第27話 「接触」
火曜日は、何も起きなかった。
健一のSNS分析では、川口入りした皇道護民連合のメンバーと思われるアカウントが複数確認されたが、具体的な動きは記録されなかった。叢雲の権限縮小後の新しいスタッフが南部と東部のパトロールを始めたが、大きな衝突は起きていない。
ただ、静かすぎた。
靈はその静けさを、安堵ではなく警戒として受け取った。土曜日まで四日ある。何かが動く前の、息を整えている時間のような静けさだ。
夜、零の型を通しながら、靈は体の状態を確認した。
緊張が、少し固まってきている。型の動きの中で、肩に余計な力が入る場面がある。気づくたびに落とした。ただ、完全には落ちなかった。
怖い、ということだ。
それは正直な感覚だ。
水曜日の昼前、靈は道場の看板の塗料が一部剥がれていることに気づいて、補修をしていた。
脚立に乗って刷毛を動かしていると、路地の向こうから男が歩いてきた。
三十代後半から四十代。黒いダウンジャケットを着て、帽子を被っている。手に何も持っていない。歩き方に、目的を持っている人間の歩き方がある。道に迷っているわけでも、散歩しているわけでもない。
男は道場の前で立ち止まった。
靈を見上げた。
「拝郷靈さんですか」
「そうです」
靈は脚立から降りた。刷毛を持ったまま、男の前に立った。
「少し話せますか」男は言った。
「どうぞ」
男は名前を言わなかった。
靈も聞かなかった。
「土曜日のことは、知っていますか」男は言った。
「何の土曜日ですか」
「八雲神社です」男は靈を見た。「あなたが鳥居の前に立つことは、知っています。今回も同じようにするつもりですか」
「そのつもりです」
男はしばらく靈を見た。値踏みではなく、何かを測っているような目だ。
「土曜日は来ない方がいい」
靈は返事をしなかった。
「警告です」男は続けた。「今回の話は、以前とは規模が違います。話し合いで動く人間だけではない」
「それはわかっています」靈は答えた。「それでも行きます」
男が少し表情を動かした。
「なぜですか」
「守るべきものがあるからです」
男はしばらく靈を見ていた。
靈は男の顔を確認した。見覚えはない。石丸でも、以前の接触者でもない。ただ、話し方に、組織の末端ではない人間の雰囲気がある。ある程度の立場にいる人間の、言葉の選び方だ。
「あなたは、大正義から来ましたか。それとも皇道護民連合ですか」靈は聞いた。
男は答えなかった。
「答えなくていいです」靈は続けた。「ただ、私からも一つ伝えさせてください」
「なんですか」
「今週土曜日の神社への計画が、陽動だということは、こちら側は把握しています」
男の表情が、わずかに動いた。
「本命が東京にあることも、把握しています。内調が動いています。警察も動いています」靈は続けた。「あなたがここに来た理由が、その情報を確認するためだとしたら、確認できたと思います」
男は少し間を置いた。
「誰から聞きましたか」
「それは言えません」
沈黙があった。
路地に風が通った。看板の塗りかけの部分が、乾いていく。
「あなたは」男は靈を見た。「なぜ、そこまでするんですか。川口の神社を守ることが、あなたにとって何になりますか」
靈は少し考えた。
「何かになるためにやっているわけではありません」靈は答えた。「ただ、ここに道場があります。道場があるから、ここにいます。ここにいるから、近くで起きていることに関わります。それだけです」
「それだけ、ですか」
「そうです」
男はしばらく靈を見た。何かを言おうとして、止めた。もう一度靈を見て、それから踵を返した。
路地を歩いていった。角を曲がる前に、一度だけ振り返った。靈はその視線を受けた。
男が消えた。
靈はすぐに雨森と西川に連絡した。
雨森には状況を説明した。男の外見、会話の内容、陽動を把握していると伝えたこと。
「わかりました」雨森の返信は早かった。「路地の防犯カメラを確認します。男の身元の特定を試みます」
西川には別の内容を送った。
「陽動であることを相手に伝えました。男の反応から、情報の確認が目的だった可能性があります。東京側への情報共有が、速まる可能性があります」
西川からの返信は少し遅かった。
「把握しました。東京側の警護体制を再確認します。情報が相手に渡ったことで、計画が前倒しになる可能性も検討します」
昼過ぎ、倉敷から電話が来た。
「今朝、分派の動きで変化がありました」
靈は立ったまま聞いた。
「東京に向かったと把握していたメンバーが、昨夜川口に戻っています」
「止まったんですか」
「一時的に止まったようです」倉敷は続けた。「ただ、別のルートで補充されている可能性があります。私の把握していない人間が、東京に向かっている可能性が出てきました」
「補充とはどういう意味ですか」
「分派の外から、協力者を引き入れた可能性があります。大正義の思想に近い別の個人や、小さなグループです。私が把握している組織の構成員ではない」
靈は少し止まった。
「倉敷さんが情報を持っていない人間が動いている、ということですか」
「そうなります」倉敷の声が重くなった。「私が内側から止めることができたのは、私が把握している人間に対してだけです。補充された人間については、私には手が届かない」
「西川さんに伝えていいですか」
「伝えてください」
靈はすぐに西川に転送した。
「倉敷さんから、東京に向かったメンバーが川口に戻り、別のルートで補充された可能性があると連絡が来ました。倉敷さんが把握していない人間が東京に向かっている可能性があります」
西川からの返信は、今回は早かった。
「把握しました。態勢を上げます。拝郷さん、今日道場に来た男の詳細を、できる限り教えてください。体格、声質、話し方、細かい点も含めて」
靈は記憶を整理して、できる限り詳細を送った。身長、体格、声の低さ、言葉の選び方、帽子の種類、歩き方の特徴。
「ありがとうございます。確認します」
夕方、きゃるんが道場に来た。
今日は稽古の日ではなかったが、靈は引き戸を開けた。
「今日の話、雨森さんから聞きました」きゃるんは板の間に入りながら言った。「男が来たって」
「来ました」
「怖くなかったですか」
「怖かったです」
「でも伝えたんですね。陽動だってことを」
「伝えました」靈は茶を淹れた。「相手が何者かはわかりません。ただ、知っていることを伝えることが、今できる最善だと思いました」
きゃるんは座布団に座って、木刀を見た。
「師匠、一つ聞いていいですか」
「なんですか」
「土曜日、私も神社に行っていいですか」
靈は茶を置く手を少し止めた。
「来週の稽古の話は、土曜日が終わってからにしましょう」きゃるんは続けた。「神社に行く話は、別の話です。叢雲のスタッフと一緒にいます。単独行動はしません。ただ、行きたい」
「理由は」
「神社が私に、色々なことを教えてくれた場所だからです」きゃるんは靈を見た。「太鼓の音を初めて聞いた場所です。石丸さんが礼をした場所です。師匠が鳥居で礼をするのを見た場所です。その場所が壊されそうになっているなら、そこにいたい」
靈は少し考えた。
「雨森さんに確認してください」靈は答えた。「叢雲が許可すれば、止めません」
「前と同じ答えですね」きゃるんは少し笑った。
「前と同じ状況なので」
「でも今回は、前回より危ない」
「そうです」靈は正直に言った。「だから雨森さんに確認してください。あなた一人では判断しないでください」
「わかりました」きゃるんはスマートフォンを取り出した。「今、聞きます」
雨森からの返信は、十分ほどで来た。
きゃるんが画面を靈に見せた。
「境内ではなく、神社の外周の確認業務として参加すること。スタッフ二名と常に行動すること。その条件で許可します」
「わかりました」きゃるんは靈を見た。「行きます」
「わかりました」靈は答えた。「ただし、一つだけ言っておきます」
「なんですか」
「今回は、止まらないものが来る可能性があります。以前のように、私が話しかけて場が静まる保証はない」靈は続けた。「何かが起きたとき、あなたが守るべきは、まず自分自身です。他の人を助けようとして、自分が危険な場所に踏み込まないこと。それが守れますか」
きゃるんはしばらく靈を見ていた。
「守れます」静かに言った。「師匠に言われたことは、守ります」
きゃるんが帰った後、靈は板の間に座った。
窓の外が暗くなっている。水曜日が終わろうとしている。土曜日まで、あと三日だ。
今日道場に来た男のことを、もう一度考えた。
警告だったのか、揺さぶりだったのか。
どちらでもあるかもしれない。警告として言いながら、靈の反応を測っていた。靈が来ないと言えば、神社の守りが薄くなる。来ると言えば、陽動に引きつけられることが確定する。
どちらに転んでも、皇道護民連合にとって有用な情報になる。
靈はそれを理解した上で、来ると言った。陽動を把握していると伝えた。
その判断が正しかったかどうかは、土曜日が終わらなければわからない。
靈は立ち上がって、本棚の前に立った。
古事記を引き出した。
スサノオがヤマタノオロチを退治する場面を開いた。
スサノオは酒を使った。相手が来るのを待ちながら、場を整えた。ヤマタノオロチが酔って動けなくなったとき、剣を抜いた。
剣を抜いたのは、待った後だった。待つことで、抜く必要があると確信してから、抜いた。
靈は本を閉じた。
土曜日、何かが来る。話で止められるかどうかは、まだわからない。
ただ、待つことはできる。来るものを確認してから、判断することはできる。
板の間に戻り、木刀を手に取った。
零の型を始めた。
型をやりながら、靈は今夜の体の状態を確認した。
肩の力が、昨夜より少し落ちていた。
怖い。ただ、怖さの種類が変わってきている。漠然とした怖さではなく、具体的な何かに向かう怖さになっている。
具体的になった怖さは、動く理由になる。
型を終えた。
板の間の隅の真剣を見た。
今夜は触れなかった。
ただ、土曜日の前に、もう一度確認するかもしれない。
その予感が、静かに体の中にあった。




