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壱億総抜刀  作者: るふな


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第28話 「師弟」

木曜日の朝、倉敷から連絡が来た。

「今日、川口に行きます。三田先生も一緒です。道場に伺ってもいいですか」

 靈は少し止まった。

 三田と倉敷が一緒に来る。三田がさいたまの公園を出て、川口に来る。

「どうぞ」靈は返信した。「何時ですか」

「午後二時を予定しています。大安ではないですが」

「構いません」

 返信を送ってから、靈は板の間を見回した。

 来客に備えて、少し整えようと思った。座布団を三枚出した。茶器を確認した。それから、なんとなく木刀を一本、壁の見やすい位置に立てかけた。理由はうまく言えなかった。ただ、この道場がどういう場所かを、来る人間に見せておきたかった。


 午後二時ちょうど、チャイムが鳴った。

 引き戸を開けると、倉敷が立っていた。その隣に、三田がいた。

 三田は公園で会ったときと同じコートを着ていた。背中が少し丸い。ただ、目は公園で見たときより、少し明るかった。

「拝郷さん」三田は靈を見て、頭を下げた。「倉敷に連れてきてもらいました」

「どうぞ」

 二人を板の間に通した。

 三田が板の間に入ったとき、足を止めた。柱を見て、木刀を見て、奥の六畳間を覗いた。

「古い道場ですね」

「曾祖父が建てました」

「木の香りがします」三田は続けた。「手入れをしていますか」

「掃除はしています。手入れが行き届いているかどうかは、わかりません」

「十分です」三田は座布団に座った。「生きている建物には、香りがある」


 茶を三つ淹れた。

 三田は両手で湯呑みを受け取り、一口飲んだ。目を細めた。

「おいしい」

「普通の茶です」

「普通のものを、普通においしく淹れることが、一番難しい」三田は湯呑みを持ったまま、靈を見た。「あなたのことは、倉敷から聞いていました。ただ、会って話したかった」

「公園でお会いしましたが」

「あのときは、伝言を受け取ってもらいました。今日は、あなたの話を聞きたい」

 靈は少し考えた。

「何を聞きたいですか」

「土曜日に、何をするつもりか」三田は靈を見た。「倉敷から、神社の鳥居の前に立つと聞きました。なぜですか」


「守るべきものがあるからです」靈は答えた。

「それは以前も聞きました」三田は続けた。「もう少し、具体的に聞かせてください」

 靈は少し間を置いた。

「神社に、榊原さんという方がいます」靈は言った。「四十年、注連縄を張り替えてきた人です。理由を知らないまま、形を守ってきた。その形が、今も正しく残っています」

「それを守る」

「守ることと、繋ぐことが、私の名前の意味だと親父から聞きました」靈は続けた。「土曜日に何かが起きたとき、形が途切れないように、その場にいたい」

 三田はしばらく靈を見ていた。

「話で止められると思っていますか」

「思っていません」靈は正直に言った。「今回は、話だけでは止まらない可能性があります」

「では、話以外の手段を使う可能性がある」

「あります」

 三田は湯呑みを置いた。

「土曜日、私も神社にいたい」三田は静かに言った。「あなたが何をするかを、見ていたい」


 靈は少し止まった。

「三田さんが来ることは、止めません」靈は言った。「ただ、今回は危険があります。安全な場所にいてもらう必要があります」

「わかっています」三田はうなずいた。「倉敷が一緒にいます。鳥居の外で、離れた場所で見ています。それで十分です」

 靈は倉敷を見た。

「あなたは、どうするつもりですか」

「三田先生を連れてきます」倉敷は答えた。「それだけです。今回、私が戦う立場にはない。ただ、最後まで関わりたい」

「最後まで、とはどういう意味ですか」

 倉敷は少し間を置いた。

「私が始めたことが、今週土曜日に何らかの形で決着します」倉敷は続けた。「大正義から分派した人間たちが動く。私はそれを止めることができなかった。ただ、止めようとしたことを、見届けたい」

 靈はその言葉を、頭の中に置いた。

 止めようとしたことを、見届けたい。

 倉敷にとって、土曜日は終わりではなく、確認の日だ。


「東京の件で、新しい情報があります」倉敷は続けた。

 靈は体を少し前に向けた。

「補充されたと言っていた人間の動きが、昨夜把握できました」倉敷はコートの内ポケットから、折りたたんだ紙を出した。「手書きですが、わかる範囲で書きました」

 靈は紙を受け取った。

 人名が二つ。住所が一つ。それから、移動手段と思われる記述が簡単に書いてあった。

「この二人は、私の組織とは直接の関係がない人間です」倉敷は言った。「ただ、皇道護民連合の設立メンバーと、過去に接点があります。SNSではなく、リアルの繋がりで動いている人間です。だから、健一さんの分析にも出てこなかった」

「どこから把握しましたか」

「石丸です」

 靈は少し止まった。

「石丸さんが」

「石丸が、分派の末端の人間と今も連絡を取っています。その人間から聞き出しました」


 靈はすぐに西川に電話した。

 倉敷と三田が板の間にいる状態で、電話した。隠す必要はないと判断した。

「倉敷さんから新しい情報を受け取りました。東京に向かっている可能性がある人物が、二名特定されています」

「詳細を教えてください」

 靈は紙に書かれた内容を読み上げた。

 西川が黙って聞いていた。

「ありがとうございます。すぐに確認します」西川は続けた。「倉敷さんに、直接感謝を伝えてもらえますか」

「伝えます」

 電話を切って、靈は倉敷を見た。

「西川さんが、感謝しています」

 倉敷は少し頭を下げた。それ以上は何も言わなかった。


 三田が口を開いた。

「一つ聞いていいですか」三田は靈を見た。

「なんですか」

「あなたの道場に、門下生はいますか」

「一人います」靈は答えた。「最近できました」

「何を教えていますか」

「礼の作法と、木刀の持ち方と、立ち方です」

「それだけですか」

「今のところは」靈は続けた。「ただ、教えながら、教えていること以上のものが伝わっている気がします」

「それが、教えるということです」三田は静かに言った。「技を教えているつもりで、生き方が伝わる。それが師弟の本義です」

「以前、本で読みました」

「本より先に、体で知っていたはずです」三田は靈を見た。「あなたがここ数ヶ月でやってきたことが、それを証明しています」


「一つ、お聞きしていいですか」靈は三田に向いた。

「なんですか」

「倉敷さんが変わっていく間、見ていた、と言っていました」靈は続けた。「今、倉敷さんを見て、どう思いますか」

 三田はしばらく倉敷を見た。

 倉敷は三田の視線を受けて、目を逸らさなかった。

「疲れています」三田は言った。「ただ、公園で再会したときより、顔が楽になっています」

「楽、というのは」

「重いものを、少し下ろし始めている顔です」三田は続けた。「全部は下ろせていない。ただ、下ろし始めている」

 倉敷が、わずかに目を細めた。何かを堪えているような顔だった。

「土曜日が終わったら」三田は倉敷に向いた。「また公園に来なさい。話の続きをしましょう」

「はい」倉敷は短く答えた。


 二人が帰り際、三田が鳥居に礼をするように道場に礼をした。

 引き戸の前で、上体を傾けた。首の後ろがさらされた。

 靈は少し驚いた。

「三田さん、礼の意味を」

「教えているのではなく、やっているだけです」三田は礼から戻して、靈を見た。「この道場には、礼をしたくなる何かがあります」

「曾祖父が建てた場所ですから」

「あなたが守ってきた場所です」三田は言った。「それが、場所に宿ります」

 倉敷も礼をした。

 二人が路地に出て、歩いていった。

 靈は引き戸の前に立って、二人の背中を見た。

 三田の背中は小さいが、歩き方が安定していた。倉敷がその隣で、少し速度を落として歩いている。師と弟子が、並んで歩いている。

 見えなくなるまで、靈は見ていた。


 夕方、きゃるんが来た。

 稽古の日ではないが、靈は引き戸を開けた。

「倉敷さんと、おじいさんが来たって聞きました」きゃるんは板の間に入りながら言った。「健一さんから」

「来ました」

「どんな人でしたか、三田さんって」

「教師です」靈は答えた。「倉敷さんの師匠です」

きゃるんは少し考えた。「師匠にとって、その人はどういう人でしたか」

 靈は少し間を置いた。

「道場に礼をしていきました」靈は言った。「それが、答えになるかもしれません」

 きゃるんがその言葉を、少し頭の中で転がすような顔をした。

「礼をしていった、か」きゃるんはうなずいた。「師匠が礼をする理由を話してくれた人が、師匠の道場に礼をしていったんですね」

「そういうことです」


「師匠」きゃるんは靈を見た。「土曜日、怖いですか」

「怖いです」

「私も怖いです」きゃるんは続けた。「ただ、行きます。師匠が行くから、ではなくて、自分が行きたいから行きます」

「わかっています」

「それだけ言いたかっただけです」きゃるんは立ち上がった。「明日は稽古に来ます。土曜日の前に、もう一度礼をしておきたい」

「来てください」

 きゃるんが靴を揃えて、引き戸を開けた。

「師匠」

「なんですか」

「三田さんが、道場に礼をしていったなら」きゃるんは少し考えながら言った。「この道場は、師匠が思っているより大事な場所かもしれません」

 引き戸が閉まった。

 靈はしばらく、閉まった引き戸を見た。


 夜、雨森から連絡が来た。

「水曜日に道場に来た男の身元が、ある程度特定できました」雨森は続けた。「皇道護民連合の幹部候補とみられる人物です。大正義の中期から活動していた人間で、倉敷さんとは面識がある」

「倉敷さんは知っていますか」

「確認したところ、知っているとのことです。過去に何度か接触があったと」

「今日の来訪で、何を確認しに来たと思いますか」

「靈さんが土曜日に来るかどうか、と、陽動を把握しているかどうか。その二点だと思います」雨森は続けた。「どちらも確認させてしまいましたが、それが今の状況で最善だったと、私は判断しています」

「根拠は」

「相手が把握していないと思っている情報を、こちらが持っていると示すことで、相手の計画に不確定要素が入ります。確実に動くより、迷いが生まれる可能性がある」


「もう一つ」雨森は続けた。「西川さんから連絡がありました。倉敷さんから提供された二名の人物を確認中だそうです。一名については、東京都内での動きが確認されたとのことです」

「一名は東京にいる」

「そうなります。もう一名は、まだ特定できていません」

 靈は少し考えた。

「土曜日の神社と、東京が同時に動く可能性は変わっていませんか」

「変わっていません」雨森は答えた。「ただ、東京側については、内調と警察が対応しています。川口側は、叢雲と拝郷さんが対応する。その役割分担は、明確です」

「叢雲の体制は」

「今週縮小された体制の中で、土曜日に集中できる人員を確保しました。神社周辺に六名、周辺路地に四名、計十名のスタッフを配置します」

「十名で足りますか」

「足りるかどうかは、当日の状況次第です」雨森は正直に言った。「ただ、今の体制でできる最大限です」


 電話を切って、靈は板の間に立った。

 土曜日まで、あと二日。

 木曜日が終わろうとしている。

 今日、三田が来て、礼をして帰った。倉敷が東京の情報を持ってきた。きゃるんが「自分が行きたいから行く」と言った。

 それぞれが、それぞれの理由でその場所に向かおうとしている。

 靈は木刀を手に取った。

 零の型を始めた。

 最初の所作。重心を落とし、三呼吸待つ。

 三呼吸の間、靈は今日の三田の言葉を頭の中に置いた。

 土曜日、あなたが何をするかを、私は見ていたい。

 見られることを意識した稽古は、稽古ではない。ただ、見られることを知りながら、それでも普段通りにやることが、稽古の成果だ。

 型を始めた。

 摺り足で板の間を移動しながら、靈は体の状態を確認した。

 肩の力が、今週で一番落ちていた。怖さは変わらない。ただ、体が落ち着いている。

 型を終えた。

 板の間の隅の真剣を見た。

 今夜、触れなかった。

 触れなかったことが、今夜の答えだった。

 まだ木刀でいい。まだ話が先だ。土曜日に何が起きるかによって、それが変わるかどうかが決まる。

 靈は木刀を壁に戻した。

 明日、きゃるんが来る。礼をする。土曜日の前に、もう一度礼をしておきたい、ときゃるんが言った。

 靈も、明日の稽古が終わったら、礼をしようと思った。

 道場に向かって。この場所を建てた曾祖父に向かって。

 それが、明日できることだ。

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