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壱億総抜刀  作者: るふな


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第15話 「旧暦正月の前夜」

旧暦正月の前日、靈は朝から道場の掃除をした。

 特に理由はない。ただ、明日何かが起きるとわかっている日の前日に、道場が汚れたままというのが気になった。雑巾を出して板の間を拭き、木刀を一本ずつ布で拭いた。真剣の鞘も、外から乾拭きした。中身は出さなかった。

 掃除をしながら、靈は石丸のことを考えていた。

 考えます、と言った声。あれから一週間、石丸からも倉敷からも連絡はない。沈黙が何を意味するのか、靈には読めなかった。計画通りに動くのか、何かが変わったのか。

 わからないまま、明日が来る。


 午前中に雨森から連絡が来た。

「今夜、最終確認をしたいです。道場に伺ってもいいですか」

「どうぞ」

 昼過ぎに雨森が来た。今日は大安だった。雨森がこのタイミングで動いてきたのは、六曜の判断と、明日への備えが重なっているからだろう。

 板の間に座って、雨森はタブレットを出した。

「明日の体制を最終確認します」雨森は画面を靈に向けた。地図が表示されている。八雲神社の周辺に、数カ所の印がついていた。「叢雲のスタッフを、神社の周辺に六名配置します。鳥居の前に二名、境内の東西の出入り口に各一名、周辺の路地に二名です」

「スタッフは、実力行使をしますか」

「最終手段としては、あります」雨森は答えた。「ただ、基本方針は対話と記録です。暴力的な行為があった場合のみ、介入します」

「警察への通報は」

「暴力的な行為が始まった時点で通報します。それ以前は、しません」雨森はタブレットを引いた。「倉敷からの連絡は、昨日までありませんでしたか」

「ありません」

「石丸も同様です」雨森はうなずいた。「沈黙の理由は不明です。計画に変更がないか、あるいは変更があって伝えられていないか」

「どちらに備えますか」

「両方に備えます」雨森は答えた。「計画通りに来る場合と、来ない場合と、変更がある場合の三つを想定しています」

 靈は地図を見た。

「鳥居の前に私がいることは、体制に含まれていますか」

「含まれています」雨森はうなずいた。「ただ、無理に話しかける必要はありません。状況を見て、判断してください」


「一つ聞いていいですか」靈は雨森を見た。

「どうぞ」

「雨森さんは、叢雲に入る前に何をしていましたか」

 雨森が少し止まった。靈がこういう個人的な質問をすることは、これまでなかった。

「なぜ聞くんですか」

「叢雲が旧暦や六曜で動くことや、神道の知識を持っていることが、最初から不思議でした」靈は続けた。「組織の方針だとしても、それを自然にやっている人間が内側にいなければ、続かない。あなたがその一人だと思っています」

 雨森はしばらく靈を見ていた。

 それから、少し表情が変わった。固い表情の中に、何か別のものが入った。

「叢雲に入る前は、神職でした」雨森は言った。

 靈は少し止まった。

「神社の」

「小さな神社です。父が宮司をしていて、私も資格を取った。ただ、父が亡くなった後に神社を維持できなくなって、廃社になりました」

「廃社に」

「川口の近くの神社です」雨森は続けた。「移民が増えた地域で、氏子が減って、維持費が出なくなった。それが、叢雲に入った理由の一つです」

 靈はその言葉を、しばらく頭の中に置いた。

「叢雲で、神社を守ろうとしているんですか」

「守れるかどうかはわかりません」雨森は静かに言った。「ただ、廃社になる前に誰かが動いていれば、違ったかもしれないとは思っています」

 靈は返事をしなかった。

 雨森が廃社の話をしたのは、今日が初めてだった。明日が来る前に、話しておこうと思ったのかもしれない。

「ありがとうございます」靈は言った。

「何がですか」

「話してくれたことです」

 雨森は少し頭を下げた。それから、タブレットを片付けた。


 雨森が帰った後、健一からメッセージが来た。

「SNSの最新情報です。今日の午後から、川口に向かうという書き込みが増えています。ただ、具体的な場所は書いていない。人数は、書き込みから推測すると、二十名前後になる可能性があります」

 靈は雨森に転送した。

「把握しました」雨森からすぐに返信が来た。「スタッフの追加を検討します」

 続けて健一からメッセージが来た。

「石丸のアカウントですが、今日は投稿がありません。昨日も一昨日もなかった。いつもは毎日投稿があるので、少し気になっています」

「わかりました」靈は返信した。「引き続き確認をお願いします」

「します」少し間があって、もう一つメッセージが来た。「父は今日、神社の境内を掃除していました。私も手伝いました。父は何も言いませんでしたが、掃除しながら鳥居の縄を確認していました。縄が正しく張れているか、確かめるように」

 靈はそのメッセージを読んで、少し止まった。

 榊原が、縄を確認している。

 縄の意味を知った後で、確認している。それは前と違う確認の仕方だ。


 夕方になって、きゃるんが来た。

 フード付きのコートを着て、いつもより少し急いだ様子で引き戸を開けた。

「来てしまいました」きゃるんは靈を見て言った。「今日、稽古の日じゃないのはわかってるんですけど」

「どうぞ」靈は引き戸を開けたまま言った。

 板の間に入って、きゃるんは靴を揃えた。最初の稽古から、それは続いている。

 茶を淹れて、向かい合って座った。

「稽古をしますか」靈は聞いた。

「したいですけど」きゃるんは湯呑みを両手で持った。「今日は、話を聞いてほしくて来ました」

「聞きます」

 きゃるんはしばらく湯呑みを見ていた。

「明日、怖くないですか」きゃるんは顔を上げた。「大正義の人たちが来るかもしれない。道場主さんが鳥居の前に立つって、雨森さんから聞きました」

 靈は少し考えた。

「怖いかどうか、聞きますか」

「聞きます」きゃるんは靈を見た。「本当のことを教えてほしいです。面倒です、って言わないで」

 靈は少し笑いそうになった。きゃるんは靈の返し方を、すでに読んでいる。

「わかりました」靈は正直に言うことにした。「怖いです」

 きゃるんが少し目を丸くした。

「初めて怖いって言いましたね」

「聞かれたのが初めてだったので」

「本当に怖いんですか」

「本当に怖いです」靈は続けた。「ただ、怖いと思っていることと、やることは別のことです」

「それって、怖いのを我慢してるんですか」

「我慢とは少し違います」靈は言葉を探した。「怖いという感覚は、危険を知らせる体の信号です。その信号を無視するのでも、従うのでもなく、確認する。危険がどの程度のものか。自分にできることは何か。それを確認した上で、動く」

「確認して、それでも怖かったら」

「怖いまま動きます」靈は答えた。「怖くなくなってから動こうとすると、永遠に動けない」

 きゃるんはしばらく湯呑みを見ていた。

「私も明日、行っていいですか」

 靈は少し止まった。

「神社に」

「はい」きゃるんは靈を見た。「鳥居の前じゃなくていいです。境内の中で、叢雲のスタッフと一緒にいます。雨森さんには聞いてみます。ただ、道場主さんがだめと言うなら、行きません」

 靈は少し考えた。

 きゃるんを行かせることの危険と、きゃるんが行くことを止めることの意味を、両方考えた。

「雨森さんに確認してください」靈は言った。「叢雲が許可すれば、止めません」

「止めない理由は」

「あなたがやると決めたことを、私が止める権限はないからです」靈は続けた。「ただ、危険な場所には近づかないこと。何かあればすぐに叢雲のスタッフに知らせること。自分一人で判断して動かないこと。その三つを守れますか」

「守ります」きゃるんは即座に答えた。

「では、雨森さんに聞いてください」


 きゃるんがスマートフォンを取り出して、すぐに雨森にメッセージを送った。

 返信は三分ほどで来た。

 きゃるんが画面を靈に向けた。

「境内の中で、スタッフの近くにいること。単独行動をしないこと。その条件で、来てもいいと」

「わかりました」靈はうなずいた。

 きゃるんが少し息を吐いた。緊張が抜けたような息だった。

「ありがとうございます」

「礼を言う相手は雨森さんです」靈は言った。「私は止めなかっただけです」

 きゃるんが少し笑った。

「稽古、してもいいですか。少しだけ」

「どうぞ」


 板の間に二人で立った。

 きゃるんが木刀を受け取り、持ち方を確認した。小指と薬指が主で、人差し指と中指は添える程度。卵を握るように。最初の稽古で教えたことを、きゃるんは体に入れていた。

「今日は一つだけやります」靈は言った。「礼です」

「礼だけですか」

「礼だけです」靈は続けた。「明日、神社に行くなら、鳥居で礼をしてからくぐってください。それだけでいいです」

「それが大事なんですか、明日」

「大事です」靈は答えた。「神社に行く理由が、場所を守るためならば、その場所への礼から始める。礼なしに守ることはできない」

 きゃるんが少し考えた。

「道場主さんは明日、鳥居で礼をしてから立ちますか」

「します」

「礼をしてから、大正義の人たちに話しかけるんですか」

「そうです」

「変に思われませんか」

「思われるかもしれません」靈は言った。「ただ、礼をするのは相手のためではない。自分が、その場所に対して誠実でいるためです」

 きゃるんがうなずいた。

 二人で向かい合い、靈が見本を見せた。足を揃えて立ち、上体を傾ける。首の後ろがさらされる角度。三秒ほど保ってから、戻す。

 きゃるんがやった。

 最初の稽古より、動作が落ち着いていた。首の後ろを意識していることが、動きの中に出ていた。

「よくなっています」靈は言った。

「毎日やってきました」きゃるんは少し照れた顔をした。「家で、一日一回。言われた通りに」

「続けていたんですか」

「約束したので」

 靈は少し止まった。

 約束したので、続けた。それだけのことだが、それだけのことが難しい。

「続けたことが、今日の礼に出ています」靈は言った。「やったことは、体に残ります」


 きゃるんが帰ったのは、夜になってからだった。

 引き戸を閉めて、靈は板の間に戻った。

 木刀を一本手に取った。

 今夜は零の型ではなく、もっと基礎的なことをやろうと思った。

 立ち方から始めた。足を肩幅に開き、重心を均等にかける。膝を少し緩める。肩の力を落とす。

 きゃるんに教えた立ち方だ。

 教えたことを、自分でもやる。教えることで、自分が確認する。

 次に礼をした。木刀を右手に垂直に立てたまま、上体を傾ける。首の後ろがさらされる。

 明日、鳥居の前でこうする。

 それから大正義の人間が来たとき、同じように話しかける。相手がどう出るかは、まだわからない。

 靈は礼から戻した。

 板の間を見回した。

 百年近く前に曾祖父が建てた道場だ。親父がここで育ち、靈もここで育った。塗り直したばかりの看板が、外の夜風の中にある。

 この場所が、靈にとっての神社と同じだ、と思った。

 毎日ここにいる。礼をして入る。掃除をする。木刀を拭く。それが積み重なって、今日がある。


 夜が深まってから、靈は親父の本棚の前に立った。

 一冊を引き出した。「古事記 現代語訳」だ。倉敷の師だった教師が、授業で読ませていたという本と同じものかどうかはわからない。ただ、靈の本棚にある。

 スサノオの箇所を開いた。

 高天原を追放されたスサノオが、出雲に降り、ヤマタノオロチを退治する場面。

 靈は読みながら、石丸のことを考えた。

 スサノオは追放された後、土地の人間と関わった。足稲田姫の父と話した。約束を交わした。ヤマタノオロチを退治した後、クシナダヒメと結婚して、出雲に根を張った。

 追放された場所で、英雄になったのではない。新しい場所で、その場所の人間と関わることで、英雄になった。

 石丸が八雲神社に来るとき、その場所の人間と関わるつもりがあるか。

 靈にはわからなかった。

 ただ、石丸は考えます、と言った。

 考えている間は、まだ可能性がある。


 本を閉じて、靈は板の間に戻った。

 正座した。

 明日の朝、型をやってから神社に向かう。雨森には集合時間を確認している。午後一時に鳥居の前、ということになっている。大正義の構成員が動くのは、日が暮れてからという情報もある。ただ、早めに来る可能性も排除できない。

 靈は窓の外を見た。

 川口の夜空は、あまり星が見えない。光が多すぎる。

 怖いか、ときゃるんに聞かれた。

 怖いです、と答えた。

 それは本当のことだった。

 ただ、怖いことと、やることは別だ。それも本当のことだ。

 靈は目を閉じた。

 三呼吸、ただ座った。

 零の状態。始まる前の、全部の可能性がある場所。

 明日が来る前の、今夜の静けさの中に、靈はしばらくいた。

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