第23話 「公安の影」
雨森が公安に情報を渡した翌朝、道場に見知らぬ男が来た。
靈が朝の型を終えて白湯を飲んでいると、チャイムが鳴った。時刻は八時を少し過ぎていた。叢雲の雨森が来るには早すぎる。きゃるんでもない。
引き戸を開けると、四十代の男が立っていた。グレーのコートを着て、手に何も持っていない。靈の顔を見て、軽く頭を下げた。
「拝郷靈さんですか」
「そうです」
「少しお時間をいただけますか」男はコートの内ポケットから、折りたたんだ名刺を出した。「内閣情報調査室の者です」
靈は名刺を受け取った。
公安ではなく、内調だった。
板の間に通した。
男は座布団に座る前に、板の間の隅に視線を走らせた。木刀の本数、真剣の置き場所、出入り口の位置。習慣的な確認だ、と靈は思った。この動作が自然に出る人間は、いつもそういう目で部屋を見ている。
「西川と申します」男は座ってから名乗った。名刺に書いてあった名前と一致した。「昨夜、叢雲の雨森さんから情報提供がありました。拝郷さんがその情報の取りまとめに関わっているとのことで、直接お話を伺いに来ました」
靈は茶を淹れながら言った。
「叢雲と内調の間に、正式なルートはないと聞いていましたが」
「ありません」西川はうなずいた。「今回は非公式の接触です。雨森さんが個人として持ち込んだ情報を、個人として受け取りに来ました」
「それは、内調として動いているということですか。それとも個人としてですか」
西川は少し間を置いた。
「どちらでもあります」
茶を西川の前に置いた。西川は両手で受け取った。その受け取り方が、妙に自然だった。礼法を知っている人間の動きだ。
「岩井外務大臣への暴力計画について、内調はすでに把握していましたか」
「把握していました」西川は茶碗を持ったまま答えた。「ただ、川口の過激派グループの動きは、全体の把握に比べて情報が薄かった。昨夜の情報提供で、いくつかの空白が埋まりました」
「雨森さんが渡した情報の中に、私が直接関わったものがあるとしたら、どういう部分ですか」
「倉敷恒雄との接触履歴です」西川は靈を見た。「複数回、対話をされていますね」
靈は返事をしなかった。
「批判ではありません」西川は続けた。「内調として興味があるのは、倉敷さんが情報を外に出したという事実です。組織の外に情報を出すことを選んだ理由を、拝郷さんはどう見ていますか」
「倉敷さん自身に聞いた方が正確です」靈は答えた。
「倉敷さんとは、直接接触ができない状況です」西川は少し前に出た。「現在、組織内での立場が変わっていて、監視されている。我々が接触しようとすれば、それが過激派に伝わる可能性がある」
「私と話すことは、その問題を回避できますか」
「あなたとの接触は、すでに複数回あった事実があります。今日来たことが知られても、既存の動きの延長として見られる可能性があります」西川は静かに続けた。「あなたは今、複数の関係者の間に立っている。叢雲、倉敷さん、神社の氏子、地域の住民——それぞれと独立した関係を持っている。そういう立場の人間は、珍しい」
靈は少し考えた。
「珍しいことが、内調にとって有用だということですか」
「そうです」
「私に、何を求めていますか」
西川は茶碗を置いた。
「倉敷さんへの伝言を、一つだけお願いしたい」
「内容は」
「計画の中心にいる人物の名前が、こちらで特定できています」西川は続けた。「倉敷さんにその名前を伝えれば、内側から止めることができるかもしれない。ただ、我々が直接伝えることはできない」
「なぜですか」
「その人物は、過去に倉敷さんと別の件で連絡を取ったことがあります。内調がその名前を知っているとわかれば、組織全体が警戒し、別の動きに切り替える可能性があります」
靈は少し間を置いた。
「私を通せば、内調の関与が見えにくくなる、ということですか」
「正確にはそうです」
「それは、私を利用することです」
「そうです」西川は目を逸らさなかった。「利用する、という言葉を使うことにします。それが正確だから」
靈はしばらく黙っていた。
窓の外に、川口の朝が広がっている。
西川は正直だ、と靈は思った。利用すると言った。隠さなかった。それが戦術なのか、それとも本当に正直な人間なのか、靈には判断できなかった。
「倉敷さんが、その名前を聞いて動けるかどうか、わかりません」靈は言った。「今の倉敷さんの状況を、正確に把握していますか」
「把握しています。組織内での立場が弱まっていて、動ける範囲が狭い。それでも、内側からの働きかけが最も効果的だという判断です」
「効果がなかった場合は」
「別の手段を使います」西川は答えた。「ただ、別の手段を使えば、倉敷さんの立場がさらに危うくなる可能性があります」
「倉敷さんを守ることが、内調の方針ですか」
「倉敷さんが情報を外に出したことは、評価しています」西川は少し間を置いた。「それだけです」
靈は立ち上がって、窓の外を見た。
倉敷が情報を外に出した。三田先生に会いに行った。過激派を止めようとした。それが、今の倉敷の状況を作っている。
靈が伝言を運ぶことで、倉敷が動けるかもしれない。ただ、動いた結果として倉敷が組織の中でさらに孤立するかもしれない。
利用される、ということは、自分が道具になるということだ。
道具になることが、今の状況で正しいかどうか。
「伝言の内容を、先に聞かせてください」靈は西川に向いた。「その上で判断します」
西川は少し靈を見た。それから、コートの内ポケットから折りたたんだ紙を出した。
「人名と、その人物が計画に関わっている証拠の概要です」西川は靈に渡した。「倉敷さんに口頭で伝えていただければ十分です。紙は返していただければ」
靈は紙を開いた。
人名が一つ。靈には聞き覚えがなかった。その下に、その人物が過去に起こした暴力事件の記録が簡潔にまとめられていた。
靈は紙を閉じて、西川に返した。
「伝えます」靈は言った。「ただし、倉敷さんに内調から来た情報だということは、伝えます。隠しません」
西川が少し止まった。
「それは、我々が想定していた形とは違います」
「わかっています」靈は答えた。「ただ、私が倉敷さんに何かを伝えるとき、出所を隠すことはできません。それをやれば、倉敷さんとの信頼が壊れます。信頼が壊れれば、伝言を渡す意味がない」
西川はしばらく靈を見ていた。
「……わかりました」ゆっくりと言った。「その条件で、お願いします」
西川が帰った後、靈はすぐに雨森に電話した。
「内調の西川という人間が来ました。あなたが情報を渡した翌朝に」
雨森は少し間を置いた。
「来ましたか」
「知っていましたか」
「昨夜、情報を渡した後で、西川さんから折り返しがありました。拝郷さんに接触するかもしれないと言っていましたが、こんなに早いとは思っていませんでした」
「内調と叢雲の間には、摩擦があると言っていました」
「あります」雨森は答えた。「ただ、今回は個人と個人の接触です。組織と組織ではない。そこに、雨森椿という個人が入った」
「それは、あなたが意図していたことですか」
また少し間があった。
「半分は」雨森の目はまっすぐ靈を見ていた。「叢雲として公安に情報を渡すことはできない。ただ、個人として内調に渡すことは、できる。その隙間を使いました」
「私も、その隙間に入れられた」
「そうなります。申し訳ありません」
靈は少し考えた。
「謝罪は不要です」靈は言った。「ただ、確認したかった。あなたが意図していたことを」
その日の昼過ぎ、靈は倉敷に電話した。
八度鳴って、繋がった。
「拝郷です。今日、内調の人間が来ました」
短い沈黙があった。
「内調が」倉敷の声が低くなった。「どういう用件で」
「伝言を頼まれました。岩井大臣への計画を主導している人物の名前です」靈は続けた。「内調から来た情報だということを、あなたに正直に伝えた上で、名前を教えることにしました」
「……わかりました。聞きます」
靈は西川から聞いた名前を、そのまま伝えた。
倉敷は黙っていた。
長い沈黙だった。靈は待った。
「知っている名前です」倉敷はゆっくりと言った。「その人間が中心にいるとは、思っていなかった」
「止めることができますか」
「……試みます」
「内調が動いていることは、組織に知られますか」
「知られる可能性があります」倉敷は続けた。「ただ、内調が動く前に止めることができれば、それが一番いい。わかりました」
電話が切れた。
夕方、きゃるんからメッセージが来た。
「師匠、今日叢雲で変な話を聞きました。内調の人が川口に来たって。何か知ってますか」
靈は返信した。
「今朝、道場に来ました」
「え、師匠のところに直接来たんですか」
「来ました」
少し間があって、返信が来た。
「大丈夫ですか」
靈は少し考えてから返信した。
「大丈夫です。ただ、今日は一日面倒でした」
「面倒、って言えるなら大丈夫ですね」
きゃるんらしい返しだった。靈は少し笑いそうになった。
夜、倉敷からメッセージが来た。
「その人物と話しました。計画の詳細を把握しました。止める方向で動いています。ただ、完全に止められるかどうかは、まだわかりません」
靈はすぐに返信した。
「わかりました。内調に伝えていいですか」
「構いません」
靈は西川の名刺に書かれた番号にメッセージを送った。
「倉敷さんが動いています。止める方向とのことです」
西川からの返信は短かった。
「把握しました。ありがとうございます」
それだけだった。
靈は本棚の前に立った。
「武士道と日本人」ではなく、今日は古事記の現代語訳を引き出した。
スサノオが出雲でヤマタノオロチを退治する箇所を、もう一度開いた。
スサノオはヤマタノオロチを退治するために、酒を使った。力で正面から戦ったのではない。策を使った。約束を作り、場を整え、相手が来るのを待った。
力で止めることと、場を整えて止まるのを待つことは、別のことだ。
今日、靈がやったことは、場を整えることだった。伝言を運んだ。出所を明かした。条件を提示した。
それは、武器を使わない戦い方だ。ただ、武器を使わないことが、常に正しいとは言えない。
靈はその問いを、今夜も抱えたまま本を閉じた。
板の間に戻り、木刀を手に取った。
零の型を始める前に、道場に礼をした。
首の後ろをさらす。今日、内調の西川に向かっても、同じ姿勢で話した。出所を明かす、という条件を出したとき、首をさらしたのかもしれない。倉敷に内調の話だと正直に言ったときも。
信頼は、さらすことで成立する。
礼から戻して、型を始めた。
摺り足で板の間を移動しながら、靈は今日一日を整理した。
内調の接触。雨森の隙間の使い方。倉敷への伝言。それぞれが、靈の知らない場所で繋がっている。
靈には、全体が見えていない。
ただ、自分が立っている場所と、自分がやったことの意味は、今夜の型の中で確認できた。
型を終えて、木刀を壁に戻した。
スマートフォンを見た。
倉敷からも、雨森からも、西川からも、今夜これ以上の連絡はなかった。
靈は板の間に正座した。
零の状態でいる。
ただ、今夜の零には、昨夜より少し多くのものが入っている気がした。伝言を運んだこと。条件を出したこと。信頼をさらしたこと。
それが何を生むかは、まだわからない。
ただ、零の状態に、動いた記憶が残っている。
それが今夜の、靈にできたことだった。




