第33話 「雨森の次の場所」
雨森が正式に叢雲を離れたのは、金曜日だった。
その日の夕方、道場にメッセージが来た。
「本日付で、川口支局長の職が解かれました。明日、伺ってもいいですか」
靈は返信した。
「どうぞ。明日は友引です」
少し間があって、返信が来た。
「友引に伺います。友を引く日に、ちょうどいい用件です」
翌朝、靈は早めに道場を整えた。
座布団を出して、茶器を確認した。それから、板の間を改めて見回した。
百年近い柱。曾祖父が彫った看板の文字。壁に立てかけた木刀の列。奥の六畳間の本棚。
雨森が提案を持ってくることは、昨日のメッセージの言い回しでわかっていた。「用件がある」という意味が、友引という言葉に込められていた。
靈は板の間の中央に立って、一度礼をした。
この場所に、新しいことが入ってくるかもしれない。その前に、場所への誠意として。
午前十時、チャイムが鳴った。
引き戸を開けると、雨森が立っていた。
コートを着て、手ぶらだ。バッグも、ファイルも、タブレットも持っていない。叢雲の社員だったときと、同じコートを着ている。ただ、立ち方が少し違った。肩の位置が、わずかに下がっている。
「来ました」
「どうぞ」
板の間に通した。
雨森は座布団に座る前に、道場を見回した。柱を見て、木刀を見て、奥の六畳間を覗いた。以前来たときも同じことをしていたが、今日は少し時間をかけた。
「叢雲を出て、初めてここに来ます」雨森は座布団に座りながら言った。「同じ場所なのに、見え方が違います」
「どう違いますか」
「以前は、仕事で来ていた。今日は、そうではない」
靈が茶を淹れて置くと、雨森は両手で受け取った。一口飲んでから、膝の上に置いた。
「一つ、提案があります」
「聞きます」
「拝郷道場を、川口の情報拠点として使わせてほしい」雨森はテーブルを見たまま続けた。「叢雲を出たことで、使える場所がなくなりました。ただ、川口での動きを続けるためには、情報を集めて整理できる場所が必要です。健一さん、きゃるんさんと連絡を取る拠点として、この道場を使わせてもらえないかと思っています」
「費用は」
「出します。家賃という形ではなく、運営の一部を負担する形で」
「それは必要ありません」靈は茶を飲んだ。「ただ、一つだけ条件があります」
雨森が顔を上げた。
「なんですか」
「道場に来るときは、礼をしてから入ること。それだけです」
雨森は少し止まった。
「叢雲のスタッフが来るときも、ですか」
「叢雲のスタッフは、もういません」靈は答えた。「来るのは、雨森さんと、健一さんと、きゃるんさん。それぞれが、礼をして入ること」
「理由を聞いてもいいですか」
「この場所に、礼をすることで、来る理由が整います」靈は続けた。「急いでいるときも、怒っているときも、礼をすることで少し落ち着く。情報拠点として使うなら、落ち着いた状態で情報を判断する場所にしたい」
雨森はしばらく考えた。
「わかりました。その条件で、お願いします」
「一つ聞いてもいいですか」靈は雨森を見た。
「なんですか」
「叢雲を出た今、後悔はありますか」
雨森はすぐには答えなかった。
道場の外から、川口の街の音が入ってくる。車の音、どこかの店のドアが開く音、知らない言語で話す声。
「後悔は、今のところありません」雨森は茶碗を持ち直した。「ただ、今日で叢雲を出てから一日目です。後悔が来るとしたら、これからかもしれません」
「来たときは」
「また話しに来ます」雨森は少し表情を動かした。「叢雲にいたときも、来ていた。出た後も、来ていい場所だと思っています」
「どうぞ」
雨森が、かすかに笑った。
昼前に、きゃるんが来た。
チャイムを鳴らして引き戸を開ける前に、鳥居のように道場の入り口で礼をしようとして、立ち止まった。引き戸の前で頭を下げてから、中に入ってきた。
靈と雨森の両方を見て、少し目を丸くした。
「二人ともいた」
「来てもらいたかったのです」雨森が言った。「今後の動き方について、話したいことがあります」
きゃるんは座布団を自分で持ってきて、二人の前に座った。
「聞きます」
「叢雲の外で動くことになりました」雨森は続けた。「川口での活動は続けます。ただ、叢雲の権限がなくなった分、情報収集と判断の方法が変わります」
「私の仕事は変わりますか」
「変わります。叢雲のスタッフとしての契約は終わりになります」
きゃるんは少し黙った。
「困ります」きゃるんはテーブルを見た。「収入がなくなる」
「それについて、一つ提案があります」雨森は続けた。「叢雲を出た後、私は別の形で活動資金を確保する予定があります。きゃるんさんと健一さんに、同じ条件で協力をお願いできれば、と思っています。叢雲のスタッフとしてではなく、個人としての契約です」
「金額は」
「叢雲での報酬と同等か、それ以上にします」
きゃるんがゆっくりと顔を上げた。
「雨森さん、お金はどこから来るんですか」
「松永議員への内部告発の件が、今動いています。告発に協力した立場として、別の組織からの支援を得られる見込みがあります。詳細は確認中ですが、活動を続けるための資金は確保できます」
「その話、信用していいですか」
「信用してもいいです」雨森は真っ直ぐきゃるんを見た。「ただ、確実に保証できるのは、来月分までです。それ以降は、状況次第です」
「正直ですね」
「嘘をついて来てもらっても、意味がないので」
きゃるんが少し考えてから口を開いた。
「師匠は、どう思いますか」
靈は少し考えた。
「あなたが判断することです」靈は答えた。「ただ、一つ聞いていいですか」
「なんですか」
「川口で続けたいと思うかどうかを、自分に聞いてみてください。お金の話より先に」
きゃるんはしばらく黙っていた。
道場の板の間に、静けさがあった。
「続けたいです」きゃるんは言った。「川口でやってきたことを、続けたい。お金の問題は、その次の話です」
「では、雨森さんの提案を受けてもいいと思います」靈は言った。「資金が続かなくなったときは、そのときにまた考えればいい」
昼過ぎに、健一が来た。
道場の前で、きゃるんと同じように、引き戸の前で礼をしてから入ってきた。
「さっき、きゃるんさんからメッセージが来ました。礼をしてから入るって聞いていたので」
「来てくれてよかったです」雨森が言った。
健一は座布団を取って座り、三人を見た。
「今後の話ですか」
「そうです」
雨森が、きゃるんに話した内容と同じことを健一に説明した。叢雲の外での活動継続、個人としての契約、資金の見込みと不確実性。
健一は黙って聞いていた。話が終わると、少し考えてから言った。
「私の仕事の内容は、変わりますか」
「変わりません。SNSの分析と情報整理の継続です。ただ、叢雲のシステムにはアクセスできなくなります」
「独自のシステムを作る必要がありますか」
「できれば、そうしてほしい」
「わかりました」健一はうなずいた。「やります。ただ、一つ確認してもいいですか」
「なんですか」
「父は、この話を知っていますか」
雨森が少し止まった。
「まだ話していません」
「父に話してもいいですか。神社と今後の動きの関係を、父は把握していた方がいいと思います」
「お願いします」雨森はうなずいた。「榊原さんには、私から改めて伺います」
四人で、今後の動き方を大まかに整理した。
道場を情報拠点として使う。健一が独自のシステムを構築する。きゃるんが現場の確認と情報収集を続ける。雨森が全体の調整をする。靈は、これまで通り現場で動く。
叢雲という組織の枠がなくなった分、四人それぞれの判断の比重が増える。
「一つ、確認したいことがあります」靈は四人を見た。「今後、川口で何かが起きたとき、誰がどういう基準で動くかを、今日決めておきたい」
「基準とは」
「叢雲には、判断の枠がありました。民間治安補完法の範囲内で動く、という枠です。今後は、その枠がありません。それぞれが、自分の判断で動くことになります。その判断が食い違ったとき、どうするかを決めておく必要があります」
四人が少し黙った。
「どう決めますか」雨森が靈を見た。
「ここで話すことにします」靈は板の間を見た。「この場所で話した結果を、それぞれの判断の基準にする。全員が同意しなくても、話したことで判断の根拠が共有される」
「それは、会議ということですか」
「会議ではなく、対話です」靈は続けた。「決議をするのではなく、話すことで、それぞれが自分の判断を整える」
きゃるんが手を上げるような仕草をした。
「一つ聞いていいですか」
「なんですか」
「師匠は、今日決めたことで、叢雲がなくなっても川口で動けると思いますか」
靈は少し考えた。
「思っています」靈は答えた。「ただ、叢雲があったときより、全部が難しくなります」
「全部が難しくなるのに、なぜそう思えますか」
「難しくなることと、できなくなることは別のことだからです」靈は続けた。「叢雲があったときも、できなかったことがあった。今日できることの範囲が変わっても、やることは変わりません」
きゃるんがうなずいた。
「師匠の答えです」
「そうですか」
「はい。難しい、でもやる。それがいつも師匠の答えです」
夕方、四人がそれぞれ帰っていった。
最後に残った雨森が、引き戸を開けながら振り返った。
「今日、礼をしてから入りました」
「礼…」靈は少し考えた。「引き戸の前で、してきました」
「見ていました」
「そうですか」
「拝郷さんの道場の条件を守れました」雨森はかすかに笑った。「一日目から」
引き戸が閉まった。
靈は一人、板の間に立った。
今日、道場が新しい役割を持った。
ただ、道場は変わっていない。柱は同じ柱で、木刀は同じ本数で、板の間は同じ広さだ。
使われ方が変わるだけだ。
靈は木刀を一本手に取った。
型を始める前に、道場に礼をした。
今日起きたことへの、報告として。新しい使われ方が始まることへの、誠意として。
礼から戻して、型を始めた。
摺り足で板の間を移動しながら、靈は今日話した四人の顔を頭の中に通した。
雨森が叢雲を出た。きゃるんが続けることを選んだ。健一が独自のシステムを作ると言った。全員が、礼をして入ってきた。
形が変わった。ただ、来ることは変わらなかった。
型を終えて、木刀を壁に戻した。
板の間の隅の真剣を見た。
今夜も、触れなかった。
ただ、以前より遠い気がしなくなってきている。
真剣を抜く日が来るとしたら、それはこの道場のためではなく、この道場に来る人間のためになるはずだ。
その日が来るかどうかは、まだわからない。
ただ、来る可能性を、靈は以前より具体的に感じていた。




