第20話 「今週中」
松永誠一という名前を、靈は雨森から翌朝聞いた。
朝の型を終えてから電話すると、雨森はすでに動いていた。
「川口市議会議員、松永誠一。六十二歳です」雨森の声に、夜通し作業した疲れが混じっていた。「移民受け入れ推進派の中心人物で、二〇四〇年代の受け入れ拡大法案の立案に関わっています。利権の内容は、外国人向けの住宅斡旋業者との癒着です。移民に住居を紹介する業者から、紹介料の一部が政治献金として流れている」
「金額は」
「確認中ですが、相当な規模と見られています」
「叢雲は、議員と接触しましたか」
雨森が少し間を置いた。
「昨夜、議員事務所に警告の連絡を入れました」
「反応は」
「接触を拒否されました。議員側の弁護士から折り返しがあって、叢雲との接触は一切お断りする、という返答でした。警護の依頼もしない、と」
靈は少し止まった。
「警告を受けて、拒否した」
「はい」
「なぜ叢雲を拒むんですか。過激派に狙われているかもしれないのに」
また間があった。今度は少し長かった。
「それを、今日お話ししたいのです」雨森は続けた。「今日、伺っていいですか。今日は友引です」
午前十時に雨森が来た。
板の間に座ると、いつものタブレットを出さなかった。手ぶらで座布団に向かい合い、手を膝に置いた。
靈は茶を淹れながら、その所作を見た。タブレットがないとき、雨森は組織としてではなく個人として話す準備をしている。これまでの経験でわかってきたことだ。
「松永議員が叢雲を拒む理由は」靈は茶を雨森の前に置いた。
「叢雲と松永議員の間に、過去の接触があります」雨森は靈を見た。「私が叢雲に入る前の話です。正確には知りません。ただ、接触があったことは、社内の記録に残っています」
「どういう接触ですか」
「川口の移民関連の利権構造に、叢雲が絡んでいた可能性があります」
靈は茶碗を持ったまま、少し止まった。
「絡んでいた、とはどういう意味ですか」
「移民の住居斡旋業者の中に、叢雲と資本関係のある会社があります」雨森は視線をテーブルに落とした。「その会社と松永議員の間に、おそらく金が流れている。叢雲はその構造の一部にいた可能性がある」
靈はしばらく、茶碗を持ったまま動かなかった。
窓の外に、川口の冬の空が見えた。
「雨森さんは、それをいつから知っていましたか」
「知っていた、というより」雨森は少し間を置いた。「薄々感じていたことが、今回の件で輪郭を持ち始めた、というのが正確です」
「叢雲の本社は知っていますか」
「一部の人間は知っていると思います。私の上にいる人間が知っているかどうかは、わかりません」
茶を一口飲んだ。
「雨森さんは、叢雲に入ったのは廃社になった神社の宮司をしていたからだと言いました」靈は雨森を見た。「その理由と、今わかってきたことが、矛盾しませんか」
「矛盾します」雨森はうなずいた。「だから今日、こうして話しています」
「叢雲を、どうするつもりですか」
「わかりません」雨森は正直に言った。「ただ、拝郷さんには知っておいてほしかった。叢雲が完全に正しい側ではない可能性がある、ということを」
二人はしばらく黙っていた。
道場の板の間に、二月の冷たい空気が薄く漂っている。
「松永議員を、今週中に過激派が狙う」靈は言った。「叢雲がその警護を動けないとして、他に手はありますか」
「警察への通報は、すでに入れています」雨森は続けた。「ただ、対応の優先度が低い。民間治安補完法の下で、警察は叢雲に対応を委ねる形が定着しています。叢雲が動けない案件は、後回しになります」
「自警団は」
「川口の自警団は、松永議員を守る動機を持ちません」雨森はっきり言った。「移民政策の推進者として、自警団の中に議員を憎んでいる人間がいます」
靈は少し考えた。
「大正義の過激派は、何人くらいで動きますか」
「情報では、三名から五名です。武器の有無は不明」
「場所は」
「議員の事務所と自宅の二カ所が、標的になる可能性があります。事務所は川口市内。自宅はさいたま市内です」
「倉敷さんに、連絡が取れますか」
「監視されている状況です。直接の連絡は難しいかもしれません」
靈は立ち上がり、木刀を一本手に取った。
「試みてください」木刀を垂直に持ったまま、靈は続けた。「倉敷さんが、過激派の動きを止めるために何かできるかもしれない。内側から、動ける可能性がある」
「内側から止めることを、まだ期待していますか」
「期待はしていません」靈は答えた。「ただ、試みることと、試みないことは違います」
雨森は少し靈を見てから、スマートフォンを取り出した。
雨森が帰った後、きゃるんからメッセージが来た。
「松永議員の事務所のSNS、さっき確認したんですが、今日の午後に事務所で会合があるみたいです。公開の予定表に載っています」
靈はすぐに雨森に転送した。
「把握しました」返信が来た。「今日の午後、事務所周辺を確認します」
続けてきゃるんからメッセージが来た。
「私も何かできますか」
靈は少し考えてから返信した。
「今日は、健一さんと一緒に情報の確認を続けてください。現場には来ないでください」
「わかりました」少し間があって、もう一つ来た。「道場主さんは、現場に行くんですか」
靈は返信する前に、少し止まった。
行くかどうか、まだ決めていなかった。
雨森が言った。過激派が三名から五名。武器の有無は不明。
靈には木刀がある。零の型がある。話すことができる。
それで、今日の事務所の前に立てるか。
ナイフが出た後では、話の時間はない——三日前の夜の衝突を思い出した。話が通じる前に、誰かが傷つく状況がある。
靈には、答えがまだなかった。
「まだわかりません」靈は返信した。「ただ、何かあれば連絡します」
午後一時過ぎ、靈は川口市内の松永議員の事務所に向かっていた。
決めたわけではなかった。ただ、体が動いた。
木刀を帯に差して、道場を出た。扉を閉めながら、看板を一度見上げた。塗り直した字が、冬の光の中にある。
事務所は商店街から少し入った雑居ビルの二階だった。一階はスーパーで、入り口の前にカートが並んでいる。移民の母親と子供が、カートを押して通り過ぎた。子供が靈の木刀を見て、少し固まった。母親が子供の背中を押して、通り過ぎた。
靈は雑居ビルの前に立った。
周囲を見回した。
路地の向こうに、叢雲のスタッフらしき人間が一人立っているのが見えた。こちらに気づいて、わずかに頭を下げた。雨森が手配していた。
ビルの入り口の前に、三十代の男が一人立っていた。
靈は男を見た。
男も靈を見た。
コートを着て、両手をポケットに入れている。顔には見覚えがない。石丸ではない。大正義の関係者かどうかも、外見だけではわからない。ただ、その立ち方が引っかかった。待っている人間の立ち方ではなく、見張っている人間の立ち方だ。
靈はゆっくりと、男に近づいた。
「少し話せますか」
男が靈を見た。靈の帯の木刀に目が行き、それから靈の顔に戻った。
「何ですか」
「このビルに用がありますか」
「関係ないでしょう」
「そうかもしれません」靈は男の目を見た。「ただ、今日この場所に、危険が及ぶ可能性があります。あなたがそれと関係ない人間なら、離れた方がいい」
男が靈を値踏みするように見た。
「危険というのは、何の話ですか」
「知っているなら、知っているはずです」靈は続けた。「知らないなら、なおさら離れた方がいい」
男は少し間を置いた。それから、ポケットから右手を出した。
何もなかった。
ただ、出し方が気になった。ゆっくりと、確認するように出した。何かを持っていないことを見せるように。
「あなたは誰ですか」
「道場主です。拝郷といいます」
男が少し目を細めた。何かを考えている顔だった。
「拝郷、と言いましたか」
「そうです」
男がポケットに手を戻した。それから、ビルの入り口から離れた。路地の方に向かって歩き始めた。靈はその背中を見た。
振り返らなかった。
男が見えなくなってから、靈は路地の叢雲スタッフに近づいた。
「今の男を、確認できましたか」
「できました。写真を撮っています」スタッフが答えた。「雨森に送ります」
「他に、人はいますか」
「現時点では確認していません。ただ、ビルの裏に一名、さっきまでいました。今は見えません」
靈は少し止まった。
二名、確認した。もし倉敷の情報通り三名から五名なら、まだいる。
スマートフォンが鳴った。雨森からだった。
「今の男の身元が確認できました。大正義の末端構成員です。過去に川口で補導歴があります」
「今日の動きを、止められますか」
「難しいです」雨森の声が少し低くなった。「証拠がない状態で、行動前に拘束することは叢雲の権限ではできません。警察も同様です」
「では、今日は何ができますか」
「存在を見せることです」雨森は続けた。「スタッフが周辺にいること、監視されていることを相手に知らせる。それが最大の抑止になります」
ビルの入り口を見た。
「議員本人は、今日事務所にいますか」
「います。会合は午後三時までの予定です」
「三時まで、私もここにいます」
三時まで、大きな動きはなかった。
路地の向こうで、また別の人間を一名、叢雲スタッフが確認した。靈には見えなかった。ただ、スタッフが視線を向けた方向を、靈は確認した。
午後二時四十分頃、ビルの裏の路地で音がした。
大きな音ではなかった。ただ、何かが倒れる音だった。
靈は路地に向かった。
角を曲がると、男が二人いた。
一人は叢雲のスタッフだ。もう一人は、知らない男だった。二十代から三十代、黒いジャケットを着ている。スタッフが壁に押しつけられていた。男がスタッフの胸倉をつかんでいた。
靈は男の背後に、三歩で移動した。
零の型の最初の動作。重心を落とし、摺り足で、気配を消す。
男が振り返った。
靈は木刀を垂直に持ったまま、男の目を見た。構えていない。ただ、そこにいる。
男の目が、木刀と靈を行き来した。
スタッフの胸倉から手が離れた。
「何者ですか」男が言った。
「道場主です」靈は答えた。「今日、この辺りに用はありません。帰ってください」
男が靈を見た。
路地の向こうから、叢雲のスタッフがもう一名来るのが見えた。男もそれを見た。
男は舌打ちをして、路地の奥に向かって歩いた。靈は男が見えなくなるまで、その背中を見ていた。
スタッフが壁から離れた。肩で息をしていた。
「大丈夫ですか」
「押されただけです。怪我はありません」スタッフは息を整えながら言った。「すみません。気づくのが遅れました」
「怪我がなければいい」
靈は路地を出た。
体の中を確認した。
心臓が少し速い。手のひらに、わずかに汗がある。
怖かった、ということだ。
ただ、木刀を構えなかった。構える必要がなかった、ではなく、構えないことを選んだ。
男がスタッフから手を離したのは、靈が構えなかったからかもしれない。あるいは、増援が来たからかもしれない。どちらが理由かは、わからない。
わからないまま、靈はビルの前に戻った。
三日前の夜、ナイフが出た瞬間のことを、また考えた。あのとき靈が現場にいたなら、木刀を構えていたか。
今日、構えなかった。
あの夜も、構えなかったか。
答えが出ないまま、靈は立っていた。
午後三時、会合が終わった。
松永議員がビルの一階に降りてきた。六十代の男性で、スーツを着ている。秘書らしき若い男が隣にいる。
議員が外に出てきたとき、靈と目が合った。
議員は靈の帯の木刀を見た。それから、叢雲のスタッフを見た。それから、また靈を見た。
何も言わなかった。
車に乗り込んで、去った。
靈はその車が見えなくなるまで、立っていた。
汚職に関わっている人間だ。移民の利権で金を動かしてきた人間だ。その人間を、今日靈は守った。
正しいことをしたのか、という問いが、車が消えた後に来た。
守るべき人間が誰かを決める権限が、靈にはない。ただ、今日この場所に来て、過激派の動きを少し遅らせることはできた。
それが何かを意味するかどうかは、まだわからなかった。
帰り道、雨森からメッセージが来た。
「今日の件、お疲れ様でした。路地での対応、スタッフから報告を受けました。木刀を構えなかったそうですね」
歩きながら返信した。
「構える必要があったかどうか、まだわかりません」
「ただ、スタッフを助けていただいた」
「たまたまそこにいただけです」
少し間があって、雨森から返信が来た。
「松永議員から、叢雲に連絡が来ました。今日の件を受けて、警護を依頼したいと言っています」
少し止まった。
「依頼を受けますか」
「受けます。ただ、条件をつけます。利権の件について、内部告発に協力すること。それが条件です」
「叢雲が、そういう条件をつけられますか」
「私が、つけました」雨森の返信は短かった。「本社の判断がどうなるかは、これからです」
道場に戻ったのは、夕方だった。
板の間に入って、木刀を壁に戻した。
手のひらをテーブルについて、少し前かがみになった。
今日、木刀を使わずに済んだ。
ただ、男がもし武器を持っていたら。スタッフが複数を相手にしていたら。靈が気づくのがもう少し遅れていたら。
話で止められなかったかもしれない。零の型で止められなかったかもしれない。
そのとき、靈に何ができたか。
木刀を構えることが、一つの答えだ。
ただ、木刀を構えることは、暴力の始まりでもある。靈が構えれば、男も構える。どちらかが先に打てば、誰かが傷つく。
今日は、構えなかった。それで止まった。
次は、止まらないかもしれない。
靈は体を起こした。
零の型を始める前に、一度だけ道場に礼をした。
首の後ろをさらす。この場所への誠意。
今日、木刀を使わずに済んだことへの、かすかな安堵と、それで良かったのかという問いが、同時にあった。
両方を抱えたまま、靈は型を始めた。
型を終えてから、靈は倉敷にメッセージを送った。
「今日、事務所周辺で大正義の構成員と思われる人物を確認しました。大きな動きには至りませんでしたが、まだ今週中は続く可能性があります。過激派を止めるために、内側からできることはありますか」
返信はすぐに来なかった。
靈は待った。
二時間ほどして、短いメッセージが来た。
「動いてみます。ただ、約束はできません」
それだけだった。
靈はスマートフォンを置いて、本棚の前に立った。
「武士道と日本人」を引き出した。栞が挟んであったページを開いた。
「義なき勇は、ただの暴力である」
靈はその一文を見た。
今日、勇があったかどうかはわからない。ただ、義があったかどうかも、まだわからない。
汚職議員を守った。その議員が動かしてきた金が、移民の住居利権を通じて、叢雲にも流れていた可能性がある。その構造の中で、今日靈は動いた。
何かを守ろうとした。ただ、守った先に何があるかが、まだ見えていない。
本を閉じた。
板の間に戻り、正座した。
今日一日を、もう一度頭の中で通した。
終わりが来るまで、零の状態でいる。始まる前の、全部の可能性がある場所で、待つ。
それが今の靈にできることだった。




