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壱億総抜刀  作者: るふな


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第31話 「文書の波紋」

翌朝、靈は早く起きた。

 型を始める前にスマートフォンを確認した。夜中から朝にかけて、複数の連絡が届いていた。

 雨森から。健一から。西川から。石丸から。

 靈は順番に読んだ。

 読み終えてから、白湯を淹れた。

 飲みながら、窓の外を見た。川口の朝が広がっている。どこも変わらない朝に見えた。ただ、昨日と同じ朝ではない。


 健一からの連絡が一番長かった。

「昨夜から今朝にかけての状況をまとめます。皇道護民連合が、昨夜追加の文書を公開しました。汚職疑惑のある議員の経歴が公開され、その殆どが日本に帰化した者たちであることが判明しました。その帰化議員のリストに、新たに十七名が加わりました。それぞれの議員が関与した法案と、政策決定への介入の記録が添付されています」

 靈は続きを読んだ。

「特に注目を集めているのは、移民受け入れ拡大法案の立案過程の記録です。複数の帰化議員が、外国のロビイスト組織と連絡を取りながら法案を設計していた記録が、通信記録の形で公開されました。この記録の一部は、既存の国会議事録と照合が可能で、現時点で本物と確認されています」

 靈はそこで一度止まった。

 本物と確認されている。


「裁判官のリストも、追加されました」健一の文章は続いていた。「移民関連の事件を不起訴にした裁判官の名前と、帰化の記録が並んでいます。件数を集計すると、外国人犯罪者を不起訴にした案件の七割以上が、特定の裁判官グループに集中しています。そのほとんどが、帰化人であることが記録から確認できます」

「この情報の拡散速度は、昨夜の段階で昨日の三倍以上になっています。SNS上では、議員の実名と顔写真と現住所が組み合わさった投稿が大量に出回り始めています。削除が追いついていない状況です」

 靈は画面を閉じて、茶を飲んだ。

 削除が追いついていない。それは、情報が止まらないということだ。


 雨森からの連絡を次に読んだ。

「昨夜から今朝にかけて、全国十四都市でデモが発生しました。川口でも、昨夜の集団が解散した後、午前二時から別の集団が松永議員の事務所前に集まりました。現在も続いています。叢雲のスタッフが現場に出ていますが、人数が足りていません」

「帰化議員の一部が、昨夜から動きを変えています。リストに名前が出た議員のうち、三名が昨日中に東京の自宅から離れたことが確認されています。一名は在日外国大使館に接触を試みたという情報があります」

 靈はそこを二度読んだ。

 在日外国大使館に接触。

「SNSでは、この情報も拡散しています。『逃げた』という言葉と実名と顔写真が、大量に出回っています。一般市民が議員の動向をリアルタイムで追跡して投稿する、という形が生まれています」


 西川からの連絡は短かった。

「昨夜から今朝にかけての状況について、内閣安全保障会議が招集されています。文書の一部が本物と確認されたことで、政府内の対応が分かれています。文書を認めれば政権が揺らぐ。否定すれば、市民の怒りがさらに増す。どちらも選べない状況です」

「拝郷さんに一点だけ。帰化議員の一部が、諸外国への亡命を検討しているという情報があります。その動きをSNSで追跡されていることも把握しています。これは新しい段階に入ったことを意味します。今日以降、川口でどういう動きが出るかを、引き続き注視していただければ」


 石丸からの連絡は、一番短かった。

「昨夜解散した集団の一人から、連絡が来ました。今朝、議員の名前で検索していたら、その議員が昨夜深夜に議員会館から車で出たという投稿を見た、と言っていました。追おうとしている人間が複数いるようです。靈さん、これはどこに向かうと思いますか」

 靈はその問いに、すぐには答えなかった。

 スマートフォンを置いて、型を始めることにした。


 零の型を一度通してから、靈は雨森に電話した。

「文書の続報を確認しました。今日の川口の状況を、どう見ていますか」

「悪化します」雨森は言った。直接的だった。「昨日の集団が解散したのは、靈さんと石丸さんの働きかけがあったからです。ただ、今朝の状況はそれとは別の次元になっています」

「どういう意味ですか」

「昨日の集団は、怒りで動いていました。今朝の動きは、追跡です。議員の行動をリアルタイムで追いかけて、SNSに投稿して、群衆を誘導する。組織が動かしているわけではない。個人が自発的に、それぞれの判断で動いている」

「止める方法がない」

「話しかけて止められる相手が、どこにいるかわからない状態です」雨森は続けた。「昨日の集団には、先頭に立っている人間がいた。その人間に届けば、全体が動いた。今日の動きには、先頭がいない」


 靈は少し考えた。

「叢雲は今日、どう動きますか」

「松永議員の事務所前の集団への対応を続けます。ただ、本社からの指示が変わりました」

「変わった、というのは」

「今朝、本社から連絡がありました。今回の文書公開に関わる帰化議員の件について、叢雲は中立の立場を取れという指示です」

 靈は少し止まった。

「中立、というのはどういう意味ですか」

「双方に実力行使をさせない、という意味だと思います」雨森は続けた。「ただ、本社がそういう指示を出した理由が、私にはわかっています」

「なんですか」

「叢雲の利権構造に関わっている議員の中に、今回のリストに名前が出た人間がいます。叢雲が動くことで、その関係が表に出る可能性を、本社は恐れています」

「つまり、叢雲の都合で中立を取れと言っている」

「そうです」雨森の声は変わらなかった。「私は、その指示に従うつもりはありません。ただ、本社との関係が、今日を境にさらに厳しくなる可能性があります」


 午前中、健一が道場に来た。

 電話ではなく、直接来た。板の間に座って、スマートフォンを開きながら話した。

「父から、神社に来てほしいと言われています。ただ、その前に靈さんに話しておきたいことがあって」

「なんですか」

「帰化議員の追跡の件です」健一は画面を見せた。「今朝の時点で、SNS上に専用のスレッドが立っています。議員の名前ごとに、リアルタイムで行動を追跡して書き込む場所が作られています」

「誰が作ったんですか」

「わかりません。最初の投稿から六時間で、フォロワーが五十万を超えています。議員の行動が投稿されると、数分以内に近くにいる人間が現地に向かう、という連鎖が起きています」

 靈は画面を見た。

 地図上に、議員の位置を示すマークがついている。マークの周りに、向かっていると思われる人間のコメントが積み重なっていく。

「これは、まるで人間狩りですね」

「そうです」健一はうなずいた。「意図してそういう設計になっているのか、自然発生したのかはわかりません。ただ、機能としては、群衆が議員を囲い込む形になっています」


「諸外国への亡命の動きは」靈は聞いた。

「三名が確認されています」健一は画面を切り替えた。「一名は昨夜、在韓国大使館に接触を試みましたが、断られたという情報があります。SNSでその情報が出た時点で、大使館前に人が集まり始めました。もう一名は空港に向かおうとしたところを、空港でSNSを見ていた一般市民に囲まれています。今朝の段階で、その映像がSNSに出回っています」

「空港で囲まれた」

「暴力ではありません。ただ、大勢の市民が取り囲んで、カメラを向けている。出国できない状況です」

 靈は少し間を置いた。

「国家が機能していない状況ですね」

「機能不全というより」健一は慎重に言葉を選んだ。「国家の外側で、別の力が動いている状態です。SNSが情報共有のインフラになって、一般市民が自発的に動いている。良い意味でも、悪い意味でも」


「靈さんに一つ聞いていいですか」健一が言った。

「なんですか」

「これは、正しいことですか」

 靈は少し考えた。

「何が正しくて何が間違っているかを、今私が判断できる立場にないと思っています」靈は答えた。「文書が本物なら、それが明らかになることは、正しいことかもしれない。ただ、人を追い立てる方法が正しいかどうかは、別の問いです」

「二つは分けて考えるということですか」

「分けなければ、どちらかを否定したとき、もう一方まで否定することになります」靈は続けた。「汚職は明らかにされるべきです。ただ、人を追い立てることで、誰かが傷つくなら、それは別の問いとして考える必要があります」

 健一はしばらく黙っていた。

「父に伝えておきます」健一は立ち上がった。「神社に来てもらえますか。父が話したいことがあると言っています」


 午後、靈は八雲神社に向かった。

 鳥居の前で礼をしてからくぐった。

 榊原が社務所の前に立っていた。健一がその隣にいる。

「来てくれましたか」榊原は靈を見た。「話があります」

 社務所に入って、三人で座った。

 榊原は湯呑みを持ったまま、しばらく言葉を選んでいた。

「昨日、大祓詞を唱えました」榊原は言った。「亡くなった人間の魂を鎮めるために。今日もまた唱えました。また人が傷ついているので」

「どこかで」

「川口でも、です」榊原は湯呑みを置いた。「今朝、南部で移民グループと自警団が衝突しました。けが人が出ています。松永議員の事務所前でも、集まった人間と警察がもみ合っています」


「拝郷さんに聞きたいことがあります」榊原は靈を見た。「これは、終わりに向かっていますか。それとも、始まりですか」

 靈は少し考えた。

「始まりだと思います」靈は答えた。「今週起きたことは、長い間積み重なってきたものが、一気に表に出てきた状態です。表に出たものは、もう中に戻せない」

「そうですか」榊原はうなずいた。「わしもそう思います。ただ、わしには今、祝詞を唱えることしかできない」

「それは、十分なことです」

「十分ですか」榊原は靈を見た。「亡くなった人間への鎮魂と、傷ついた人間への祝詞を唱えることが、今の川口で何かを変えますか」

「変えます」靈は答えた。「ただ、すぐには見えない変え方です」

「どういう意味ですか」

「形が残ることが、時間をかけて意味になります」靈は続けた。「榊原さんが四十年、縄を張り替えてきたことが、注連縄の意味として残っていたように。今日唱えた大祓詞が、この神社の記録として残ります。それが、十年後、二十年後に意味を持つかもしれない」

 榊原はしばらく靈を見ていた。それから、ゆっくりとうなずいた。


 社務所を出ると、きゃるんが鳥居の前にいた。

 叢雲のスタッフと一緒に来ていた。境内に入る前に、礼をした。

 靈の前に来て、立ち止まった。

「師匠」きゃるんは普段よりも張り詰めた空気を纏っているように見えた。「今朝、SNSで見ました。議員が逃げようとして、空港で囲まれているやつ」

「見ましたか」

「怖かったです」きゃるんは続けた。「囲んでいる人たちが、悪いことをしているわけじゃない。ただ、怖かった」

「なぜ怖かったですか」

「誰かが一言命令しているわけじゃないのに、みんなが同じ方向に動いているから」きゃるんは言葉を選んだ。「それって、止め方がないじゃないですか」

「そうです」靈は答えた。「それが今日の状況の難しさです」

「師匠は、どうするつもりですか」

「今日、私にできることをします」靈は答えた。「全部を止めることはできない。ただ、目の前のことをやります」


 夕方、石丸が神社に来た。

 鳥居の前で礼をした。角度が、最初に会ったときより深くなっていた。

 靈の隣に来て、鳥居を見た。

「今日の川口を、歩いてきました」石丸は言った。「松永議員の事務所前の様子も見てきました」

「どうでしたか」

「怒っている人間と、何をしていいかわからない人間が、混ざっていました」石丸は続けた。「怒りは本物です。ただ、何をすれば怒りが報われるか、わかっていない人間が多い」

「あなたは、わかりますか」

「わかりません」石丸は正直に言った。「私も、長い間わからないまま動いてきた。ただ、今日の群衆を見て、少し前の自分を見ている気がしました」

 靈は返事をしなかった。

 石丸が続けた。

「昨日解散した集団の男から、今日連絡が来ました。議員の追跡スレッドを見ていたと言っていました。参加しようか迷っている、と」

「あなたは何と言いましたか」

「参加した後で、自分が何を手に入れるかを考えろ、と言いました」石丸は鳥居を見た。「父が毎朝頭を下げていた場所の話を、あの男にもしました。父が守ろうとしていたのは何かを、考えてみろ、と」

「その男は、どう答えましたか」

「まだ返信が来ていません」


 夜、靈は道場に戻った。

 西川から電話が来た。

「今日の全体状況を報告します。帰化議員のうち、現時点で六名が所在不明になっています。国内で追跡されている者が三名、出国を試みて阻止された者が二名、接触が取れない者が一名です」

「政府の対応は」

「緊急事態に近い状況ですが、宣言には至っていません。宣言すれば、文書の内容を実質的に認めることになる。それを避けようとしています」

「機動隊は」

「東京と大阪に集中しています。地方都市への展開が追いついていない」

「川口は」

「叢雲が動いていますが、限界に近い」西川は続けた。「拝郷さんに一点だけ。今夜、川口の帰化議員とされている人物の自宅周辺に、人が集まり始めています。叢雲の体制では対応しきれない可能性があります」


 靈は雨森に電話した。

「川口の議員の自宅周辺の状況を把握していますか」

「把握しています」雨森は疲れた声で答えた。「今夜は、そちらに人員を集中させます。神社の警備は最小限にします。拝郷さんに、一つお願いがあります」

「なんですか」

「今夜、川口の議員の自宅周辺に来てもらえますか。昨日の神社の前と同じように」

「行きます」

 靈は木刀を帯に差した。

 道場を出る前に、板の間を見回した。

 真剣が、隅にある。

 今夜も、木刀で行く。ただ、今夜が木刀で最後になるかどうかは、まだわからない。


 川口市内の議員の自宅近くに着いたのは、夜八時過ぎだった。

 路地に、二十名ほどの人間が集まっていた。昨日の集団とは、構成が違った。組織の腕章をつけた人間はいない。年齢も職業も、ばらついている様子だ。

 先頭に立っている人間が見えない。

 靈は少し止まった。

 昨日は、先頭に立っている人間に話しかけた。今日は、先頭がいない。

 雨森の言っていた通りだ。

 靈は集団の端に立った。

 声をかけなかった。

 ただ、木刀を帯に差したまま、その場に立った。

 気づいた数名が、靈を見た。木刀を見た。

 靈は動かなかった。

 一分ほど、静止していた。

 集団の中で、少しずつ声が低くなった。全員が黙ったわけではない。ただ、空気が変わった。

 靈の存在が、場に入った。


 三十分ほど、靈はその場にいた。

 話しかけなかった。ただ、立っていた。

 叢雲のスタッフが数名、路地の出口に配置されている。その存在と、靈の存在が、場の均衡を保っていた。

 完全には止まらなかった。数名が議員の自宅の方向を見て、動こうとする場面があった。そのたびに、靈がわずかに位置を変えた。零の型の動作ではない。ただ、体が動いた。

 午後九時過ぎ、叢雲のスタッフから連絡が来た。

「議員が、今夜自宅を離れました。別の場所に移動したという情報が、SNSに上がっています。集団がそちらに向かおうとしています」

 靈はスタッフに言った。

「向かう前に、もう一度だけ待ってください」

 靈は集団の前に出た。

「聞いてください」靈は言った。声を上げなかった。ただ、届くように言った。「今夜、この場所で何かをしても、文書の内容は変わりません。議員を追いかけることと、文書の真偽を確認することは、別のことです。真偽を確認することの方が、今あなたたちにできる一番の力の使い方だと思います」

 誰かが言った。

「それは、逃がせということですか」

「逃げる人間は、逃げます」靈は答えた。「ただ、逃げた記録も残ります。追いかけて暴力になった記録より、静かに逃げた記録の方が、長く残ります」

 沈黙があった。

 全員が散ったわけではなかった。ただ、動きが止まった。


 道場に戻ったのは、夜十一時を過ぎていた。

 板の間に入り、木刀を壁に戻した。

 今夜は、昨夜より体が疲れていた。

 構えなかった。ただ、立ち続けた。それだけのことが、体に残った。

 零の型を始めた。

 短く、三種類だけ通した。体を確認するための稽古だ。

 型を終えて、板の間に正座した。

 今夜の川口で、靈が変えられたことは小さい。集団の動きをわずかに遅らせただけだ。全国では、今夜も複数の場所で衝突が続いている。

 ただ、今夜の川口で、誰も大きな怪我をしなかった。

 それが今夜の結果だ。


 倉敷から、夜遅くにメッセージが来た。

「三田先生と話しました。先生が一つだけ言いました。今、日本で起きていることは、長い間封じられていたものが出てきた状態だと。封じていた蓋が外れた今、大事なのは何を守るかを明確にすることだ、と」

「何を守るか」靈は返信した。

「先生は、形を守ることだと言いました」倉敷から返信が来た。「大祓詞が今日も唱えられたこと。注連縄が今日も張られていること。礼が今日も行われていること。それを守ることが、今できる最も確実なことだと」

 靈はそのメッセージを、しばらく見ていた。

 形を守ること。

 今日、靈がやってきたことが、それだったかもしれない。話しかけたのではなく、その場に立ち続けたことが。

「三田さんに、伝えてください」靈は返信した。「今日も、神社の注連縄は切れていません」

 しばらくして、倉敷から返信が来た。

「先生は、それを聞いて笑っていました。それで十分です、と言っていました」


 靈は板の間に横になった。

 天井を見た。

 明日も、川口は動く。文書の波紋は広がり続ける。帰化議員の追跡は続く。衝突は続く。

 靈には、全部を止める力はない。

 ただ、明日も、この道場はここにある。道場があるから、靈はここにいる。ここにいるから、目の前のことをやる。

 それが、今の靈にできることだ。

 目を閉じた。

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