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壱億総抜刀  作者: るふな


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33/57

第33話 「雨森の次の場所」

雨森が正式に叢雲を離れたのは、金曜日だった。

 その日の夕方、道場にメッセージが来た。

「本日付で、川口支局長の職が解かれました。明日、伺ってもいいですか」

 靈は返信した。

「どうぞ。明日は友引です」

 少し間があって、返信が来た。

「友引に伺います。友を引く日に、ちょうどいい用件です」


 翌朝、靈は早めに道場を整えた。

 座布団を出して、茶器を確認した。それから、板の間を改めて見回した。

 百年近い柱。曾祖父が彫った看板の文字。壁に立てかけた木刀の列。奥の六畳間の本棚。

 雨森が提案を持ってくることは、昨日のメッセージの言い回しでわかっていた。「用件がある」という意味が、友引という言葉に込められていた。

 靈は板の間の中央に立って、一度礼をした。

 この場所に、新しいことが入ってくるかもしれない。その前に、場所への誠意として。


 午前十時、チャイムが鳴った。

 引き戸を開けると、雨森が立っていた。

 コートを着て、手ぶらだ。バッグも、ファイルも、タブレットも持っていない。叢雲の社員だったときと、同じコートを着ている。ただ、立ち方が少し違った。肩の位置が、わずかに下がっている。

「来ました」

「どうぞ」

 板の間に通した。

 雨森は座布団に座る前に、道場を見回した。柱を見て、木刀を見て、奥の六畳間を覗いた。以前来たときも同じことをしていたが、今日は少し時間をかけた。

「叢雲を出て、初めてここに来ます」雨森は座布団に座りながら言った。「同じ場所なのに、見え方が違います」

「どう違いますか」

「以前は、仕事で来ていた。今日は、そうではない」


 靈が茶を淹れて置くと、雨森は両手で受け取った。一口飲んでから、膝の上に置いた。

「一つ、提案があります」

「聞きます」

「拝郷道場を、川口の情報拠点として使わせてほしい」雨森はテーブルを見たまま続けた。「叢雲を出たことで、使える場所がなくなりました。ただ、川口での動きを続けるためには、情報を集めて整理できる場所が必要です。健一さん、きゃるんさんと連絡を取る拠点として、この道場を使わせてもらえないかと思っています」

「費用は」

「出します。家賃という形ではなく、運営の一部を負担する形で」

「それは必要ありません」靈は茶を飲んだ。「ただ、一つだけ条件があります」

 雨森が顔を上げた。

「なんですか」

「道場に来るときは、礼をしてから入ること。それだけです」

 雨森は少し止まった。

「叢雲のスタッフが来るときも、ですか」

「叢雲のスタッフは、もういません」靈は答えた。「来るのは、雨森さんと、健一さんと、きゃるんさん。それぞれが、礼をして入ること」

「理由を聞いてもいいですか」

「この場所に、礼をすることで、来る理由が整います」靈は続けた。「急いでいるときも、怒っているときも、礼をすることで少し落ち着く。情報拠点として使うなら、落ち着いた状態で情報を判断する場所にしたい」

 雨森はしばらく考えた。

「わかりました。その条件で、お願いします」


「一つ聞いてもいいですか」靈は雨森を見た。

「なんですか」

「叢雲を出た今、後悔はありますか」

 雨森はすぐには答えなかった。

 道場の外から、川口の街の音が入ってくる。車の音、どこかの店のドアが開く音、知らない言語で話す声。

「後悔は、今のところありません」雨森は茶碗を持ち直した。「ただ、今日で叢雲を出てから一日目です。後悔が来るとしたら、これからかもしれません」

「来たときは」

「また話しに来ます」雨森は少し表情を動かした。「叢雲にいたときも、来ていた。出た後も、来ていい場所だと思っています」

「どうぞ」

 雨森が、かすかに笑った。


 昼前に、きゃるんが来た。

 チャイムを鳴らして引き戸を開ける前に、鳥居のように道場の入り口で礼をしようとして、立ち止まった。引き戸の前で頭を下げてから、中に入ってきた。

 靈と雨森の両方を見て、少し目を丸くした。

「二人ともいた」

「来てもらいたかったのです」雨森が言った。「今後の動き方について、話したいことがあります」

 きゃるんは座布団を自分で持ってきて、二人の前に座った。

「聞きます」


「叢雲の外で動くことになりました」雨森は続けた。「川口での活動は続けます。ただ、叢雲の権限がなくなった分、情報収集と判断の方法が変わります」

「私の仕事は変わりますか」

「変わります。叢雲のスタッフとしての契約は終わりになります」

 きゃるんは少し黙った。

「困ります」きゃるんはテーブルを見た。「収入がなくなる」

「それについて、一つ提案があります」雨森は続けた。「叢雲を出た後、私は別の形で活動資金を確保する予定があります。きゃるんさんと健一さんに、同じ条件で協力をお願いできれば、と思っています。叢雲のスタッフとしてではなく、個人としての契約です」

「金額は」

「叢雲での報酬と同等か、それ以上にします」

 きゃるんがゆっくりと顔を上げた。

「雨森さん、お金はどこから来るんですか」

「松永議員への内部告発の件が、今動いています。告発に協力した立場として、別の組織からの支援を得られる見込みがあります。詳細は確認中ですが、活動を続けるための資金は確保できます」

「その話、信用していいですか」

「信用してもいいです」雨森は真っ直ぐきゃるんを見た。「ただ、確実に保証できるのは、来月分までです。それ以降は、状況次第です」

「正直ですね」

「嘘をついて来てもらっても、意味がないので」


 きゃるんが少し考えてから口を開いた。

「師匠は、どう思いますか」

 靈は少し考えた。

「あなたが判断することです」靈は答えた。「ただ、一つ聞いていいですか」

「なんですか」

「川口で続けたいと思うかどうかを、自分に聞いてみてください。お金の話より先に」

 きゃるんはしばらく黙っていた。

 道場の板の間に、静けさがあった。

「続けたいです」きゃるんは言った。「川口でやってきたことを、続けたい。お金の問題は、その次の話です」

「では、雨森さんの提案を受けてもいいと思います」靈は言った。「資金が続かなくなったときは、そのときにまた考えればいい」


 昼過ぎに、健一が来た。

 道場の前で、きゃるんと同じように、引き戸の前で礼をしてから入ってきた。

「さっき、きゃるんさんからメッセージが来ました。礼をしてから入るって聞いていたので」

「来てくれてよかったです」雨森が言った。

 健一は座布団を取って座り、三人を見た。

「今後の話ですか」

「そうです」

 雨森が、きゃるんに話した内容と同じことを健一に説明した。叢雲の外での活動継続、個人としての契約、資金の見込みと不確実性。

 健一は黙って聞いていた。話が終わると、少し考えてから言った。

「私の仕事の内容は、変わりますか」

「変わりません。SNSの分析と情報整理の継続です。ただ、叢雲のシステムにはアクセスできなくなります」

「独自のシステムを作る必要がありますか」

「できれば、そうしてほしい」

「わかりました」健一はうなずいた。「やります。ただ、一つ確認してもいいですか」

「なんですか」

「父は、この話を知っていますか」

 雨森が少し止まった。

「まだ話していません」

「父に話してもいいですか。神社と今後の動きの関係を、父は把握していた方がいいと思います」

「お願いします」雨森はうなずいた。「榊原さんには、私から改めて伺います」


 四人で、今後の動き方を大まかに整理した。

 道場を情報拠点として使う。健一が独自のシステムを構築する。きゃるんが現場の確認と情報収集を続ける。雨森が全体の調整をする。靈は、これまで通り現場で動く。

 叢雲という組織の枠がなくなった分、四人それぞれの判断の比重が増える。

「一つ、確認したいことがあります」靈は四人を見た。「今後、川口で何かが起きたとき、誰がどういう基準で動くかを、今日決めておきたい」

「基準とは」

「叢雲には、判断の枠がありました。民間治安補完法の範囲内で動く、という枠です。今後は、その枠がありません。それぞれが、自分の判断で動くことになります。その判断が食い違ったとき、どうするかを決めておく必要があります」

 四人が少し黙った。

「どう決めますか」雨森が靈を見た。

「ここで話すことにします」靈は板の間を見た。「この場所で話した結果を、それぞれの判断の基準にする。全員が同意しなくても、話したことで判断の根拠が共有される」

「それは、会議ということですか」

「会議ではなく、対話です」靈は続けた。「決議をするのではなく、話すことで、それぞれが自分の判断を整える」


 きゃるんが手を上げるような仕草をした。

「一つ聞いていいですか」

「なんですか」

「師匠は、今日決めたことで、叢雲がなくなっても川口で動けると思いますか」

 靈は少し考えた。

「思っています」靈は答えた。「ただ、叢雲があったときより、全部が難しくなります」

「全部が難しくなるのに、なぜそう思えますか」

「難しくなることと、できなくなることは別のことだからです」靈は続けた。「叢雲があったときも、できなかったことがあった。今日できることの範囲が変わっても、やることは変わりません」

 きゃるんがうなずいた。

「師匠の答えです」

「そうですか」

「はい。難しい、でもやる。それがいつも師匠の答えです」


 夕方、四人がそれぞれ帰っていった。

 最後に残った雨森が、引き戸を開けながら振り返った。

「今日、礼をしてから入りました」

「礼…」靈は少し考えた。「引き戸の前で、してきました」

「見ていました」

「そうですか」

「拝郷さんの道場の条件を守れました」雨森はかすかに笑った。「一日目から」

 引き戸が閉まった。


 靈は一人、板の間に立った。

 今日、道場が新しい役割を持った。

 ただ、道場は変わっていない。柱は同じ柱で、木刀は同じ本数で、板の間は同じ広さだ。

 使われ方が変わるだけだ。

 靈は木刀を一本手に取った。

 型を始める前に、道場に礼をした。

 今日起きたことへの、報告として。新しい使われ方が始まることへの、誠意として。

 礼から戻して、型を始めた。

 摺り足で板の間を移動しながら、靈は今日話した四人の顔を頭の中に通した。

 雨森が叢雲を出た。きゃるんが続けることを選んだ。健一が独自のシステムを作ると言った。全員が、礼をして入ってきた。

 形が変わった。ただ、来ることは変わらなかった。

 型を終えて、木刀を壁に戻した。

 板の間の隅の真剣を見た。

 今夜も、触れなかった。

 ただ、以前より遠い気がしなくなってきている。

 真剣を抜く日が来るとしたら、それはこの道場のためではなく、この道場に来る人間のためになるはずだ。

 その日が来るかどうかは、まだわからない。

 ただ、来る可能性を、靈は以前より具体的に感じていた。

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