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壱億総抜刀  作者: るふな


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第21話 「雨森の条件」

倉敷からメッセージが来たのは、翌朝だった。

 靈が朝の型を終えて、白湯を飲んでいるところに届いた。

「過激派を、止めました」

 それだけだった。

 靈はメッセージを三度読んだ。どう止めたのか、何人が関わったのか、今後はどうなるのか——何も書いていない。ただ、止めた、という事実だけがある。

 雨森に転送した。

 返信は五分もしないうちに来た。

「確認します。今日は赤口ですが、内容が内容なので午後に伺っていいですか」

「どうぞ」


 午後二時に雨森が来た。

 板の間に座ると、今日は薄いファイルを一冊持っていた。タブレットではなく、紙の書類だ。靈は茶を淹れながら、そのファイルを見た。表紙に何も書いていない。

「倉敷さんの件、確認できました」雨森はファイルをすぐには開かずに、膝の上に置いた。「過激派の中心にいた二名が、昨夜のうちに川口を離れています。倉敷さんが直接説得したのか、別の方法を使ったのかは不明です。ただ、今週中の動きは、これで止まったと叢雲は判断しています」

「松永議員への脅威は、消えましたか」

「今週は、です」雨森はうなずいた。「ただ、過激派の行動が止まったのは一時的な可能性があります。倉敷さんの組織内での立場が今後どうなるかによって、状況は変わります」

 靈は茶碗を持ちながら、少し考えた。

「倉敷さんが止めた、ということは、組織内でまだ一定の力がある」

「そうです。ただ、力を使ったことで、さらに立場が難しくなるかもしれません」


「本題に入ります」雨森はファイルを開いた。「叢雲の利権構造について、わかった範囲をお伝えします」

 靈は茶碗を置いた。

「叢雲セキュリティは、設立当初から川口市との間で複数の業務委託契約を結んでいます」雨森は書類を一枚、靈の前に向けた。「その中の一つに、外国人住民の生活支援に関する情報提供業務があります。移民が住居を探す際に、叢雲が情報を提供する。その対価として、市から委託費が支払われる」

「それ自体は問題ではない」

「問題はその先です」雨森は続けた。「情報を提供する先の住宅業者の中に、叢雲の関連会社が含まれています。移民を関連会社に誘導することで、業者から叢雲に手数料が入る。さらにその業者が、松永議員に政治献金を流している」

 靈は書類を見た。数字が並んでいた。金額と、日付と、会社名だ。

「これは、叢雲の公式な記録ですか」

「一部は公式の記録です。一部は、私が独自に確認したものです」雨森は靈を見た。「正確に言えば、叢雲の経理記録にアクセスできる権限を持つ人間に、協力してもらいました」

「社内に、協力者がいるんですか」

「います」雨森はうなずいた。「私と同じように、叢雲の内部に疑問を持っている人間が、複数います」


 靈はしばらく書類を見ていた。

 数字が示している構造は、単純だった。移民が来る。住居を探す。叢雲が業者を紹介する。業者が儲ける。献金が政治家に流れる。政治家が移民政策を推進する。移民が来る——循環している。

「叢雲の本社は、この構造を知っていますか」

「知っていると思います」雨森は答えた。「知った上で、関与してきた可能性が高い」

「雨森さんは、知らなかった」

「知りませんでした」雨森は少し間を置いた。「信じてもらえるかどうかはわかりません。ただ、事実として、私がこの構造を把握したのは、今回の件がきっかけです」

 靈は雨森を見た。

 嘘をついているようには見えなかった。ただ、嘘をついている人間がわかるほど、靈は人間を読む訓練をしていない。

「信じます」靈は言った。「信じることと、確認することは別なので、確認はします。ただ、今日あなたが話しに来たこと自体を、嘘だとは思っていない」

 雨森がわずかに目を細めた。

「ありがとうございます」


「松永議員への警護条件として、内部告発への協力を求めた」靈は続けた。「本社の反応は」

「想定通りでした」雨森はファイルを閉じた。「条件を撤回しろ、という指示が来ました」

「従いましたか」

「従っていません」

 靈は少し止まった。

「叢雲の中で、あなたの立場はどうなりますか」

「厳しくなります」雨森は淡々と言った。「ただ、条件を撤回すれば、この構造はそのまま続く。それは、廃社になった神社の代わりに叢雲に入った理由と、矛盾します」

「矛盾を解消するために、条件を維持すると」

「そうです」

 靈はしばらく雨森を見た。

 廃社になった神社の話を、雨森が最初にしたのは、旧暦正月の前夜だった。明日に備えて話しておきたかったのだろう、という靈の判断は、おそらく正しかった。あのとき雨森は、この先に何が来るかをある程度見えていた。

「私に、何かできることはありますか」靈は言った。

「できることを、すでにしてもらっています」雨森はうなずいた。「昨日、事務所周辺で動いたこと。書類を見たこと。今日の話を聞いたこと」

「それだけでは足りない気がします」

「足りないかもしれません」雨森は少し間を置いた。「ただ、今日は足りないことを確認することも、必要な作業です」


 雨森が帰った後、きゃるんが来た。

 今日は稽古の日だった。道場に入ると、靴を揃えてから板の間に進んだ。この動作は、最初の稽古から一度も崩れていない。

「今日は何をやりますか」木刀を受け取りながらきゃるんが聞いた。

「先週の続きです」靈は答えた。「素振りの型、三種類を通してから、持ち方の確認をします」

 きゃるんはうなずいて、板の間の中央に立った。

 足を肩幅に開き、重心を均等にかける。膝を緩める。肩を落とす。最初の稽古から数ヶ月経って、立ち方は別人のように変わっていた。

 素振りを始めた。

 一種類目。垂直に上げて、真っ直ぐ下ろす。最初の頃は手首が折れていたが、今は木刀が体の延長として動いている。

 二種類目。斜め四十五度の軌道。肩の動きが以前より柔らかくなっていた。

 三種類目。横に払う動作。これが一番難しい。体の軸が崩れやすい。

 靈は黙って見ていた。

 三種類通して、靈は一点だけ指摘した。

「三種類目の終わりで、左足が動いています。意識していますか」

「していませんでした」きゃるんは自分の足を見た。「どうすればいいですか」

「終わりの形を、意識して固定する。始まりと終わりの形が決まれば、途中は自然に整います」

 きゃるんがもう一度やった。

 今度は左足が動かなかった。


 稽古を一時間続けてから、二人で板の間に座った。

 靈が茶を淹れると、きゃるんは両手で受け取った。この受け取り方も、変わった。最初の頃は片手で受け取っていた。

「今日、雨森さんが来ていましたね」きゃるんは湯呑みを持ちながら言った。「叢雲の話ですか」

「そうです」

「何か、大きなことになっていますか」

「なりつつあります」靈は答えた。「ただ、今日あなたに話せることは多くない。動きが固まってから話します」

「わかりました」きゃるんはうなずいた。それ以上は聞かなかった。

 靈はきゃるんを見た。

 数ヶ月前、空き家の玄関前で男たちに腕をつかまれていた少女だ。名前の漢字を持っていなかった。叢雲に仕事をもらい、健一と一緒に情報整理をし、神社の境内で石丸たちが来るのを待っていた。稽古も、約束した通り週に一度来続けている。

「一つ聞いていいですか」靈は言った。

「なんですか」

「居合を続けている理由は、今も最初と同じですか」

 きゃるんは少し考えた。

「最初は、何かできるようになりたかったからです」きゃるんは湯呑みを見たまま言った。「神社で、役に立ちたかった。あのとき、道場主さんが木刀を持って立っていたのを見て、ああいうふうになれたらと思った」

「今は」

「今は」きゃるんは少し止まった。「少し違います」

「どう違いますか」

「木刀を持って何かをしたいというより」きゃるんは顔を上げた。「礼をすることが、変わってきた気がします」

 靈は返事をしなかった。続きを待った。

「最初は、首の後ろをさらすって怖い感じがしていました。でも今は、その怖い感じがちょっと違ってきた。怖いんだけど、さらしたいというか。信頼を示したくて、自分からさらしている感じです」

 靈はその言葉を、少し頭の中に置いた。

「それは」靈は言った。「礼が体に入ってきているということです」

「体に入る、というのは」

「知識として知っているのではなく、体がそれを必要としている状態です」靈は続けた。「形より先に、意味が体に来ている。それは、続けてきた結果です」

 きゃるんが少し目を丸くした。

「褒めてもらえることって、あまりないんですが」

「褒めているのではなく、確認しています」靈は答えた。「ただ、確認した結果が、そういうことだということです」


 きゃるんが帰り際、靴を履きながら振り返った。

「道場主さん、一つ聞いてもいいですか」

「なんですか」

「呼び方を変えてもいいですか」きゃるんは少し躊躇いながら言った。「道場主さんって呼んでいましたけど、なんか違う気がしてきて」

「何に変えるつもりですか」

「師匠、と呼んでもいいですか」

 靈は少し止まった。

 師匠、という言葉の重さを、靈は考えた。

 親父から口伝で受け取った技を、十五年誰にも渡さなかった。門下生をひとりも持たなかった。それが今、きゃるんに少しずつ渡しつつある。

 師匠と呼ばれることが、正しいかどうかは、まだわからない。ただ、きゃるんが礼の意味を体で覚えた。素振りの形が整ってきた。それは事実だ。

「好きに呼んでいいです」靈は答えた。

「じゃあ、師匠にします」きゃるんは少し笑った。「なんか、しっくりくる気がして」

 引き戸を閉めて、路地に出ていった。

 靈は閉まった引き戸を少し見た。

 師匠、か。

 道場を継いで十五年。その言葉を受け取ったのが、この歳になってからというのは、間が抜けている気もした。ただ、間が抜けているからといって、重さが変わるわけでもない。


 夜になって、靈は本棚の前に立った。

 「武士道と日本人」を引き出して、新渡戸稲造の章を開いた。

 師弟の関係について書かれた箇所があった。

「師は弟子に技を伝えるにあらず。生き方を伝える。弟子は師の技を学ぶにあらず。師の在り方から学ぶ。技は道具にすぎず、道具を使う人間がいかにあるべきかを示すことが、師の本義である」

 靈はその一節を、二度読んだ。

 技は道具にすぎない。

 きゃるんに教えているのは、素振りと礼の作法だ。それは技だ。ただ、きゃるんが今日言った言葉——礼をさらしたい、信頼を示したくてさらしている——それは技の話ではなかった。

 技の向こうにあるものが、きゃるんには見えてきている。

 それは、靈が意図して教えたことではない。ただ、稽古を続ける中で、きゃるんが自分で見つけた。

 師の在り方から学ぶ。

 靈の在り方が、何かを伝えているとしたら、それは何か。

 三十八歳になるまで、道場を惰性で続けてきた人間が、最近になってようやく動き始めた。その過程を、きゃるんは隣で見ている。

 それが師の在り方として正しいかどうかは、わからない。ただ、嘘のない在り方ではある、と思った。


 板の間に戻り、靈は木刀を手に取った。

 零の型を始める前に、道場に礼をした。

 首の後ろをさらす。この場所への誠意。

 きゃるんが言っていた。怖いんだけど、さらしたい。信頼を示したくて、自分からさらしている。

 靈は礼から戻して、型を始めた。

 摺り足で板の間を移動しながら、今日起きたことを整理した。

 倉敷が過激派を止めた。雨森が叢雲の利権構造を話した。条件を維持することで、雨森の立場が厳しくなっている。

 守るべきものが、少しずつ見えてきている。

 ただ、守り方がまだわからない。

 型を終えて、木刀を壁に戻した。

 スマートフォンを確認した。倉敷からは、それ以上の連絡はない。雨森からも、今夜は来ていない。

 静かな夜だった。

 靈は板の間に正座した。

 零の状態でいる。始まる前の、全部の可能性がある場所。

 ただ、零はいつまでも続かない。始まりが来る。

 その始まりに、靈がどう動くかは、まだ決まっていない。

 ただ、きゃるんが師匠と呼んだ。

 それが、何かを動かした気がした。重さとして、体の中に入ってきた。

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