第34話 「榊原の決断」
翌日の朝、雨森から短いメッセージが来た。
「今日、榊原さんに会いに行きます。健一さんから話は通してもらいましたが、直接伺う必要があると思っています」
靈は返信した。
「同席しますか」
「今回は一人で行きます。叢雲を出たことを、私自身の言葉で伝えたい」
「わかりました」
靈はスマートフォンを置いて、朝の型を続けた。
零の型を通しながら、榊原と雨森が向かい合う場面を少し想像した。榊原がどう受け取るか、靈には予測できなかった。ただ、雨森が一人で行くと決めたことが、正しい判断だと思った。
午後、健一からメッセージが来た。
「雨森さんが神社に来ています。父と話しています。私は離れた場所にいます」
「様子は」
「二人とも、落ち着いています。父が何か聞いていて、雨森さんが答えている。そういう流れが続いています」
靈は了解と返信して、板の間で本を読んだ。
「古事記 現代語訳」の、スサノオが出雲で根を張る場面だ。追放された後、出雲で家を作り、妻を娶り、子をもうける。英雄の行為の後に来る、定住の話。
英雄になることと、その場所に留まることは、続いている。
夕方、雨森から電話が来た。
「榊原さんと話しました。報告させてください。今日伺ってもいいですか」
「どうぞ」
一時間後、雨森が道場に来た。
引き戸の前で礼をしてから入ってきた。昨日、条件を決めてから一日も経っていないが、自然な動作だった。
板の間に座って、靈が茶を置くと、両手で受け取った。
「榊原さんに、叢雲を出たことを話しました」
「どう受け取りましたか」
「驚いた顔はしませんでした」雨森は茶碗を持ったまま続けた。「健一さんから聞いていたからかもしれない。ただ、じっくりと聞いてくれました。なぜ出たのか、今後どうするのかを、順番に聞いてきた」
「何を一番長く聞きましたか」
「神社をどう守るつもりか、という話です」
「叢雲の権限がなくなった分、神社の周辺警備が薄くなることを、榊原さんは正確に理解していました」雨森は続けた。「ただ、そこから先の話が、私の予想と違う方向に進みました」
「どういう方向ですか」
「榊原さんが、一つだけ聞いてきました」雨森は茶碗を置いた。「あなたは、神職の資格を今も持っていますか、と」
靈は少し止まった。
「持っていると答えましたか」
「持っています、と答えました」雨森は靈を見た。「廃社になった後も、資格は維持していました。更新の手続きを、毎年続けていた。なぜ続けていたのかは、自分でも明確な理由がなかった。ただ、手放す気になれなかった」
「榊原さんは、何と言いましたか」
雨森は少し間を置いた。
「榊原さんの表情が変わりました。驚き、というより、何かが決まった顔でした」雨森は続けた。「それから、こう言いました。八雲神社に、来てもらえないか、と」
「来てもらえないか、とは」
「常駐ではありません。ただ、必要なときに神職として関わってほしい、という意味です」雨森は手を膝の上で組んだ。「榊原さん自身は氏子総代であり、神社の管理者です。ただ、神職ではない。神事を執り行うためには、神職の資格を持つ人間が必要な場面がある。これまでは、他の神社から来てもらっていたそうです」
「それを、あなたに頼みたいと」
「そうです」
靈はしばらく、板の間を見た。
廃社になった神社の元宮司が、別の神社に関わる。資格を手放さなかったことが、ここで繋がった。
「受けるつもりですか」
「受けると答えました」雨森は顔を上げた。「叢雲を出て、次の場所を探していた。次の場所が、今日見つかりました」
「今日一日で、決めたんですか」
「榊原さんに聞かれた瞬間に、決まりました」雨森は続けた。「廃社になったとき、神社を守れなかった。その後悔が、ずっとありました。別の神社で、別の形で関わることを、抵抗があって考えてこなかった。ただ、今日榊原さんに聞かれたとき、その抵抗が、理由のない抵抗だったことがわかりました」
「理由のない抵抗とは」
「廃社になった神社への義理を、別の神社に関わることが裏切るような感覚がありました。ただ、廃社になった神社が守ろうとしていたものを、別の場所で守ることは、裏切りではない。榊原さんの顔を見て、そう思いました」
靈は茶を一口飲んだ。
「榊原さんは、なぜあなたが神職の資格を持っているかもしれないと、思ったんですか」
「聞きました」雨森は少し表情を動かした。「榊原さんは、あなたから聞いた、と言っていました」
「私から」靈は少し止まった。「確かに、叢雲に入る前に神職をしていたと、話した覚えがあります。廃社になったことも」
「それを榊原さんは、ずっと覚えていた。今日、私が来ると聞いて、聞いてみようと思ったそうです」
靈は少し考えた。
榊原が、雨森の来訪を聞いて、神職の資格の話を聞こうと準備していた。健一が父に話を通した。父は聞いていた。
繋がっていた。
「一つ聞いてもいいですか」靈は雨森を見た。
「なんですか」
「廃社になった神社のことを、今後どう思っていくつもりですか」
雨森はしばらく考えた。
「廃社になったことは、変わりません」雨森は静かに言った。「ただ、廃社になった理由を、変えることはできます」
「理由を変える、とはどういう意味ですか」
「廃社になったのは、氏子が減ったからです。氏子が減ったのは、街が変わったからです。街が変わることを止められなかった」雨森は続けた。「ただ、今の川口で起きていることを見ていると、街が変わる方向が、また変わろうとしている。その変化の中で、八雲神社が残ることに関わることができれば、廃社になった神社が失ったものの一部を、別の形で残せるかもしれない」
「それは、代替ではなく継続ですね」
「そう思っています」
夜になって、石丸から連絡が来た。
「川口南部の状況を確認しました。今週は、自警団の動きが少し落ち着いています。帰化議員の追跡スレッドに参加していた人間の一部が、今日は動いていない」
「理由は」
「空港の件が報道されてから、動き方を考え直している人間が出てきているようです。逃げようとして記録が残った、という事実が、SNS上での議論の方向を変えています。追いかけることより、記録を集めることに力を入れようという流れが生まれています」
「靈さんが昨夜言った言葉が、広がっているということですか」
「正確には、昨夜あの場にいた人間の何人かが、同じ内容をSNSに書いたようです。それが拡散しています」
靈は少し間を置いた。
「私が言ったことを、その場にいた人間が広めた」
「そうなります」石丸は続けた。「これは、止め方が見えなかった動きの、方向が変わった場面だと思います」
きゃるんから夜にメッセージが来た。
「師匠、今日のSNSで面白いことが起きています」
「なんですか」
「帰化議員の追跡スレッドが、追跡から記録に変わり始めています。議員を追いかけるのではなく、議員の行動と文書の内容を照合して、証拠として保存しようという動きです。昨夜師匠が言ったことと、同じ方向です」
「あなたはどう思いますか」
「いい変化だと思います」しばらくして返信が来た。「追いかけることは、怖かった。記録することは、怖くない。同じ怒りが、違う形になっています」
「怒りの形が変わった」
「はい」もう一つ返信が来た。「師匠、雨森さんが神社に関わることになったって、健一さんから聞きました。本当ですか」
「本人から聞きましたか」
「聞いていません。健一さん経由です」
「本当です」
少し間があって返信が来た。
「なんか、いろいろなことが繋がっていますね」
「そうかもしれません」
「師匠が言っていた、繋ぐ役割って、こういうことですか」
靈は少し考えてから返信した。
「こういうことかもしれません。ただ、意図してやっていたわけではありません」
「意図してないのに繋がるのが、師匠らしいです」
夜遅く、倉敷から連絡が来た。
「川口の状況を、三田先生と一緒に聞いていました。SNSの動きの変化について、先生が一つ言いました」
「なんと」
「怒りが力になるとき、力の形が問われる、と。追いかけることと記録することは、同じ怒りから来ているが、力の使い方が違う。使い方が変わったことは、方向が変わったことではない。ただ、方向は変わらなくても、結果が変わる可能性がある、と」
「三田さんは、今の状況をどう見ていますか」
「始まりだと見ています」倉敷から返信が来た。「ただ、先生が付け加えました。始まりを始まりのままにしておくためには、形を守ることが必要だ、と。何かが始まったとき、形のないものはすぐに別のものになる。形があるものは、時間をかけて育つ」
「形を守ること」靈は返信した。「今日、雨森さんが八雲神社に関わることになりました。神職として」
しばらくして返信が来た。
「それを三田先生に伝えました。先生は、それが形の一つになるかもしれないと言っています」
靈は板の間に立った。
今日起きたことを整理した。
雨森が榊原に会った。榊原が神職の資格を聞いた。雨森が八雲神社に関わることを決めた。SNSの動きが変化し始めた。石丸が南部の状況を報告した。きゃるんが変化を確認した。
全部が、繋がっているわけではない。ただ、無関係でもない。
木刀を手に取った。
型を始める前に、道場に礼をした。
今日も、道場はここにあった。それが報告だ。
礼から戻して、型を始めた。
摺り足で板の間を移動しながら、靈は一つのことを確認した。
今日、誰かが次の場所を見つけた。雨森が八雲神社に関わることを決めた。それは小さいことだ。ただ、小さいことが積み重なることで、形になる。
型を終えた。
木刀を壁に戻した。
板の間の隅の真剣を見た。
今夜も、触れなかった。
ただ、今夜の真剣は、以前より少し違って見えた。守るべきものが増えたからかもしれない。守るべきものが増えることで、最後の手段の重さも変わる。
靈は正座した。
窓の外に、川口の夜が広がっていた。
文書の波紋は、まだ続いている。帰化議員の追跡は、記録へと形を変え始めた。自警団の動きは少し落ち着いた。ただ、これは終わりではない。
零の状態でいる。始まる前の、全部の可能性がある場所。
ただ、今夜の零には、昨日より多くのものが入っていた。
四人が礼をして道場に入ってきた。雨森が次の場所を見つけた。榊原が決断した。きゃるんが続けることを選んだ。健一がシステムを作ると言った。
それぞれが、それぞれの場所に根を張り始めている。
靈は目を閉じた。
明日も、道場はここにある。




