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壱億総抜刀  作者: るふな


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第12話 「礼の作法」

きゃるんが道場に来たのは、約束の翌々日だった。

 午前十時に来ると前日にメッセージが来ていたので、靈は九時半には板の間を整えておいた。座布団を端に寄せ、木刀を二本、壁から出しておいた。一本は靈用、もう一本はきゃるん用だ。きゃるんの体格に合わせて、少し短めのものを選んだ。

 十時ちょうどにチャイムが鳴った。

 引き戸を開けると、きゃるんが立っていた。動きやすそうなジャージの上下を着ている。前回より少し表情が固い。

「緊張していますか」靈は引き戸を開けながら言った。

「してます」きゃるんは正直に言った。「怒られるかと思って」

「怒りません」

「本当ですか」

「怒る理由がない」靈は板の間に通した。「失敗して怒られるなら、最初から誰も稽古に来ない」

 きゃるんが靈の後ろでそっと息を吐いた。


 板の間の中央に、きゃるんを立たせた。

「まず、靴を脱いだ後の置き方から始めます」靈は玄関を指した。「自分が脱いだ靴を、そのまま置きましたね」

 きゃるんが振り返った。脱いだスニーカーが、つま先を外向きにして脱ぎっぱなしになっている。

「どうするんですか」

「つま先を揃えて、入口の方に向けます」靈はきゃるんの横に並んで、自分のスリッパをその場でそろえてみせた。「出るときに、すぐ履けるように。それと、向きを揃えることで、自分の気持ちが整う」

「気持ちが整う、というのは」

「雑に脱いだ靴を見ながら稽古はできません」靈は板の間に戻った。「外側を整えると、内側が整う。逆に言えば、内側が乱れているとき、外側から整えることで引っ張ることができる」

 きゃるんが靴を直しながら、少し考える顔をした。

「道場主さんって、いつも靴揃えてますか」

「揃えています」

「家でも」

「家でも」

 きゃるんが戻ってきて、板の間に入った。

「じゃあ私も揃えます。家でも」


「次は立ち方です」靈はきゃるんの正面に立った。「まず、今のまま立ってみてください」

 きゃるんがその場に立った。

 靈はきゃるんの全体を見た。重心がやや右に偏っている。左の膝が少し内向きだ。肩の高さが左右で違う。どれも意識していない癖だ。

「自分の重心が今、どこにあるか感じられますか」

「えっと」きゃるんが少し体を揺らした。「よくわからないです」

「足の裏で、どこに体重がかかっているか。かかとか、つま先か、左右どちらか」

 きゃるんが目を下に向けた。

「少し、右かな」

「そうです。今日の立ち方は右に寄っています」靈は続けた。「足を肩幅に開いて、両足に均等に体重をかけます。かかとと、足の指の付け根の三点が、均等に地面についているイメージです」

 きゃるんが少し足を広げた。

「そのまま少し膝を緩めてください。力を入れない。ただ、まっすぐ立つのではなく、いつでも動けるように少しだけ沈む」

「どのくらい沈む」

「膝が見えなくなるほど曲げるのではなく、軽く柔らかくする程度です」

 きゃるんが調整した。

 少し良くなった。重心が中央に近づいた。ただ、肩がまだ硬い。

「肩の力を抜いてください」

「抜いてます」

「抜いていません」靈は言った。「力を抜こうとすると、かえって入る。一度、思い切り肩を上げて、それから一気に落としてみてください」

 きゃるんが肩を耳まで上げて、どんと落とした。

 それで肩が落ちた。

「今の状態が、力が抜けた状態です」

「なんか、違うかんじがします」きゃるんが少し驚いた顔をした。「さっきより、地面に近い気がする」

「重心が下がったからです。肩に力が入っていると、体が浮いた状態になります」


「次が礼です」靈はきゃるんの正面に立った。「稽古の前と後に、礼をします。なぜだと思いますか」

「挨拶だから、ですか」きゃるんが答えた。

「挨拶でもある。ただ、それだけではない」靈は続けた。「礼をするとき、頭を下げます。頭を下げるとは、首の後ろを相手にさらす行為です」

 きゃるんが少し首をかしげた。

「首の後ろ」

「首は、人間の急所です」靈は自分の首の後ろに手を当てた。「ここを攻撃されたら、防ぎようがない。武器を持っている相手に向かって、ここをさらすことは、本来であれば危険な行為です」

「でも礼でやります」

「そうです。危険な場所を自分からさらすことで、あなたを傷つける気はないという意思を示す。それが礼の本義です」

 きゃるんが靈の顔を見た。

「脆弱なところを見せることで、信頼するって言うんですか」

「そういうことです」靈はうなずいた。「礼は服従ではない。信頼の表明です。相手を対等な存在として認めているから、急所をさらすことができる」

「じゃあ礼をしない人は」

「信頼していないか、相手を対等と思っていないか、礼の意味を知らないか、どれかです」

 きゃるんが少し考えた。

「道場主さんが鳥居で礼をするのも、同じですか」

「同じです」靈は答えた。「神の領域に入るとき、首の後ろをさらす。傷つける意図がないことを示す。人間に対する礼と、本質は変わらない」


 礼の作法を実際にやった。

 靈が見本を見せた。足を揃えて立ち、手を体の前で自然に下ろし、腰から上体を傾ける。目線は斜め前の床に落とす。首の後ろが、自然にさらされる角度になる。

「角度は、今日は気にしなくていいです」靈は言った。「まず、形より気持ちを先に理解してください。頭を下げることの意味を知った上でやるのと、知らないでやるのでは、動作が変わってきます」

「変わりますか、本当に」

「変わります」靈は答えた。「知っていると、下げ方が少し変わる。急所をさらすことに、一瞬だけ意識が向く。その一瞬が、礼を礼にします」

 きゃるんがやってみた。

 ぎこちなかったが、悪くなかった。礼の意味を聞いた後で頭を下げているから、動作の中に少し何かが入っている。

「今、首の後ろを意識しましたか」靈は聞いた。

「しました」きゃるんが顔を上げた。「なんか、緊張しました」

「それでいいです」靈はうなずいた。「緊張する場所をさらすから、礼になる」


 木刀の持ち方に入ったのは、それから三十分ほど経ってからだった。

 靈は壁から木刀を一本取って、きゃるんに渡した。

 きゃるんは両手で受け取った。

「重い」

「七百グラムほどです。真剣の半分以下の重さです」

「真剣はこの倍も重いんですか」靈が目を丸くした。「それを振り回すんですね」

「振り回しません」靈は自分の木刀を持ちながら言った。「振り回す、という感覚は最初に捨てた方がいい。居合は、力で打つのではなく、動きで切る」

「動きで切る」

「刃の通り道を、正確に作ることで力が生まれます。力を入れて振ることで生まれる力よりも、正確な軌道の方が、結果として強い」

「難しい話ですね」

「難しい」靈はうなずいた。「だから時間がかかります。今日は持ち方だけです」

 持ち方を教えた。右手を柄の上、左手を柄の下。両手の間に、握りこぶし一つ分の隙間を作る。握りは小指と薬指が主で、人差し指と中指は添える程度。

「強く握ると」靈は言った。「手首が固まります。手首が固まると、木刀が体の延長にならない。握りは、卵を握るように。割らないけれど、落とさない強さです」

 きゃるんが何度か握り直した。

「卵、かあ」きゃるんが木刀を見ながら言った。「うまいたとえですね」

「親父から聞いた言葉です」

「お父さんも居合をやっていたんですか」

「少しはやっていました。ただ、親父は体現する側ではなかった。口で伝える方が得意な人間でした」


 一時間ほど経った頃、靈のスマートフォンが鳴った。

 稽古の途中だったが、画面を確認した。見慣れない番号だった。

 この番号には、心当たりがあった。

 倉敷から、連絡が来るとすれば、前回と同じ番号からだ。

「少し待ってください」靈はきゃるんに言って、板の間の端に移動した。

 電話ではなく、メッセージだった。

「先日の話を、考えていました。一つ、伝えたいことがあります。川口での準備について、わしの判断で止められるものと、止められないものがあります。止められるものについては、止めます。ただ、止められないものについては、あなたに事前に知らせます。それが今わしにできることです」

 靈はメッセージを二度読んだ。

 止められるものと、止められないもの。

 組織の中で倉敷が持っている力の限界を、倉敷自身が認めている。それは正直な言葉だ。ただ、止められないものが何なのかは、まだわからない。

 靈は短く返信した。

「わかりました。止められないものがあれば、早めに知らせてください」

 送信してから、板の間に戻った。

 きゃるんが木刀を持ったまま、靈を見ていた。

「大正義の人ですか」きゃるんが聞いた。

「そうです」

「何か言ってきましたか」

「少し状況が変わるかもしれません」靈は木刀を持ち直した。「ただ今は、稽古を続けましょう」

「大丈夫ですか」

「大丈夫かどうかは、まだわかりません」靈はきゃるんを見た。「ただ、今できることをする。それだけです」

 きゃるんが少し考えてから、木刀を構え直した。

「続けます」


 稽古が終わったのは、正午近くだった。

 きゃるんは靴を揃えて玄関に出た。靈はそれを確認してから、引き戸を開けた。

「次はいつ来ればいいですか」

「来週の同じ時間にしましょう」靈は言った。「それまでに、今日やった礼を家で練習してきてください」

「鏡を見ながらやればいいですか」

「鏡は使わなくていいです」靈は言った。「鏡を見ると、形を確認することに意識が向く。礼は形ではなく、意識です。首の後ろをさらすことを意識しながら、一日一回やってみてください」

「一日一回」きゃるんはうなずいた。「わかりました」

 引き戸から出て、少し歩いてから振り返った。

「道場主さん」

「なんですか」

「倉敷って人から来たメッセージ、何か解決しそうですか」

 靈は少し考えた。

「解決はしません」靈は答えた。「ただ、話ができているうちは、まだ間があります」

「間、というのは」

「動く前の、数える前の状態です」靈は言った。「零の状態です」

 きゃるんが少し首をかしげた。それから、小さくうなずいた。

「わかりました。また来ます」

 フードを被って、路地に出ていった。


 靈は板の間に戻り、木刀を壁に戻した。

 倉敷のメッセージをもう一度開いた。

 止められるものについては、止める。

 この言葉が本物かどうかは、まだわからない。ただ、倉敷が蕎麦屋で見せた顔を思い出した。意表を突かれた顔。あの教師が笑っていたことを、今でも考えると言った声。

 怪物ではなかった。

 怪物ではない人間が、どこまで自分の組織を止められるのか。

 靈には見当がつかなかった。

 ただ、連絡が来た。それは事実だ。

 靈は本棚から「武士道と日本人」を引き出した。

 栞が挟んであったページを開いた。新渡戸稲造の言葉が引用されている箇所だ。

「武士道の根本は、義、仁、礼、智、信、勇、忠——これら七つの徳目にある。なかでも義を第一とする。義なき勇は、ただの暴力である」

 義なき勇は、ただの暴力である。

 靈はその一文を、もう一度読んだ。

 倉敷が最初に持っていたものは、義だったかもしれない。奪われたものを取り戻したいという義。ただそれが、義なき勇に変わっていった。

 なぜ変わったのか。

 止められなかったのは、なぜか。

 靈には、まだ答えが出なかった。

 ただ問いが、以前より少し具体的な形になってきている。それは進んでいることだと思った。


 夜、靈は板の間で正座した。

 零の型を始める前に、今日きゃるんに教えた礼をもう一度やった。

 足を揃えて立ち、上体を傾ける。首の後ろがさらされる。

 その一瞬に、靈は意識を向けた。

 急所をさらす。信頼の表明。

 倉敷に対して、靈は何かをさらしていたか。

 蕎麦屋で、正直に話した。道場主として情けない話もした。それは、相手を信頼したからか。それとも、戦略としての正直さだったか。

 靈には、自分でもよくわからなかった。

 ただ、礼を終えてから零の型に入ると、いつもより体が素直に動いた。

 余計な力が、少し抜けていた。

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