第16話 「鳥居の前」
旧暦正月の当日、靈は朝から型を三度通した。
いつもは一度で終わる。今日は三度やった。理由を自分でも説明できなかったが、体がそれを必要としていた。一度目は確認のため。二度目は落ち着かせるため。三度目は、やっと体が素直に動いた。
昼前に飯を食った。玄米と、残っていた漬物と、味噌汁だ。親父が生きていた頃は、毎朝この組み合わせだった。精進料理の名残で、肉も魚も使わない。体が添加物を受け付けないのと同様に、この組み合わせ以外では腹が落ち着かない。
食べながら、靈は窓の外を見た。
曇り空だった。風はない。気温は低いが、雪になるほどではない。
午後一時に鳥居の前、という取り決めを、靈はもう一度頭の中で確認した。
十二時半に道場を出た。
玄関で靴を揃えた。木刀を一本、帯に差した。真剣は持たなかった。帯刀は黙認されているが、今日の場所と状況を考えると、木刀が適切だと判断した。
歩きながら、スマートフォンを確認した。雨森からのメッセージが一件入っていた。
「現時点で、周辺に不審な動きはありません。スタッフは全員配置済みです。健一さんから、石丸のSNSアカウントが今朝から閲覧不可になったという情報が来ています。理由は不明です」
靈は歩きながら返信した。
「わかりました。十五分ほどで着きます」
閲覧不可になった理由が、計画の変更なのか、慎重になったのか、それとも別の理由なのか、靈には判断できなかった。
八雲神社の鳥居が見えてきた。
路地を曲がったところで、雨森が立っていた。コートを着て、手袋をしている。靈を見て、一度うなずいた。
「状況は変わっていません」雨森は静かに言った。「榊原さんは社務所にいます。健一さんも一緒です。きゃるんさんは、境内の東側のスタッフの近くにいます」
「石丸たちの動きは」
「まだ確認できていません。来るとすれば、日暮れ前後だという情報です」
靈は鳥居を見た。
注連縄が張られている。左が太く、右が細い。榊原が毎年張り替えてきた縄だ。昨日、健一と一緒に確認していたという縄だ。
「私は鳥居の前に立ちます」靈は雨森に言った。「何かあれば」
「すぐに動きます」雨森は答えた。「ただ、拝郷さんが話しているときは待ちます。拝郷さんの判断を優先します」
「ありがとうございます」
靈は鳥居に向かった。
鳥居の前に立ち、一度礼をした。
首の後ろがさらされる。この場所への誠意。
礼から戻してから、くぐった。
境内に入ると、東側にきゃるんが見えた。叢雲のスタッフの男性の隣に立って、こちらを見ていた。靈と目が合うと、小さく手を上げた。靈はうなずいた。
靈は一度、社殿に向かって礼をした。
それから踵を返し、鳥居の外に出た。
鳥居の前、外側に立った。今日、ここに立つ。それが靈の場所だ。
二時間ほど、何も起きなかった。
雨森が時々近づいてきて、状況を伝えた。周辺に不審な動きはない。健一からの情報では、SNSの書き込みが午後から止まっている。沈黙の理由は、まだわからない。
靈は鳥居の前に立ったまま、待った。
寒かった。コートを着ているが、じっと立っていると体の芯から冷えてくる。足先が感覚を失い始めた頃、靈は軽く足踏みをした。摺り足ではなく、ただの足踏みだ。体温を保つためだけの動作。
空が暮れてきた。
川口の夕暮れは、空が汚れた橙色になる。排気と光が混じった色だ。その色の中で、鳥居の注連縄がわずかに赤く見えた。
日が完全に暮れる少し前、路地の向こうに人影が見えた。
複数の人間が、整然とではなく、ただ歩いてくる。先頭の人間が靈には見えた。
石丸だった。
コートを着て、両手をポケットに入れている。靈の方を見ている。その後ろに、十名から二十名ほどの人間が続いていた。年齢はばらついている。二十代から五十代まで。男性が多いが、女性も数人いる。
石丸が靈を認識した。歩みが少し緩んだ。
靈は動かなかった。
石丸が近づいてきて、靈の前で止まった。鳥居まで、あと十メートルほどの距離だ。後ろの人間たちも止まった。
石丸が靈を見た。
「来ていましたか」石丸は言った。
「来ました」靈は答えた。
しばらく、二人とも動かなかった。
靈は石丸の手を見た。
右手をポケットから出していた。その手に、一つのものを持っていた。
紙だった。
折りたたまれた、白い紙だ。声明文だろう。境内で読み上げるつもりで、用意してきた。
武器ではなかった。
靈は少し息を吐いた。
「話を聞いてもらえますか」靈は石丸に言った。
「話は聞きました。喫茶店で」石丸は答えた。「計画は変えていません」
「わかっています」靈はうなずいた。「それでも、一つだけ聞かせてください」
石丸は靈を見た。続けろ、という顔だった。
「声明を読み上げる相手は、誰ですか」
石丸が少し眉を動かした。
「どういう意味ですか」
「誰に向けて、声明を読みますか」靈は続けた。「この場にいる人間に向けてか。カメラに向けてか。それとも別の誰かに向けてか」
石丸はしばらく靈を見ていた。
「メディアに向けてです」石丸は答えた。「川口の現状を知らせるために」
「メディアはここに来ていますか」
石丸が少し止まった。
靈は続けた。「叢雲は今日のことを、事前にメディアに伝えていません。ここに記者は来ていない。声明を読み上げても、その場にいる人間しか聞かない」
「動画を撮って配信します」石丸は言った。「ここにいる人間が撮る」
「その動画は、誰が見ますか」靈は問い返した。「大正義の支持者は見ます。ただ、支持者ではない人間が見たとき、神社を占拠している映像は、どう映りますか」
石丸の後ろで、誰かが何か言った。聞き取れなかったが、早くしろ、という意味に聞こえた。
石丸は後ろを一度見て、靈に向き直った。
「どかいてください」石丸は言った。「あなたと話すために来たわけではない」
「わかっています」靈は動かなかった。「ただ、もう一つだけ。あなたはスサノオのことを書いていた。追放された神が、力を持つことを証明する場にする、と」
石丸の目が少し変わった。
「それが何ですか」
「スサノオは、出雲で土地の人間と話しました」靈は続けた。「足稲田姫の父と、約束を交わした。その約束の上に、英雄の行為があった。話すことが、最初にあった」
石丸はしばらく靈を見ていた。
後ろからまた声がした。今度は複数だった。
石丸が一歩、靈に近づいた。
靈は動かなかった。
石丸が靈の目を見た。喫茶店で見た目と、同じ目だった。値踏みではなく、確認する目。
「あなたは」石丸は低い声で言った。「怖くないんですか。私たちの人数を見て」
「怖いです」靈は答えた。
石丸が少し止まった。
「怖いのに、どかないんですか」
「怖いことと、どかないことは、別のことです」
石丸はしばらく靈を見ていた。
それから、右手の紙を左手に持ち替えた。
何かを考えている。靈にはそれが見えた。考えていることが、顔に出ている人間だ、と靈は思った。怒りが出るときも、迷いが出るときも、顔に出る。
「榊原という人が」石丸は少し声を落とした。「今日、境内にいますか」
「います」
「声明を、読ませてほしいと頼んだら、聞いてくれますか」
靈は少し止まった。
占拠ではなく、頼む、という言葉が出た。
「わかりません」靈は正直に言った。「ただ、頼むことと、押し入ることは違います。頼むなら、榊原さんに伝えます」
石丸はしばらく沈黙した。
後ろから三度目の声が来た。今度は少し苛立ちが混じっていた。
石丸が振り返った。
「少し待て」石丸は後ろに向かって言った。声は静かだったが、通る声だった。
後ろが静かになった。
石丸が靈に向き直った。
「榊原さんに、聞いてもらえますか。声明を聞いてほしい、と私が言っていると」
「伝えます」靈は言った。「ここで待ってください」
靈は鳥居をくぐった。
礼をしてから入る。今日何度目の礼か、数えていなかった。
境内を歩いて、社務所に向かった。雨森がすぐに近づいてきた。
「石丸が、声明を聞いてほしいと言っています」靈は雨森に言った。「占拠ではなく、頼むという形で。榊原さんに伝えてきます」
雨森が少し止まった。
「聞いていました」雨森は言った。「判断は榊原さんに任せます」
社務所の引き戸を開けた。
榊原と健一が、並んで座っていた。二人とも靈を見た。
「石丸という人が、声明を聞いてほしいと言っています」靈は言った。「占拠ではなく、頼むという形で。聞くかどうかは、榊原さんが決めてください」
榊原はしばらく靈を見ていた。
それから、健一を見た。健一は父を見ていた。
「どう思うか聞いてもいいですか」
靈は少し考えた。
「聞いてみてもいいと思います」
「聞かなければ、何も変わらない」
榊原は靈に向き直った。
「鳥居の外に来てもらいなさい」榊原は言った。「わしが直接話します」
靈は社務所を出て、鳥居の外に戻った。
石丸はまだそこにいた。後ろの人間たちも、まだいた。ただ、靈が戻ってくるのを見て、少し場の空気が変わった。
「榊原さんが、鳥居の外に来ます」靈は石丸に言った。「直接話したいと言っています」
石丸は少し表情を変えた。驚きに近い顔だった。
しばらくして、鳥居から榊原が出てきた。コートを着て、背筋を伸ばして歩いている。健一が少し後ろについている。
榊原は石丸の前に立った。
二人がしばらく、向かい合った。
榊原が先に口を開いた。
「声明を聞いてほしいと言ったそうですね」
「そうです」石丸は答えた。
「どんな内容ですか」
石丸は手の中の紙を見た。
「川口の現状について。日本の文化が失われていることについて。それを変えなければいけないということについて」石丸は榊原を見た。「あなたは、同じことを感じていませんか」
榊原はしばらく石丸を見ていた。
「感じています」榊原は静かに言った。「ただ、あなたに聞きたいことがある」
「なんですか」
「この神社の注連縄を、誰が張ったと思いますか」
石丸は少し止まった。
「あなたですか」
「そうです」榊原はうなずいた。「父から教わった通りに、毎年張り替えてきた。理由を知らないまま、四十年やってきた。先日、拝郷さんにその意味を教わった」榊原は鳥居を見上げた。「左綯いといいます。神道では左が陽、縄は陽から始まり陰に向かって綯う。あの縄は、正しい作法で張られていた。知らないまま、正しく伝わっていた」
石丸が鳥居の注連縄を見た。
「あなたが守ってきたものが、ここにある」榊原は石丸に向き直った。「声明を聞く前に、それを見てほしかった」
しばらく、誰も喋らなかった。
石丸は鳥居の注連縄を見たまま、立っていた。後ろの人間たちも、その場に止まっている。
靈は少し離れた場所から、その場を見ていた。
自分が出る場面ではない。榊原と石丸の間に、今は靈が入る必要はない。
石丸が榊原を見た。
「声明を、聞いてもらえますか」石丸は言った。前より声が低くなっていた。
「聞きます」榊原は答えた。「ただし、境内ではなく、ここで。鳥居の外で読んでください」
石丸はしばらく考えた。
「鳥居の外で」石丸は繰り返した。
「境内は、神の領域です」榊原は言った。「声明の場所として使うことは、わしには許可できない。ただ、あなたの言葉を聞くことは、ここでできます」
石丸は手の中の紙を見た。
それから顔を上げて、榊原を見た。
「わかりました」石丸は言った。
石丸が紙を広げた。
靈は少し後ろに下がった。
石丸が声明を読み始めた。
川口の現状について。移民が増えたことで変わった街の様子。失われた文化の話。守られなかった日本人の話。自分の息子が傷ついた夜の話——声明の中に、それが入っていた。
靈は聞きながら、石丸の声を確認した。怒りがある。ただ、怒鳴っているわけではない。紙を読んでいるが、ときどき顔を上げて榊原を見る。
榊原は黙って聞いていた。
健一も黙って聞いていた。
声明が終わった。
しばらく沈黙があった。
榊原が口を開いた。
「聞きました」榊原は言った。「あなたの息子さんが傷ついた夜のこと、それは本当のことですか」
「本当のことです」石丸は答えた。
「その夜、誰も来なかった」
「来なかった」
榊原はうなずいた。
「それは、申し訳なかった」榊原は言った。「川口に長く住んでいる人間として、申し訳なかったと思います」
石丸が少し表情を動かした。
謝罪を予想していなかった顔だった。
その後、言い合いになるかと靈は思っていたが、ならなかった。
石丸の後ろにいた人間たちのうち、何人かが榊原に質問した。神社の歴史について、氏子の活動について、祭りについて。榊原は一つ一つ答えた。答えながら、逆に質問もした。どこから来たか。川口に住んでいるか。
会話が続いた。
靈は鳥居の横に立って、それを見ていた。
雨森が近づいてきた。
「どう見ますか」雨森は靈の隣に並んで、小さな声で言った。
「わかりません」靈は正直に答えた。「ただ、話しています」
「それでいいと思います」雨森は言った。
靈はうなずいた。
境内の中で、きゃるんが東側のスタッフの隣から、鳥居の外の様子を見ていた。靈と目が合うと、きゃるんが少し首をかしげた。どういう状況か、という顔だ。
靈は少し肩を動かした。わからない、という意味だ。
きゃるんが小さく笑った。
人群れが解散し始めたのは、一時間ほど経ってからだった。
石丸の後ろにいた人間たちが、少しずつ帰っていった。挨拶をして帰る人間もいた。何も言わずに帰る人間もいた。
最後に、石丸が榊原に向かって頭を下げた。
「聞いていただけて、ありがとうございました」
「来てくれてよかった」榊原は言った。「次は、祭りのときに来てください。太鼓の音を、今度は神を招く音として聞いてみてください」
石丸は少し止まった。
「考えます」石丸は言った。
その言葉を、靈は前にも聞いた。喫茶店で、石丸が言った言葉だ。
考えます。
同じ言葉が、今日また出た。
石丸が路地の向こうに消えてから、靈は鳥居の前に立った。
礼をした。
首の後ろがさらされる角度で、三秒ほど保った。
礼から戻すと、榊原が横に来ていた。
「終わりましたね」榊原は言った。
「今日は、ということです」靈は答えた。「また来るかもしれません」
「来たら、また話します」榊原はうなずいた。「今日みたいに」
健一が榊原の後ろから来た。
「父が謝罪をするとは、思っていませんでした」健一は言った。
「わしも、するつもりはなかった」榊原は言った。「ただ、息子が傷ついた夜の話を聞いたら、自然と出てきた」
靈は榊原を見た。
「謝罪が、最初の言葉でした」靈は言った。「それが、今日の話し合いを変えたと思います」
「そうでしょうか」榊原は鳥居を見た。「わしには、あれしか言えなかった。それだけです」
帰り道、きゃるんが隣を歩いた。
「怖かったですか、今日」きゃるんが聞いた。
「怖かったです」靈は答えた。
「最後まで」
「最後まで」
「でも終わった」
「今日は、終わりました」靈は前を向いたまま言った。「ただ、終わりではない。また何かが起きる可能性はあります」
「それでも、今日は終わった」きゃるんは言った。「それでいいじゃないですか」
靈は少し考えた。
「そうですね」靈は言った。「今日は、終わりました」
川口の夜が、二人の前に広がっていた。アラビア語と中国語の看板が、街灯の光を受けている。どこかから食べ物の匂いが流れてきた。
靈はその匂いを嗅ぎながら、歩き続けた。




