第14話 「石丸の返事」
倉敷から連絡が来たのは、健一と会った四日後だった。
靈が朝の型を終えて、親父の本棚から引き出した「祭礼の音と構造」を読み返していたところに、スマートフォンが鳴った。今回はメッセージではなく、電話だった。
靈は受話器のアイコンをタップした。
「石丸に話しました」
倉敷の声は、前回蕎麦屋で聞いたときと同じ、落ち着いた声だった。ただ、どこかに疲れが混じっている気がした。
「断られましたか」
「断られました」倉敷は続けた。「ただ、断り方の中に、一つだけ言葉がありました。あなたに伝えておく必要があると思って、電話しました」
「聞かせてください」
「石丸は、こう言いました」倉敷は少し間を置いた。「拝郷という人間は、移民の肩を持っているのか。それとも日本人の肩を持っているのか。どちらかはっきりさせてから来い、と」
靈はしばらく黙っていた。
「それだけですか」
「それだけです。それ以上は話しませんでした」
「どちらかはっきりさせろ、という問いに、あなたはどう答えますか」倉敷が聞いた。
靈は少し考えた。
「今は答えられません」靈は正直に言った。「ただ、その問いの立て方自体に、問題があると思っています」
「どういう意味ですか」
「移民の肩を持つか、日本人の肩を持つか——その二択は、どちらかを選べば何かが解決するように見えて、何も解決しない」靈は続けた。「八雲神社の調停で、移民側の代表と話しました。約束を守った人間です。その人間を移民だという理由で排除することを、私は正しいと思っていない。ただ、神社の文化を守ることも正しいと思っている。その二つは矛盾しない」
「石丸にはそれが矛盾に見える」
「そうでしょう」靈はうなずいた。「石丸さんに直接会いたいと思っています」
倉敷は少し黙った。
「石丸は会わないと言っています」
「それでも、試みたい」靈は言った。「場所と時間を指定してもらえれば、私から行きます。断られても構いません」
また沈黙があった。
「わかりました」倉敷は言った。「石丸に伝えます。ただ、期待はしないでください」
「期待はしていません」
電話を切ってから、靈は雨森に連絡した。
「石丸との対話を試みます。場所と時間が決まり次第、連絡します」
雨森からすぐに返信が来た。
「了解しました。当日の体制を整えます。一人で行くつもりですか」
「一人で行きます」
「同席を希望しますか」
靈は少し考えた。
「今回は、私一人の方がいいと思います。叢雲が来ると、石丸は身構える可能性がある」
「わかりました。ただし場所と時間は必ず事前に教えてください」
「教えます」
その日の午後、健一から連絡が来た。
雨森から連絡を受けて、すでに情報収集を始めているという。メッセージには、整理した内容が箇条書きで添付されていた。
靈は内容を読んだ。
大正義の支持者が集まるSNSのグループで、川口についての投稿が増えていた。八雲神社の名前は出ていないが、川口市内の「特定の場所」で旧暦正月に何かをする、という書き込みが複数あった。参加を呼びかける投稿もある。人数を見ると、倉敷が言っていた十から十五名より多い可能性があった。
「参加希望者の書き込みが三十件以上あります」健一のメッセージには続きがあった。「ただし、全員が実際に動くかどうかはわかりません。ネット上での賛同と、実際の行動は別のことが多い。ただ念のため、叢雲に報告しました」
靈は健一に返信した。
「ありがとうございます。引き続き動きがあれば教えてください」
「わかりました」健一からすぐに返信が来た。「一つ気になることがあります」
「なんですか」
「石丸という人物の書き込みを見つけました。本名かどうかはわかりませんが、ハンドルネームが石丸です。川口についての投稿をしていて、その中に気になる一文がありました」
「どういう内容ですか」
「八雲神社は、本来スサノオを祀る場所だ。スサノオは追放された神だ。追放された者が力を持つことを、証明する場にする——という内容です」
靈はその文章を、二度読んだ。
スサノオ。追放された神。
追放された者が英雄になる、という神話の構造を、石丸は知っている。それを自分たちの行動に重ねている。
靈は健一に返信した。
「その投稿の日時と、他の書き込みの内容も、できれば整理しておいてください」
「します」
翌日の夕方、倉敷から連絡が来た。
メッセージだった。
「石丸が、一度だけ会うと言っています。場所は石丸が指定します。川口駅の近くの喫茶店、火曜日の午後二時。あなた一人で来ることが条件です」
靈は日程を確認した。火曜日は三日後だ。
「わかりました。行きます」
それから雨森に転送した。
「喫茶店の名前と場所を確認します」雨森からすぐに返信が来た。「把握している店であれば問題ありません。把握していない店であれば、事前確認をお願いします」
五分後に雨森から連絡が来た。
「把握している店です。問題ありません。当日は近くにスタッフを配置します。拝郷さんが店に入ったら、一時間後に安否確認のメッセージを送ります。返信がなければ動きます」
「わかりました」
火曜日の朝、靈は早めに起きた。
板の間で正座して、窓の外が白むのを見た。
今日は倉敷と会ったときと同じように、型を始める前に一つだけ確認したいことを決めた。
石丸が、なぜスサノオの話を出したのか。
追放された者が力を持つことを証明する場にする——という言葉。石丸は大正義の現場を動かしている人間だ。思想より行動を優先する人間のはずだ。そういう人間が、神話の構造を意識して動いている。
それは、倉敷の影響か。あるいは、石丸自身が神話を知っている人間なのか。
答えは、会ってみなければわからない。
靈は零の型を一度通してから、道場を出た。
喫茶店は川口駅から歩いて五分の場所にあった。
外から見ると、窓際の席に男が一人座っているのが見えた。四十代。スーツではなく、紺色のパーカーを着ている。コーヒーを両手で持って、窓の外を見ている。
靈が入ると、男が振り返った。
顔に見覚えがあった。灯籠流しの夜、商店街の角で靈を見ていた男だ。神社の下見をしていた可能性がある男。
「拝郷さんですか」
「そうです」
「石丸です」
靈は向かいに座った。店員が来て、靈はコーヒーを頼んだ。石丸はすでにあるカップを両手で持ったまま、靈を見ていた。
値踏みするような目ではなかった。どちらかといえば、確認するような目だった。
しばらく、二人とも黙っていた。
コーヒーが来た。靈はカップを持たずに、石丸を見た。
「会っていただけてよかったです」靈は言った。
「倉敷さんに頼まれたので」石丸は短く言った。「ただ、来てもらっても、計画は変わりません」
「わかっています」
「じゃあ、何のために来たんですか」
「あなたに聞きたいことがあったからです」靈は答えた。
石丸は少し眉を動かした。
「私に」
「スサノオの話を、SNSに書きましたね」靈は言った。「八雲神社はスサノオを祀る場所で、追放された者が力を持つことを証明する場にする、と」
石丸の目が少し変わった。
「見ていたんですか」
「見ていた人間から聞きました」
石丸はコーヒーを置いた。
「何が聞きたいんですか」
「なぜスサノオを選んだのか」靈は続けた。「追放された神、ということを意識したのか」
石丸はしばらく靈を見ていた。
それから、少しだけ表情が変わった。警戒から、何か別のものに変わった。
「あなたは、スサノオを知っていますか」石丸が逆に聞いた。
「少しは」
「高天原を追放されて、出雲でヤマタノオロチを退治した」石丸は続けた。「追放されたことで、英雄になった。私達も、社会から追放されている。大正義の人間は、今の日本では異端扱いされている。その状況が、スサノオと重なる」
靈はコーヒーを一口飲んだ。
「スサノオは、追放される前に何をしたか知っていますか」
石丸が少し止まった。
「泣いて、暴れた」石丸は答えた。
「そうです」靈は続けた。「母を恋しがって泣き続けた。山が枯れ、川が荒れ、それをアマテラスに咎められた。追放されたのは、暴力のためではなく、嘆きが制御できなかったためです」
石丸は靈を見た。
「それが言いたいことですか」
「スサノオが英雄になったのは、追放されたからではない」靈は言った。「出雲で、土地の神と関わり、ヤマタノオロチを退治し、クシナダヒメを守った。英雄になったのは、その場所で何をしたかによります」
「同じことです」石丸の声が少し硬くなった。「川口で何かをする。それがわしらのやることです」
「何をするかが、問題です」
「あなたは」石丸が靈を見た。「日本の文化が失われたと思っていますか」
「思っています」靈は答えた。
石丸が少し意外そうな顔をした。
「ただ」靈は続けた。「失われたものと、残っているものの両方を見ています。榊原という人が、八雲神社の注連縄を毎年張り替えています。父から教わった通りに、理由を知らないままやってきた。その縄の張り方は、正しかった。失われたものがある一方で、そうやって残ったものもある」
「それで十分だと言うんですか」石丸は少し声を上げた。「残っているものだけ見て、奪われたものを忘れろと」
「忘れろとは言いません」靈は石丸を見た。「ただ、奪われたことへの怒りで動くことと、残っているものを守ることは、別のことです」
「別ではない」石丸は言った。「守るためには、戦わなければいけない時がある」
「それは正しい」靈はうなずいた。「ただ、戦う相手と場所と方法を、間違えると、守ろうとしたものを自分で傷つける」
石丸が靈を見た。
「八雲神社を占拠することが、神社を傷つけることになると言っているんですか」
「可能性があります」靈は答えた。「神社は榊原さんが長年守ってきた場所です。その場所を、声明の舞台に使うことは、その積み重ねを踏み台にすることになりかねない」
石丸はしばらく黙っていた。
窓の外を見た。川口の商店街が見える。アラビア語と中国語の看板が並んでいる。
「私は」石丸は窓を見たまま言った。「二十年前に、川口に住んでいました」
靈は黙って聞いた。
「その頃から、街が変わっていくのを見ていた。最初は、まあ仕方ないと思っていた。ただ、ある日、近所の子供が外国人に絡まれた。助けを求めても、警察は来なかった。自警団もなかった。誰も来なかった」
「その子供は」
「私の息子です」石丸は靈を見た。「今は元気にしていますが、あの日のことが忘れられない。怒りは、そこから来ています」
靈はしばらく考えた。
「息子さんを守れなかった怒りが、今もある」
「ある」石丸は短く言った。「その怒りがなければ、私はここにいない」
「それは正当な怒りだと思います」靈は言った。
石丸が靈を見た。
「正当だと思うなら、なぜ止めようとするんですか」
「怒りは正当でも」靈は答えた。「怒りに任せた行動が正しいとは限らないからです。あなたの息子さんを守れなかったことと、八雲神社を占拠することは、繋がっていない」
「繋がっている」石丸は言った。「あの日、誰かが動いていれば、わしの息子は傷つかなかった。誰かが動くことを、わしはやろうとしている」
靈は少し考えた。
「あの日、誰かが動くべきだった。それは正しい」靈は続けた。「ただ、あなたが神社で声明を読み上げることは、誰かが動くことになりますか。息子さんが傷ついたような状況が、次に起きたとき、神社の占拠が防ぎますか」
石丸は答えなかった。
しばらく沈黙があった。
石丸がコーヒーを飲んだ。カップを置いて、テーブルを見た。
「計画は変えません」石丸は言った。「それだけは言っておきます」
「わかりました」靈はうなずいた。
「ただ」石丸は少し間を置いた。「榊原という人が、神社の縄を毎年張り替えているという話。それは、本当ですか」
「本当です」
「その人は、神社を傷つけてほしくないと思っているんですか」
「思っています」
石丸はしばらくテーブルを見ていた。
「それは、考えます」小さな声で言った。「考えるだけです。変えるかどうかはわかりません」
靈は返事をしなかった。
考える、という言葉が出た。それは今日来た意味があったということだ。
喫茶店を出たのは、一時間近く経ってからだった。
靈が外に出ると、雨森からメッセージが届いていた。
「安否確認です。問題ありませんか」
「問題ありません」靈は返信した。「報告は後で」
川口駅の方向に歩きながら、靈は石丸の言葉を頭の中で整理した。
二十年前に川口にいた。息子が傷ついた。誰も来なかった。
その怒りは、本物だった。倉敷の怒りと、根は同じだ。大切なものが守られなかったことへの怒り。
ただ、怒りの向かう先が、問題だった。
靈は歩きながら、自分に問いを向けた。
あの日、靈が石丸の隣にいたら、動けたか。
二十年前の靈は、AIに動画を作らせる前の、まだ道場を継いだばかりの時期だ。動けたかどうか、わからない。
動けなかったかもしれない。
その「動けなかった」が積み重なって、誰かの中で怒りになる。それは靈にも、責任の一端があるかもしれない。
そこまで考えて、靈は少し止まった。
責任、という言葉が重かった。
道場に戻ると、夕方になっていた。
板の間に入り、靈は木刀を手に取らずに、そのまま正座した。
今日会った石丸の顔を思い出した。窓の外を見ていた横顔。息子の話をしたときの声。考えます、と小さく言った声。
怪物ではなかった。
倉敷も怪物ではなかった。石丸も怪物ではなかった。
怪物ではない人間たちが、集まって、方向を間違えている。
靈には、その方向を完全に変えることはできない。ただ、一人ずつと話すことはできた。それが何かを変えるかどうかは、まだわからない。
靈は木刀を一本取った。
零の型を始めた。
最初の所作。重心を落とし、呼吸を整え、三呼吸待つ。
三呼吸の間に、靈は一つだけ思った。
考える、と石丸は言った。
考えている間は、まだ零の状態だ。始まる前の、全部の可能性がある場所だ。
型を始めながら、靈はその可能性の中にいようとした。




