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壱億総抜刀  作者: るふな


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第32話 「叢雲の分岐」

翌朝、雨森から電話が来た。

 靈が型を終えてすぐだった。スマートフォンの画面に雨森の名前が出たとき、昨夜より声が疲れているだろうと思った。

「今日、伺ってもいいですか」

「どうぞ」

「今日は大安ではありません」雨森は少し間を置いた。「ただ、今日でなければいけない話があります」


 午前十時、雨森が道場に来た。

 靈が引き戸を開けると、いつものコートを着ているが、バッグを持っていなかった。手ぶらで来た。書類を持ってこない日の雨森は、組織としてではなく個人として話しに来た日だ。

 板の間に向かい合って座った。靈が茶を淹れて置くと、雨森は両手で受け取ったが、すぐには飲まなかった。

「本社から、最後通牒が来ました」

 靈は返事をしなかった。続きを待った。

「条件を二つ提示されました」雨森は茶碗を両手で持ったまま、テーブルを見た。「一つ、松永議員への警護条件として出した内部告発への協力要求を、正式に撤回すること。二つ、今回の一連の独断行動について、始末書を提出すること。この二つを今週中に行わなければ、川口支局長の職を解く、という内容です」

「期限は」

「今週金曜日です」


「雨森さんは、どうするつもりですか」

 雨森はしばらく茶碗を見ていた。

 道場の板の間に、静けさがあった。外から、川口の街の音が薄く入ってくる。

「拝郷さんに一つ聞いてもいいですか」

「どうぞ」

「私が叢雲に入った理由を、話したことがあります」

「廃社になった神社の代わりに、と」

「その理由と、今叢雲に残る理由が、まだ同じかどうかを、自分で確認できていません」雨森は顔を上げて靈を見た。「だから今日、来ました」

 靈は少し考えた。

「私には、答えられません」

「わかっています」雨森の目が、少し緩んだ。「ただ、聞きたかった」

「同じだと思いますか。自分では」

 雨森は視線をテーブルに落とした。

「叢雲に入ったとき、神社が守れなかったことを繰り返したくないと思っていました」静かに、言葉を選ぶように続けた。「廃社になった理由は、氏子が減ったことです。氏子が減ったのは、街が変わったからです。街が変わるのを、誰も止められなかった。だから、叢雲で動ける立場に入ることで、次は守れると思っていた」

「今は」

「叢雲が、守る対象を選んでいることがわかりました。都合のいいものを守り、都合の悪いものは見ない。それは、神社が廃社になっていく過程でも、同じことが起きていた」


「叢雲を出ることを、考えていますか」

 雨森は少し間を置いてから、うなずいた。

「ただ、出た後のことが、見えていません」

「見えていない状態で、出ることを決めることはできますか」

「できます」雨森は茶碗を置いた。「ただ、一人で決めたくなかった。こうして話しに来た理由は、そこにあります」

 靈は板の間を見た。

 雨森が一人で決めたくなかった、と言った。相談ではなく、話すことが目的だった。それは、礼と同じだ。相手に何かを求めるのではなく、自分の中にあるものをさらすこと。

「話してくれてよかったです」靈は雨森を見た。「一人で決めることと、話してから決めることは、別のことです。話してから決めた方が、決めた後で揺らぎにくい」

 雨森が少し目を細めた。

「それは、礼の話に似ていますね」

「似ているかもしれません」


「一つだけ聞かせてください」靈は続けた。「叢雲を出た後、川口でできることを失いますか」

「権限は失います」雨森は答えた。「ただ、権限がなくなることと、動けなくなることは、別のことだと思っています」

「それは、私が道場主であることと似ています」靈は言った。「肩書きではなく、場所があるから動ける」

「そうかもしれません」雨森は初めて、茶を一口飲んだ。「拝郷さんは、叢雲が組織として機能しなくなっても、川口で動けますか」

「動きます」靈は迷わず答えた。「道場があるから、ここにいます。それは変わりません」

 雨森はしばらく、茶碗を持ったまま靈を見ていた。


 雨森が帰り際、引き戸を開けながら振り返った。

「叢雲を出ることを決めました」

 靈は返事をしなかった。

「今、決まりました」雨森は続けた。「ここで話しながら、決まりました」

「本社への返答は」

「条件は撤回しません。始末書は出しません。その結果として職を解かれます」

 引き戸が開いて、川口の朝の空気が入ってきた。

「一つだけ」靈は雨森を見た。「今日が大安ではないことを、気にしていますか」

 雨森は少し考えてから、かすかに笑った。

「気にしていません。大安に動けることと、大安でなければ動けないことは、別のことだと、拝郷さんに教わった気がします」

 引き戸が閉まった。


 靈はしばらく、閉まった引き戸を見ていた。

 雨森が叢雲を出る。

 それは、川口の守り方が変わることを意味する。叢雲の権限縮小はすでに起きていたが、今度は叢雲との関係そのものが変わる。

 靈はスマートフォンを取り出して、きゃるんにメッセージを送った。

「雨森さんが叢雲を出ます。今後の叢雲との連絡窓口が変わる可能性があります。健一さんにも伝えてください」

 きゃるんからの返信は早かった。

「えっ。それって、川口の対応がどうなるんですか」

「今は確認中です。ただ、雨森さん個人としての動きは続きます」

「師匠は大丈夫ですか」

 靈は少し考えてから返信した。

「大丈夫です。変わることと、終わることは別のことです」


 昼前に、健一から連絡が来た。

「SNSの追跡スレッドの件で、新しい動きがあります。帰化議員のうち、一名が昨夜、民間のチャーター機で出国を試みていたことが今朝わかりました。ただ、出国審査で止まっています。止めたのは、水際での通報ではなく、その議員の動きを追っていた市民が空港に先回りしていたためです」

「先回りした」

「SNSのスレッドで、議員の動きを分析して行き先を予測した人間がいました。空港に向かうという投稿が出た時点で、空港付近にいた複数の人間が移動して、チャーター便の搭乗口付近で待機していた。映像がSNSに出回っています」

 靈は少し間を置いた。

「暴力は」

「ありません。ただ、完全に包囲された状態で搭乗を断念しています。今、議員は空港内にいるままだという情報があります」

「警察は動いていますか」

「空港内の警察官は現場にいます。ただ、市民が違法行為をしているわけではないので、排除できない状態です」


 西川から電話が来たのは、昼過ぎだった。

「雨森さんが叢雲を出ることを、把握しています」開口一番、そう言った。

「早いですね」

「本社への返答が今朝入ったそうです。想定していた展開ではありますが、川口の体制への影響を確認したかった」

「私は川口で動き続けます」靈は答えた。「体制の変化は、これから確認します」

「一点だけ確認させてください。今後、叢雲を通さずに内調と直接連絡を取ることを、拝郷さんは許容できますか」

 靈は少し考えた。

「雨森さんを通すことを、優先したい。ただ、緊急の場合は直接連絡することがあります」

「わかりました」西川は続けた。「帰化議員の状況ですが、今日の空港の件で、政府は正式な対応を避けられない状況になってきています。議員が逃げようとして止まった映像が、国内外に拡散しています。逃亡を試みた、という事実が記録として残った」

「逃げた記録が残る、と昨夜集団に言いました」

「そうなりましたね」西川の声に、珍しく感情のようなものが混じった。「拝郷さんが昨夜言った言葉が、今日の形で現れました」


 午後、靈は道場に座って本を読んでいた。

 「武士道と日本人」の、義の章だ。

「義とは、道理にかなった行為の決断である。ただし、義は状況によって形を変える。状況が変わっても、義の本質は変わらない。変わるのは、義が現れる形だ」

 靈はそこで本を閉じた。

 雨森が叢雲を出た。それは、雨森の義が叢雲の枠を超えたということだ。

 叢雲の権限がなくなっても、雨森が川口で動き続けるなら、形が変わっただけだ。

 靈も、道場主という肩書きで動いてきたわけではない。道場があるから動いた。道場がなくなっても、この場所はここにある。

 スマートフォンが鳴った。

 石丸からだった。

「昨日連絡した男から、返信が来ました。議員の追跡スレッドには参加しない、と言っています」

「理由は」

「父が守ろうとしていたのは、追いかけることではなかったと思う、と書いてありました」


 夕方、きゃるんが来た。

 稽古の日ではなかったが、靈は引き戸を開けた。

「叢雲の仕事、どうなりますか」板の間に入りながら、きゃるんは靈を見た。

「雨森さんが叢雲の外で動く形になります。叢雲として、ではなく、個人として」

「私の仕事は」

「叢雲の正式なスタッフとしての仕事は、変わる可能性があります。ただ、健一さんとの情報整理は、形が変わっても続けられると思います」

 きゃるんは板の間の中央に立って、少し考えた。

「師匠」

「なんですか」

「叢雲がなくなっても、川口は守れますか」

 靈は少し間を置いた。

「叢雲という枠がなくなることと、川口を守れなくなることは、別のことです」靈は答えた。「ただ、難しくなることは、ある」

「どのくらい難しくなりますか」

「今より難しくなります。ただ、今も十分に難しい」

 きゃるんが少し笑った。笑い声は聞こえたが、目は笑っていなかった。

「師匠らしい答えですね」

「そうですか」

「難しいけど、やる。いつもそういう答えです」


「稽古をしますか」靈は聞いた。

「します」きゃるんは即座に答えた。「今日、稽古したくて来ました」

「なぜ今日ですか」

「いろいろなことが変わっているから」きゃるんは木刀を受け取った。「変わっている日に、変わらないことをしたかった」

 靈は少し止まった。

 変わっている日に、変わらないことをしたかった。

「立ち方から始めましょう」靈は板の間の中央に立った。

 きゃるんが隣に立った。

 二人で向かい合って、礼をした。

 首の後ろをさらす。今日も、この場所への誠意として。


 稽古を一時間やった。

 素振りの三種類を通して、最後に靈がきゃるんの正面に立った。

「今日は、一つ新しいことをやります」

「なんですか」

「間合いの確認です」靈は木刀を持ったまま、きゃるんから三歩の距離に立った。「木刀の届く距離と、届かない距離を体で覚える。攻める前に、まず距離を知る」

「それは、戦う準備ですか」

「戦う前の準備です」靈は続けた。「距離を知ることは、戦うためだけでなく、退くためにも必要です。いつ退けるかを知っていれば、退くべきときに退ける」

 きゃるんは靈との距離を、目で測るような顔をした。

「師匠は、今まで退いたことがありますか」

 靈は少し考えた。

「退いたことは、あります。今夜の川口の集団に立ったとき、完全には止められなかった。それは、退いた場面でもありました」

「退くことは、負けですか」

「退くことで、次に動ける場所がある。それは負けではありません」


 稽古が終わって、二人で板の間に座った。

 靈が茶を淹れると、きゃるんは両手で受け取った。

「師匠、一つ聞いていいですか」

「なんですか」

「雨森さんが叢雲を出た理由は、師匠と話したからですか」

「話した結果、決まったと言っていました」

「師匠が何か言ったんですか」

「廃社になった神社の代わりに叢雲に入った理由と、今叢雲に残る理由が、まだ同じかどうかを、自分で確認できていないと雨森さんが言いました」靈は続けた。「それに対して、私は一つだけ聞きました。叢雲を出た後、川口でできることを失いますか、と」

「それだけですか」

「それだけです」

 きゃるんはしばらく茶碗を見ていた。

「師匠の質問って、いつも一個だけですね。ただ、その一個で相手が決まる」

「そうですか」

「そうです」きゃるんは顔を上げた。「私も、師匠に聞かれた一個の質問で、いろんなことが決まってきた気がします」

「どの質問ですか」

「居合を続けている理由は、今も最初と同じですか、って聞かれたとき」きゃるんは言った。「あの質問で、続けることを決めました」


 きゃるんが帰った後、靈は板の間に座った。

 夜が近づいていた。

 今日起きたことを整理した。

 雨森が叢雲を出ることを決めた。空港で帰化議員の逃亡が記録された。石丸が伝えた男が追跡スレッドへの参加をやめた。

 全部を止めることはできていない。ただ、今日の川口で、大きな暴力は起きなかった。

 雨森から夜にメッセージが来た。

「本社への返答を送りました。始末書は出しません、条件は撤回しません、という内容で。金曜日付で、川口支局長の職が解かれることになります」

「その後は」

「個人として川口で動きます。拝郷さん、引き続きよろしくお願いします」

 靈は少し間を置いてから返信した。

「こちらこそ、よろしくお願いします」


 板の間に立ち、木刀を手に取った。

 零の型を始めた。

 今夜は、いつもより丁寧に動いた。一つ一つの所作を確認しながら。重心の位置、呼吸のタイミング、摺り足の感触。

 型をやりながら、靈は今日の雨森の言葉を思い出した。

 叢雲に入ったとき、神社が守れなかったことを繰り返したくないと思っていた。

 叢雲を出ることで、雨森はまた、守る枠を失う。ただ、失うことが守れなくなることではない。

 靈も、道場の外で動くたびに、道場主という枠の外に出ていた。ただ、道場に戻るたびに、守るべきものがここにあることを確認してきた。

 型を終えた。

 木刀を壁に戻した。

 板の間の隅の真剣を見た。

 今夜は、触れなかった。

 ただ、明日以降、叢雲の枠がなくなった川口で、何が起きるかによって、今夜と違う判断をする日が来るかもしれない。

 靈は正座した。

 零の状態でいる。始まる前の、全部の可能性がある場所。

 ただ、今夜の零には、昨日より具体的なものが入っていた。

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