第17話 「倉敷への報告」
翌朝、靈は倉敷に電話した。
朝の型を終えてから、白湯を淹れて、それから電話することにした。昨夜の出来事を、頭の中で一度整理してからにしたかった。
呼び出し音が四度鳴ってから、繋がった。
「昨夜のことを、伝えておきたかった」
靈は経緯を順に話した。石丸が鳥居の前で止まったこと。声明を読ませてほしいと頼んできたこと。榊原が境内ではなく鳥居の外で聞いたこと。榊原が謝罪したこと。一時間の会話の後、石丸たちが帰ったこと。
倉敷は黙って聞いていた。靈が話し終えると、しばらく沈黙があった。
電話口から、かすかに息を吐く音が聞こえた。
「占拠には、ならなかったんですね」
「なりませんでした」
「石丸が、頼んだ」
「そうです」
また沈黙があった。今度は少し長かった。
「一つだけ聞いてもいいですか」
靈は白湯を一口飲んでから待った。
「榊原という人は、なぜ謝罪したんですか」
靈は少し考えた。
昨夜帰り道に、きゃるんと並んで歩きながら、靈も同じことを考えていた。榊原が謝罪するとは、靈も予想していなかった。
「わかりません」靈は正直に言った。「本人は、息子が傷ついた話を聞いたら自然と出てきた、と言っていました」
「自然と」
「そう言っていました」
倉敷がまた黙った。靈は続けた。
「ただ、私なりに考えたことはあります」
「聞かせてください」
靈は湯呑みを膝の上に置いた。
「昨夜読んでいた本に、武士道の義について書いてありました。義とは、道理にかなった行為の決断、という意味です。ただ義は、頭で決断するものではなく、体が先に動くものだという解釈がある」靈は続けた。「榊原さんは、石丸さんの息子の話を聞いた瞬間に、体が動いた。謝罪が出てきた。それは義が体に入っていた人間の動き方だったのかもしれない」
「義が体に入っていた」
「榊原さんは四十年、縄を張り替えてきた。理由を知らなくても、続けてきた。そういう積み重ねが、人間の体に何かを入れるのかもしれない、と思っています」
倉敷はしばらく黙っていた。電話口の向こうで、何か移動する音がした。椅子を引くような音だった。
「わしの師だった教師のことを、また考えていました」
靈は何も言わずに待った。
「あの人も、似たことをする人でした」倉敷の声が、少し低くなった。「教壇を降ろされたとき、処分を下した教育委員会の人間に、最初に詫びを入れた。迷惑をかけた、と。周りにいたわしらは、なぜ詫びるんだと思った。正しいのはこちらだと思っていた。ただ、あの人は詫びた」
「なぜだと思いますか」
「当時はわからなかった」間があってから、続きが来た。「今は、少しわかる気がします。正しいかどうかとは別のところに、詫びるべき何かがあった。それを、あの人は感じていた」
靈は湯呑みを持ち直した。
「倉敷さんに、一つ聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「石丸さんに、昨夜のことを伝えましたか」
「まだです。あなたに電話してから、連絡しようと思っていた」
「石丸さんが、考えます、と言いました」靈は続けた。「喫茶店でも、同じ言葉が出た。あの人は、考えている人間だと思います」
「石丸は、頭で考える人間ではない」倉敷の声に、珍しく温度のようなものが混じった。「体で動く人間です。息子が傷ついた夜から、ずっと体で動いてきた。頭が追いついていない部分がある」
「それは、榊原さんと逆ですね」
電話口が、少し静かになった。
靈には、倉敷がその言葉を頭の中で転がしているのがわかった。
「逆、ですか」
「榊原さんは体に義が入っていて、頭では理由を知らなかった。石丸さんは頭で怒りがあって、体がそれに従って動いてきた。昨夜、二人が話した」
「それが、何かを変えたと」
「変えたかどうかはわかりません」靈は白湯を飲んだ。「ただ、話した。それは昨日の夜が来る前には、なかったことです」
しばらく沈黙があった。
倉敷が電話口でゆっくりと息を吐いた。昨夜、雨森が道場で話したときの息とは、種類が違う息だった。疲れではなく、何か下ろすような息だった。
「報告、ありがとうございます」
「こちらこそ」靈は少し止まってから続けた。「情報を提供してくれたことで、昨夜の準備ができました。それがなければ、違う夜になっていた可能性があります」
「石丸が怒るかもしれない」倉敷の声が少し戻ってきた。「情報が外に出ていたことを知れば」
「知るんですか」
「石丸は鋭い。いずれ気づく」
靈は少し考えた。
「倉敷さんのことを、守るという選択肢はありますか」
「どういう意味ですか」
「叢雲は、あなたが情報源だということを、石丸さんに知らせないことができます。ただ、それはあなたが組織の中で不誠実な立場になることを意味する」靈は続けた。「正直に、自分が伝えた、と石丸さんに話すことも、一つの選択肢です」
長い沈黙があった。
靈は待った。
「それは、わしが決めることです」
「そうです」靈はうなずいた。「ただ、選択肢があることは、伝えておきたかった」
電話を切ってから、靈は板の間に正座した。
白湯が冷めていた。
義が体に入っている人間、という言葉を、自分に向けてみた。
靈の体に、何が入っているか。
十五年、道場を継いで、何も教えなかった。型は続けていたが、誰かに伝えることをしなかった。AIに動画を作らせて、声だけ吹き込んで、それで十分だと思っていた。
ただ、昨夜鳥居の前に立った。体が動いた。
親父が言っていた。零というのは、数える前の状態だ。始まる前の、全部の可能性がある場所だ。
靈の体に入っているものが何かは、まだわからない。ただ、昨夜の体の動き方は、何かが入っていなければ出てこない動き方だったかもしれない、と思った。
午前中に、雨森から短いメッセージが来た。
「昨夜の件、改めて報告書を作ります。拝郷さんに確認してもらう箇所があるので、後日連絡します。今日は先負なので、午前中のうちに」
靈は返信した。
「いつでも構いません」
続けて健一からもメッセージが来た。
「石丸のSNSアカウントが、今朝から再び確認できる状態になっています。昨夜以降の投稿はまだありません。父が、また神社に来てほしいと言っています。次の祭りの準備を、一緒に始めたいと」
靈は少し止まった。
次の祭りの準備。
石丸に、祭りのときに来てください、と榊原が言っていた。太鼓の音を、神を招く音として聞いてみてください、と。
返信した。
「伝えてください。行きます、と」
昼過ぎに、きゃるんが来た。
引き戸を開けると、いつものコートではなく、少し厚手のセーターを着ていた。
「叢雲から、正式に仕事をもらいました」板の間に入りながら、靴を揃えてから振り返った。「川口支局の、情報整理の補助です。健一さんがやっていることを手伝う形で」
「決めたんですか」
「雨森さんに相談して、決めました」座布団に座りながら、きゃるんは少し照れた顔をした。「昨日、神社で何かの役に立てた気がして。続けたいと思って」
靈は茶を淹れながら、きゃるんを見た。
半年前、隣の空き家の玄関前で男たちに腕をつかまれていた少女だ。今、叢雲の仕事を引き受けた。
「名前の漢字は、決まりましたか」湯呑みをきゃるんの前に置きながら聞いた。
きゃるんが少し目を丸くした。
「そういえば、まだ決めていませんでした」少し考える顔になった。「最近、忙しくて」
「急がなくていいです」靈は向かいに座った。「ただ、決めるときになったら、また字典を開きましょう」
「はい」きゃるんは湯呑みを両手で持った。「道場主さんに聞きたいことがあります」
「なんですか」
「昨日、石丸さんが最後に榊原さんに頭を下げたじゃないですか」きゃるんは湯呑みを見たまま続けた。「あれって、礼だったんですか。道場主さんが教えてくれた、首の後ろをさらす礼」
靈は少し考えた。
「形は礼でした」湯呑みを持ちながら続けた。「意味を知っていてやったかどうかは、わかりません」
「意味を知らなくても、礼は礼ですか」
「形が正しければ、意味は後から来ることがある」
きゃるんが少し首をかしげた。
「それって、榊原さんが縄の意味を知らなくても、正しく張り続けていた話と同じですか」
靈は少し止まった。
同じだ、と思った。ただ、きゃるんにそう言われるまで、靈はその二つを繋げていなかった。
「同じかもしれません」
「つながってますね、いろいろ」きゃるんは湯呑みを置いて、靈を見た。「道場主さんが話してくれることって、全部どこかで繋がっている気がします」
きゃるんが帰った後、靈は本棚の前に立った。
「武士道と日本人」を引き出した。昨夜読んでいた箇所を、もう一度開いた。
義について書かれたページだ。
靈は新渡戸稲造の言葉を読んだ。
「義とは、武士の骨格をなすものである。義なくして武士は立たない。義は、理屈で決断するものではなく、瞬間に現れるものだ。その瞬間に義が現れるためには、日常の積み重ねがなければならない」
日常の積み重ね。
榊原が縄を張り替えてきた四十年。石丸が息子のことを抱えてきた二十年。倉敷があの教師の笑顔を考え続けてきた歳月。
それぞれが、それぞれの積み重ねを持って、昨夜あの場所にいた。
靈はページをめくった。
次の段落に、こう書いてあった。
「義を持つ者は、相手の義をも見る。自分の義だけを正しいとする者は、義ではなく意地を持っているに過ぎない」
靈は本を閉じた。
義と意地。
倉敷は最初、義を持っていたかもしれない。ただ、組織の中で怒りが増幅するうちに、意地に変わっていった部分があるかもしれない。
石丸は、息子への義を持っていた。ただそれが、向かう先を間違えていた。
昨夜、榊原が詫びたことで、石丸の義が別の形で現れる場ができたのかもしれない。
夕方、倉敷からメッセージが来た。
「石丸に話しました。自分が情報を伝えたことを、正直に話しました」
靈はメッセージを読んだ。
返信する前に、少し考えた。
倉敷が自分で決めた。それだけのことだ。靈が何かをしたわけではない。
「石丸の反応は」靈は返信した。
少し待つと、返事が来た。
「黙っていました。怒りませんでした。ただ一言、なぜ、と聞いてきました」
「何と答えましたか」
「このままでは、大事なものを壊すことになると思ったから、と言いました」
靈は画面を見た。
大事なもの。
倉敷が大事にしてきたもの。あの教師が笑っていた顔。義について語り続けてきた歳月。それが壊れることへの、恐れ。
「石丸は、何と言いましたか」
しばらくして返信が来た。
「また、黙っていました。それから、榊原という人にもう一度会ってみたい、と言いました」
靈は板の間に座った。
外が暗くなっている。川口の夜が、道場の周りを包んでいる。どこかからアラビア語の音楽が聞こえてくる。靈の知らない旋律だが、今夜は遠くない気がした。
木刀を一本手に取った。
零の型を始める前に、靈は一度礼をした。道場に向かって。百年近く前に曾祖父が建て、親父が育ち、靈が継いだ場所に向かって。
首の後ろがさらされる角度で、三秒ほど保った。
礼から戻して、型を始めた。
最初の所作。重心を落とし、呼吸を整え、三呼吸待つ。
三呼吸の間に、靈は一つだけ考えた。
繋ぐ、とはどういうことか。
曾祖父が決めた名前の意味。何かを繋ぐ人間になれ、と親父が伝えた言葉。
昨夜、鳥居の前に立った。今日、倉敷と電話した。石丸が榊原にもう一度会いたいと言った。
繋いだかどうかは、まだわからない。
ただ、繋ごうとして動いたことは、確かだ。
型を始めた。摺り足で板の間を移動しながら、靈は動き続けた。
答えが出ない問いを抱えたまま、動くことができる。
それが今、靈にできることだった。




