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壱億総抜刀  作者: るふな


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第29話 「内通者」

金曜日の朝、靈は早く起きた。

 型を始める前に、板の間に正座して、窓の外が白んでいくのを見た。元日の朝と同じようにしている。大事なことの前日に、こうして座る習慣が、いつの間にかできていた。

 川口の空が明るくなっていく。

 明日、この街の複数の場所で、何かが起きる。

 靈はしばらく座ったまま、今日一日何をすべきかを整理した。

 きゃるんが午前中に来る。稽古をする。礼をする。雨森と最終確認をする。倉敷と石丸に、現時点での状況を確認する。西川の動向を把握する。

 やることは決まっている。ただ、やりきれるかどうかは、今日が終わらなければわからない。

 窓の外が完全に明るくなってから、靈は立ち上がった。


 きゃるんが来たのは、午前十時だった。

 引き戸を開けると、いつもより厚着をしていた。コートの下にフリースを重ねているらしく、少し体が膨らんで見える。

「寒いですか」靈は聞いた。

「昨夜から急に冷えて」きゃるんは板の間に入りながら言った。「明日も寒いみたいです」

「明日は外にいる時間が長くなります。防寒はしっかりしてください」

「します」

 靴を揃えてから、きゃるんは木刀を受け取った。

「今日は何をやりますか」

「礼から始めます」靈は答えた。「最初に礼をして、稽古をして、最後にもう一度礼をします」

「最後にも礼をするんですか」

「今日は、そうします」


 板の間の中央に、二人で並んで立った。

 靈が先に礼をした。道場に向かって、上体を傾ける。首の後ろがさらされる。

 きゃるんが隣で同じようにした。

 三秒ほど保ってから、二人同時に戻した。

「始めましょう」靈は言った。


 今日の稽古は、これまでと少し違う形にした。

 素振りの型を三種類通した後、靈がきゃるんの正面に立った。

「今日は、向かい合ってやります」靈は言った。「私が木刀を持ちます。あなたは木刀を持たない」

「どういうことをやりますか」

「私が木刀を持って動きます。あなたはその動きを見て、どこに隙があるかを感じてください。攻める必要はない。ただ、見る」

「見るだけですか」

「見ることが、稽古になります」靈は続けた。「武道では、見る力と動く力は同じところから来ます。動けない状況のとき、見ることができる人間は、次に動けるようになったとき、見えていない人間より速く判断できる」

 きゃるんは少し考えてから、うなずいた。

「やってみます」


 靈はゆっくりと、型の動作を始めた。

 素振りではなく、零の型の基礎動作だ。重心を落とし、摺り足で移動し、木刀を垂直に持つ。

 きゃるんは靈の動きを見ていた。

 一分ほど続けてから、靈は止まった。

「何か見えましたか」

「えっと」きゃるんは少し考えた。「右に動くとき、一瞬だけ左肩が上がります」

 靈は少し止まった。

「気づきましたか」

「気になっただけです。合ってますか」

「合っています」靈は答えた。「長年の癖です。自分では気づきにくい」

 きゃるんが少し目を丸くした。

「私が見つけたんですか、師匠の癖を」

「見つけました」靈は続けた。「それが、見る力です。動いている人間には見えないものが、静かに見ている人間には見える。あなたは今日、それができた」


 稽古が終わったのは、正午近かった。

 二人で板の間の中央に並んで立った。

「最後の礼をします」靈は言った。「今日の稽古への礼と、明日に向けての礼を、一度にやります」

「一度にできますか」

「できます。礼は形が一つでも、込める意味は複数あります」

 きゃるんがうなずいた。

 靈が先に礼をした。

 今日教えてくれた道場への礼。明日、この場所を離れて動くことへの礼。戻ってきたときに、また礼をする約束。

 きゃるんが隣で礼をした。

 三秒。四秒。少し長く保った。

 戻したとき、きゃるんの顔が少し変わっていた。

「どうしましたか」靈は聞いた。

「首の後ろをさらしたとき」きゃるんは少し間を置いた。「怖いんだけど、怖いのが気持ちよかった。変ですか」

「変ではありません」靈は答えた。「それが礼です」


 きゃるんが帰った後、靈は一人で板の間に立った。

 道場に向かって、礼をした。

 曾祖父が建てた場所。親父が育った場所。靈が継いだ場所。

 三秒保った。

 それから、もう少し長く保った。

 礼の中で、靈はいくつかのことを考えた。

 明日、ここを離れる。戻ってくるかどうかは、わからない。戻ってきたとき、この場所はそのままここにある。それが、この場所が百年続いてきた理由だ。

 礼から戻した。

 板の間を見た。

 今夜、零の型を通す。それが今日最後にできることだ。


 午後、雨森から電話が来た。

「明日の最終確認をします。今日、時間はありますか」

「あります」

「では電話で済ませます」雨森は続けた。「叢雲のスタッフ配置は昨日お伝えした通りです。神社周辺六名、周辺路地四名。私も現場に出ます」

「雨森さんが現場に」

「今回は、私が直接動く必要があると判断しました」雨森は静かに続けた。「叢雲本社との関係が変化している今、現場の判断を誰かに委ねるより、自分でやる方が正確です」

「本社には、明日の配置を報告していますか」

「していません」

 靈は少し止まった。

「報告せずに動くことは、叢雲の規則に反しますか」

「反します」雨森は答えた。「ただ、規則より優先すべきことがあると判断しました。その判断の責任は、私が取ります」


「きゃるんさんの配置は」靈は続けた。

「神社の外周確認です。スタッフ二名と行動します。境内には入りません」

「石丸さんは」

「石丸さんから、今日連絡がありました」雨森は続けた。「明日、神社の近くにいると言っています。叢雲のスタッフとしてではなく、個人として。ただ、連絡は取り合える状態にしておくと」

「わかりました」

「それから、榊原さんから連絡がありました。自警団は動かしない、という判断は変わっていないそうです。ただ、健一さんが境内にいると言っています」

「健一さんが」

「社務所で情報整理をするそうです。リアルタイムでSNSを追いながら、状況を把握する。それが今できる最善だと判断したようです」


「東京の件は」靈は聞いた。

「西川さんから、午前中に連絡がありました。一名は確保できました。もう一名の行方が、まだわからない状態です」

「もう一名が東京にいる可能性は」

「あります。ただ、警護体制は最高レベルまで引き上げたとのことです」

「岩井大臣の日程は変更できませんか」

「大臣側が拒否しています」雨森は答えた。「国際協定に関わる会合で、欠席することができない立場だそうです」

 靈は少し考えた。

「止められないものが、明日来る可能性がある」

「そうなります」雨森は続けた。「川口でも、東京でも」

「わかりました。明日、神社に行きます」

「よろしくお願いします」雨森は少し間を置いた。「一つだけ」

「なんですか」

「気をつけてください」

 雨森がそういう言葉を言うのは、初めてだった。靈は少し止まった。

「あなたもです」靈は答えた。


 夕方、石丸からメッセージが来た。

「神社の計画に参加する予定の人間の中に、迷っている者がいます。昨夜、私に連絡してきました」

 靈はすぐに返信した。

「どういう内容ですか」

「本当に神社に行くべきかどうか、迷っていると言っています。父親が昔、川口の工場で働いていたと聞いた。神社が昔から地域にあることも知っている。それでも行くべきかどうか、と」

「その人物は、皇道護民連合に入ったんですか」

「入っています。ただ、入ってから、考えが変わってきているようです」

「あなたは、何と答えましたか」

「答えていません。どう伝えればいいか、わからなかった」


 靈は少し考えてから返信した。

「その人物に伝えてください。神社に行くかどうかを、最終的に決めるのはその人自身です。ただ、行く前に一つだけ考えてほしいことがある。神社の鳥居に、礼をしてからくぐることができるか、どうかを」

「礼をする、ということですか」

「礼は、その場所への誠意です。破壊しようとしている場所に、誠意を持って入ることができるかどうか。それを考えてもらえれば、その人自身が答えを出すと思います」

 しばらくして石丸から返信が来た。

「伝えます」

 それから少し間があって、もう一つ来た。

「拝郷さん。私も、明日神社に行きます。鳥居で礼をしてから、外で見ています。それだけですが」

「わかりました」靈は返信した。「来てください」


 夜、西川から電話が来た。

「もう一名の件ですが、今夜午後九時に東京都内で移動している様子が確認されました。警察と連携して、追跡しています」

「確保できそうですか」

「わかりません」西川は続けた。「ただ、今夜中に動きがあれば、明日の計画に影響が出る可能性があります。状況が変わり次第、連絡します」

「わかりました」

「拝郷さん」西川は少し間を置いた。「明日、川口でどうなるかは、私には見えません。ただ、これまでの経緯から言えば、あなたがいることで変わってきたことがある。明日も、それを信じています」

「信じることと、結果は別です」靈は答えた。

「それは知っています」西川は言った。「それでも、信じることに意味があります」

 電話が切れた。


 靈は板の間に立った。

 今夜最後にやることが、一つある。

 木刀を手に取った。

 零の型を始める前に、道場に礼をした。

 今日、きゃるんと並んで礼をした。きゃるんが「怖いのが気持ちよかった」と言った。それが礼の本義だ。

 靈も今、同じ感覚がある。怖い。明日が怖い。それでも、首の後ろをさらした。この場所への誠意として。

 礼から戻した。

 型を始めた。

 一度目は、確認のため。体の状態を見る。右肩が上がる癖が、きゃるんに見つかった癖が、今夜は出ていなかった。

 二度目は、落ち着かせるため。呼吸と動作を合わせて、体の緊張を整える。

 三度目は、ただ動いた。考えずに、体が知っていることに従った。

 三度目が終わったとき、体が静かになっていた。怖さは変わらない。ただ、怖さと体が同じ場所にいる感覚があった。


 型を終えて、靈は板の間の隅の真剣を見た。

 今夜、触れなかった。

 触れなかった理由がある。

 今夜は、木刀で終わる夜だ。明日、何が起きるかによって、何かが変わるかもしれない。ただ、今夜はまだ、木刀でいい。

 靈は木刀を壁に戻した。

 スマートフォンを確認した。

 西川から、午後十一時に短いメッセージが来ていた。

「もう一名を確保しました。東京の計画は、今夜の時点で無力化されたと判断しています。明日の大臣の予定は、予定通り行われます」

 靈はそのメッセージを三度読んだ。

 東京は、止まった。

 ただ、川口はまだ、止まっていない。

 陽動のために用意された計画は、本命が止まっても、そのまま動く可能性がある。あるいは、本命が止まったことで、川口への動きが変化する可能性もある。

 靈は雨森と倉敷と石丸に、西川からの情報を転送した。

 雨森からの返信は短かった。

「把握しました。川口の体制は変わりません。明日、予定通り動きます」

 倉敷からの返信も来た。

「わかりました。ただ、川口の人間が東京の件を知ったとき、どう動くかは読めません。逆に過激化する可能性もあります」

 石丸からの返信は、少し遅かった。

「迷っていると言っていた人間から、また連絡が来ました。礼ができないなら行かない、と言っています」


 靈はスマートフォンを置いた。

 板の間に正座した。

 明日が来る。

 東京の計画は止まった。ただ、川口は動く。

 靈は目を閉じた。

 零の状態でいる。始まる前の、全部の可能性がある場所。

 ただ、今夜の零には、昨日より多くのものが入っていた。

 きゃるんが礼をした。石丸が来ると言った。倉敷と三田が道場に礼をしていった。雨森が「気をつけてください」と言った。西川が「信じています」と言った。

 一人ではない。

 明日、一人ではない場所に行く。

 目を開けた。

 窓の外に、川口の夜が広がっていた。明日は土曜日だ。

 靈は立ち上がって、壁の木刀を見た。

 それから、板の間の隅の真剣を見た。

 真剣に近づいた。

 鞘に手を置いた。

 今夜も抜かない。ただ、手を置いておく。

 この重さを、手のひらで確認する。

 これが最後の選択肢として、ここにある。使うかどうかは、明日決める。

 手を離した。

 板の間に戻り、靈は今夜最後に一度だけ、道場に礼をした。

 首の後ろをさらす。

 怖い。明日が怖い。

 ただ、怖いまま礼をする。それが、今夜できる最後のことだ。

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