第22話 「叢雲の均衡」
叢雲本社からの通告が来たのは、二日後だった。
雨森から連絡が来たのは朝の型を終えた直後で、今日は大安だと雨森が言った。大安に悪い知らせを持ってくることは、叢雲の習慣に反する。ただ、雨森の声はいつもより少し硬かった。
「今日、伺ってもいいですか。少し込み入った話があります」
「どうぞ」
午前十時に来た雨森は、今日もファイルを持っていた。前回より厚い。
板の間に向かい合って座ると、雨森はファイルを脇に置いて、先に口を開いた。
「本社から通告が来ました」
靈は茶を淹れながら待った。
「条件を撤回しなければ、川口支局の権限を縮小する、という内容です」雨森は続けた。「具体的には、巡回区域の削減と、スタッフの異動です。川口支局が現在管理している区域のうち、南部と東部が他の支局に移管される」
「それは、川口の治安にどう影響しますか」
「悪化します」雨森は断言した。「他の支局は川口の地理と住民構成を把握していない。引き継ぎには時間がかかる。その間、対応が遅れる場面が出ます」
靈は茶を雨森の前に置いた。
「本社は、それをわかった上で通告しているんですか」
「わかっています」雨森はうなずいた。「ただ、本社の優先順位は、川口の治安より叢雲の利権構造を守ることです。条件を撤回させることで、松永議員との関係を維持したい」
「雨森さんは、どうするつもりですか」
雨森はしばらく茶碗を見ていた。
「撤回しません」両手で茶碗を持ったまま、静かに言った。「ただ、撤回しない場合の影響を、拝郷さんに伝えておく必要がありました」
「影響というのは、川口の治安だけですか」
「もう一つあります」雨森はファイルを開いた。「健一さんから昨夜、報告が来ました」
ファイルからA4の紙を一枚取り出して、靈の前に向けた。
SNSの書き込みをまとめたものだった。健一の字で注釈が入っている。
「大正義の過激派が、新しい標的を定め始めています」雨森は靈を見た。「松永議員ではありません」
靈は紙を見た。
健一の注釈の中に、岩井剛という名前があった。
「岩井剛、というのは」
「現外務大臣です」雨森は続けた。「移民受け入れの国際協定を主導した人物で、大正義の標的リストの上位に長く入っていた名前です。今回、川口での活動が不発に終わったことへの反発から、より大きな標的に切り替えようとしている可能性があります」
靈は紙を持ったまま、少し考えた。
「外務大臣を標的にするのは、これまでの大正義の行動とは規模が違います」
「そうです」雨森はうなずいた。「地方議員や裁判官への処刑と、現役閣僚への攻撃では、意味が全く違う。政府も、組織も、そこには踏み込まないと見られていた。ただ」雨森は少し間を置いた。「倉敷さんの組織内での立場が弱まったことで、それを抑止していた力が機能しなくなっている可能性があります」
「倉敷さんは、把握していますか」
「おそらく把握していません。過激派は倉敷さんの監視下から外れている部分があります」雨森は続けた。「今回の動きは、倉敷さんが松永議員への行動を止めたことへの反発から来ている可能性があります。組織内で倉敷さんの立場をさらに弱めるために、より大きな行動を起こそうとしている」
靈は紙を置いた。
「川口支局の権限が縮小されれば、叢雲の情報収集能力も落ちる」
「そうなります。過激派の動きを追う目が、減る」
靈はしばらく、手元の紙を見ていた。
外務大臣。これは、これまでと次元が違う話だ。地域の揉め事でも、神社の調停でも、議員への警告でもない。現役閣僚への暴力は、国家規模の問題になる。
「警察や公安は、把握していますか」
「公安は動いていると思います」雨森は続けた。「ただ、大正義の組織は分散していて、全体の動きを把握するのは難しい。公安が川口の過激派の動きを把握しているかどうかは、不明です」
「叢雲は公安と連携していますか」
「していません」雨森の声がわずかに硬くなった。「叢雲と公安の間には、過去に摩擦があります。情報共有のルートが、正式には存在しない」
「非正式には」
「私のレベルでは、持っていません」
「もう一つ」雨森はファイルを閉じた。「叢雲としての問題があります」
「なんですか」
「岩井剛外務大臣と叢雲の間にも、接点があります」
靈は少し止まった。
「どういう接点ですか」
「移民受け入れの国際協定を進めた際、叢雲は政府の民間治安補完政策の整備に関わっています。叢雲が存在するための法的な枠組みを、岩井大臣が作った側にいる」雨森は静かに続けた。「叢雲が過激派の動きを公安に伝えれば、大臣を守ることになります。ただしそれは同時に、大臣との関係を強化することにもなる。松永議員との利権構造と同様の、別の利権関係をさらに深める方向です」
「伝えなければ」
「過激派が動いた場合、叢雲は情報を持っていながら黙っていたことになります」
靈はその構造を、頭の中で整理した。
伝えれば利権に加担する。伝えなければ暴力に加担する。どちらも、叢雲にとって汚れた選択だ。
「雨森さんは、どうするつもりですか」
雨森はしばらく茶碗を見ていた。
「伝えます」ゆっくりと顔を上げた。「利権の問題は、別の方法で対処します。ただ、人が死ぬことの方が、先に止めなければいけない」
「それは、正しいと思います」靈は言った。
「正しいかどうかは、わかりません」雨森は答えた。「ただ、これ以外の選択肢が見えない」
靈は少し考えた。
「倉敷さんに連絡します」靈は立ち上がった。「過激派の動きを、倉敷さんが把握して、内側から止めることができるかもしれない。公安が動くより先に」
「倉敷さんに連絡が取れる状況ですか」
「試みます」
雨森がうなずいた。
雨森が帰った後、靈はすぐに倉敷に電話した。
六度鳴って、繋がった。周囲に人がいる気配がした。
「拝郷です。今、話せますか」
「少しなら」倉敷の声は、前回より疲れていた。
「過激派が岩井剛外務大臣を標的にしています」靈は短く伝えた。「松永議員への行動が止まったことへの反発とみられています。把握していましたか」
短い沈黙があった。
「……知りませんでした」倉敷の声が変わった。「どこからの情報ですか」
「SNSの書き込みと、叢雲の分析です」
「岩井を、標的に」倉敷は独り言のように繰り返した。「誰が主導しているか、わかりますか」
「わかりません。把握できますか」
「確認します」倉敷は続けた。「ただ、私が動ける範囲が、前回より狭くなっています」
「わかっています。確認だけでも、お願いします。叢雲が公安に情報を伝える前に、内側から止められれば、それが一番いい」
「……わかりました」
電話が切れた。
その日の夕方、靈は八雲神社に向かった。
雨森との話が終わってから、しばらく考えていた。岩井剛大臣への暴力計画は、靈が直接関われる問題ではない。公安が動く話であり、倉敷が内側から止めようとしている話だ。靈にできることは、すでにやった。
ただ、叢雲の権限縮小が発効すれば、川口の警備体制が変わる。それは靈に直接関わる話だ。
鳥居の前で礼をしてからくぐった。
榊原が社殿の前の石畳を箒で掃いていた。健一がその隣で、スマートフォンを見ていた。靈が入ってくるのを見て、二人とも手を止めた。
「今日もですか」榊原が箒を持ったまま言った。「何かあるたびに来てくれるので、もう驚かなくなりました」
「驚かせないようにしたいんですが、なかなか」
「まあ、上がってください」
社務所に入って、三人で座った。
靈は叢雲の権限縮小について説明した。来週月曜日に発効すること。南部と東部の巡回区域が移管されること。引き継ぎの間、対応が遅れる場面が出ること。
榊原は黙って聞いていた。
健一が口を開いた。
「神社はどちらの区域ですか」
「東部に近い境界です」靈は答えた。「移管される区域に含まれる可能性があります」
「叢雲のスタッフが変わるということですか」
「スタッフが異動します。川口の事情を知らない人間が来る可能性があります」
健一がスマートフォンを操作した。地図を開いて、神社の位置と叢雲の区域境界を確認しているらしかった。
「境界線の内側ギリギリです」健一は画面を靈に向けた。「移管されるかどうか、微妙なラインです」
「叢雲に確認できますか」
「します。ただ」健一は画面を引いた。「移管されないとしても、周辺区域の体制が薄くなれば、影響は出ます」
榊原が静かに口を開いた。
「権限縮小の理由は何ですか」
靈は少し考えた。利権の話をどこまで伝えるか。
「叢雲の内部の問題です」靈は正直に言った。「詳しくはまだ話せません。ただ、川口の治安のためではなく、組織の都合で決まったことです」
榊原はしばらく黙っていた。箒を持ったまま、社務所の壁を見ていた。
「組織の都合」ぽつりと繰り返した。「それはどこも同じですな。神社の氏子だって、氏子の都合がある。自警団にも都合がある。叢雲にも都合がある」
「そうです」
「拝郷さんには、都合がありますか」
靈は少し考えた。
「あります」靈は答えた。「ただ、今は自分の都合より先に動いているものがある。それだけです」
榊原が靈を見た。何かを確認するような目だった。それから、箒を社務所の隅に立てかけた。
「具体的に、私たちにできることはありますか」健一が言った。
「情報の継続です」靈は健一を見た。「叢雲の体制が変わっても、SNSの分析は続けてください。大正義の動きを追う目は、今の健一さんが持っている情報の蓄積があります。それは叢雲のスタッフが替わっても、引き継げない部分です」
「続けます」健一はうなずいた。「今日も新しいアカウントを二つ特定しました。過去の投稿を遡っています」
「何か見えてきましたか」
「倉敷さんに対する批判が、最近の投稿で増えています」健一はスマートフォンを操作した。「松永議員の件で動きが止まったことへの不満が、組織の末端から出てきている。それが新しい標的の話とも繋がっています」
靈はその情報を、頭の中で整理した。
末端の不満。倉敷への批判。新しい標的。
組織が倉敷の制御から外れていく過程が、SNSの書き込みの変化として現れている。
「雨森さんに転送してください」靈は健一に言った。「公安への情報提供に、使えるかもしれません」
「わかりました」
社務所を出ると、境内に夕方の光が差していた。
靈は鳥居を見た。注連縄が風に揺れている。左から右へ、太い方から細い方へ。
榊原が横に来た。
「叢雲の体制が変わっても、拝郷さんは来てくれますか」
「来ます」
「それを聞いて、安心しました」榊原は鳥居を見た。「組織の都合で人が替わることには、慣れています。ただ、人と人の繋がりは、組織とは別のところにある」
靈はその言葉を、少し頭の中に置いた。
組織とは別の繋がり。
叢雲の権限が縮小されても、靈がここに来ることは変わらない。健一が情報を分析し続けることも変わらない。榊原が縄を張り替えることも変わらない。
組織の都合が、それを消すことはできない。
帰り道、靈は歩きながら倉敷にメッセージを送った。
「健一さんの分析で、組織末端の倉敷さんへの批判が増えていることが確認されました。新しい標的の話と繋がっている可能性があります。雨森さんに転送します」
しばらくして返信が来た。
「わかりました。今夜、動ける範囲で動きます」
靈はスマートフォンをしまった。
今夜、倉敷が動く。雨森が公安に情報を渡す。健一が分析を続ける。榊原が神社にいる。
靈には、今夜直接できることがない。
それが、今の靈の立場の限界だ。
ただ、限界の中で動いている人間が、複数いる。
靈はそれで十分かどうかを、まだ判断できなかった。
道場に戻ると、夜になっていた。
板の間に入り、木刀を手に取った。
零の型を始める前に、道場に礼をした。
首の後ろをさらす。この場所への誠意。
礼から戻して、型を始めた。
摺り足で板の間を移動しながら、今日起きたことを整理した。
叢雲本社の通告。川口支局の権限縮小。岩井剛大臣への暴力計画。倉敷の限界。雨森の決断。健一の分析。榊原の言葉。
守るべきものが、また別の形で現れた。
話すことができる。情報を伝えることができる。場所にいることができる。
ただ、それで止められないものが来たとき、どうするか。
その問いが、今夜は以前より具体的な形をしていた。
型を終えて、木刀を壁に戻した。
スマートフォンを確認した。倉敷からも、雨森からも、今夜これ以上の連絡はなかった。
静かな夜だった。ただ、水面下で何かが動いている夜でもある。
靈は板の間に正座した。
零の状態でいる。始まる前の、全部の可能性がある場所。
ただ、その可能性の中に、靈が今まで選んでこなかったものも、含まれている。
木刀を構えること。力で止めること。
まだ、その選択に踏み込んでいない。
ただ、踏み込まずにいられる時間が、どこかで終わるかもしれない。
その感覚が、今夜は以前より重かった。
夜になって、倉敷から返信が来た。
「確認しました。過激派の中に、岩井大臣を標的にしようとしている人間がいます。中心にいるのは一名で、複数を動かそうとしています。私の把握では、まだ計画の段階です。ただ、具体的な場所と日時を詰めている様子があります」
靈はすぐに返信した。
「止めることができますか」
しばらくして返信が来た。
「難しいです。私の言葉を聞く状況ではない。ただ、計画を遅らせることはできるかもしれません」
「叢雲が公安に情報を渡すことになります。それまでに、内側から何かできることがあれば」
「わかりました。動いてみます」
靈はその返信を見てから、雨森にメッセージを転送した。
「倉敷さんが動きます。ただ、限界があります。公安への情報提供は、進めてください」
雨森からの返信は短かった。
「了解しました。今夜、動きます」
靈は本棚の前に立った。
「武士道と日本人」を引き出して、新渡戸稲造の章を開いた。
師弟の関係について書かれた箇所にはしおりが挟んである。
「師は弟子に技を伝えるにあらず。生き方を伝える。弟子は師の技を学ぶにあらず。師の在り方から学ぶ。技は道具にすぎず、道具を使う人間がいかにあるべきかを示すことが、師の本義である」
靈はその一節を、血肉に馴染むように繰り返し読んだ。
きゃるんが以前言った言葉——礼をさらしたい、信頼を示したくてさらしている——それは技の話ではなかった。技の向こうにあるものが、きゃるんには見えてきている。
一方で、今夜倉敷が動いている。雨森が公安に情報を渡そうとしている。外務大臣を巡る暴力の計画が、水面下で動いている。
靈に今夜できることは、何もない。
ただ、明日に備えることはできる。
板の間に戻り、靈は木刀を手に取った。
零の型を始める前に、道場に礼をした。
首の後ろをさらす。この場所への誠意。
きゃるんが言っていた言葉が、もう一度頭を過ぎった。怖いんだけど、さらしたい。信頼を示したくて、自分からさらしている。
礼から戻して、型を始めた。
摺り足で板の間を移動しながら、今日起きたことを整理した。
叢雲本社の通告。川口支局の権限縮小。岩井剛大臣への暴力計画。倉敷の限界。雨森の決断。
守るべきものが、また別の形で現れた。
ただ、守り方の選択肢が、これまでより少ない気がした。
話すことができる。ただ、計画の段階にある暴力に、話がどこまで届くか。
型を終えて、木刀を壁に戻した。
スマートフォンを確認した。倉敷からも、雨森からも、今夜これ以上の連絡はなかった。
静かな夜だった。
ただ、水面下で何かが動いている夜でもある。
靈は板の間に正座した。
零の状態でいる。始まる前の、全部の可能性がある場所。
ただ、その可能性の中に、靈が今まで選んでこなかったものも、含まれている。
木刀を構えること。力で止めること。
まだ、その選択に踏み込んでいない。
ただ、踏み込まずにいられる時間が、どこかで終わるかもしれない。
その感覚が、今夜は以前より具体的な形をしていた。




