第24話 「倉敷の代償」
倉敷から連絡が来たのは、三日後の朝だった。
今回はメッセージではなく、電話だった。朝の型を終えて白湯を飲んでいると、画面に倉敷の番号が出た。
「拝郷です」
「計画を、止めました」
倉敷の声は、これまでで一番疲れていた。かすれているというより、何かが抜けた声だった。
「中心にいた人物と、直接話しました」倉敷は続けた。「内調が把握していることを伝えました。それが効いた。計画は中止になりました」
「それは、あなたが内調の情報を持っていることが、組織に知られたということですか」
「知られました」
靈は少し止まった。
「組織内での立場は」
「失いました」倉敷は短く言った。「昨夜、組織の幹部会から通告が来ました。倉敷恒雄の首班としての権限を停止する、という内容です」
靈は電話を持ったまま、しばらく板の間を見た。
首班の権限停止。
大正義という組織の中で、倉敷が持っていた力が、公式に失われた。
「今、安全な場所にいますか」靈は聞いた。
「今のところは」倉敷は答えた。「ただ、一人でいる時間が増えています。周りにいた人間が、少なくなった」
「会えますか」
「会いたいと思っていました」倉敷の声に、少し力が戻った。「場所を指定してもらえますか。今回は、あなたに任せます」
靈は雨森に連絡した。
「倉敷さんが組織内の権限を失いました。会いたいと言っています。安全に会える場所を、叢雲で確保できますか」
雨森からの返信は早かった。
「把握しました。場所を用意します。ただ、一つ確認させてください。内調の西川さんには、この件を伝えますか」
靈は少し考えた。
「伝えます。ただし、会話への同席は断ります。今回は、倉敷さんと私の話です」
「わかりました。場所が決まったら連絡します」
続けて西川にもメッセージを送った。
「倉敷さんが組織の権限を失いました。会うことになりますが、今回は私と倉敷さんの場のみとします。内調としての関与は、今回はお断りします」
西川からの返信は短かった。
「了解しました。倉敷さんの安全を確認していただければ、それで十分です」
雨森が場所を決めたのは、翌日だった。
「川口から少し離れた、叢雲の管理物件があります。普段は使っていない事務所スペースです。今日は大安です。午後二時はいかがですか」
「大丈夫です」
「周辺の安全確認は、叢雲のスタッフが行います。ただ、建物の中には入りません」
「ありがとうございます」
靈は倉敷に場所と時間を送った。
返信は一言だった。
「行きます」
指定された場所は、川口から電車で二十分ほどの古いビルの一室だった。
エレベーターのない四階建てで、靈が階段を上がると、廊下の突き当たりに倉敷が立っていた。
コートを着て、両手を前で組んでいる。蕎麦屋で会ったときより、明らかに体が小さく見えた。背中が少し丸くなっている。
靈を見て、頭を下げた。
「来てくれてありがとうございます」
「どうぞ」靈は部屋の鍵を開けた。
六畳ほどの部屋だった。
テーブルが一つ、折り畳みの椅子が二脚。窓から川口の方向が見えた。靈は持ってきた保温ボトルから茶を二つの紙コップに注いで、倉敷の前に置いた。
倉敷は紙コップを両手で持った。
「三田先生に、会ってきました」
靈は少し止まった。
「いつですか」
「先週です。公園に行ったら、いました。鳩に餌をやっていた」
「話せましたか」
「話しました」倉敷は紙コップを見たまま続けた。「三十分ほど、並んで座っていました。先生はほとんど何も言いませんでした。わしが話して、先生が聞いていた」
「何を話しましたか」
「これまでのことを、全部」倉敷の声が少し変わった。「始めた理由から、変わっていった経緯から、今に至るまで。全部話しました」
「三田さんは、何と」
「最後に一つだけ言いました」
倉敷は紙コップを置いた。
「よく話してくれた、と」
靈は返事をしなかった。
窓の外に、川口の街が見えている。倉敷もその方向を見ていた。
「先生が生きていたことを、もっと早く知っていれば」倉敷はゆっくりと言った。「どうなっていたかは、わかりません。ただ、違っていたかもしれない、とは思います」
「三田さんは、あなたが変わっていく間、ずっと見ていたと言っていました」靈は言った。「止められないと思って、あなたが自分で気づく日を待っていたと」
「そう言っていましたか」
「そう言っていました」
倉敷はしばらく黙っていた。
「先生らしい」ぽつりと言った。「あの人は、いつもそういう待ち方をする。何かを押しつけない。ただ、そこにいる」
「組織はこれからどうなりますか」靈は聞いた。
「わかりません」倉敷は答えた。「私が権限を失ったことで、誰かが後を継ぐか、組織が分散するか。過激派がより独立した動きをするか。どれかでしょう」
「岩井大臣への計画は、今回止まりました。ただ、次の計画が出てくる可能性がある」
「あります」倉敷はうなずいた。「私が止められなくなった以上、内側からの抑止は機能しにくくなります」
「そのことを、内調は把握しています」靈は続けた。「あなたが情報を提供したことも、評価していると言っていました」
倉敷が少し表情を動かした。
「内調が評価する、とは言いにくい立場ですが」
「そうかもしれません」靈は答えた。「ただ、事実として伝えました」
「拝郷さん」倉敷が靈を見た。「一つ聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「あなたは、これからどうするつもりですか」
靈は少し止まった。
自分への問いが来た。倉敷が靈に問いを向けるのは、初めてだった。
「どういう意味ですか」
「川口で、あなたがやってきたことがあります」倉敷は続けた。「神社の調停、灯籠流し、鳥居の前に立つこと、私との対話——それは、誰かに頼まれたことですか」
「一部は叢雲に頼まれました。一部は、自分で動きました」
「自分で動いた部分は、なぜ動きましたか」
靈は少し考えた。
「道場主なので、という言葉を最初に言いました」靈は答えた。「今も、それと大きくは変わっていません。ただ、道場主という言葉の意味が、少し変わってきているかもしれない」
「どう変わりましたか」
「最初は、場所の責任者、という意味でした」靈は続けた。「今は、繋ぐ役割の人間、という意味に近くなっています。曾祖父がつけた名前の意味と、同じかもしれない」
「繋ぐ」倉敷はその言葉を繰り返した。「あなたは、わしと三田先生を繋いだ。わしと石丸を繋いだ。叢雲と内調を繋いだ」
「結果的にはそうです。意図していたかどうかは、別の話です」
「わしは、これからどうすればいいですか」
倉敷の声が、少し変わった。答えを求めている声だった。これまでの倉敷の声とは、種類が違う。
靈は少し間を置いた。
「私には、答えられません」
「わかっています」倉敷は続けた。「ただ、聞きたかった」
「一つだけ言えることがあります」靈は倉敷を見た。「三田さんが待っていたように、あなたも待てる人間だと思います」
「待つとは」
「あなたが最初に持っていたものを、もう一度取り戻すために、時間をかけて待つということです」靈は続けた。「最初の講演で言っていたことを、読みました。知ることが取り戻すことの始まりだ、と言っていた。その言葉は、今も正しいと思います」
「今は、知ることより、失ったことの方が大きい」
「そうかもしれません」靈はうなずいた。「ただ、失ったことで、見えてきたものもあるはずです。三田さんに三十分話したことも、その一つかもしれない」
倉敷はしばらく、窓の外を見た。
「大和魂の話を、最初にメッセージで書いたのを覚えていますか」倉敷が言った。
「覚えています」
「あなたに会いたかった理由の一つに、その言葉をどう受け取るかを確認したかった、というのがありました」倉敷は続けた。「あなたは、物事の道理を知り、その場に応じた判断をする感性、という意味で受け取っていた」
「そうです」
「わしは、長い間それを間違えていました」倉敷は靈を見た。「怒りで動くことを、大和魂と呼んでいた。そうではなかった」
「言葉の意味が、変わっていった、と以前言いました」靈は答えた。「ただ、変わったのは言葉ではなく、使う人間の側だったかもしれません」
「そうかもしれません」
帰り際、倉敷は靈に向かって頭を下げた。
蕎麦屋で別れたときより、深い角度だった。
「ありがとうございました」
靈も頭を下げた。
「また、話しましょう」靈は言った。
「会ってもらえますか、また」倉敷が顔を上げた。
「会います」
倉敷が階段を降りた。靈は廊下から、倉敷の背中が見えなくなるまで見ていた。
背中が、以前より少し小さい。ただ、足取りは前より落ち着いていた。
道場に戻ったのは、夕方だった。
雨森にメッセージを送った。
「倉敷さんと話しました。安全は確認しています。組織の権限を正式に失ったことも、本人から確認しました」
「把握しました」雨森からすぐに返信が来た。「今後の倉敷さんの動向は、引き続き確認します。お疲れ様でした」
続けて西川にもメッセージを送った。
「倉敷さんは安全です。組織の権限を失い、今後は独立した立場になります。過激派の動きについては、倉敷さんの内側からの抑止は機能しにくくなると思います」
西川からの返信は少し遅かった。
「報告ありがとうございます。今後の過激派の動向については、別のルートで追います。拝郷さんのご協力に感謝します」
きゃるんからメッセージが来た。
「師匠、今日倉敷さんに会ったって雨森さんから聞きました。どうでしたか」
「疲れました」靈は返信した。
「面倒でしたか」
「面倒とは少し違いました」
「どう違いましたか」
靈は少し考えてから返信した。
「重かった。ただ、持てる重さでした」
しばらくして返信が来た。
「師匠がそう言うなら、大丈夫ですね。来週の稽古、行きます」
「来てください」
夜、靈は板の間に座った。
木刀を手に取る前に、今日の倉敷の言葉を頭の中に通した。
これからどうするつもりですか、という問い。
靈は「繋ぐ役割の人間」と答えた。それが今の靈の答えだ。
ただ、繋ぐことにも限界がある。繋いだ先で、暴力が起きることを止められない場面が来るかもしれない。
倉敷が組織の権限を失った。過激派への抑止が機能しなくなる。それは、話だけでは止められないものが来る可能性が高まった、ということでもある。
靈は木刀を手に取った。
零の型を始める前に、道場に礼をした。
首の後ろをさらす。今日も、倉敷の前でさらした。答えられないことを正直に言い、答えられることだけを言った。
礼から戻して、型を始めた。
摺り足で板の間を移動しながら、靈は一つの感覚を確認した。
話で止められないものが来たとき、どうするか。
この問いが、今夜初めて、問いではなく課題として感じられた。
答えを出す必要がある。いつか、出さなければいけない。
型を続けながら、靈は板の間の隅に置かれた真剣の鞘を見た。
今年、まだ抜いていない。
型を終えた。木刀を壁に戻した。
真剣の鞘に近づいた。手を伸ばした。
触れた。鞘の木の感触が、手のひらに来た。
ただ、今夜は抜かなかった。
手を離した。
まだ、今夜ではない。
ただ、今夜、触れた。それは昨日までなかったことだ。




