第13話 「止められないもの」
倉敷から二度目のメッセージが来たのは、一週間後の夜だった。
靈が板の間で本を読んでいると、スマートフォンが鳴った。時刻は午後九時を過ぎていた。画面を見ると、倉敷の番号だった。
メッセージを開いた。
「止められないものについて、伝えます。来月の旧暦正月、十五日の夜に、構成員が八雲神社に入ります。人数は十から十五名。武器は持ちません。ただし、声明を読み上げて境内を占拠する形になります。警察には通報しないよう、組織内で決定しています。わしの権限では、これを止めることができませんでした」
靈はメッセージを三度読んだ。
人数、日時、方法。具体的な情報だった。武器は持たない、という一文が本当かどうかは確認できないが、倉敷がこれを伝えてきたこと自体は事実だ。
靈はすぐに雨森に転送した。
翌朝、雨森から電話が来た。今日は先負だったが、雨森は午前中に道場に来た。先負の午後は動かない、というのが叢雲の習慣だから、午前中に来たということはそれなりの判断があってのことだ。
板の間に座ると、雨森はいつものように手を膝に置いた。
「メッセージの内容を確認しました」雨森は言った。「日時は旧暦一月十五日、新暦で二月の十二日です。三週間あります」
「対応は」
「叢雲として、いくつか動きます」雨森は続けた。「まず、警備体制の強化。当日は神社の周辺に複数のスタッフを配置します。次に、関係者への事前説明。榊原さんと自警団の代表者に、状況を伝えます」
「自警団が動かないように」
「そのために事前に伝えます」雨森はうなずいた。「ただ、問題があります」
「なんですか」
「事前に警察に通報することを、叢雲としては検討しています」雨森は靈を見た。「ただ、倉敷が情報を提供してくれたことで、こちらが知っていることが相手に伝わる可能性があります」
靈は少し考えた。
「倉敷を守ることと、神社を守ることが、ぶつかるということですか」
「そういうことです」雨森は答えた。「警察が動けば、情報源が叢雲にあることが組織内で問題になる。倉敷が危険な立場になる可能性があります」
「倉敷を守る必要があると、叢雲は判断していますか」
雨森はすぐには答えなかった。
少し間を置いてから、口を開いた。
「倉敷が情報を提供したことは、組織の方向を変える可能性があります。その意味では、守ることに価値があると判断しています」
「私もそう思います」靈は言った。「ただ、神社を傷つけることは止めなければいけない」
「その両立ができる方法を、今考えています」
二人でしばらく考えた。
靈は立ち上がって、壁の木刀を一本手に取った。特に型をやるつもりではなかったが、手に持っていると考えやすかった。
「大正義の構成員が神社に入る前に、こちらが話しかける形にできますか」靈は木刀を垂直に持ちながら言った。「占拠が始まる前に、鳥居の外で対話の場を作る」
「鳥居の外で」雨森は少し考えた。「境内に入る前に止めると」
「止めるというより、話す」靈は続けた。「来た理由を聞く。声明の内容を聞く。それだけでも、時間が作れます。時間があれば、状況が変わることがある」
「相手が話に応じない場合は」
「応じない場合は、また別の判断をします」靈は木刀を壁に戻した。「ただ、最初から実力で止めようとすれば、暴力になります。最初に話すことを試みることは、できます」
雨森は少し沈黙した。
「倉敷はその場にいますか、当日」
「メッセージには書いてありませんでした」靈は答えた。「ただ、聞くことはできます」
「聞いてみてください」
靈はその日の夜、倉敷にメッセージを返した。
「情報をありがとうございます。一つ確認したいことがあります。当日、あなたは八雲神社にいますか」
返信は翌朝に来た。
「いません。わしが現場に出る立場ではなくなっています。現場を動かしているのは、石丸という男です」
石丸。灯籠流しの夜に商店街で靈を見ていた男。神社の下見をしていた可能性がある男。
靈はさらに返信した。
「石丸という人物と、事前に話せる可能性はありますか」
しばらくして返信が来た。
「難しいと思います。ただ、試みることはできます。結果は保証できません」
「試みてください。結果がどうであれ、伝えてもらえれば」
「わかりました」
その翌日、靈は八雲神社に向かった。
榊原に状況を伝える必要があった。雨森も同席する予定だったが、午前中に別の案件が入ったと連絡があり、靈一人で行くことになった。
鳥居の前で礼をしてくぐると、境内に見慣れない人影があった。
三十代と思われる男性が、社殿の前に立っていた。榊原と向かい合って、何か話している。男性の後ろ姿は、靈には見覚えがなかった。
靈が近づくと、榊原が振り返った。
「拝郷さん、ちょうどよかった」榊原は少し表情が緩んでいた。「息子が帰ってきたんです」
男性が振り返った。
四十代に近い三十代だった。顔は榊原に似ているが、体格は父親より細い。眼鏡をかけていて、コートの上から見ても肩が少し丸い。都市で長く働いてきた人間の体つきだ。
「榊原健一です」男性は靈に頭を下げた。「父からよくお話を聞いています。拝郷さんですね」
「拝郷です」靈も頭を下げた。
社務所に三人で入った。
榊原が湯を沸かす間、靈は健一の向かいに座った。
「大阪から戻ったんですか」
「はい」健一は少し居心地悪そうに答えた。「仕事の区切りがついて、しばらく川口にいようと思って」
「仕事は」
「システムエンジニアです。リモートでできる仕事なので、場所は選ばない」健一はテーブルの上に目を落とした。「父から連絡が来たんです。神社が何かに巻き込まれているかもしれないって。それで」
「心配で戻ったんですか」
「それもありますが」健一は少し間を置いた。「川口を出るとき、父に情けないことを言いました。こんな街に未練はない、と。それが、ずっと引っかかっていて」
榊原が茶を持って戻ってきた。三つの湯呑みを置いて、息子の隣に座った。
「お前が引っかかっていたのは知っていた」榊原は健一を見ずに言った。「ただ、呼び戻す気はなかった」
「わかってます」健一は父を見た。「自分で戻る気になるまで待ってくれていたんだろうと」
榊原は答えなかった。ただ、湯呑みを持った手が少し落ち着いた。
「拝郷さんに聞きたいことがあります」健一が靈を見た。「父から聞いた話では、神社の調停や灯籠流しに関わったと聞きました。この街で、今何が起きているんですか」
靈は少し考えた。
健一に何をどこまで話すか。榊原はすでに大正義の動きを知っている。健一は戻ってきたばかりで、状況を把握していない。
ただ、戻ってきた理由が引っかかりを解消するためだという言葉は、靈には本物に聞こえた。
「大正義という組織を知っていますか」靈は言った。
「ニュースでは」
「その組織が、この神社に来る予定があります。来月の旧暦正月です」靈は簡潔に状況を説明した。占拠の計画、武器は持たないという情報、叢雲の対応方針。
健一は黙って聞いていた。
説明が終わると、しばらく沈黙があった。
「父は、それを知っていたんですか」健一は榊原を見た。
「先日、拝郷さんから聞いた」榊原は答えた。「自警団を動かすなと言われた。わしはそれを守るつもりでいる」
「なぜ守れるんですか」健一はどこか驚いた顔をした。「自分の神社が占拠されようとしているのに」
「守れるかどうかはわからん」榊原は静かに言った。「ただ、拝郷さんの判断を信じることにした」
健一が靈を見た。
「あなたを、そこまで信頼しているんですか」
「理由は私にはわかりません」靈は答えた。「ただ、榊原さんの判断は正しいと思っています。自警団が動けば、暴力になります。暴力になれば、神社が傷つく可能性がある」
「暴力にならないために、何をするんですか」
「話します」靈は言った。「境内に入る前に、鳥居の外で話しかける。それが最初の手段です」
健一はしばらく靈を見ていた。
「話して、聞いてもらえると思いますか」
「わかりません」靈は正直に言った。「聞いてもらえない可能性の方が高い。ただ、試みることと、試みないことは違います」
健一が少し考えてから、口を開いた。
「私に、何かできることはありますか」
靈は少し止まった。
きゃるんも同じことを聞いた。何かできることはありますか、と。
「システムエンジニアだと言いましたね」靈は健一を見た。「大正義の組織内の情報を、ネット上で確認することはできますか」
「違法なことはできません」健一はすぐに言った。
「違法なことは頼みません」靈は続けた。「ただ、公開されている情報の中で、構成員の動きや声明の内容が事前に漏れていることがあると聞いています。そういう情報を整理することは、できますか」
「それは、できます」健一は少し考えた。「SNSや掲示板の情報を集めて整理することなら」
「叢雲に情報を提供するという形になりますが、それでいいですか」
「構いません」健一はうなずいた。「父の神社を守るためならば」
榊原が息子を見た。何も言わなかったが、湯呑みを置く手が少し止まった。
社務所を出ると、境内に昼の光が満ちていた。
健一が鳥居の前で立ち止まった。
「子供の頃は、毎日ここをくぐっていました」健一は鳥居を見た。「大阪に出てからは、礼もしなくなっていた」
「今日はしましたか」
「しました」健一は少し照れたような顔をした。「父がするから、つられて」
「理由は」
「知りません。ただ、父がするから」
靈は健一を見た。
「それでいいと思います」靈は言った。「理由は、後から来ることがある」
健一が靈を見た。
「父が言っていました。拝郷さんは、知らないことを知らないと言う人だと」
「知らないことが多いので」
「そういう人が、一番信用できると思っています」健一は鳥居に向かって一度礼をした。「よろしくお願いします」
靈も頭を下げた。
帰り道、靈は雨森にメッセージを送った。
「榊原さんの息子が川口に戻りました。システムエンジニアです。SNSや掲示板から大正義の動きに関する情報を整理することができると言っています。叢雲として使えますか」
返信は早かった。
「使えます。連絡先を教えてもらえますか」
靈は健一の番号を雨森に送った。
それから、倉敷の番号を開いた。
石丸との事前の対話が可能かどうか、まだ返信が来ていない。
今日は返信がなかった。
夜、靈は板の間で零の型を通した。
型をやりながら、今日の健一の言葉を思い出していた。
子供の頃は毎日ここをくぐっていた。大阪に出てからは礼もしなくなっていた。
川口を出ることと、礼をしなくなることが、健一の中で繋がっている。
場所を離れることで、場所に対する礼が薄れる。
靈は川口を離れたことがない。道場があるから、ここにいる。ただ、道場にいながら、礼をしなくなっていた時期があった。看板を塗り直さなかった三年間。木刀に触れなかった一年。
場所にいることと、その場所に礼をすることは、別のことだ。
型を終えて、靈は板の間に座った。
三週間後に、大正義の構成員が鳥居をくぐろうとする。
鳥居をくぐるとき、礼をする者はいるだろうか。
礼の意味を知っている者は、いるだろうか。
靈には、わからなかった。
ただ、鳥居の前に立って、話しかけることはできる。
それが今、靈にできることだった。




