第11話 「川口の準備」
雨森から連絡が来たのは、倉敷と会った三日後だった。
靈が朝の型を終えて、親父の本棚から引き出した本を読んでいるところに電話が鳴った。今日は大安だった。雨森が六曜を守って動くなら、何か具体的な話がある。
「調査の結果が出ました。今日、時間はありますか」
「あります」
「午後二時に伺います」
雨森が来たとき、いつものバッグの他に、筒状に丸めた紙を持っていた。地図か、図面か。靈は板の間に通しながら、その筒を見た。
座布団に向かい合って座ると、雨森は筒を開いた。
川口市内の地図だった。A2サイズほどで、数カ所に印がつけられている。
「大正義が川口で準備していることが、ある程度わかりました」雨森は地図を靈の前に広げた。「標的は人ではありません」
「場所ですか」
「場所です」雨森は地図の一点を指した。「ここです」
靈は地図を見た。
印がついていたのは、八雲神社だった。
「神社を、どうするつもりですか」靈は地図から目を上げた。
「占拠、という形に近いと思います」雨森は指を地図の上に置いたまま言った。「大正義の構成員が集団で神社に入り、そこを拠点として何らかの声明を出す。具体的な内容はまだわかっていませんが、川口の移民問題に関連した内容になるはずです」
「時期は」
「旧暦の正月、一月の末です。叢雲が把握している構成員の動きから、その前後だと推定しています」
靈はしばらく地図を見た。
八雲神社。榊原が毎年注連縄を張り替えている神社。きゃるんが初めて太鼓を打った場所。
「占拠することで、何を得ようとしているんですか」
「注目です」雨森は静かに言った。「川口は移民問題の象徴的な場所として、国内外のメディアが注目しています。そこで神社を占拠して声明を出せば、大正義の主張が広く報道される。実力行使ではなく、宣伝としての占拠です」
「神社を傷つける可能性は」
「低いと判断しています。ただ、ゼロではない」
靈は地図から顔を上げた。
「榊原さんには伝えましたか」
「まだです」雨森は靈を見た。「伝え方を、相談したかった」
「なぜ私に相談するんですか」
「榊原さんが拝郷さんを信頼しているからです」雨森は答えた。「叢雲のスタッフが同じ内容を伝えるより、あなたが伝える方が、榊原さんが適切に動ける可能性が高い」
靈は少し考えた。
「榊原さんが、適切でない動きをする可能性があると」
「あります」雨森は正直に言った。「大正義に対して感情的になることは、状況を悪化させます。自警団を動かして対立する形になれば、神社が暴力の場になりかねない」
「叢雲はどう対処するつもりですか」
「神社の周辺警備を強化します。構成員が入る前に対話で止めることが第一の手段です。それが叶わない場合は、占拠が始まった時点で警察に通報します」雨森は続けた。「ただ警察の対応は遅い。現場での判断が必要になる場面があるかもしれません」
「その判断を、私に求めると」
「状況によっては、お願いすることになるかもしれません」
靈はしばらく地図を見た。
八雲神社の位置から、道場までの距離を目で測った。歩いて十五分。走れば十分かからない。
「わかりました」靈は言った。「榊原さんへの説明は、私がします」
その日の夕方、靈は八雲神社に向かった。
事前に連絡は入れていない。榊原が境内にいるかどうかわからないが、いなければ出直せばいいと思って来た。
鳥居の前で礼をしてくぐると、社殿の前の石畳を榊原が箒で掃いていた。前回来たときと同じ場面だった。
榊原は靈を見て、箒を止めた。
「来てくれましたか。何かありましたか」
「少し話があります」
「上がってください」
社務所の六畳間で、靈は大正義の動きを説明した。
神社を占拠する可能性があること、時期は旧暦正月の前後であること、目的は宣伝であること。
榊原は黙って聞いていた。話している間、一度も口を挟まなかった。
靈が話し終えると、しばらく沈黙があった。
榊原の顔に、怒りが出てくるのを靈は待った。
ただ、出てきたのは怒りではなかった。
「そうですか」榊原は静かに言った。「神社に入ってくる、ということですか」
「入ってきた場合の対処は、叢雲が中心になります」靈は続けた。「榊原さんには、自警団を呼ばないでほしいと伝えに来ました」
榊原がゆっくり靈を見た。
「自警団を動かすなと」
「動かすことで、状況が悪化する可能性があります」
「大正義の人間が神社に入ってくるのに、黙って見ていろということですか」
靈は答える前に、少し間を置いた。
「黙って見ていろとは言いません。ただ、戦う相手と戦う場所と戦うタイミングは、選べます」
「それが叢雲の判断に任せろということか」
「叢雲と、私の判断に、ということです」
榊原はしばらく黙っていた。
それから、大きく息を吐いた。怒りを吐き出すような息だった。
「……わかりました」低い声で言った。「ただし、神社が傷つけられそうになったときは、わしは動きます。それは止められない」
「それは止めません」靈はうなずいた。「その状況になったとき、私も動きます」
榊原が靈を見た。何か言いたそうな顔をしたが、言葉にはしなかった。
代わりに立ち上がって、湯を沸かし始めた。
茶を飲みながら、榊原が話した。
「大正義の言っていることは、わしにはわからんでもないんです」榊原は湯呑みを持ったまま言った。「日本の文化が失われてきた、という話は、わしも感じてきた。ただ」
「ただ」
「神社を占拠することが、文化を取り戻すことになるとは思えない」榊原は首を振った。「この神社を守ってきたのは、毎年縄を張り替えて、祭りの準備をして、境内を掃いてきた積み重ねです。そういうことの積み重ねが、文化というものでしょう」
靈はうなずいた。
「拝郷さんは、大正義の人間と話したことがあるんですか」榊原が聞いた。
「あります」
「どんな人間でしたか」
靈は少し考えた。
「怪物ではありませんでした」靈は正直に言った。「ただ、怪物でないことと、していることが正しいこととは別です」
榊原はその言葉をしばらく咀嚼するように黙っていた。
「怪物でない人間が、怪物のようなことをする」ぽつりと言った。「それが一番怖いですな」
「そうかもしれません」
社務所を出ると、境内に夕方の光が差していた。
靈が鳥居に向かって歩いていると、境内の端から声がした。
「道場主さん」
振り返ると、末社の横できゃるんが立っていた。
靈は少し止まった。ここに来るとは聞いていなかった。
「叢雲に頼まれていたんですか」靈はきゃるんに歩み寄りながら言った。
「はい」きゃるんは少し申し訳なさそうな顔をした。「境内の様子を見ておいてほしいって。先週から週に二回来てます」
「何か変わったことはありましたか」
「今日で三度目ですが、今日は初めて知らない人がいました」
靈はきゃるんを見た。
「いつですか」
「道場主さんが来る少し前です。鳥居の外から境内を見ていた男の人が一人いて、気づいたらいなくなっていました」
「どんな男でしたか」
「四十代くらい。スーツを着てました」
靈は少し考えた。
灯籠流しの夜、商店街の角で自分を見ていた男と、体格が似ている。石丸、と雨森が言っていた名前が頭に浮かんだ。
「叢雲に連絡しましたか」
「しました。さっき」きゃるんは靈を見た。「道場主さん、知ってる人ですか、その男」
「おそらく大正義の構成員です」
きゃるんが少し表情を固くした。
「この神社が、狙われてるんですか」
「狙われている、というより、下見をされている段階だと思います」
「下見」きゃるんは境内を見た。「じゃあ、まだ時間がある」
「少しあります」
きゃるんが靈を見た。
「私、何かできますか」
靈は少し考えた。
きゃるんに何ができるか、という問いではなく、きゃるんに何を頼むべきか、という問いとして考えた。
「今やっている、境内の様子を見ておくことを続けてください」靈は言った。「知らない顔を見たら、すぐに叢雲に連絡する。それだけでいい」
「戦ったりはしなくていいですか」きゃるんが少し真剣な顔で言った。
「しなくていいです」
「でも道場主さんは、何かあったら戦うんですよね」
「状況によっては」
「私も、何かできるようになりたいです」きゃるんは靈を真っ直ぐ見た。「太鼓は叩けるようになりました。他にも、できることを増やしたい」
靈はきゃるんの顔を見た。
十七歳の、小柄な少女だ。半年前まで親の行方を追いながら空き家に住んでいた。名前の漢字を持っていなかった。
ただ、今この目は本気だった。
「木刀を握ったことはありますか」靈は聞いた。
「ないです」
「道場に来てください。基礎だけ教えます」靈は少し続けた。「基礎とは、攻撃の型ではない。礼の作法と、立ち方と、木刀の持ち方です。それだけです」
「それだけでいいんですか」
「それだけで十分なことが、ほとんどです」
きゃるんが少し考えてから、うなずいた。「わかりました。行きます」
鳥居を出て、靈はしばらく路地に立った。
空が暮れてきている。商店街の方から、見慣れない食べ物の匂いが流れてきた。どこかの店が夕食の準備を始めている。
靈はスマートフォンを取り出して、雨森に短いメッセージを送った。
「石丸と思われる人物が、今日の午後に神社の下見をしていた可能性があります。きゃるんさんが目撃しています」
すぐに既読がついて、返信が来た。
「把握しました。警備の頻度を上げます。拝郷さんも、動きがあれば随時連絡をください」
靈はスマートフォンをしまった。
歩き始めながら、今日の倉敷の言葉を思い出した。
川口での準備について、答えはすぐには出せない、と倉敷は言った。
考えてくれているのか、それとも言葉だけだったのか。
まだわからない。
ただ一つだけ、靈に確かなことがあった。
倉敷が動く前に、靈が動ける場所にいる。それは今日、はっきりした。
道場に戻ると、外はすっかり暗くなっていた。
板の間に入り、靈はまず壁の木刀を一本手に取った。
きゃるんに基礎を教えると言った。礼の作法、立ち方、木刀の持ち方。
靈自身が、最後にそれを誰かに教えたのはいつだったか。
思い出せなかった。道場を継いで十五年、門下生はひとりもいなかった。教えることを、どこかで諦めていた。
木刀を垂直に立て、右手で握った。
この持ち方を、きゃるんに教える。
それは小さいことだ。ただ、小さいことの積み重ねが、榊原が言っていた「積み重ね」だ。
靈は零の型を始めた。
いつもより丁寧に、一つ一つの所作を確認しながら動いた。
教えるためには、自分がわかっていなければいけない。わかっていると思っていたことが、教えようとすると見えていなかったことに気づく。それが教えることの意味だと、親父は言っていた。
型を終えて、木刀を壁に戻した。
板の間が、少しだけ広く感じた。




