物事の道理を知り、その場に応じた判断をする感性、と読みました」靈は倉敷を見た。「あなたが今の組織で使っている意味とは、ずれていると思います」

 倉敷はすぐに否定しなかった。

 しばらく間があって、静かに言った。

「ずれている、かもしれません」

 靈はその言葉を、急いで追わなかった。

 倉敷が何かを考えている。それを待った。

「あの教師は」倉敷はゆっくり続けた。「道理を知り、場に応じて動いた。古事記を読ませることが今できることだと判断して、動いた。それが大和魂だったかもしれない」

「そうかもしれません」

「わしのやってきたことは」倉敷は言いかけて、止まった。

 靈は待った。

 倉敷は続けなかった。

 その沈黙を、靈は埋めなかった。


 帰り際、二人は店の前に立った。

 倉敷が靈を見た。

「また話しますか」

「あなたが望むなら」靈は答えた。「ただ、条件があります」

「なんですか」

「川口で何かを準備していると聞きました」靈は倉敷を見た。「それが人を傷つけることであれば、私はここで話を終わりにします」

 倉敷はしばらく靈を見ていた。

「準備していることは、あります」倉敷は静かに言った。「ただ、今日のあなたと話して、少し考えることができた。答えはすぐには出せません」

「出なくていいです」靈は言った。「ただ、考えてください」

 倉敷が、もう一度あの表情を見せた。意表を突かれた顔だ。

「あなたは不思議な人ですね」

「よく言われます」

「背後霊、というあだ名は、あなたには似合っている」倉敷は路地を見た。「いつの間にか、こちらの隣に来ている」

 靈は返事をしなかった。

 倉敷が頭を下げた。靈も頭を下げた。

 それで別れた。


 道場に戻ったのは、夕方近かった。

 雨森への報告は電話で済ませた。会話の内容を要点だけ伝えると、雨森はしばらく黙ってから言った。

「倉敷が、ずれているかもしれないと言ったんですね」

「言いました」

「それが本心かどうかは、まだわかりません」雨森は続けた。「ただ、その言葉が出たことは記録しておきます」

「川口での準備について、叢雲は何か把握していますか」

「調査中です。わかり次第連絡します」

 電話を切って、靈は板の間に座った。

 今日の会話を、頭の中で一度整理した。

 倉敷は怪物ではなかった。ただ、怪物ではないことと、していることが正しいこととは別だ。

 一人の教師の話を聞いた。笑っていた教師の話。怒りが増幅した話。

 靈は壁の木刀を見た。

 あの教師は、できることをして、十分だと思った。

 靈はまだ、十分だと思えるものを持っていない。

 ただ、今日倉敷と蕎麦を食べた。それは何かだ。何かであることは、確かだ。

 靈は木刀を手に取った。

 零の型を始める前に、三呼吸待った。

 待ちながら、靈は今日の倉敷の最後の顔を思い出した。

 いつの間にか隣に来ている、と言った顔。

 零の型は、相手の世界の外側に出る型だ。

 ただ外側に出るだけでなく、外側から隣に来ることも、できるかもしれない。

 靈はゆっくりと、動き始めた。

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