第19話 「倉敷の決断」
倉敷から連絡が来る三日前、川口で事件が起きた。
靈がそれを知ったのは、朝の型を終えてスマートフォンを見たときだった。地域の防犯情報アプリに通知が入っていた。
「昨夜、川口市内の南部で自警団と外国人グループの衝突。負傷者複数。叢雲セキュリティが現場対応中」
靈は雨森に電話した。
三度鳴って繋がった。雨森の声は、夜通し動いていた人間の声だった。
「把握しています」靈が聞く前に、雨森が口を開いた。「昨夜の十一時頃です。南部の商店街で、自警団の巡回中に外国人の男性グループと接触しました。言い合いが始まって」
「どちらが先に動いたんですか」
「外国人側の一名が、ナイフを出しました」雨森の声が少し硬くなった。「自警団側がそれに応戦して、木刀を出した。その後、揉み合いになっています」
「怪我は」
「自警団側が一名、肋骨にひびが入っています。外国人側が二名、打撲と裂傷です。病院に搬送しました。ナイフを出した人物は、現在叢雲が身柄を確保しています」
「死者は」
「いません」
靈は少し息を吐いた。
「ナイフを出した理由は、わかっていますか」
「まだ確認中です」雨森は続けた。「ただ、もう一つ要因があります。昨日の昼間に、大正義の系列とみられるSNSアカウントが、その商店街周辺の外国人に関する投稿を複数出していました。健一さんが確認しています」
靈は立ったまま、窓の外を見た。
川口の朝が広がっている。どこも変わらない朝に見えるが、昨夜その街の一角で、ナイフが抜かれ、木刀が振られ、誰かの骨が折れた。
「SNSの投稿が、外国人側を追い詰めた可能性がありますか」
「断定はできません」雨森は少し間を置いた。「ただ、その外国人グループが住んでいるアパートの前に、昨日の夕方から大正義系とみられる人間が立っていたという目撃情報もあります。タイミングが重なっています」
靈は返事をしなかった。
ナイフを出したことは、間違いなく外国人側だ。自警団が応戦したことも、状況としては理解できる。ただ、その前段に何があったのか。追い詰められた人間が、恐怖で刃物を出すことはある。
どちらかが一方的に悪い話ではない。ただ、誰かが意図的にその状況を作った可能性がある。
その日の午後、靈は現場の近くを歩いた。
商店街の一角に、規制線の名残が残っていた。叢雲のテープだ。警察のものではない。今の川口では、こういう現場に叢雲が先に動く。
商店街の店主たちが、入り口の前に立って話していた。日本人の老齢の男性と、中東系の女性だった。二人とも疲れた顔をしている。言い合っているわけではなかった。ただ、昨夜のことを確認し合っているように見えた。
靈はその場を通り過ぎた。
歩きながら、靈は体の中を確認した。
昨夜、ナイフが出た。木刀が出た。誰かが応戦した。
靈も木刀を持って歩く人間だ。帯刀が黙認されている街で、木刀は日常になっている。昨夜の自警団も、同じ日常の中で動いていた。ナイフを向けられたとき、手の中に木刀があれば、使う。それは間違いではないかもしれない。
ただ、止めに行けたか。
答えはない。靈は現場にいなかった。
いたとして、ナイフが出た瞬間に、話で止められたか。
わからない。ナイフが出た後では、話の時間はない。ナイフが出る前に、場に入れていれば、違ったかもしれない。
ただ、ナイフが出る前の段階で、靈がそこにいる理由は何もなかった。
わからないまま、靈は歩いた。
その日の夜、靈は板の間で本を読みながら、今日見てきた場所を考えていた。
ナイフを出した外国人が、どういう状況にいたのか。アパートの前に大正義系の人間が立っていた、という情報。一晩、そういう圧力をかけられた後で、自警団の巡回と鉢合わせした。
追い詰められた人間の行動と、それに応戦した人間の行動。どちらの判断も、その瞬間の状況だけ見れば理解できる。
問題は、その状況を意図的に作った人間が、どこかにいる可能性だ。
靈は本を閉じた。
零の型は、相手の世界の外側に出る型だ。
状況の外側から見ることができれば、誰が状況を作っているかが見えるかもしれない。
ただ、外側から見ている間に、現場で誰かが傷つく。
見ていることと、動くことの間に、靈はいる。
雨森からメッセージが来たのは、その三日後だった。
「会いたいです。川口から少し離れた場所になります。来週の大安、お時間はありますか」
靈は、ここ数日胸につかえていた靄を晴らすきっかけがあるのではと期待して読み進めた。
「今回は例の事件とは別の情報も入っています。倉敷さんの組織内で、変化が起きているようです」
「どういう変化ですか」
「倉敷さんが情報を漏らしたことが、構成員に広まったようです。倉敷さんの立場が変わりつつある、という情報です。ただ、詳細はまだわかっていません」
靈は少し考えた。
「会います」返信した。「場所が決まったら教えてください」
大安の午前、指定された場所は川口から電車で三十分ほどの、さいたま市内の小さな公園だった。
池のある公園で、平日の午前中は人が少ない。ベンチがいくつかあって、老人が一人、鳩に餌をやっていた。
靈は指定されたベンチに向かった。
ベンチに人が座っていた。
雨森ではなかった。
八十代と思われる老人だ。白髪で、背中が少し丸い。コートを着て、膝の上に両手を置いている。靈を見て、ゆっくりと顔を向けた。
靈は一度立ち止まった。
老人が口を開いた。
「拝郷さんですか」
「そうです」
「倉敷の師です」老人は少し頭を下げた。「三田と申します」
三田、という名前を、靈はすぐに結びつけた。
倉敷が蕎麦屋で話していた、国語の教師だ。古事記を授業で読ませて、教壇を降ろされた。葬儀に百人以上の教え子が来た。三年後に死んだ、と聞いていた。
「生きておられたんですか」靈はベンチの隣に座りながら言った。
「死んだと思っていましたか」三田はかすかに笑った。「倉敷がそう言いましたか」
「三年後に亡くなったと」
「病気になったのは本当です。ただ、死にませんでした」三田は池を見た。「倉敷は、わしが死んだと思い込んでいる。訂正する機会がなかった。いや、正確には——訂正しなかった」
靈は三田を見た。
「なぜ」
「倉敷が変わっていくのを、わしは見ていました」三田は池に鳩が降りるのを目で追いながら続けた。「わしが死んだことが、倉敷の怒りに火をつけた部分がある。その怒りを、今更否定することが怖かった」
「倉敷さんは今日、来ないんですか」靈は三田に向いた。
「来られない状況です」三田は少し表情を固くした。「組織の中で、立場が変わっているようです。どうやら、動きを制限されている」
「制限」
「監視、と言った方が正確かもしれません」三田は靈を見た。「倉敷が情報を外に出したことが、組織に広まった。石丸は黙っていますが、別の幹部が動いています」
「倉敷さんは、今どこにいますか」
「川口市内だそうです。ただ、一人ではない」三田は両手を膝の上で組んだ。「叢雲がわしに連絡してきたのは、昨夜です。あなたに会ってほしいと言ってきた」
三田の説明にはどこまで知っているのか不明瞭な点がちらつく。雨森が事前に倉敷の現状をそこはかとなく伝えていたに違いない。
「私に、何を伝えるために」
三田はしばらく池を見た。
鳩が一羽、ベンチの近くに来た。餌をねだるように首を動かした。三田は手を振って、追い払った。鳩はゆっくり離れた。
「川口で、何かが起きます」三田は口を開いた。「倉敷が止めようとしている何かが、倉敷の手を離れました」
「具体的に、何が起きますか」
「汚職の市議会議員がいます」三田は続けた。「川口の移民政策に利権で関わってきた人間です。組織の中の過激派が、その議員を標的にすると言っています。場所は川口市内。時期は、今週中」
靈は少し止まった。
今週中。
「倉敷さんは、止めようとしたんですか」
「止めようとした。ただ、情報を漏らした人間の言葉を、組織の中で聞く者がいなくなっている」三田は静かに続けた。
「それで、私に」
「あなたが叢雲に繋がっていることを、倉敷は知っているのでしょう」三田は靈を見た。「叢雲とあなたにこの状況を打開して欲しい、ということです」
靈は三田を見た。
三田の目は、倉敷の目とは違った。倉敷には怒りがあったが、三田の目には別のものがあった。長く生きてきた人間の、静かな重さだ。
「三田さんは、倉敷さんが変わっていくのを見てきた、と言いました」靈は続けた。「それを止めなかった理由は、本当に怖かったからだけですか」
三田は少し目を細めた。
「鋭い質問です」
「答えなくていいです」靈は首を振った。「ただ、聞きたかった」
「止められると思っていなかった」三田は池を見た。「それが正直なところです。人間が変わっていくとき、外から止めることはほとんどできない。内側から、自分で気づかなければ変わらない。倉敷が自分で気づく日が来ると、わしは待っていた」
「来ましたか、その日が」
「来ているかもしれません」三田は静かに言った。「情報を外に出した、という行為が、その始まりかもしれない」
靈は雨森に電話した。
三田の隣に座ったまま、電話口で要点だけを伝えた。そして川口市内の議員が標的になっていること、今週中という時期、大正義の過激派が動いていることについて確認した。
雨森は黙って聞いていた。聞き終えると、少し間を置いて口を開いた。
「該当する議員は、特定できています。川口の移民関連の利権で名前が出ている人物が複数います」
「叢雲は、どう動きますか」
「警察への通報と、議員側への警告を同時に行います」雨森は続けた。「ただ、今の警察の対応速度では、今週中に動くことができるかどうか」
「限界がありますか」
「あります」雨森は正直に言った。「民間治安補完法の範囲では、叢雲が議員を直接警護することは難しい。議員が自分で依頼するなら別ですが」
「叢雲から、議員に連絡できますか」
「できます。ただ、その議員が汚職に関わっているなら、叢雲からの接触を嫌がる可能性があります」
靈は少し考えた。
「やれることをやってください。私の方でも、考えます」
電話を切った。
「聞いていましたか」靈は三田に向いた。
三田はうなずいた。
「叢雲という企業が、動ける範囲で動く、ということですね」
「それだけでは足りないかもしれない」
「そうかもしれません」三田はベンチから立ち上がろうとした。靈は少し手を出した。三田は首を振った。「大丈夫です。ゆっくり立てます」
三田が立った。靈も立った。
「一つだけ」三田は池を見たまま言った。「倉敷に伝えてもらえますか。わしは死んでいない、と」
靈は少し止まった。
「今まで伝えなかったのに、今伝えるんですか」
「倉敷が何かを決断しようとしているとき、わしが生きていることを知っていてほしい」三田は靈を見た。「死んだ師への義理と、生きている師への義理は、重さが違います」
帰り道、靈は電車の中で窓の外を見ていた。
さいたまから川口へ。車窓に街が流れる。
三日前の夜、南部の商店街でナイフが抜かれた。追い詰められた人間が、恐怖か怒りか、あるいはその両方で刃物を出した。自警団が応戦した。骨が折れた。
靈は自分の手を見た。
木刀はない。今日は持って来なかった。三田と会う場所に、木刀を持っていくことは違う気がした。
暴力を止めるために、靈に何ができるか。
話すことはできる。零の型で場の空気を変えることはできる。叢雲に伝えることはできる。
ただ、ナイフが出た後では、話の時間はない。木刀があれば、止められたかもしれない。なくても、体を使えば、止められたかもしれない。
あるいは、靈が傷ついていたかもしれない。
わからないまま、川口が近づいてきた。
わからないことが、以前より少し重くなってきている。それが、フェーズが変わっていることの感覚かもしれない、と靈は思った。
道場に戻ると、きゃるんからメッセージが来ていた。
「今日、健一さんから聞きました。南部の衝突のこと。叢雲のSNS分析で、大正義系のアカウントが関係していた可能性があるって。私、今日の作業でそのアカウントを追っていました」
靈は返信した。
「何か見つかりましたか」
「一つ、気になることがあります。そのアカウント、川口の政治に関する投稿も多くて、特定の市議会議員の名前が繰り返し出てきます。汚職に関わっているという内容で」
靈は少し止まった。
「その議員の名前を、雨森さんに伝えてください。急いで」
「わかりました。でも、何かあったんですか」
「後で説明します。今は急いでください」
送信してから、靈は板の間に立った。
木刀を一本、手に取った。
持ったまま、動かなかった。
三日前の夜、ナイフが出た。木刀が応戦した。
もし靈がその場にいたら、どうしたか。
木刀を出した自警団を、止めることを優先したか。ナイフを持った人間を、先に押さえることを優先したか。
どちらの判断も、間違いではないかもしれない。ただ、どちらかの判断が、誰かを守り、誰かを傷つける。
靈には、答えがまだない。
ただ、問いは育っている。
夜、靈は倉敷に電話した。
メッセージではなく、電話にしたのは意図があった。三田から預かった言葉は、文字で送るより声で届ける方がいい、と思った。
五度鳴って、繋がった。
「拝郷です。今日、三田さんに会いました」
電話口が、一瞬静かになった。
静かになり方が、普通の沈黙とは違った。息を止めたような、時間が止まったような間だった。
「……三田先生に」倉敷の声が、靈がこれまで聞いたことのない質感になった。低く、かすれている。「どこで」
「さいたま市内の公園です」
また沈黙があった。
今度は長かった。靈は待った。
電話口から、かすかに息が漏れる音がした。深く、ゆっくりと吐き出すような息だった。
「……死んでいなかったんですか」倉敷の声は、靈が知っている倉敷の声ではなかった。六十代の男の声ではなく、もっと若い、何かが崩れかけている人間の声だった。「三年前に、病気で」
「病気になったのは本当だそうです。ただ、死ななかった。三田さんは、あなたに訂正する機会がなかった、と言っていました」
「なぜ、今まで」
「あなたの怒りを、否定することが怖かったと言っていました」
また沈黙があった。
靈は板の間に正座したまま、電話を持ち続けた。倉敷が何かを整理している時間だとわかった。急かさなかった。
しばらくして、倉敷が口を開いた。
「先生は、今どこにいますか」
「さいたま市内で、一人で暮らしていると言っていました。連絡先は聞いていません。ただ、また公園に来ると言っていた」靈は続けた。「三田さんがあなたに伝えたかったのは、決断しようとしているとき、師が生きていることを知っていてほしい、ということだったと思います」
倉敷はしばらく黙っていた。
「決断」倉敷はその言葉を繰り返した。「わしが、何かを決断しようとしていると、先生は思っているんですか」
「そう感じているようでした」
また間があった。
「……わかりました」
声が、少し変わっていた。崩れかけていたものが、少し落ち着いた声だった。完全ではない。ただ、何かが着地したような音があった。
靈はそれ以上を追わなかった。
「また連絡します」靈は言った。「今週のことで、動きがあれば」
「わかりました」
電話が切れた。
靈はスマートフォンを置き、板の間を見た。
倉敷の声が、頭の中に残っていた。
死んでいなかったんですか、という言葉。その声の中にあったもの。怒りではなかった。驚きでもなかった。
長い時間、死んだと思っていた人間が、生きていた。
その重さが、倉敷の中でどう動くか。靈には想像できなかった。ただ、三田が「決断しようとしているとき知っていてほしかった」と言った理由が、少しだけわかる気がした。
死者への義理と、生者への義理は、重さが違う。
靈は零の型を始めた。
型をやりながら、今日一日を頭の中で整理した。
南部の衝突。ナイフと木刀。骨が折れた。その場を作った何者かがいる。
倉敷が監視されている。過激派が議員を標的にしようとしている。
今週中。
靈には、木刀がある。零の型がある。話すことができる。叢雲がある。
それで足りるかどうかは、わからない。
型を続けながら、靈は一つの問いが体の中で育ってきているのを感じた。
話で止められないものが来たとき、どうするか。
まだ答えは出ない。
ただ、問いが育っている。それは昨日より、一歩先に来ている。




