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壱億総抜刀  作者: るふな


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第30話 「鳥居の結界」

土曜日の夜明け前、靈は道場を出た。

 まだ暗かった。川口の街灯が、冬の路地を白く照らしている。吐く息が白い。

 歩きながら、スマートフォンを確認した。

 西川から、深夜に届いていたメッセージがあった。

「緊急報告です。岩井外務大臣、今夜十一時過ぎに東京都内の会合会場付近で襲撃されました。大臣は死亡しました。同時刻前後、移民政策に関わる汚職疑惑のある国会議員が複数、別々の場所で襲撃されています。現時点で死亡四名、重体七名、軽傷十四名。容疑者の一部は確保されましたが、複数が逃走中です。川口の計画との連動の可能性があります。警戒を最大限に」

 靈は立ち止まった。

 大臣が、死んだ。

 議員が、四名死んだ。

 メッセージを三度読んだ。文字は変わらなかった。

 靈は歩き始めた。足が少し重くなった。ただ、止まることはできなかった。


 八雲神社が見えてきた。

 鳥居の前に立った。

 まだ誰もいない。

 靈は一人で鳥居に向かって礼をした。

 首の後ろをさらす。この場所への誠意。

 礼から戻して、くぐった。

 境内に入ると、社殿の前に榊原が立っていた。まだ暗い中で、一人で立っている。

「早いですね」靈は歩み寄りながら言った。

「眠れませんでした」榊原は言った。「あなたは」

「眠れましたが、早く目が覚めました」

 二人で社殿の前に並んだ。

 榊原が社殿に向かって礼をした。靈も隣で礼をした。

 二人で、同じ角度で、同じだけ保った。


「東京の件、聞きましたか」靈は礼から戻してから言った。

「健一から連絡が来ました」榊原は社殿を見たまま答えた。声が、いつもより低かった。「大臣が、亡くなったと」

「亡くなりました。議員も、四名」

 榊原はしばらく黙っていた。

「川口への動きは、止まらないですか」

「止まらないと思います」靈は続けた。「むしろ、成功したという情報が広まれば、勢いづく可能性があります」

「そうですな」

 榊原は社殿の方を向いた。

「今朝、祝詞を唱えました」榊原は言った。「亡くなった人間への、鎮魂の祝詞です。誰が正しかったとか、間違っていたとかは関係なく、死んだ人間の魂を鎮めるために」

 靈はその言葉を、しばらく受け取っていた。

「大祓詞ですか」

「そうです。本来は半年に一度、穢れを祓うために唱えるものです。ただ、今朝は祓いではなく、鎮めのために唱えました」


 日が昇った。

 叢雲のスタッフが順次到着した。雨森が来たのは午前九時だった。

「東京の情報は把握しています」雨森は靈に言った。顔に疲れがある。昨夜から起きていたらしかった。「大臣死亡の報が川口に広まるのは、時間の問題です。健一さんの分析では、皇道護民連合の関係アカウントで今朝から投稿が急増しています。大臣と議員を標的にした事件を、成功として発信している」

「川口への動きは」

「止まっていません。今朝から、川口市内に向かう書き込みが増えています」雨森は続けた。「南部では、昨夜のうちに移民の居住するアパート周辺で自警団の動きがありました。権限縮小で対応が遅れた地域です。軽傷者が出ています」

「昨夜、すでに動いていたんですか」

「東京の件が伝わると同時に、南部で動きが出ました」

 靈は境内の注連縄を見た。

 左が太く、右が細い。


 きゃるんが来たのは、昼前だった。

 叢雲スタッフ二名と一緒に、神社の外周確認として配置についた。

 鳥居の前を通るとき、きゃるんは足を止めた。礼をした。丁寧に、首の後ろをさらして、三秒保った。

「師匠」きゃるんは靈を見た。「東京の件、聞きました」

「聞いていますか」

「止められなかったんですね」

「止められませんでした」靈は答えた。

「師匠のせいじゃないですよね」

「私の力の届かない場所で起きたことです」靈は続けた。「ただ、それで今日の川口が変わるわけではない。やることは変わりません」

 きゃるんはうなずいた。

「行ってきます」

「気をつけてください」


 石丸が来たのは、昼過ぎだった。

 鳥居の外に立って、礼をした。以前よりも角度が深かった。

 礼から戻して、靈の前に来た。

「迷っていた人間から、今朝連絡が来ました」石丸は言った。「東京の件を聞いて、気持ちが固まったと言っています」

「どちらに固まりましたか」

「行かない、と言いました」石丸は続けた。「礼ができないから、という理由で」

 靈は少し間を置いた。

「それを選べた人間がいた」

「います」

「それは、大事なことです」


 健一から連絡が来たのは、午後になってからだった。

「重大な情報が出ています。皇道護民連合が、汚職議員のリストを全国に公開しました。川口の松永議員を含む、複数の議員の名前と利権の詳細が一覧になっています」

「拡散していますか」

「急速に広がっています。SNS上では、リストの議員に直接行動を起こそうという呼びかけが出始めています。東京の件と合わさって、一般市民からも賛同の声が出ています」

「川口の松永議員の事務所は」

「今朝から大量の抗議電話が入っているようです。事務所に向かおうという書き込みも出てきています。また、移民の強制送還に反対した移民グループが、川口南部でデモを始めています。自警団との衝突になりかけているという情報があります」

 靈は雨森に転送した。

「把握しました。スタッフの一部を南部に向かわせます。神社の体制は維持します」雨森の返信は短かった。「ただ、人員が限界に近づいています」


 夕方が近づいた。

 日が傾いて、境内の石畳に長い影が伸びた。注連縄が、夕方の光を受けて、少し赤く見えた。

 靈は鳥居の外に出た。

 路地の向こうに、人影があった。

 複数だ。七名から十名ほど。先頭を歩いているのは、水曜日に道場に来た男だった。

 男が靈を見た。

 靈は動かなかった。

 男が近づいてきた。グループが後ろに続いた。手に棒状のものを持っている者が数名いた。

 男がグループの前で止まった。鳥居まで、十メートルほどの距離だ。

「来ましたか」男は靈を見た。

「来ました」靈は答えた。

「東京の件は聞いていますか」男の声に、昂揚があった。「大臣が死にました。議員も四人。ついに、動いた」

「聞いています」靈は答えた。「五人の人間が死にました」

「動いた人間たちが、日本を動かした」

「人が死にました」靈は繰り返した。「それだけは、変わらない事実です」


 男は少し表情を動かした。

「あなたは、その死を悼むんですか。汚職に塗れた人間の死を」

「死んだ人間の魂を鎮めることと、その人間の行為を正しいと思うことは、別のことです」靈は答えた。「今朝、榊原さんが亡くなった人間への鎮魂の祝詞を唱えていました。誰が正しくて誰が間違っていたかに関係なく」

「それが日本の考え方だと言いたいんですか」

「日本の神道では、死者の魂は鎮めるものです」靈は続けた。「英雄であっても、悪人であっても、死んだ魂は荒ぶる。荒ぶる魂を鎮めることが、生きている者の役割だと、かつての日本人は考えていた。GHQはその思想を封じようとした。靖国の問題も、英霊の問題も、根はそこにある」

 男が少し止まった。

「なぜ今、それを言うんですか」

「今日、この場所で何かを壊すなら、それは荒ぶることです」靈は答えた。「日本の文化を守ると言いながら、日本古来の考え方に反することをしている」


 長い沈黙があった。

 路地の向こうから、足音が来た。

 石丸だった。一人で路地を歩いてきた。グループの後ろで止まった。

「石丸さん」男は言った。

「来ました」石丸は答えた。「今日ここで何かを壊すなら、私が最初に止めます」

「東京で五人が死にました。あなたはそれを無駄にするつもりですか」

「無駄にしているのは、どちらですか」石丸は男を見た。「父が毎朝拝んでいた神社を壊すことが、日本を守ることになりますか。鎮めるべき魂を、さらに荒らすことになりませんか」

 男はしばらく石丸を見た。

 後ろのグループの中で、誰かが動いた。

 棒を持っていた男の一人が、前に出ようとした。


 その瞬間、靈は動いた。

 零の型の最初の動作。重心を落とし、摺り足で、横に三歩。

 棒を持った男の斜め前に、靈は立っていた。

 木刀を、垂直に持ったまま。構えていない。ただ、そこにいる。

 男が止まった。

 靈は棒を持った男を見た。目を合わせた。

「今日、誰かが傷つくことは、止めます」靈は言った。声を上げなかった。ただ、届くように言った。「あなた方も、私も、榊原さんも。傷つく必要がない」

 棒を持った男が、靈を見た。

 一秒。二秒。

 男が後ろに退いた。


 グループの中でざわめきが起きた。二人、三人と、路地の奥に向かって歩き始めた。

 先頭にいた男は、動かなかった。

 靈を見ていた。

「鎮魂の話をしましたね」男は言った。「あなたは、今日死んだ人間の魂を鎮めようとしているんですか」

「鎮める力は、私にはありません」靈は答えた。「ただ、これ以上荒れることを、ここでは止めたい」

 男はしばらく靈を見た。

 それから鳥居の縄を見た。

「あの縄を、四十年張り替えてきた人間がいるんですね」

「います」

「理由を知らないまま」

「理由を知らないまま」

 男は少し間を置いた。

「今日は、ここまでにします」男は静かに言った。

「そうしてください」靈は答えた。

 男が踵を返した。残っていたグループが、それに続いた。

 路地を曲がって、見えなくなった。


 足音が完全に消えてから、靈は木刀を持つ手の力を少し緩めた。

 手のひらに汗がある。

 石丸が靈の隣に来た。

「動きましたね」石丸は靈を見た。

「動きました」靈は答えた。「構えませんでしたが」

「それで十分でした」

 石丸が鳥居を見た。

「鎮魂の話、あの男に届いたと思いますか」

「届いたかどうかはわかりません」靈は答えた。「ただ、止まりました。それで今日は十分です」


 境内に入った。

 榊原が社殿の前に立っていた。健一がその隣にいた。

「終わりましたか」榊原は靈を見た。

「今日は、終わりました」

 榊原が社殿に向かって礼をした。靈も隣で礼をした。石丸も、少し離れた場所で礼をした。

 三人が、それぞれの角度で、同じ方向に首をさらした。

 境内に、しばらく静けさがあった。

 榊原が礼から戻して、空を見上げた。

「今日は大祓詞を、もう一度唱えなければいけませんな」ぽつりと言った。「死んだ人間が、今日また増えた」

 靈は返事をしなかった。

 その言葉の重さを、ただ受け取った。


 きゃるんが外周確認から戻ってきた。

 鳥居の前で礼をしてからくぐった。靈の前に来て、立ち止まった。

「終わりましたか、師匠」

「今日は、終わりました」

「東京のこと」きゃるんは少し間を置いた。「止められませんでしたね」

「止められませんでした」

「師匠は、悲しいですか」

 靈は少し考えた。

「悲しいかどうか、まだわかっていません」靈は答えた。「ただ、重い。体の中に、重いものが入ってきた感覚があります」

「私も重いです」きゃるんは続けた。「でも今日、神社は守れました」

「今日は、守れました」

「それでいいですか」

「今日は、それでいいです」


 夜、雨森から連絡が来た。

「今夜の川口の状況を報告します。南部で移民グループと自警団の衝突が続いています。負傷者が出ています。松永議員の事務所周辺にも人が集まっていて、警察が対応中です。川口だけでなく、複数の都市で同様の事態が起きています」

「全国規模になっていますか」

「なっています」雨森は続けた。「汚職議員リストの公開と、東京での事件が重なって、各地で抗議活動が実力行使に移っています。移民の強制送還に反対した移民グループの暴動も、大阪と名古屋で起きました。自警団による不法移民の強制排除も、複数の地域で確認されています」

「神社への動きは」

「川口だけでなく、他の地域の神社でも、今夜から地元の氏子が警戒を始めています。叢雲の他の支局から情報が入っています」


 続けて倉敷から連絡が来た。

「今日の川口の件、報告を受けました」

「拝郷さんが止めたと」

「今日は、止まりました」靈は答えた。「ただ、これは始まりだと思っています」

「その通りです」倉敷は続けた。「東京での件が成功したことで、皇道護民連合の活動が全国で活発化しています。私が組織内で抑止していたものが、完全に外れました」

「あなたには、止める手段がなくなりましたか」

「組織の内側からは、もうありません」倉敷は静かに言った。「ただ、一つだけ、やれることが残っています」

「なんですか」

「三田先生と話すことです」倉敷は続けた。「先生が、今夜公園にいると連絡してきました。行ってきます」

「行ってください」


 道場に戻ったのは、夜の十時過ぎだった。

 板の間に入り、靈はまず木刀を壁に戻した。

 それから、板の間の隅の真剣を見た。

 今日、木刀を使った。構えなかったが、体を動かした。零の型の最初の動作が、判断の時間を作った。

 ただ、今日起きたことの全体を見れば、靈が守れた範囲は極めて小さい。

 五人が死んだ。重体が七人いる。川口の南部で衝突が続いている。全国が動いている。

 靈は真剣に近づいた。

 鞘に手を置いた。

 木刀で対応できなくなる状況が、来るかもしれない。全国で起きていることが、川口に集中する日が来るかもしれない。

 手を離した。

 今夜はまだ、その日ではない。

 ただ、その日が来ることを、今日初めて、具体的な予感として感じた。


 板の間に戻り、靈は正座した。

 零の型を始める前に、道場に礼をした。

 今日、無事にここに戻った。それが最初の報告だ。

 礼から戻して、型を始めた。

 摺り足で板の間を移動しながら、今日一日を整理した。

 大臣が死んだ。議員が四人死んだ。重体が七人いる。川口の神社は、今日は守れた。

 鎮魂の話を、男に伝えた。届いたかどうかはわからない。ただ、止まった。

 型を終えた。

 窓の外に、川口の夜が広がっていた。どこかで、今夜も衝突が続いているはずだ。

 ただ、今夜はここに戻った。

 それで、今日は終わりだ。

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