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壱億総抜刀  作者: るふな


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第25話 「石丸の来訪」

石丸が道場に来たのは、倉敷と会った五日後の夕方だった。

 チャイムが鳴ったとき、靈は板の間で親父の本を読んでいた。予告なしの来訪だ。引き戸を開けると、石丸が立っていた。コートを着て、右手に紙を一枚持っている。

「突然すみません」石丸は頭を下げた。「連絡先を知らなかったので」

「どうぞ」

 靈は石丸を板の間に通した。


 向かい合って座ると、石丸はすぐに紙を靈の前に置いた。

 A4の紙だった。プリントアウトしたものではなく、手書きに近いフォントで印刷されている。組織の内部文書のような体裁だ。

 靈は紙を手に取った。

 読み進めながら、靈は表情を動かさないようにした。

 文書には、組織名があった。「大正義」ではなく、別の名前だ。「皇道護民連合」とある。設立宣言の文体で書かれていて、大正義から分派した組織だということが冒頭に明記されていた。

 宣言の内容は、大正義の方針では手ぬるいというものだった。腐敗した政治家や裁判官への「制裁」に留まらず、外国人犯罪者を不起訴にしてきた裁判官と、移民政策を推進してきた閣僚を「標的」として明示していた。岩井剛外務大臣の名前が、最初に挙げられていた。

「これは」靈は紙を置いた。

「二日前に、組織の末端に配布されました」石丸は答えた。「私のところにも回ってきた」

「あなたはこの組織に入りましたか」

「入っていません」石丸は靈を見た。「入るつもりもない」


「なぜ、私に持ってきたんですか」

「父が毎朝拝んでいた神社を、壊させたくない」

 石丸は静かに言った。前置きも説明もなく、その一文だけが出た。

 靈は返事をしなかった。続きを待った。

「この組織の中に、以前から神社への破壊活動を主張していた人間がいます」石丸は続けた。「大正義の中では抑えられていた。ただ、分派したことで、抑止が外れました」

「八雲神社が、また標的になる可能性があると」

「可能性ではなく、具体的な計画があります」石丸は紙を指した。「裏面です」

 靈は紙を裏返した。

 手書きで、日付と場所が書かれていた。八雲神社の名前と、来週の土曜日という日時。


「あなたは、どこでこれを知りましたか」

「組織の末端にいる人間から聞きました」石丸は答えた。「私はもう大正義にも、この分派組織にも属していない。ただ、末端の人間の中に、行き場を失って流れ込んでいる者がいる。その人間から連絡が来た」

「その人間は、止める気がありますか」

「止める力はない。ただ、止めてほしいと思っている」石丸は手を膝の上で組んだ。「私も同じです。止める力はないかもしれない。ただ、止めてほしいと思っている。だから来た」

 靈はしばらく紙を見ていた。

「叢雲と内調には、私から伝えます」靈は石丸を見た。「あなたから、直接伝えることはできますか」

「叢雲なら、できます」石丸は少し間を置いた。「雨森さんには、以前神社で会っています。連絡先を教えてもらえますか」


 靈は雨森の番号を石丸に教えた。

「一つ確認してもいいですか」靈は石丸に向いた。

「なんですか」

「皇道護民連合というこの分派は、岩井大臣だけでなく、外国人犯罪者を不起訴にしてきた裁判官も標的にしています。川口に関係する裁判官が対象になる可能性はありますか」

 石丸は少し考えた。

「あります」石丸は答えた。「川口で移民絡みの事件を不起訴にした裁判官の名前が、すでに複数、組織内で挙がっていると聞いています」

「自警団は」

「一部の自警団が、この分派に賛同しています」石丸の声が少し変わった。「川口の南部と東部で、特に移民の多い地域を中心に、取り締まりを強化している自警団グループが出てきています。分派の思想に近い立場の人間たちです」


 靈はその言葉を、頭の中で整理した。

 叢雲の権限縮小で、南部と東部の警備体制が薄くなる。その隙間を、分派に近い自警団が埋めようとしている。取り締まりの強化、という言葉の実態が何を意味するかは、想像がつく。

「南部の自警団と、先月の衝突との関係はありますか」靈は聞いた。

「あの衝突は、この分派の設立前の話です」石丸は答えた。「ただ、あの夜のSNSの投稿に関わったアカウントの一部が、今回の分派の設立に関わっています」

「繋がっている」

「繋がっています」

 靈はしばらく黙っていた。

 一本の線が見えてきた。南部の衝突を煽ったアカウント。大正義からの分派。自警団の強硬化。神社への破壊計画。それらが別々の事件ではなく、同じ流れの中にある。


「榊原さんには、あなたから伝えますか。それとも私から伝えますか」靈は石丸に聞いた。

 石丸が少し止まった。

「私から、伝えてもいいですか」

「どうぞ」

「榊原さんとは、もう一度話したいと思っていました」石丸は膝の上の手を見た。「前回、頭を下げたことを、あの人は覚えていますか」

「覚えていると思います」

「礼の意味を、あの後で考えました」石丸は続けた。「首の後ろをさらす、ということを。あのとき私がやったことが、そういう意味だったとは思っていませんでした。ただ、体が動いていた」

 靈は返事をしなかった。

「体が先に知っていることが、あるんですね」石丸は靈を見た。

「あります」靈は言った。「それが、あなたの父親が毎朝神社で頭を下げていた理由かもしれない」

 石丸がしばらく靈を見た。それから、ゆっくりとうなずいた。


 石丸が帰った後、靈はすぐに雨森と西川に連絡した。

 雨森には紙の写真を撮って送った。

「皇道護民連合という分派組織の設立宣言と、八雲神社への破壊計画です。来週土曜日が日時として記載されています。石丸さんが持ってきました。本人から直接連絡が来る予定です」

 雨森からの返信は早かった。

「把握しました。内容を確認して、対応を検討します。石丸さんからの連絡を待ちます」

 西川には別の内容を送った。

「大正義から皇道護民連合という分派が設立されました。岩井大臣だけでなく、川口関連の裁判官も標的にしています。川口南部・東部の一部自警団がこの分派に近い立場で、取り締まりを強化しています。詳細は別途連絡します」

 西川からの返信は短かった。

「重要な情報です。確認します」


 続けてきゃるんにメッセージを送った。

「今日、石丸さんが来ました。大正義の分派組織が設立されて、八雲神社への破壊計画があります。来週土曜日が日時です。健一さんに、皇道護民連合というキーワードでSNSの分析を始めてもらえますか」

 すぐに返信が来た。

「わかりました。今すぐ健一さんに連絡します。師匠、大丈夫ですか」

「大丈夫です。ただ、来週土曜日に向けて、忙しくなります」

「私も動きます。叢雲に報告して、何ができるか確認します」

「お願いします。ただし、現場には一人で来ないこと」

「わかってます」


 健一からの返信は、きゃるんから連絡が行って十分もしないうちに来た。

「皇道護民連合、すでに複数のアカウントが活動しています。設立から日が浅いのに、フォロワーが急速に増えています。大正義の支持者の一部が流入している様子です」

「川口の自警団との関係は確認できますか」

「確認中です。ただ、川口南部の自警団の複数のメンバーが、このアカウントをフォローしています。一部は投稿を拡散している」

「南部と東部の自警団の動きを、継続して追ってください」

「します。もう一つ報告があります」

「なんですか」

「川口南部で、今夜、移民の居住するアパート周辺で自警団の人員が増えているという情報があります。叢雲の権限縮小で手が薄くなっている地域です」

 靈は少し止まった。

「叢雲に報告してください。今夜、対応できる体制があるかどうか確認を」

「します」


 三十分後、雨森から電話が来た。

「南部の状況を確認しました」雨森の声は、緊張が混じっていた。「自警団の人員が通常の三倍近く出ています。叢雲のスタッフが現場に向かっていますが、権限縮小の影響で人数が足りない」

「何が起きていますか」

「まだ衝突は確認されていません。ただ、アパートの住民が外に出にくい状況が作られています。包囲に近い形です」

「警察は」

「通報しましたが、対応が遅れています。民間治安補完法の枠組みで、叢雲に先に対応させようとしている」

「私が行けることは、ありますか」

 雨森が少し間を置いた。

「来てもらえますか。叢雲のスタッフが話し合いの場を設定しようとしていますが、自警団側の話を聞く人間が必要です」

「向かいます」


 靈は木刀を帯に差して、道場を出た。

 南部のアパートに着いたのは、三十分ほど後だった。

 路地に入ると、空気が変わった。

 アパートの前の路地に、防寒着を着た男が十数人いた。自警団の腕章をつけている者もいるが、ついていない者もいる。全員が男性で、アパートの入り口を向いて立っていた。

 叢雲のスタッフが二名、自警団のグループと話していた。話しているというより、睨み合いに近い。

 靈が近づくと、スタッフの一人が気づいた。

「来てくれましたか」スタッフは靈に向かって言った。「話が通じる状況ではなくて」

「誰が中心ですか」

「あの人です」スタッフは目で示した。

 四十代の男が一人、グループの前に出て立っていた。腕章はない。ただ、他の人間がその男の動きを見ている。


 靈はその男に近づいた。

 男が靈を見た。木刀を見た。それから靈の顔に戻った。

「何ですか」

「この場所に、何をしに来ましたか」

「自警です」男は言った。「ここのアパートに、先週の衝突に関わった人間がいると情報がある。確認しに来た」

「確認は、どういう方法でやりますか」

「住民を出てこさせて、一人ずつ確認する」

「それは、叢雲の権限でもできないことです」靈は続けた。「強制力のある確認は、警察の管轄です」

「警察が来ない」男は少し声を上げた。「来ないから、自分たちでやるしかない」

「警察が来ない理由は、民間治安補完法があるからです」靈は答えた。「ただし、その法律が民間に与えているのは、自発的な協力を求める範囲です。強制的に住民を出てこさせる権限は、誰にもない」

 男が靈を見た。

「あなたは、移民の肩を持つんですか」

 以前、石丸から聞いた問いと、同じ問いだった。


「どちらの肩も持ちません」靈は答えた。「ただ、やってはいけないことと、やっていいことの区別は、相手が誰であっても変わらない」

「先週、ナイフを出したのはあちら側です」

「そうです」靈はうなずいた。「その件は、叢雲が身柄を確保した人物について手続きが進んでいます。ただ、その件と今夜ここにいる住民は、同じではない」

 男は少し黙った。

「あなたは、以前もどこかで見た気がする」

「川口で動いています」靈は答えた。「神社の調停に関わったことがあります」

 男の表情が少し変わった。

「石丸さんと話した人ですか」

「話しました」

 男がグループの方を一度見た。それから、靈に向き直った。

「石丸さんは、今どこにいますか」

「今日、私の道場に来ていました」靈は答えた。「あなたに伝言があります。皇道護民連合には入らないでほしい、と言っていました。石丸さん自身が、入っていないから」


 男はしばらく動かなかった。

 路地に風が吹いた。アパートの窓の一つに、カーテン越しに人影が見えた。中で誰かが様子を見ている。

「石丸さんが、そう言ったんですか」

「言いました」靈は続けた。「石丸さんは、父親が毎朝神社で頭を下げていたと話してくれました。その神社を守りたいと言っていた。今夜ここでやっていることと、神社を守ることが、同じ方向を向いていると思いますか」

 男は答えなかった。

「今夜、ここを引いてください」靈は言った。「叢雲が住民の確認を、適切な方法でやります。強制ではなく、任意で。それで十分なはずです」

 長い沈黙があった。

 男がグループの方を向いた。何か短く言った。

 グループが、ゆっくりと散り始めた。全員ではなかった。半分ほどが残ったが、アパートの入り口から離れた。

 男は靈を見た。

「今夜だけです」

「今夜だけで、十分です」靈は答えた。


 叢雲のスタッフと一緒に、靈はアパートの管理人に声をかけた。

 管理人は中年の日本人の男性で、顔が青かった。

「中の方たちに、今夜は安全だと伝えてください」靈は言った。「ただし、明日以降の状況は確認が必要です。叢雲のスタッフから連絡します」

 管理人がうなずいた。

 インターフォンで、管理人が中の住民に短く伝えた。

 しばらくして、アパートの一室の電気がついた。それから、別の部屋でも電気がついた。

 靈はそれを確認してから、路地を出た。


 道場に戻ったのは、夜の十一時近かった。

 雨森からメッセージが来ていた。

「今夜の対応、報告を受けました。ありがとうございます。ただ、今夜引いた自警団グループが、明日以降また動く可能性があります。南部・東部の状況を、継続して監視します」

「叢雲の権限縮小は、月曜日に発効します」靈は返信した。「その後の体制は」

「調整中です。権限縮小の範囲を最小限にするために、本社と交渉しています。ただ、確約はまだ取れていません」

「石丸さんが来週土曜日の神社への計画を持ってきました。それとは別に、今夜のような動きが今後も続く可能性があります」

「そうなります」雨森は続けた。「今夜のような場面が、川口の複数の場所で同時に起きた場合、対応しきれない可能性があります」

 靈はその言葉を、しばらく見ていた。

 対応しきれない。話し合いで止められない場面が、複数同時に起きる。


 板の間に座り、木刀を手に取った。

 今夜、木刀を構えなかった。アパートの前でも、自警団の男と話したときも。

 ただ、グループの半分は残った。今夜だけだ、と男は言った。

 今夜だけ、で終わるかどうかは、わからない。

 零の型を始めた。

 型をやりながら、靈は今夜体を動かした感覚を確認した。

 路地を歩いたとき、グループの視線を感じた。木刀が帯にある。それだけで、空気が変わった。武器を持っていることが、場の均衡に作用していた。

 構えなくても、持っていることが意味を持つ。

 ただ、持っているだけでは止められないものが来る。

 型を終えて、靈は板の間の隅の真剣を見た。

 五日前、触れた。今夜も、その存在を意識している。

 靈は真剣に近づかなかった。

 ただ、「まだ今夜ではない」という感覚が、先週より薄くなっていることに気づいた。

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