第26話 「来週土曜日」
月曜日の朝、叢雲の権限縮小が発効した。
靈がそれを知ったのは、雨森からの短いメッセージだった。
「本日付で、南部・東部の巡回区域が移管されました。川口支局の担当区域が、従来の六割になります」
靈は返信した。
「引き継ぎの状況は」
「新しいスタッフが昨日から入っています。ただ、現場の把握には時間がかかります。今週中は、空白が出る可能性があります」
靈は窓の外を見た。
月曜日の朝の川口が広がっている。どこも変わらない朝に見えるが、今日から街の守り方が変わった。
健一からメッセージが来たのは、午前中だった。
「皇道護民連合のアカウントを継続して追っています。今朝から、川口に向かうという書き込みが複数確認されました。メンバーが今週中に川口入りする様子です」
「人数は」
「書き込みから推測すると、十名前後です。ただ、全員が神社に向かうかどうかはわかりません。別の目的で川口に来る人間が混じっている可能性があります」
「別の目的とは」
「川口南部の自警団との接触、という書き込みが一件あります。皇道護民連合と南部の自警団が連携しようとしている可能性があります」
靈は少し止まった。
川口に人が集まってくる。土曜日に向けて。
昼前に、西川から電話が来た。
「岩井大臣の件で、新しい情報があります。今、話せますか」
「話せます」
「大臣の今週のスケジュールを確認しました」西川は続けた。「土曜日に、東京都内で会合があります。外務省の関連行事で、出席が確定しています」
「土曜日」靈は繰り返した。
「神社への破壊計画と、同じ日です」西川の声が少し低くなった。「我々はこれを、偶然だとは思っていません」
靈は少し考えた。
「神社への計画が、陽動だということですか」
「可能性として検討しています」西川は答えた。「川口で神社への破壊が起きれば、叢雲、自警団、地域の関係者が川口に集中する。その間に、東京で別の動きが起きる。そういう構造かもしれない」
「その見立てを、確認する方法はありますか」
「あります」西川は続けた。「倉敷さんに確認できますか。分派の設立に関わった人間の中で、今週東京に向かう動きがあるかどうか」
電話を切って、靈はすぐに倉敷に連絡した。
「確認したいことがあります。今、話せますか」
「話せます」
「皇道護民連合のメンバーの中で、今週東京に向かう動きを把握していますか。特に土曜日に向けて」
倉敷はしばらく黙っていた。
「少し時間をください」
「わかりました」
三十分後、倉敷から返信が来た。
「確認しました。分派設立に関わった中心人物のうち、一名が今週木曜日に東京に向かう予定があります。川口の神社計画には参加しないと言っていた人間です」
「その人間の名前を、内調に伝えてもいいですか」
「構いません」
靈はその名前を西川に転送した。
西川からの返信は短かった。
「一致します。把握していた人物です。これで構図がはっきりしました」
その日の午後、靈は雨森に電話した。
「神社への土曜日の計画は、陽動の可能性があります。本命は岩井大臣です」靈は要点を伝えた。「内調はそう見ています」
雨森は黙って聞いていた。
「叢雲として、どう動きますか」
「川口と東京、両方に対応する必要があります」雨森は続けた。「ただ、川口の体制が今週縮小されたばかりです。正直、両方を同時に対応できる余力がない」
「どちらを優先しますか」
「川口です」雨森は答えた。「叢雲の管轄は川口です。東京は内調と警察の仕事です」
「それは正しいと思います」靈は言った。「ただ、川口での神社計画が陽動だとわかった上で、それでも神社を守る必要があります」
「そうなります」
「守りながら、陽動に乗せられていると気づいていることを、相手に知らせる方法はありますか」
雨森がしばらく考えていた。
「あるかもしれません」ゆっくりと言った。「少し時間をください」
夕方、石丸が榊原に会いに行ったという連絡が、健一から来た。
「父から連絡がありました。石丸さんが一人で神社に来たそうです。今、二人で境内にいます」
「あなたはいますか」
「私は離れた場所にいます。父が一人で話したいと言ったので」
「わかりました。二人にしておいてください」
靈は神社に向かうことを考えた。ただ、今日は行かないことにした。石丸と榊原の間に、靈が入る必要はない。
ただ、気になった。
少し遠回りして、神社の近くを歩くことにした。
鳥居の外から、境内が見えた。
榊原と石丸が、社殿の前に並んで立っていた。二人とも、社殿に向かって頭を下げていた。
礼をしていた。
何かを話しながら、ではなく、ただ並んで礼をしていた。
靈は鳥居の外で立ち止まった。
鳥居をくぐらなかった。
今この場所は、二人の場所だ。
二人が礼から戻った。榊原が何か言った。石丸が答えた。二人の会話は、靈には聞こえなかった。
靈は路地を歩き始めた。
二人が並んで礼をしていた。それだけで、今日来た意味があった。
道場に戻ると、きゃるんからメッセージが来ていた。
「師匠、健一さんから聞きました。神社の計画が陽動の可能性があるって。本命は大臣の暗殺だって」
「そうかもしれません」靈は返信した。
「それって、川口の皆が神社に集まっている間に、東京で大臣が殺されるってことですか」
「そういう構図です」
少し間があって、返信が来た。
「止められますか」
「東京は内調と警察が動きます。川口は叢雲と私たちが動きます」
「全部止められますか」
靈は少し考えてから返信した。
「全部止められるかどうかはわかりません。ただ、全部を止めようとすることはできます」
「師匠らしい答えですね」
「そうですか」
「全部止めようとするけど、全部止まるとは言わない。でも止めようとする。それが師匠のやり方だと思います」
靈はその言葉を、少し頭の中に置いた。
夜、西川から電話が来た。
「土曜日の岩井大臣の警護について、内調と警察が連携します。ただ、一つ確認したいことがあります」
「なんですか」
「川口での神社計画に対して、どういう体制で臨みますか。内調として、川口側の状況を把握しておきたい」
「叢雲が警備を担当します。私は神社の鳥居の前にいます」靈は答えた。「ただ、一つ提案があります」
「聞かせてください」
「神社への計画が陽動だとわかっていることを、相手側に知らせることを、叢雲が検討しています」靈は続けた。「知らせることで、相手の計画が狂うかもしれない。陽動が機能しないと知れば、東京への動きに影響が出る可能性があります」
西川がしばらく黙っていた。
「どういう方法で知らせますか」
「まだ決まっていません。ただ、考えています」
「内調として、その方向は支持します」西川は続けた。「ただし、知らせた結果として、川口での暴力が早まる可能性もあります。そのリスクは認識していますか」
「認識しています」
電話を切った後、靈は板の間に座った。
木刀を手に取らなかった。
今週土曜日まで、五日ある。
陽動と本命。川口と東京。二つが同時に動く。
靈が動ける場所は川口だ。神社の鳥居の前だ。
ただ、神社を守ることが、東京の暗殺計画を助けることになるかもしれない。守っている間に、大臣が死ぬかもしれない。
どちらを選ぶか、ではない。どちらも止めようとする。ただ、どちらかが止まらない可能性がある。
その可能性を抱えたまま、土曜日を迎えることになる。
靈は真剣の鞘を見た。
今週土曜日、何が起きるかによって、答えが変わるかもしれない。
木刀で止められるものと、木刀では止められないものが、同時に動く夜が来る。
靈は立ち上がって、真剣の前に立った。
鞘に触れた。
五日前より、手が落ち着いていた。
まだ抜かない。ただ、土曜日の前に、一度だけ確認しておく必要があると思った。
曾祖父から受け継いだ五振りのうちの一本を、靈は慎重に手に取った。
鞘から、わずかに刃を出した。
刃文が見えた。
静かに、収めた。
確認した。それだけだ。
まだ今夜ではない。ただ、いつかのために、刃の状態を知っておく必要があった。
板の間に戻り、木刀を手に取った。
零の型を始めた。
最初の所作。重心を落とし、三呼吸待つ。
三呼吸の間に、靈は一つだけ考えた。
土曜日に、何が起きても、靈は鳥居の前にいる。
そこが、靈の場所だ。
陽動だとわかっていても、その場所にいる。なぜなら、そこには榊原が四十年守ってきた神社がある。きゃるんが初めて太鼓を打った場所がある。石丸が礼をして入った鳥居がある。
陽動に乗ることと、守るべきものを守ることは、必ずしも矛盾しない。
型を始めた。
摺り足で板の間を移動しながら、靈は体の中を確認した。
怖い。今週土曜日が怖い。
ただ、怖いことと、動くことは別だ。きゃるんに言った言葉を、靈は自分に向けた。
型を終えた。
窓の外に、川口の夜が広がっていた。




