第18話 「石丸、再び神社へ」
石丸が八雲神社を訪れたのは、旧暦正月から五日後だった。
靈がその日の朝に知ったのは、榊原からの短いメッセージだった。
「今日の午後、石丸という人が一人で来ます。拝郷さんも来てもらえますか」
靈は型を終えてから返信した。
「伺います」
それから雨森にも転送した。雨森からの返信は早かった。
「把握しました。スタッフの同席は必要ですか」
靈は少し考えた。今日の石丸は一人で来る。声明を読み上げる人間を引き連れてくるわけではない。今日は叢雲が間に入る場面ではないかもしれない。
「今日は、榊原さんと石丸さんの時間だと思います。私も、求められなければ引きます」
「わかりました。周辺の確認だけしておきます」
午後一時過ぎに、靈は神社に向かった。
鳥居をくぐる前に礼をした。今日で何度目になるか、もう数えていない。ただ、毎回同じように首の後ろをさらす。慣れても、その感覚だけは毎回ある。
境内に入ると、榊原が社殿の前に立っていた。隣に健一がいる。二人とも、鳥居の方を見ていた。
靈が近づくと、榊原が目を向けた。
「来てくれましたか」
「石丸さんは、まだ」
「今、路地の入り口に見えました。もうすぐ来ます」榊原は鳥居を見たまま、静かに続けた。「健一に、離れていてくれと言いました。あなたもどうぞ」
靈は少し止まった。
榊原が、石丸と二人で話したいということか。
「わかりました」靈は末社の方に向かった。健一が靈の隣に並んだ。
末社の横から、靈は鳥居の方を見た。
路地から石丸が現れた。コートを着て、両手をポケットに入れている。あの夜と同じ格好だ。ただ、後ろに誰もいない。一人だ。
石丸が鳥居の前で止まった。
靈は、その動作を見た。
石丸は鳥居を見上げた。注連縄を、目で追っているように見えた。左から右へ。太い方から細い方へ。
それから、頭を下げた。
鳥居に向かって、礼をした。
三秒ほど保ってから、頭を上げた。そのままくぐった。
靈は健一を横目で見た。健一も同じ場面を見ていた。
「礼をしましたね」健一が小声で言った。
「しました」
「前は、していなかったと思います。あの夜」
「していませんでした」
健一が少し黙った。それから、また前を向いた。
石丸が境内に入ると、榊原が歩み寄った。
二人が向かい合った。距離は二メートルほどある。
靈には会話の内容は聞こえなかった。ただ、二人の様子は見えた。
榊原が何か言った。石丸が少し頭を下げた。榊原がうなずいた。
それから二人で境内を歩き始めた。社殿の方に向かわず、境内の端の生垣沿いを歩いている。ゆっくりとした歩き方だ。
靈は末社の横から動かなかった。
健一も動かなかった。
二十分ほど経ってから、榊原が靈に手招きをした。
靈は健一に目を向けた。健一は小さくうなずいた。靈は一人で歩み寄った。
石丸が靈を見た。あの夜の目ではなく、喫茶店で見た目に近かった。確認する目だ。
「来てくれていたんですか」
「榊原さんに呼ばれて」靈は答えた。「ただ、今日はお二人の時間だと思ったので、離れていました」
石丸が少し表情を動かした。何かを言おうとして、止めた。それから、やはり口を開いた。
「榊原さんに、礼の意味を教わりました」
靈は黙って待った。
「鳥居をくぐるとき、頭を下げる理由です」石丸は鳥居を見た。「首の後ろをさらす。信頼の表明だと」
「伝わりましたか」榊原が靈に向かって言った。「拝郷さんに教わったことを、そのまま話しました」
「なぜ今日、礼をしようと思ったんですか」靈は石丸に聞いた。
石丸はしばらく鳥居を見ていた。
「父の話をしてもいいですか」
石丸が靈を向いた。榊原には、すでに話した後らしかった。榊原は黙って石丸の横にいた。
「どうぞ」
「父は川口の出身で、鋳物工場で働いていました」石丸はポケットから手を出して、腕を組んだ。「昭和の話です。その頃の川口は、工場が多かった。父が子供の頃は、外国人の出稼ぎ労働者もいた。父はそういう人たちとも普通に付き合っていたと言っていました」
靈は聞きながら、川口の歴史を思い出した。鋳物工場の街だった時代。靈の道場も、その時代からある。
「父が毎朝やっていたことがありました」石丸は続けた。「工場に行く前に、近所の神社に寄って、拝んでいく。それだけです。理由は聞きませんでした。そういうものだと思っていた」
靈には、その話がどこに向かうかがわかった気がした。ただ、待った。
「父が死んだのは、私が三十代の頃です」石丸の声が少し変わった。「葬式の後に、母から聞きました。父が毎朝神社に寄っていたのは、仕事の安全と、工場で一緒に働く外国人の健康を祈っていたからだと。自分のためではなく」
風が境内を渡った。生垣が少し揺れた。
「私は、その話を聞いたとき、何も感じませんでした。当時は」石丸は鳥居を見た。「ただ、昨夜また思い出した。父が神社で頭を下げていた姿を」
「今日、鳥居で礼をしたのは」靈は石丸に向いた。
「父がやっていたから、やってみようと思っただけです」石丸は少し肩を落とした。「意味は、後から榊原さんに教わった」
榊原がその言葉を聞いて、少し顔を動かした。何か言いたそうだったが、言わなかった。
「意味を知ってから、礼の感じが変わりましたか」靈は続けた。
「変わりました」石丸は少し間を置いた。「首の後ろをさらすという感覚が、あった。父がそれをやっていたのかどうかは、もうわかりません。ただ、同じことをやった」
靈は返事をしなかった。
石丸が自分で話している。靈が何かを付け加える必要はない。
「父は」石丸はもう一度口を開いた。「外国人の健康を祈っていた。私には、それができなかった。息子が傷ついた夜から、できなくなった」
石丸の声が少し止まった。靈は待った。
「榊原さんの謝罪を聞いたとき、父のことを思い出しました。父なら、あの夜の息子を助けに来た人間に、同じように詫びたかもしれない。私には、それができなかった」
榊原が静かに口を開いた。
「息子さんは、今どうしていますか」
「元気にしています」石丸は少し目を細めた。「就職して、別の街にいます。あの夜のことは、もうほとんど話しません」
「それはよかった」榊原はうなずいた。「子供は、親より先に忘れることができる。親の方が、ずっと抱えている」
石丸が榊原を見た。
「榊原さんにも、息子さんがいますか」
「います。大阪にいましたが、最近戻ってきました」榊原は社殿の方に目をやった。「息子が戻ってきた理由は、川口を出るときに父親に情けないことを言ったから、だそうです。引っかかっていたと言っていました」
「どんなことを」
「こんな街に未練はない、と」
石丸は少し黙った。
「私も、同じようなことを思っていた時期があります」石丸は鳥居を見た。「川口から出ていけばよかった、と。ただ、出ていかなかった。息子のことがあってから、余計に出られなくなった」
「出なかったから、今ここにいる」榊原は石丸を見た。「それは、悪いことじゃないと思います」
三人でしばらく、境内に立っていた。
社殿の方から、冬の乾いた風が来た。注連縄が揺れた。左から右へ、太い方から細い方へ。
石丸が注連縄を目で追っていた。
「縄の張り方に、意味があると聞きました」石丸は靈に向いた。「左綯いと言うんですか」
「そうです」
「榊原さんが、毎年張り替えているのに理由を知らなかったと」
「知らないまま、正しく伝わっていた」
石丸がまた鳥居を見た。
「父が毎朝神社で拝んでいたことも、理由は知りませんでした」石丸は少し声を落とした。「外国人の健康を祈っていたことも、死ぬまで言わなかった。知ったのは死んでから」
「形が残っていた」靈はうなずいた。「父親が毎朝神社に寄る姿を、あなたは見ていた」
「見ていました」
「それが、今日ここに来た理由の一つかもしれません」
石丸はしばらく靈を見た。
それから、また鳥居に目を向けた。
「そうかもしれません」小さな声だった。「わしにも、見えていたものがあった」
石丸が帰る前に、榊原が声をかけた。
「祭りのとき、また来てください」
「来てもいいですか」石丸はわずかに表情を動かした。驚きに近い顔だった。
「来てください」榊原はうなずいた。「太鼓の音を聞いてほしい。神を招く音だと、拝郷さんに教わりました。わしはまだ体でしか知らない。ただ、その音は本物だと思っています」
石丸は少し間を置いた。
「わかりました」
鳥居に向かって歩き始めた。
鳥居の前で、石丸は止まった。
来るときと同じように、頭を下げた。今度は靈にも角度が見えた。腰からしっかり傾けている。首の後ろが、冬の空気にさらされた。
三秒ほど保ってから、頭を上げた。くぐった。
路地に出て、向こうに消えた。
靈と榊原は、並んで鳥居を見ていた。
健一が末社の方から歩いてきた。
「終わったんですか」
「終わりました」榊原は目を鳥居に向けたまま答えた。「石丸という人の父親の話を聞きました」
「どんな話でしたか」
「毎朝神社に拝みに来ていた人の話です。外国人の健康を祈っていた」
健一は少し止まった。
「大正義の人の父親が」
「そういう人が父親だった」榊原は健一を見た。「人間というのは、いろいろな方向から来るんだな、と思いました」
靈はその言葉を聞きながら、境内の石畳を見た。
いろいろな方向から来る。
石丸の父が毎朝拝んでいた神社は、どこだったのか。今もあるのか、なくなったのか。雨森の父が宮司をしていた神社のように、廃社になったのか。
靈には知る方法がなかった。
帰り道、靈は一人で歩いた。
商店街に差し掛かったとき、スマートフォンが鳴った。雨森からだった。
「今日の様子を教えてもらえますか」
「石丸さんが、お父さんの話をしました」靈は歩きながら答えた。「外国人の健康を祈っていた父親の話です」
電話口が少し静かになった。
「それを石丸さんが」
「話しました。榊原さんに。わしにはそれができなかった、と言って」
また沈黙があった。雨森が考えているのがわかった。
「変わるかもしれませんね」
「変わるかどうかはわかりません」靈は前を向いたまま答えた。「ただ、話した。それは今日まで、なかったことです」
「拝郷さんは、それでいいんですか。すぐに変わらなくても」
「すぐに変わることを、期待していません」
靈は答えながら、石丸が鳥居で礼をした場面を思い出していた。父の形が、息子の体に残っていた。理由を知らないまま、残っていた。
「形が先に来ることがある、と思っています」靈は続けた。「意味は後から来る。石丸さんが今日、礼をした。それだけでいいと思っています」
道場に戻ると、夕方になっていた。
板の間に入って、靈はまず看板の方に向かった。引き戸を少し開けて、外から欅の板を見た。
「拝郷道場 制定居合道・宗家」
塗り直してから、少し時間が経った。色が落ち着いてきた。字がはっきり読める。
引き戸を閉めて、板の間に戻った。
木刀を一本手に取った。
型を始める前に、道場に向かって礼をした。
首の後ろをさらす。信頼の表明。百年近くここにある場所への、誠意。
礼から戻して、靈は零の型を始めた。
最初の所作。重心を落とし、三呼吸待つ。
三呼吸の間に、靈は今日の石丸の声を思い出した。
わしにも、見えていたものがあった。
石丸の父が毎朝拝む姿が、石丸には見えていた。意味はわからないまま、見えていた。それが今日、鳥居での礼という形で出てきた。
靈の父が正座して窓の外を見ていた元日の朝が、靈には見えていた。意味はわからないまま、見えていた。それが今、元日の朝に正座するという形で出てきた。
形は体に残る。
体に残ったものは、どこかで出てくる。
靈は動き始めた。板の間を摺り足で移動しながら、今日見えたものを体の中に入れるように、ゆっくりと動き続けた。




